今日は朝からまた大雪でした。午後には雪から雨に変わりましたが、けっこう積もっていました。
雪がシャーベット状になった道路は歩きにくく、靴がびしょ濡れになってしまいます。
今日は近くのスーパーマーケットに買い物に行った以外は、家の中にいました。
今回は『幻影2 荒原の墓標』の5回目の掲載です。
4
翌日は恵も美奈も出勤だった。午前中、美奈は新しい車の契約のことで、役所や中古車店に行った。今乗っているミラは、結局ほとんど下取り価格は出なかった。かなり走っているので、それは仕方がないと美奈は思った。
出勤前、美奈は静岡の葵に、さくらの練習で、足の甲にバラの花を彫ったことをメールした。すぐ葵から電話がかかり、新しいタトゥーのことや、さくらのことなどをいろいろ聞き出した。
「仕事を辞めて、家でのんびりしていると、速やかにオバサン化しちゃいそうなので、エステとか行こうと思ってるの。小さなタトゥーなら大丈夫、というところ見つけたから」
葵は今、まもなく夫となる秀樹のアパートで、一緒に暮らしている。一五分ぐらい葵はしゃべり続け、「そういえば、美奈、もうすぐ出勤時間ね。メグたちによろしくね」 と言って電話を切った。
オアシスの待機室で、さくらが彫ったバラのタトゥーを披露すると、コンパニオンたちが集まってきた。つい一週間前まで同僚だったルミが彫った作品というので、みんなが興味を持っていた。まだ彫って一日も経っていないので、かさぶたが張ったりせず、彫ったばかりのきれいな状態を保っていた。
「へえ、これ、ルミが彫ったの? すごーい。でも足の甲だと、人前で裸足(はだし)になれないね」
「きれい。これならもうプロで通用するんじゃない?」
「今なら練習で、無料(ただ)でやってくれるの? それじゃああたしも小さな花でも、やってもらおうかしら。ねえ、ミク、あたしもそこに連れてって。あたしもルミがタトゥーアーティストになる、というんで、ルミになら何かやってもらおうかな、と思ってたんだ」
「私も左腕のリスカの傷痕が目立たなくなるように、バラの花入れてもらおうかしら」
さくらが彫ったタトゥーを見て、みんなが感想を述べ合った。私もルミの練習のために肌を提供してあげよう、と何人かのコンパニオンが申し出た。
「みんなの気持ちはとても嬉しいけど、一度やっちゃったら、もう消せないんだから、よく考えてね。私も肩に蝶を入れちゃったし、ルミにも練習として彫ってもらうつもりだけど、やっぱりそれなりの覚悟は必要だから」
去年の暮れに、卑美子に初めて蝶を彫ってもらった恵がみんなに注意を促した。オアシスのコンパニオンたちにとっては、さくらより、以前の源氏名のルミのほうがしっくりいくようなので、恵も「ルミ」と言った。恵も美奈も、それほどルミがみんなに慕われていたんだと思うと、嬉しくなった。美奈は他のコンパニオンたちにいじめられていた時期があったが、殺人事件に巻き込まれたことがきっかけとなり、多くのコンパニオンが美奈を励ましてくれた。今ではみんなと仲良くやっている。
「あたしは大丈夫だよ。次の月曜日は公休日だから、ルミのところに連れてって」 と、アイリが言ってくれた。その日は恵も美奈も公休日だ。
そうこうしているうちに、ミクを始め、何人かに指名がかかった。
月曜日、恵、美奈、アイリの三人は卑美子ボディアートスタジオを訪れた。事前に連絡を受けていたとはいえ、アイリが 「ルミ、あたしの肌も練習に使って」 と言ってくれたことに、さくらは驚き、感激した。さくらより一歳年上のアイリは、オアシスでは一年先輩だった。久しぶりにさくらに会ったアイリは、桜色の作務衣姿に、「ルミ、その着物、かっこいい」 と声をあげた。
「でも、いいの? 一度彫ったら、もう二度と消せないんですよ」
さくらは今一度、アイリに注意を喚起した。
「うん、いいよ。実はあたし、前からルミの胸の蝶見て、自分もやってみたいな、と思っていたんだから。遠慮なくやってちょうだい。無料(ただ)でやってくれるなら、あたしも大歓迎」
アイリは舌(タン)にピアスをしているせいか、やや舌足らずなしゃべり方をする。客には高めのハスキーボイスでの、そのしゃべり方がまたかわいいと評判だ。いろいろな見本の絵を見ながら、図柄などの相談をして、アイリは腰に紫の蓮の花を入れることに決めた。蓮の下には、黒と水色の曲線で、水を表す装飾を入れる。
恵もさくらの練習に自分の肌を使ってもらうつもりだったが、せっかく来てくれたアイリに先に彫ってもらうことにした。
「このへんの、お尻の少し上ぐらいにやってくれない? 女性って、腰のこの辺りに入れる人、多いんでしょう」
「うん。そこに彫る女性(ひと)、けっこういますよ。ただ、そこはしゃがんだときに服がはだけて、見つかっちゃうこともあるんだけど、大丈夫?」 とさくらは忠告した。
「でも、そこがまた色っぽくていいんじゃない? チラッとちょい見えするところが」
アイリは意にも介さないようだった。
アイリは下着だけになり、腰の辺りを露出した。暖房を入れてあるから、下着だけでも寒くはない。さくらはグリーンソープをスプレーし、蓮を入れる部分を洗浄した。背筋を伸ばして立つよう、指示をしてから、筆ペンで蓮の絵を描き始めた。赤の筆ペンで、全体のバランスをとるための補助線を入れ、黒の筆ペンで、細部を描いていった。
「へぇ、さくらは転写じゃなくて、直接肌に描くんだ。さすが漫画が得意なだけあって、うまいもんね」と恵が感心した。
「私のときも、直接描いてくれました。複雑な図柄のときは転写も使うけど、描き慣れた絵なら、直接描くそうです」
美奈がさくらに代わって説明した。
肌用のマーキングペンで清書をして、いよいよラインを彫ることになった。初めてのタトゥーに、アイリはかなり緊張しているようだ。さくらはオアシスのころの思い出話をして、アイリの緊張をほぐした。
筋彫りが終わり、休憩の後に、蓮の花びらに紫を入れているときだった。インターホンのチャイムが鳴った。さくらが手を休め、玄関に向かおうとすると、 「私がひとまず応対しますから、さくらさんは続けていてください。私では対応できなかったら、さくらさんを呼びますから」 と美奈が申し出た。美奈は卑美子ボディアートスタジオにときどき遊びに来ているので、対応の仕方も多少身についている。
「ありがとう、美奈」
さくらは礼を言った。
玄関に出ると、美奈がよく知っている二人の男が立っていた。
「おう、おみゃあさんか。今日はこっちに遊びに来とるんか」 と懐かしい名古屋弁が響いた。
来訪者は篠木署の老練な刑事、鳥居と、県警の若い刑事、三浦だった。
「美奈さん、久しぶり。また会えましたね」
「三浦さん。今日はどうしてここに?」
美奈は三浦を見て、心がときめいた。鳥居の手前、三浦は久しぶり、と言ったが、先月の下旬、二人の非番と公休日が重なった日に、猿投山(さなげやま)に登っていた。ミドリ、ルミがまもなくオアシスを退職するので、寂しい思いをしていることを知っていた三浦が、美奈を登山に誘ったのだった。三浦と美奈は登山が共通の趣味だ。
二人は以前の殺人事件を通して知り合った。美奈が三浦に一目惚れをしてしまったのだが、全身いれずみのソープレディーと県警の敏腕刑事では、決して成就することのない恋だと美奈は諦めていた。しかし、捜査の必要上、何度か会っているうちに、三浦も美奈の純情さに惹かれるようになった。そして今では、ときどきこっそり会っている。
「今日はまた何かの事件のことで?」
「ああ、また背中に鳳凰のいれずみをした女が殺されてまったんで、雅子にいろいろ訊きたいことがあってな。またこの前とよく似たパターンだがや」
雅子というのは、卑美子の本名だ。鳥居は二〇年近く前から卑美子を知っていて、卑美子のことをこう呼んでいる。
「ちょっと待ってくださいね。スタジオの人を呼んできますから」
自分ではとても対応できないと思い、美奈はさくらを呼びに行った。その前に、二人の刑事を待合室にしているリビングに案内した。
さくらも鳥居と三浦の来訪に驚いた。そして、アイリに一言詫びて、作業を中断した。アイリは 「ひょっとして、前にオアシスに来たことがある、二人のデカさん? 若い、背の高いデカさん、かっこよかったな」 と好奇心旺盛だった。
「すみません。先生は今仕事中で、あと三〇分ぐらいで終わる予定なんですが」
さくらは恐る恐る言った。
「おう、さくらか。おみゃーさんも元気でやっとりゃーすか。この前は世話になったな。三〇分だったら、ここで待っとろまいか」
鳥居は思いがけない言い方をした。さくらは、てっきり 「すぐ呼んでこい」 と怒鳴られると覚悟していた。この前の事件で、美奈の機転と、さくらが描いた似顔絵が、犯人逮捕の緒(いとぐち)になり、鳥居も二人には感謝している。鳥居は温和な言葉遣いになった。そして、三枚の写真を取り出して、さくらに見せた。
「おみゃーさん、ひょっとして、その写真のいれずみを彫った彫り師に心当たりはないか?」
さくらは写真をよく見た。三枚の写真は、それぞれ違った角度から写されていた。遺体の写真かと思うと、少し気持ち悪かったが、ぐっと我慢した。この作風はどこかで見たような気がすると思った。卑美子の絵に少し似ているが、卑美子のような優雅で繊細なタッチではなく、男性彫り師のような力強さがあった。彫波一門の作風に似ている。さらに目を凝らして見ると、左の肩のあたりに、小さく“冥(めい)”という銘が入っているのに気づいた。
「これは岐阜の彫り師の、冥さんの絵です」とさくらは断言した。
「岐阜のメイ?」と鳥居が確認した。
「はい。彫波一門の殺鬼(さつき)先生のところにいる、若い女性彫り師です。ここに小さく“冥”と名前が入っています」
さくらは写真の銘が入っている部分を示した。鳥居はそれを見るために、老眼鏡を取り出した。さくらは、さすがの鬼刑事も年には勝てないのだな、と妙な感心の仕方をした。鳥居は髪にも少し白いものが目につくようになってきた。
「確かに冥王星の冥だがや。岐阜のサツキとかいう彫り師のところにいるんだな。あれ? サツキとメイといったら、どっかで聞いたことがあるがや。そうか、どっちも五月のことだな」
となりのトトロの主人公の姉妹だが、さくらも三浦も、そのことについては、口出ししなかった。
さくらは卑美子に弟子入りしてから、彫波師匠を始め、一門の人たちに挨拶に行っている。岐阜市にスタジオを構える、殺鬼のところにも、卑美子と一緒に訪れた。そのとき、殺鬼の弟子の冥に会っている。殺鬼は彫波一門では、卑美子の後輩だった。
彫波一門といっても、正確には、卑美子と殺鬼は一門ではない。この二人の女性彫り師は、一門から破門されている。
卑美子の師匠である彫波の一門は、ある暴力組織の構成員になっている。彫り師の世界で仕事をするため、やむを得ず、名目だけは某組の一員となっているのだ。任侠の世界と言えば、聞こえはいいが、しょせん暴力団だ。しかし彫波は、女性彫り師である卑美子と殺鬼に対しては、やくざとはいっさい関わりを持つな、と言って、形の上では一門から破門した。彫波の一門に籍を置けば、有無を言わせず、その組の構成員にされてしまう。そうさせないための、いわば彫波師匠の思いやりだった。
絶縁はもう二度と復帰することを許されないが、破門の場合は絶縁よりは軽く、場合によっては復縁もあり得る。だから一門で開催する催しや集会に、卑美子たちが参加することを許可している。
「これでここに来た僕たちの目的は達成できましたね。岐阜のサツキさんのスタジオだとわかれば、さっそく行って聞き込みをしましょう。昔のやくざ専門の彫り師ならともかく、今のタトゥースタジオなら、年齢確認のためにきちんと身分証明書のコピーをとっているところがほとんどだから、被害者(がいしゃ)の名前や住所などはわかると思います」
これまで発言していなかった三浦が、鳥居に言った。
最近のタトゥーアーティストは、衛生管理や年齢確認などをきちんとしている。都道府県の青少年保護条例などで、一八歳未満の青少年に対するいれずみ、タトゥーの施術を禁じているところが多い。だからきちんとしたタトゥースタジオでは、年齢確認のため、顔写真がついた証明書の提示を求める。しかし中には、客が組の関係者の場合、一八歳未満でも彫ってしまう、昔ながらの彫り師もいる。そういうところでは衛生面も不安がある。
卑美子の師匠の彫波が、三〇年ほど前に初めて彫ってもらった彫り師は、衛生管理がずさんで、針や絵の具は使い回し。前の客を彫った針は、水で洗ってそのまま使っていた。残った墨や絵の具も、捨てずに次の客に使った。そのころの彫り師の多くは衛生面の知識が乏しく、当たり前に考えていた。しかし後にHIVや肝炎ウイルスの感染が問題になり、彫波は青くなった。当時は彫り師から、肝炎の知識はなくても、経験則として、 「墨を突いた場合は肝臓が弱くなることがあるから、食生活には気をつけろ」 と言われていた。
実際彫波は肝臓がわるく、祝賀会など特別な場合を除いて、酒を断っている。当時の不衛生な環境での施術で、肝炎に罹患したのだ。非ウイルス性肝炎と診断され、過労が原因だろうと言われて、一ヶ月以上入院した。当時はまだC型肝炎ウイルスが知られていなかった。ひょっとしたら、C型肝炎に感染していたのかもしれない。そんな経験があるので、彫波は彫り師になってから、衛生面に関してしっかり勉強し、弟子には衛生管理を厳しく指導している。
「はい、殺鬼先生のスタジオは、うちと同じように、きちんとしているから、きっと大丈夫だと思います。岐阜の柳ヶ瀬(やながせ)通の方で、スタジオはすぐわかります。五階建てのマンションの、一階の店舗を借りて、スタジオにしています。サツキは殺す鬼と書きます。スタジオ名は五月(ごがつ)のほうの皐月ですが」
さくらは殺鬼のスタジオへの道順を、手際よく説明した。
「殺す鬼と書いて、サツキですか。読みはかわいいのに、漢字にすると、殺人鬼みたいですね。冥さんもそうですが、さすがにタトゥーアーティストだけあって、すごい字を使いますね」
三浦が感心した。
「ゆっくり雅子と話もしたかったが、そういうわけにもいかんし。事件が解決したら、また改めて寄らせてもらうがや。雅子によろしく言っといてちょう。トシ、おみゃーももっとあの娘に会っとりたいだろうが、今は我慢しろ。それじゃあ、すぐ岐阜まで行ってこよまいか」
鳥居のこの言葉に三浦が少し顔を赤らめたので、さくらは何となく微笑ましく思った。さくらが初めて鳥居に会ったときは、その迫力に圧倒され、まるでやくざを目の前にしているような恐怖を感じたのだった。今は鳥居に対しての印象は全く違っていた。
トシというのは、三浦俊文のトシだ。鳥居は最近、三浦のことをトシと呼んでいる。三浦が新米刑事のころは、先輩たちから 「ドジフミ」 と呼ばれることもあった。
二人の刑事がスタジオを出て行くとき、美奈は三浦に目で挨拶をした。三浦も目礼を返してくれた。それだけで二人の思いは通じ合った。
さくらは簡単に二人の刑事が来訪した理由を話した。恵と美奈はリビングの近くにいて、おおよその話は聞いていた。二人の刑事も、恵と美奈のことをよく知っているので、排斥することはしなかった。タトゥーの施術の途中で、下着姿のアイリだけは、さくらの施術室から出るわけにはいかなかったので、そこで聞き耳を立てていたが、あまりよく聞こえなかった。それでさくらの話に聞き入っていた。
「ごめんなさい、長らく中断しちゃって。さっそく続きを始めますから」
さくらは手指を消毒用ジェルで洗浄し、新しいニトリルのグローブと、不織布のマスクをつけた。そして施術を再開した。
しばらくして、客を送り出した卑美子が、さくらの部屋に入ってきた。
「さっき、鳥居さんたちが見えてたみたいだけど、どういうご用だったの?」
卑美子はアイリに、さくらの練習に協力してくれたことについてお礼を言ってから、さくらに尋ねた。
「背中に鳳凰の絵を入れた女性が殺されたんで、その絵を入れた彫り師に心当たりがないか、尋ねに来たんです。岐阜の殺鬼先生とこの冥さんだということが、私でもわかったんで、わざわざ先生のお手を煩わすこともないからと、帰っていきました。鳥居さん、事件が解決したら、またゆっくり挨拶に来る、と言ってました」
「そうですか。またいやな事件が起こったものですね。せっかく丹精込めて彫ってあげたお客さんが不幸な目に遭うというのは、彫り師として、本当にやりきれないことですね」
以前、客の千尋が、背中の騎龍観音が未完成のままで殺されたという事件を経験している卑美子は、実感を込めて言った。間もなく次の客が来るので、準備のため、卑美子は自分の施術室に戻った。卑美子に会って、アイリは 「ルミの先生、美人でかっこいい。あたし、憧れちゃう」 と絶賛した。
さくらはアイリのタトゥーに専心した。長い中断があったが、精神力を途切れさせないように、目の前の蓮の花に集中した。
アイリのタトゥーが完成した。初めてのタトゥーでもあり、アイリはその苦痛にかなり参っていたが、歯を食いしばって耐えた。尾てい骨のあたりは、特に痛く感じるところだった。
「ごめんなさいね。私、まだ彫るのが遅いんで、苦痛が長引いちゃったりして。この前の美奈は、四時間近くかかっちゃって」
今回は、中断の時間を差し引けば、先日の美奈よりはいくぶん早くなっている。腰は足の甲よりは彫りやすい、ということもあった。先日美奈の足の甲に彫ってから、さくらは二人肌を提供してくれる人がいて、練習を重ねていた。
「ううん、気にしなくていいよ。タトゥーが痛いというのは、前々からわかっていたんだし。ミクからも聞いてたけど、タトゥーはやっぱり痛いという代償があるからこそ、尊いんだもんね。一生消えない絵を肌に刻むのに、苦痛も何もなければ、彫ったという感激が薄らいじゃって、シールを貼ったみたいな感じになるから。それより、ルミこそ長い時間、疲れたでしょう。ありがとう。あたし、このタトゥー、大切にする。今度は正式のプロになったら、また何か彫ってね」
アイリは鏡で腰を飾っている蓮の花を眺め、出来映えに満足した。
彫り終わったあと、黒いスクリーンをバックにして、デジタルカメラで写真を撮った。撮影室はリビングルームの一角を衝立で仕切ってある。ストロボを焚かなくてもいいように、照明を工夫してある。ストロボを使うと、反射光や影が写り込んでしまう。小さな作品なら、撮影室ではなく、自分の施術室で写すこともある。
さくらも卑美子のような、本格的なデジタル一眼レフが欲しいと思っているが、プロになるまでは、コンパクトカメラで我慢するつもりだ。コンパクトカメラとはいえ、きれいに写るので、タトゥーの記録を残すには十分だ。トヨはプロになった今でも、コンパクトデジタルカメラを使っている。
それから彫った部分にワセリンを塗り、傷を保護するパッドを貼った。そして、アフターケアの説明をした。タトゥーをきれいに残すためには、ケアが大切だ。それをまとめた説明書も手渡した。
さくらは施術中のトヨにちょっと出かけますと了承を得て、客との連絡用の携帯電話を預けた。そして四人で近くのファミレスで、少し早めの夕食をとった。そのあとアイリと別れた。
「タトゥーは大きな傷を負うのと同じで、かなり体力を消耗するから、今日はゆっくり休養してね。かさぶたができると、かゆみがひどくなるけど、掻いてかさぶたをめくらないでくださいね。特に仕事で入浴すると、かさぶたがふやけてはがれやすくなるから、気をつけてください。もし色が抜けてしまったら、また彫り直します」
さくらが別れ際にアイリにアドバイスした。
雪がシャーベット状になった道路は歩きにくく、靴がびしょ濡れになってしまいます。
今日は近くのスーパーマーケットに買い物に行った以外は、家の中にいました。
今回は『幻影2 荒原の墓標』の5回目の掲載です。
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翌日は恵も美奈も出勤だった。午前中、美奈は新しい車の契約のことで、役所や中古車店に行った。今乗っているミラは、結局ほとんど下取り価格は出なかった。かなり走っているので、それは仕方がないと美奈は思った。
出勤前、美奈は静岡の葵に、さくらの練習で、足の甲にバラの花を彫ったことをメールした。すぐ葵から電話がかかり、新しいタトゥーのことや、さくらのことなどをいろいろ聞き出した。
「仕事を辞めて、家でのんびりしていると、速やかにオバサン化しちゃいそうなので、エステとか行こうと思ってるの。小さなタトゥーなら大丈夫、というところ見つけたから」
葵は今、まもなく夫となる秀樹のアパートで、一緒に暮らしている。一五分ぐらい葵はしゃべり続け、「そういえば、美奈、もうすぐ出勤時間ね。メグたちによろしくね」 と言って電話を切った。
オアシスの待機室で、さくらが彫ったバラのタトゥーを披露すると、コンパニオンたちが集まってきた。つい一週間前まで同僚だったルミが彫った作品というので、みんなが興味を持っていた。まだ彫って一日も経っていないので、かさぶたが張ったりせず、彫ったばかりのきれいな状態を保っていた。
「へえ、これ、ルミが彫ったの? すごーい。でも足の甲だと、人前で裸足(はだし)になれないね」
「きれい。これならもうプロで通用するんじゃない?」
「今なら練習で、無料(ただ)でやってくれるの? それじゃああたしも小さな花でも、やってもらおうかしら。ねえ、ミク、あたしもそこに連れてって。あたしもルミがタトゥーアーティストになる、というんで、ルミになら何かやってもらおうかな、と思ってたんだ」
「私も左腕のリスカの傷痕が目立たなくなるように、バラの花入れてもらおうかしら」
さくらが彫ったタトゥーを見て、みんなが感想を述べ合った。私もルミの練習のために肌を提供してあげよう、と何人かのコンパニオンが申し出た。
「みんなの気持ちはとても嬉しいけど、一度やっちゃったら、もう消せないんだから、よく考えてね。私も肩に蝶を入れちゃったし、ルミにも練習として彫ってもらうつもりだけど、やっぱりそれなりの覚悟は必要だから」
去年の暮れに、卑美子に初めて蝶を彫ってもらった恵がみんなに注意を促した。オアシスのコンパニオンたちにとっては、さくらより、以前の源氏名のルミのほうがしっくりいくようなので、恵も「ルミ」と言った。恵も美奈も、それほどルミがみんなに慕われていたんだと思うと、嬉しくなった。美奈は他のコンパニオンたちにいじめられていた時期があったが、殺人事件に巻き込まれたことがきっかけとなり、多くのコンパニオンが美奈を励ましてくれた。今ではみんなと仲良くやっている。
「あたしは大丈夫だよ。次の月曜日は公休日だから、ルミのところに連れてって」 と、アイリが言ってくれた。その日は恵も美奈も公休日だ。
そうこうしているうちに、ミクを始め、何人かに指名がかかった。
月曜日、恵、美奈、アイリの三人は卑美子ボディアートスタジオを訪れた。事前に連絡を受けていたとはいえ、アイリが 「ルミ、あたしの肌も練習に使って」 と言ってくれたことに、さくらは驚き、感激した。さくらより一歳年上のアイリは、オアシスでは一年先輩だった。久しぶりにさくらに会ったアイリは、桜色の作務衣姿に、「ルミ、その着物、かっこいい」 と声をあげた。
「でも、いいの? 一度彫ったら、もう二度と消せないんですよ」
さくらは今一度、アイリに注意を喚起した。
「うん、いいよ。実はあたし、前からルミの胸の蝶見て、自分もやってみたいな、と思っていたんだから。遠慮なくやってちょうだい。無料(ただ)でやってくれるなら、あたしも大歓迎」
アイリは舌(タン)にピアスをしているせいか、やや舌足らずなしゃべり方をする。客には高めのハスキーボイスでの、そのしゃべり方がまたかわいいと評判だ。いろいろな見本の絵を見ながら、図柄などの相談をして、アイリは腰に紫の蓮の花を入れることに決めた。蓮の下には、黒と水色の曲線で、水を表す装飾を入れる。
恵もさくらの練習に自分の肌を使ってもらうつもりだったが、せっかく来てくれたアイリに先に彫ってもらうことにした。
「このへんの、お尻の少し上ぐらいにやってくれない? 女性って、腰のこの辺りに入れる人、多いんでしょう」
「うん。そこに彫る女性(ひと)、けっこういますよ。ただ、そこはしゃがんだときに服がはだけて、見つかっちゃうこともあるんだけど、大丈夫?」 とさくらは忠告した。
「でも、そこがまた色っぽくていいんじゃない? チラッとちょい見えするところが」
アイリは意にも介さないようだった。
アイリは下着だけになり、腰の辺りを露出した。暖房を入れてあるから、下着だけでも寒くはない。さくらはグリーンソープをスプレーし、蓮を入れる部分を洗浄した。背筋を伸ばして立つよう、指示をしてから、筆ペンで蓮の絵を描き始めた。赤の筆ペンで、全体のバランスをとるための補助線を入れ、黒の筆ペンで、細部を描いていった。
「へぇ、さくらは転写じゃなくて、直接肌に描くんだ。さすが漫画が得意なだけあって、うまいもんね」と恵が感心した。
「私のときも、直接描いてくれました。複雑な図柄のときは転写も使うけど、描き慣れた絵なら、直接描くそうです」
美奈がさくらに代わって説明した。
肌用のマーキングペンで清書をして、いよいよラインを彫ることになった。初めてのタトゥーに、アイリはかなり緊張しているようだ。さくらはオアシスのころの思い出話をして、アイリの緊張をほぐした。
筋彫りが終わり、休憩の後に、蓮の花びらに紫を入れているときだった。インターホンのチャイムが鳴った。さくらが手を休め、玄関に向かおうとすると、 「私がひとまず応対しますから、さくらさんは続けていてください。私では対応できなかったら、さくらさんを呼びますから」 と美奈が申し出た。美奈は卑美子ボディアートスタジオにときどき遊びに来ているので、対応の仕方も多少身についている。
「ありがとう、美奈」
さくらは礼を言った。
玄関に出ると、美奈がよく知っている二人の男が立っていた。
「おう、おみゃあさんか。今日はこっちに遊びに来とるんか」 と懐かしい名古屋弁が響いた。
来訪者は篠木署の老練な刑事、鳥居と、県警の若い刑事、三浦だった。
「美奈さん、久しぶり。また会えましたね」
「三浦さん。今日はどうしてここに?」
美奈は三浦を見て、心がときめいた。鳥居の手前、三浦は久しぶり、と言ったが、先月の下旬、二人の非番と公休日が重なった日に、猿投山(さなげやま)に登っていた。ミドリ、ルミがまもなくオアシスを退職するので、寂しい思いをしていることを知っていた三浦が、美奈を登山に誘ったのだった。三浦と美奈は登山が共通の趣味だ。
二人は以前の殺人事件を通して知り合った。美奈が三浦に一目惚れをしてしまったのだが、全身いれずみのソープレディーと県警の敏腕刑事では、決して成就することのない恋だと美奈は諦めていた。しかし、捜査の必要上、何度か会っているうちに、三浦も美奈の純情さに惹かれるようになった。そして今では、ときどきこっそり会っている。
「今日はまた何かの事件のことで?」
「ああ、また背中に鳳凰のいれずみをした女が殺されてまったんで、雅子にいろいろ訊きたいことがあってな。またこの前とよく似たパターンだがや」
雅子というのは、卑美子の本名だ。鳥居は二〇年近く前から卑美子を知っていて、卑美子のことをこう呼んでいる。
「ちょっと待ってくださいね。スタジオの人を呼んできますから」
自分ではとても対応できないと思い、美奈はさくらを呼びに行った。その前に、二人の刑事を待合室にしているリビングに案内した。
さくらも鳥居と三浦の来訪に驚いた。そして、アイリに一言詫びて、作業を中断した。アイリは 「ひょっとして、前にオアシスに来たことがある、二人のデカさん? 若い、背の高いデカさん、かっこよかったな」 と好奇心旺盛だった。
「すみません。先生は今仕事中で、あと三〇分ぐらいで終わる予定なんですが」
さくらは恐る恐る言った。
「おう、さくらか。おみゃーさんも元気でやっとりゃーすか。この前は世話になったな。三〇分だったら、ここで待っとろまいか」
鳥居は思いがけない言い方をした。さくらは、てっきり 「すぐ呼んでこい」 と怒鳴られると覚悟していた。この前の事件で、美奈の機転と、さくらが描いた似顔絵が、犯人逮捕の緒(いとぐち)になり、鳥居も二人には感謝している。鳥居は温和な言葉遣いになった。そして、三枚の写真を取り出して、さくらに見せた。
「おみゃーさん、ひょっとして、その写真のいれずみを彫った彫り師に心当たりはないか?」
さくらは写真をよく見た。三枚の写真は、それぞれ違った角度から写されていた。遺体の写真かと思うと、少し気持ち悪かったが、ぐっと我慢した。この作風はどこかで見たような気がすると思った。卑美子の絵に少し似ているが、卑美子のような優雅で繊細なタッチではなく、男性彫り師のような力強さがあった。彫波一門の作風に似ている。さらに目を凝らして見ると、左の肩のあたりに、小さく“冥(めい)”という銘が入っているのに気づいた。
「これは岐阜の彫り師の、冥さんの絵です」とさくらは断言した。
「岐阜のメイ?」と鳥居が確認した。
「はい。彫波一門の殺鬼(さつき)先生のところにいる、若い女性彫り師です。ここに小さく“冥”と名前が入っています」
さくらは写真の銘が入っている部分を示した。鳥居はそれを見るために、老眼鏡を取り出した。さくらは、さすがの鬼刑事も年には勝てないのだな、と妙な感心の仕方をした。鳥居は髪にも少し白いものが目につくようになってきた。
「確かに冥王星の冥だがや。岐阜のサツキとかいう彫り師のところにいるんだな。あれ? サツキとメイといったら、どっかで聞いたことがあるがや。そうか、どっちも五月のことだな」
となりのトトロの主人公の姉妹だが、さくらも三浦も、そのことについては、口出ししなかった。
さくらは卑美子に弟子入りしてから、彫波師匠を始め、一門の人たちに挨拶に行っている。岐阜市にスタジオを構える、殺鬼のところにも、卑美子と一緒に訪れた。そのとき、殺鬼の弟子の冥に会っている。殺鬼は彫波一門では、卑美子の後輩だった。
彫波一門といっても、正確には、卑美子と殺鬼は一門ではない。この二人の女性彫り師は、一門から破門されている。
卑美子の師匠である彫波の一門は、ある暴力組織の構成員になっている。彫り師の世界で仕事をするため、やむを得ず、名目だけは某組の一員となっているのだ。任侠の世界と言えば、聞こえはいいが、しょせん暴力団だ。しかし彫波は、女性彫り師である卑美子と殺鬼に対しては、やくざとはいっさい関わりを持つな、と言って、形の上では一門から破門した。彫波の一門に籍を置けば、有無を言わせず、その組の構成員にされてしまう。そうさせないための、いわば彫波師匠の思いやりだった。
絶縁はもう二度と復帰することを許されないが、破門の場合は絶縁よりは軽く、場合によっては復縁もあり得る。だから一門で開催する催しや集会に、卑美子たちが参加することを許可している。
「これでここに来た僕たちの目的は達成できましたね。岐阜のサツキさんのスタジオだとわかれば、さっそく行って聞き込みをしましょう。昔のやくざ専門の彫り師ならともかく、今のタトゥースタジオなら、年齢確認のためにきちんと身分証明書のコピーをとっているところがほとんどだから、被害者(がいしゃ)の名前や住所などはわかると思います」
これまで発言していなかった三浦が、鳥居に言った。
最近のタトゥーアーティストは、衛生管理や年齢確認などをきちんとしている。都道府県の青少年保護条例などで、一八歳未満の青少年に対するいれずみ、タトゥーの施術を禁じているところが多い。だからきちんとしたタトゥースタジオでは、年齢確認のため、顔写真がついた証明書の提示を求める。しかし中には、客が組の関係者の場合、一八歳未満でも彫ってしまう、昔ながらの彫り師もいる。そういうところでは衛生面も不安がある。
卑美子の師匠の彫波が、三〇年ほど前に初めて彫ってもらった彫り師は、衛生管理がずさんで、針や絵の具は使い回し。前の客を彫った針は、水で洗ってそのまま使っていた。残った墨や絵の具も、捨てずに次の客に使った。そのころの彫り師の多くは衛生面の知識が乏しく、当たり前に考えていた。しかし後にHIVや肝炎ウイルスの感染が問題になり、彫波は青くなった。当時は彫り師から、肝炎の知識はなくても、経験則として、 「墨を突いた場合は肝臓が弱くなることがあるから、食生活には気をつけろ」 と言われていた。
実際彫波は肝臓がわるく、祝賀会など特別な場合を除いて、酒を断っている。当時の不衛生な環境での施術で、肝炎に罹患したのだ。非ウイルス性肝炎と診断され、過労が原因だろうと言われて、一ヶ月以上入院した。当時はまだC型肝炎ウイルスが知られていなかった。ひょっとしたら、C型肝炎に感染していたのかもしれない。そんな経験があるので、彫波は彫り師になってから、衛生面に関してしっかり勉強し、弟子には衛生管理を厳しく指導している。
「はい、殺鬼先生のスタジオは、うちと同じように、きちんとしているから、きっと大丈夫だと思います。岐阜の柳ヶ瀬(やながせ)通の方で、スタジオはすぐわかります。五階建てのマンションの、一階の店舗を借りて、スタジオにしています。サツキは殺す鬼と書きます。スタジオ名は五月(ごがつ)のほうの皐月ですが」
さくらは殺鬼のスタジオへの道順を、手際よく説明した。
「殺す鬼と書いて、サツキですか。読みはかわいいのに、漢字にすると、殺人鬼みたいですね。冥さんもそうですが、さすがにタトゥーアーティストだけあって、すごい字を使いますね」
三浦が感心した。
「ゆっくり雅子と話もしたかったが、そういうわけにもいかんし。事件が解決したら、また改めて寄らせてもらうがや。雅子によろしく言っといてちょう。トシ、おみゃーももっとあの娘に会っとりたいだろうが、今は我慢しろ。それじゃあ、すぐ岐阜まで行ってこよまいか」
鳥居のこの言葉に三浦が少し顔を赤らめたので、さくらは何となく微笑ましく思った。さくらが初めて鳥居に会ったときは、その迫力に圧倒され、まるでやくざを目の前にしているような恐怖を感じたのだった。今は鳥居に対しての印象は全く違っていた。
トシというのは、三浦俊文のトシだ。鳥居は最近、三浦のことをトシと呼んでいる。三浦が新米刑事のころは、先輩たちから 「ドジフミ」 と呼ばれることもあった。
二人の刑事がスタジオを出て行くとき、美奈は三浦に目で挨拶をした。三浦も目礼を返してくれた。それだけで二人の思いは通じ合った。
さくらは簡単に二人の刑事が来訪した理由を話した。恵と美奈はリビングの近くにいて、おおよその話は聞いていた。二人の刑事も、恵と美奈のことをよく知っているので、排斥することはしなかった。タトゥーの施術の途中で、下着姿のアイリだけは、さくらの施術室から出るわけにはいかなかったので、そこで聞き耳を立てていたが、あまりよく聞こえなかった。それでさくらの話に聞き入っていた。
「ごめんなさい、長らく中断しちゃって。さっそく続きを始めますから」
さくらは手指を消毒用ジェルで洗浄し、新しいニトリルのグローブと、不織布のマスクをつけた。そして施術を再開した。
しばらくして、客を送り出した卑美子が、さくらの部屋に入ってきた。
「さっき、鳥居さんたちが見えてたみたいだけど、どういうご用だったの?」
卑美子はアイリに、さくらの練習に協力してくれたことについてお礼を言ってから、さくらに尋ねた。
「背中に鳳凰の絵を入れた女性が殺されたんで、その絵を入れた彫り師に心当たりがないか、尋ねに来たんです。岐阜の殺鬼先生とこの冥さんだということが、私でもわかったんで、わざわざ先生のお手を煩わすこともないからと、帰っていきました。鳥居さん、事件が解決したら、またゆっくり挨拶に来る、と言ってました」
「そうですか。またいやな事件が起こったものですね。せっかく丹精込めて彫ってあげたお客さんが不幸な目に遭うというのは、彫り師として、本当にやりきれないことですね」
以前、客の千尋が、背中の騎龍観音が未完成のままで殺されたという事件を経験している卑美子は、実感を込めて言った。間もなく次の客が来るので、準備のため、卑美子は自分の施術室に戻った。卑美子に会って、アイリは 「ルミの先生、美人でかっこいい。あたし、憧れちゃう」 と絶賛した。
さくらはアイリのタトゥーに専心した。長い中断があったが、精神力を途切れさせないように、目の前の蓮の花に集中した。
アイリのタトゥーが完成した。初めてのタトゥーでもあり、アイリはその苦痛にかなり参っていたが、歯を食いしばって耐えた。尾てい骨のあたりは、特に痛く感じるところだった。
「ごめんなさいね。私、まだ彫るのが遅いんで、苦痛が長引いちゃったりして。この前の美奈は、四時間近くかかっちゃって」
今回は、中断の時間を差し引けば、先日の美奈よりはいくぶん早くなっている。腰は足の甲よりは彫りやすい、ということもあった。先日美奈の足の甲に彫ってから、さくらは二人肌を提供してくれる人がいて、練習を重ねていた。
「ううん、気にしなくていいよ。タトゥーが痛いというのは、前々からわかっていたんだし。ミクからも聞いてたけど、タトゥーはやっぱり痛いという代償があるからこそ、尊いんだもんね。一生消えない絵を肌に刻むのに、苦痛も何もなければ、彫ったという感激が薄らいじゃって、シールを貼ったみたいな感じになるから。それより、ルミこそ長い時間、疲れたでしょう。ありがとう。あたし、このタトゥー、大切にする。今度は正式のプロになったら、また何か彫ってね」
アイリは鏡で腰を飾っている蓮の花を眺め、出来映えに満足した。
彫り終わったあと、黒いスクリーンをバックにして、デジタルカメラで写真を撮った。撮影室はリビングルームの一角を衝立で仕切ってある。ストロボを焚かなくてもいいように、照明を工夫してある。ストロボを使うと、反射光や影が写り込んでしまう。小さな作品なら、撮影室ではなく、自分の施術室で写すこともある。
さくらも卑美子のような、本格的なデジタル一眼レフが欲しいと思っているが、プロになるまでは、コンパクトカメラで我慢するつもりだ。コンパクトカメラとはいえ、きれいに写るので、タトゥーの記録を残すには十分だ。トヨはプロになった今でも、コンパクトデジタルカメラを使っている。
それから彫った部分にワセリンを塗り、傷を保護するパッドを貼った。そして、アフターケアの説明をした。タトゥーをきれいに残すためには、ケアが大切だ。それをまとめた説明書も手渡した。
さくらは施術中のトヨにちょっと出かけますと了承を得て、客との連絡用の携帯電話を預けた。そして四人で近くのファミレスで、少し早めの夕食をとった。そのあとアイリと別れた。
「タトゥーは大きな傷を負うのと同じで、かなり体力を消耗するから、今日はゆっくり休養してね。かさぶたができると、かゆみがひどくなるけど、掻いてかさぶたをめくらないでくださいね。特に仕事で入浴すると、かさぶたがふやけてはがれやすくなるから、気をつけてください。もし色が抜けてしまったら、また彫り直します」
さくらが別れ際にアイリにアドバイスした。
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