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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

バプテスマのヨハネの誕生 (ルカ伝一章五十七節~六十六節)

2013-03-16 16:02:10 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五十七節
エリサベツが月が満ちて出産をします。大変な高齢出産で、しかも初産であったわけですが、神のお約束通りに守られて出産できたました。勿論生まれたのは預言の通り男の子であったということです。生まれてみたら女の子だったというような間違いは起こらないのです。この時、マリアも一緒であったかもしれないという考えが有りますが、文化背景からは、出産の時は極身内の者だけが残るという判断も有り、奥義書の記述の順番通り、マリアはもう帰った後であったろうと考える立場が有力なようです。

五十八節
近所の人々と親族たちは、この出産を喜びました。出産は喜ばしい事柄でありますが、特にこの場合は、「神が彼女に大いなるあわれみ、ご慈悲をおかけになった。」という理解が有って、更に大きな喜びであったと言えます。あわれみというのは、当時の社会においては子供が無いということが女性に肩身の狭いことであったけれども、そこから救い出してくださったこと、流産もせず、産褥死もなく健康に過ごせたこと、預言によればその子が偉大な者になるということのすべてを含んでいたと考えられそうです。
 「親族たち」と訳された語は、従兄弟達とも訳せる語ですが、近親者という意味から広くは同胞という意味にまで使うことのある言葉のようです。その地方のレビ族たちやユダ族たちという気持ちも含めた表現ということでもあったかもしれません。
 ガブリエルの預言においては、この子供の誕生を多くの人たちが共に喜ぶであろうということが語られましたが、その成就の一部をこの節でみることができるのだと言えます。

五十九節
八日目というのは、モーセの律法の規定にきちんと従って割礼を施すということです。ピリピ書を見ると、パウロが八日目に割礼を受けたことを人間的な誇りのリストに挙げていますから、ユダヤ人としては正統的で誇らしいことであったと思われます。彼らがそれまでと同様に、落ち度無く神の御心に沿って生きていこうとしていることが伺えます。
 割礼には、10人の証人が立ち会わなければならなかったとする解説も有ります。また、割礼の時に捧げる祈りや宣言が決まっていたということです。この時点では、父親のザカリヤはまだ口がきけない状態でしたので、実際の割礼の施術は別の人物がしたであろうということです。
 割礼は神がユダヤ人たちに与えた掟でありましたが、別に彼らの習慣というものが有りました。アブラハムが割礼の時に神に名前を変えられたことなどから、割礼の時に子供に名前をつけるということでした。名前は、その血統の中の優れた人物の名前を選ぶことが通常であったようです。旧約聖書時代の実践を見ても、そういう考えが有ったことは伺えます。ザカリアという父親の名前は旧約聖書中にも出てくる祭司の名前にあやかったものだと考えられます。そして、この父親自身が周囲の人に落ち度の無い人物であると認められていたのですから、生まれた男の子にもこの名前を継がせようと思うのは自然なことであったと考えられます。

六十節
与えられた子供が普通の子供であればそれで構わなかったのですが、エリサベツその名前ではいけない、ヨハネでなければならないというのでした。勿論それは、天使を通して神に与えられた名前であったからです。エリサベツはそのことは直接聞いてはいませんでしたが、口がきけなくなったザカリアが筆談で詳細は知らせていたと考えることができます。夫婦は共に神の前に忠実であろうとしており、一致していたのです。また、出産までの間にマリアに会った時には聖霊に満たされる体験などを通して、ここでも聖霊の働きや助けが有ったかもしれません。

六十一節
人々は事情を知らなかったのかもしれません。これまでの実践を盾にとってヨハネという名前を拒絶したと考えられます。時には人々は自分たちの慣習などを強く主張したりするものです。

六十二節
エリサベツの態度が毅然としていたからでしょうか、人々は父親のザカリアに意見を求めます。手振りで尋ねたということですので、このザカリアは口がきけないだけでなく、実は耳も聞こえなくされていたのではないかという考えも有ります。

六十三節
手振りだけで様子はわかったのでしょうか。この後書き板が持ってこられます。そうでなければ、その前から書き板が使われていたのではないかと思われます。とにかく、ザカリア天使の告げた通りの名前を示しました。身近に天使の現れとお告げをいただいた者としては、他の名前を選ぶなどということは有り得なかったわけです。
 ザカリアがヨハネという名前を選んだということに、人々が驚いているのはどういうことでしょうか。ザカリアの様な真面目な人が、自分たちの習慣を曲げて子供を名づけようとしているということへの驚きでしょうか。もしかしたら耳も聞こえなくなっていたかもしれないザカリアが、エリサベツとそこまできちんとした意思の疎通ができていたことへの驚きであったかもしれません。人々が天使ガブリエルの伝えたことを良く知らなかったということは確かなようです。

六十四節
天使を通して与えられた神のお告げに従い、子供の出生と名づけの所までの経過が完結したところで、これもまた天使の告げた通りの期限が来て、ザカリアは口がきけるようになりました。すぐに口が開けたということは、神の言葉の確かさを示していると考えられます。
 口が開けたところで先ずゼカリアがしたことは、神を賛美することでありました。これはこの先に記されている六十七節の預言のことか、それとも別のことかははっきりしません。預言した内容にも賛美の言葉は含まれています。一方で、ザカリアの預言の記述な前に二節分の記述が別になされることを考えると、ルカはこれらを別のものとして考えていたとも理解できそうです。
 この二つが別のものであったとすると、ザカリアの賛美の内容は、自分たち夫婦が神の偉大な働きの端緒を担うように選ばれたこと、妻エリサベツの妊娠と出産が無事に守られたこと、子供にヨハネと名づけるところまで守ってくださったこと、口が開かれたことなどが入っていたことと思われます。
 ザカリアの場合は特殊な状況にありましたが、それでも、口が開かれて先ずしたことが賛美であったことは倣うべき模範であろうと思われます。

六十五節
おそれというのは、神への畏敬の念ということでしょう。神のなされた不思議な業を間近に見た人たちには、そういう思いが与えられて当然ではないでしょうか。ユダの山里というのは、ザカリアたちが住んでいた地方を現す言葉と理解できます。その周囲の社会にこの出来事が詳しく伝播して行ったことが伺えます。ルカとしては、このことを述べることで、確かにそういう事実が有ったということを示す意図も有ったことでしょう。

六十六節
伝えられた話を聞いた人たちは、それを一笑にふしたりすることはなかったようです。むしろ、神への畏敬の念を持ち、この子供が将来どのような大きな業をするのか、どのように神のご計画を遂行するのかということに関心を持ちました。
 神の手がヨハネと共に有ったということが締めくくりに示されています。人々が関心を持っただけでなく、実際に神の守りや導きが有ったということが、人々にも見えたのだと考えることができます。健やかに育ち、危険を免れたというような具体的な事柄が有ったのかもしれません。また、神の手が共に有るということは、ヨハネに預言の言葉が与えられて、それが成就するようなことが有ったのかもしれないと考える人たちもいます。「神の手が共に有る」ということが、預言と関連付けられている旧約の記事などがあるからです。


まとめ
この箇所からは、どのようなことを読み取ったら良いのでしょうか。幾つか考えられると思いますが、次のようにまとめてみようと思います。

1)神の計画は必ず成就し、イエス・キリストの福音の物語は事実である。
2)神の御心を知らされた者は、忠実にそれを遂行すべきである。
3)人間の習慣や考えが神の計画や御心に優先されてはならない
4)我々が口を開く時に、先ず神への賛美が捧げられる生き方であるべきである。
5)ヨハネという名が示す通り、神は恵み深い方である。





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