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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

いちじくの葉を捨てて生きる(原始福音的旧約理解)創世記3章より

2014-04-12 23:14:32 | 奥義書講解・旧約
 お世話になっている特別大忍にご意見を伺って、良い評価をいただけたので、ここにアップしておきたいと思います。



(緒論)
「赤毛のアン」を書いたL.M.モンゴメリは、長老教会の牧師の夫人でもありました。作品の中には聖書的比喩や隠喩がところどころに用いられています。その中の一つをご紹介いたします。
 アンが大学生ぐらいの時に住まいのアボンリーを離れて勉強をしますが、長期休暇の時には帰郷します。そんなある時、親友であり後に結婚することになるギルバートと木立の中を散歩することになります。その中で、ギルバートが野生のリンゴをみつけて、アンのためにそれをもいであげるのです。そして、二人は前向きな将来のことを考えながら帰路につきます。
 これがエデンの園の出来事の暗喩であることはお分かりでしょう。園ではありませんが、木立の中に、アダムとエバのように二人でいるのです。善悪を知る木の実のように、野生のリンゴが有ります。しかし、エデンの出来事とは異なり、ここでは、男性であるギルバートの方がそれを取ってアンに与えます。それは愛情に満ちた行為です。エデンではアダムとエバが失望の内に園を去りますが、アンとギルバートは将来の仕事などの希望を持って帰路に就きます。
 作者であるモンゴメリに、信仰者としてのエデンの回復の希望と信仰が有ることが判ります。新約聖書の最後の書であるヨハネによる黙示録では、新天新地が与えられることが示されています。エデンの最終的な回復と考えることができます。それはイエス様を信じている私たちにもこの世の終わりに与えられる希望です。しかし、同時に私たちは日々の生活の中にもエデンの回復を実現しながら生きて行くことを求められている存在です。本日の聖書箇所から、私たちが自覚しているべきエデンの回復の姿を確認いたしましょう。

(本論)
 6節をご覧ください。罪にはいろいろな定義の仕方が有りますが、この節も一つの定義を示していると考えられます。「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」と書いてあります。世の中には美味しそうに見えるものはたくさんあります。それが悪いわけではありません。エデンにも他にも美味しそうな果物も有ったでしょうし、目を奪うような美しい花なども咲いていたでしょう。それを食べても愛でても問題はありませんでした。しかし、善悪を知る木の実を食べた場合は罪となったのです。それが神様が禁じられていたことだったからです。ここから判る罪の定義は、「適切な欲求を神の御心に叶っていない方法で満たすこと。」というものになります。その罪の結果は、同様な罪の連鎖となって行きました。
 7節を見るとアダムとエバは罪を犯した結果、「自分達が裸であることを知った」ことが書いてあります。それでは、それ以前の様子はどうだったのでしょうか。それは、2章25節に示されています。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなった。」とあります。最初から裸であったのに以前は恥ずかしくはなくて、今になって自分達が裸であることを知ったとは、どういうことでしょうか。彼らにはしっかりした視力が有ったからお互いを見たり、善悪を知る木の実が目に慕わしいという判断ができたのです。それなのに、今になって裸であることを知ったというのはどういうことでしょうか。幾つかの理解が有りますが、今回はその中の一つに従って考えてみます。
 出エジプト記34章35節には、主なる神様と会見をしてきたモーセの顔が光を放っていたということが書かれています。コリント人への第二の手紙3章では、モーセの顔の栄光という表現を用いています。それはイスラエルの民の目に見えるものでした。同様に神様と直接の会見ができる堕落前のアダムとエバは、それと同様かそれ以上の神様の栄光に包まれ、守られていたと考えることができます。
 以前英語版の「漢字に表された旧約聖書の物語」という内容の本を読んだことがあります。そこでは、栄光という字の「さかえ」と言う部分について、次のように説明していました。「栄」という字の上の方は、現在では簡略化してカタカナのツのように書きますが、旧字体では二つの「火」という字の形で表されていました。それは、二人の「人」が神の栄光に覆われている有様だというのです。ワ冠のような部分は場所を表し、その中央に木が有るのです。それは、エデンの園の中央に善悪を知る木が有り、神の栄光に包まれたアダムとエバがそれを下に置く、つまりきちんと制御している有様で、それこそが「栄」の有様であるという理解が隠されているというものでした。事の真偽は別としまして、そういう風にアダムとエバが神様の栄光で覆われて、裸であることが露わではなかったという理解が有るわけです。しかし、二人は神との約束を破ってしまったために、その栄光が取り去られてしまいました。同時に、神の被造物の最も特別な存在としての自己尊厳が、自然には神様に守っていただけない状態になったことを表しています。
 神様に自己尊厳を守っていただくことができない堕落した状態の人間はどうするのでしょうか。アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったように、自分の方法で自己尊厳を守ろうとするのです。いちじくの葉はそれなりに大きくて厚みも有りますから、蔓などでつづり合わせれば、十分に腰回りを覆うことはできました。しかし、その効果は束の間です。いくら厚みの有る葉でも、所詮は葉です。何かに引っかかったりすれば、簡単に破れてしまいます。例え破れたりしなかったとしても、時間が経てば葉は枯れてしまいますから、縮んでしまって隠した部分が見えてきてしまったり、かさかさして肌触りが悪くなったり、簡単に千切れてしまたりするようになるのです。それは、自己尊厳を人間的な方法で守ろうとする努力がいかに効果も効力も無く、自分にとっても心地良いものではないかということを表しています。そして、そのことがその後のアダムとエバの態度に如実に現れているのです。
 8~11節 自分の方法で自己尊厳を守らなければならないということは、神様との関係が正しくないということですから、神様との交流を恐れる心が生じます。素直に直接的に神様の御前に出ることができなくなってしまいます。アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました。」と告白しています。神様は創造主ですから、彼らが裸なことは最初からご存知でした。しかし、もうそういう神様のご性質もアダムの眼中には無かったようです。罪は神様のご性質の理解を曇らせてしまいます。隠れるのではなく、泣き叫んで神様に飛び込んで行っても良かったのですが、そういうこともできなくなっている人間の姿を見ることができます。
 12節 自分の方法で自己尊厳を守ろうとすると、自分を正しい方に置きたいので責任転嫁をします。アダムの返答の中の「あなたが私のそばに置かれたこの女」という表現には、神様、あなたも責任が有るのではありませんかというような含みを感じます。また、エバが悪いのですという主張がされています。つまり、自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人には「愛」が無いのです。アダムの言葉には、神様に対する愛が有りません。最も愛して守るべきパートナーであるべきエバに対する愛も有りませんでした。本来であれば、最初に創造され、最初に神との約束を持った人として、自分がその責任を全うできなかったことへの赦しを請い、サタンに騙されたエバへの憐れみと許しを請うべきだったのに、エバに矛先を向けてまるで晒し者にするかのような態度を取りました。
 13節 アダムの姿勢に倣ったのでしょうか、エバも責任転嫁をします。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と言っています。アダムと同じ自己防衛の姿です。人ではなく蛇に責任転嫁をしています。現代で言えば、環境のせいにしているという理解もできるかもしれません。
 アダムとエバの回答から、もう一つ確認したいと思います。二人とも「~ので」とか「それで」と理由を述べていますし、それは事実の陳述であるかもしれません。しかし、理由と自分が取った行動の間に有った自分の思考を抜いて誤魔化しています。「私自身が○○と思い、自分の意思で決断して~しました。」と言うべきところを飛ばして語っているのです。人はいつも自分で判断し、自分の意思で選んで行動しているのです。だから、あなたの行動の最終決断はあなたのものであり、あなたの責任なのです。最後の審判で神様の前に立つときも、あなただけに責任が有り、誰にも責任転嫁はできません。
 ここで神様は、最後の審判ではありませんが、夫々に罪の結果をお告げになられました。しかし、ただ罪の結果を宣言するだけな神様ではありませんでした。神様はここで、自己防衛のために神様にも人にも愛を示せなかったアダムとエバに、愛を示してくださいました。神は愛なのです。21節には、アダムとエバが自己防衛のためにまとったいちじくの葉の代わりに、皮の衣を作り、彼らに着せてくださったのです。
 アダムとエバには、もう最初の神の栄光をまとい、自動的に自己尊厳を神様に守っていただくことはできなくなりました。しかし、それに代わる恵を神様は与えてくださいました。その恵を受け止めるためには、一つしなければならないことが有ります。それは、いちじくの葉を脱ぎ捨てることです。人間的な方法で自己尊厳を守る自己防衛の手段を捨てなければならないのです。罪を悔い改めるというのは、そういう意味が有るのです。
 この皮の衣はイエス・キリスト様の贖いの予表、型です。皮の衣であるということは、その皮を取られ、アダムとエバのために犠牲になった動物がいるとういことです。アダムとエバの裸の恥を覆うために命を取られて死んだ動物がいるというのです。それは、後にイエス様が十字架の贖いの死を通して、私たちの罪を赦してくださり、霊的には義の衣を着せてくださり、神様の目に罪の無いものとみなしてくださることを予告しているのです。
 この十字架の恵を信じるということがイエス様を信じるということです。しかし、そのためには、捨てなければいけないことが有ります。それまでの自分の思いと自分の方法で自己尊厳を守り、自己防衛に努めて来た態度を捨て、神様に全てを委ねて自己尊厳を守っていただく、神様による自己尊厳にのみに立つ新しい生き方、態度を持たなければならないのです。皆様はそれを受け入れて生きているということを自覚していらっしゃるでしょうか。それが私たちに成就しているのです。象徴的に言えば、いちじくの葉を捨てて生きなければならいのです。
 
 神様の愛と恵をいただいたアダムとエバですが、自分の方法で自己尊厳を守り、保とうとする態度は、すっかり人間の中に定着してしまいました。それは、神様との交わりが有っても自然に無意識の内に働くものです。場合によっては、意識していてもそうしてしまうことも出てくるのです。そのことは続く4章のカインの物語に現されています。
 5節を見ると「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」と書いてあります。「それで」というのは、神様が自分のささげ物に目を留めてくださらなかったので、ということです。人間は怒った時程、自分の内面を探る必要が有ります。怒りの定義の一つは、「満たされるべきだと思う必要が満たされない時に起きる感情」であるということを読んだことが有ります。カインは神様を差し置いて、自分のささげ物は目と留められるべきだと思ったのです。そして、それが満たされなかったために怒りました。彼は神様の主権を認めていなかったことになります。また、自己尊厳が脅かされたと感じました。
 その時に、彼はどのように自己尊厳を守るべきだったのでしょうか。自分の尊厳は神様にのみ守っていただくものだという心構えができていたならば、神様のもとに出て、「神様、わたしのささげ物にも目を留めていただきたいのですが、どうしたら良かったでしょうか、これからどうしたら宜しいでしょうか。」とお聞きすることもできたはずです。しかし、彼は先に両親がしたように、自分の方法で自己尊厳を守る態度に出ました。ですから、神様に尋ねようともしませんでした。7節では神様の方からお声をかけてくださっているのですが、それも無視しました。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は神様への愛が持てないのです。神様に対してでさえ愛が持てないのですから、ましてや人など愛せないということになります。
 カインは自己尊厳を自分の方法で守ろうとしました。彼は考えたのです。自分と比較される相手がいるからいけないのだ。この存在が私よりも優っているから自己尊厳が下がるのだ。では、その存在が無くなれば良いのだ。絶対なる方、神様に目を向けないで、相対の世界、相対の価値観に生きている者はそういう不安定で揺れ動く基準の中にいるのです。彼はアベルを殺してしまいました。そして、神様の問いかけに「知りません、私は自分の弟の番人なのでしょうか。」などと答えるのです。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は、神の力も愛も素晴らしさも信じてはいないのです。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は、神をも人をも愛せないのです。
 ここに私たちは驚くべき私たちの現実と罪の深さを見るのです。考えてみてください。カインは、私たちと違って、まだ直接神様と言葉を交わすことのできる世代の人間でした。今の私たちが考えれば本当に羨ましい関係を持っていました。それにも拘わらず、神様が直接語り掛けてくださって、愛を示し、警告してくださったのに、彼は自分の方法で自己尊厳を守ることだけに目を留め、自分の思いの中から神様を締め出して、とうとうアベルを殺したばかりか、神様の問い掛けに不誠実な回答をしているのです。神様を信じ、体験していると証できる私たちも、そのような態度になってしまっている時が有るのではないでしょうか。しかし、私たちにはカインには無いイエス様の十字架の贖いと聖霊の内住という恵が有るのです。この御力を信じ、おすがりして、私たちの心にいつの間にか生じるいちじくの葉をまとおうとする姿勢を退け続けて行きましょう。

(結論)
 本日の聖書箇所から私たちが読み取り、心に留めるべき原則やポイントはどのようなものでしょうか。
 第一のポイントは、「神様のご性質を理解し、いつも意識する。」ということです。その理解は、「神様は愛であり、人間との関係を保ち、人間を守ろうとしてくださる方だ」ということです。聖書の主人公は神様ですから、最初にこの箇所に現されている神様のご性質に目を留めるべきです。アダムとエバが堕落した時、神様は無言の内に彼らを抹殺したり消滅させたりすることもできました。しかし、神様は彼らに声をかけて対話してくださったのです。罪の結果を宣言はなさいましたが、彼らから取り去られた栄光の代わりとなる皮の衣を着せてくださいました。この時に、イエス様を通して人類に与えられる救いの計画も既に持っておられました。その神様が愛であることを信じ、神様の愛に頼り切って生きることです。
 第二のポイントは、「人間的な方法で自己尊厳を守ることは、いちじくの葉で体を覆うように無意味で効果が無い」ということです。それは、無意味なばかりか、有害な有様なのです。神様の愛と守りを信頼していないで、自分の力や戦略を信じていることになりますから、偶像礼拝の罪と同じなのです。そして、そういう態度は、自分の最も親しいはずの人への愛をも奪ってしまうのです。夫婦喧嘩なども、じっくり考え直してみれば、自己防衛、自己尊厳を守るという態度の表れであることが殆どです。お心当たりのある方も多いのではないでしょうか。
 第三のポイントは、「人間的な方法で自己尊厳を守ることを捨てて、神様が用意してくださった方法で自己尊厳を守ること」です。アダムとエバは、いちじくの葉を捨てて神様のくださった皮の衣を着ました。私たちはあの手この手で自己尊厳を守るのではなく、イエス様の贖いによっていただいた義だけを自己尊厳の拠り所とするのです。繰り返し繰り返しそうし続けて生きて行くのです。無意識の内に自分の知恵に頼り、それを自慢して生きてはいないかと、いつも吟味して反省して生きる姿勢が大事なのです。

 さて、ここで一度立ち止まって確認したいことが有ります。これまで、自分の方法で自己尊厳を守ろうとする態度には愛が無い様子をアダム、エバ、カインの態度から確認しました。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする時、それは自己中心となります。だから、神をも人をも愛せない状態になるのです。
 イエス様は、マタイによる福音書22章36節から40節までの記事において、律法の中で大切な第一の戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」であり、第二に大切なのは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」であると言われました。更に「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と言っておられます。律法とは、創世記から始まる伝統的にモーセが書いたと考えられる五つの書のことです。その最初の本である創世記のほんの出だしの第3章において、既に神と人を愛することが大切であり、しかも、それは自分の方法で自己尊厳を守る人には守れないのだよということを聖書は教えているのです。
 私たちは「神を愛し、隣人を愛する」という目標を持っている者達です。大変重要で、基本的で、中心的な価値と土台に立って歩もうとしていることになります。イエス様がお教えになった一番大切な戒めと二番目に大切な戒めを守って行こうという心構えを持っているのですから。しかし、このモットーを守って行くのだという決意だけに心を向けていては不十分な場合が有ります。このモットーを守ることを最も妨げる事柄は何であるかということも同時に知らなければなりません。それが、本日の聖書箇所で確認してきた「人間的な方法で自己尊厳を守ろうとすること」なのです。私たちは神様を信じています。しかし、同時に、私たちは無意識の内に、また時には意識的に人間的な方法で自己尊厳を守ろうとしてしまう存在です。そして、そういうことに気付いていないこと、また、そういうことが神と人とを愛するという中心的で大事な私たちのモットーを守ることを妨げるのだということに気付いていないならば、所謂看板倒れのモットーになってしまうのです。ですから、このことをいつも意識して、「今の自分の考えや反応は、神様の方法にたよらない人間的な自己尊厳の守り方になっていないか。」という吟味を重ねる習慣をもつことが必要なのです。






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