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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

こっそり為された悪事は必ずばれる? 其の二

2011-04-30 22:54:08 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 先日取り組んだマルコ伝4章22節とほぼ同じ表現を取り上げて、その箇所における意味を確認していきたいと思います。今回は、マタイ伝10章26節の表現についての確認から進めます。


 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているも
 ので、知られてこないものはない。(口語訳)


1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
 前後を読んでみると、10章は、キリストが12弟子を派遣する時に与えた注意が述べられています。すると、大きな括りは10章全体となり、そのテーマは、この時の派遣される12弟子の心得ということになります。

2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 次に、該当テキストの細かい括りを確認してみます。26節は「だから彼らを恐れるな」という言葉で始まっています。恐れの対象となるような事柄への言及は、17節の「人々に注意しなさい」から始まります。そして、31節の「だから恐れることはない」が、その小テーマの締め括りと考えることができます。
 すると、この箇所は、この時の派遣で、12弟子が心得ておかなければならない事柄の中の、「人々を恐れるな」という原則についての理由などの説明の中の一つという理解ができます。
 更に細かい括りとしては、隠されたものが知られるようになるうというつながりから、27節も同じ括りと考えることができます。

17節から31節までの流れを大まかにまとめると、次のように考えられると思います。

人々は弟子達を迫害したりするので気をつけていなさい。

語るのは聖霊であるから心配しなくて良い。

迫害の現実。耐え忍び、また、他の町に逃れなさい。

師匠が迫害されるなら、弟子達が迫害されるのは当然である。

だから恐れずに、宣教の任務を遂行しなさい。(ターゲットテキスト)

弟子達は父なる神の認め、配下に在る者なのだから恐れる必要は無い。

 すると、26節の表現は、恐れずに宣教の任務を遂行するという流れの中で理解するべき箇所であることがはっきりします。

3.該当テキストにおける26節の特定の意味を確認する。
 26節の表現とつながっている27節を先ず確認してみます。ここで「わたし」というのはキリストのことです。キリストが弟子達に暗やみで話すというのは、漆黒の闇などの怪しく後ろめたいような意味合いではなく、屋内の暗さという雰囲気で、個人的で親密な感覚を現すと考えられます。ですから、キリストから直接親しく受けた教えを公にしなさいということになります。後半の表現は、それを異なった表現で繰り返していることになります。アダム・クラークによると、耳にささやかれたというのは、秘密ということではなく、ユダヤ教の背景による表現だということです。律法学者など、師匠は弟子の耳元でささやくように教えたということです。そして、屋根の上というのは、ユダヤなどでは公告などがなされる場所であったということです。
 26節はこの27節を導くために用いられた言い回しです。このことと、弟子の派遣の前の注意という全体のテーマを考えると、26節の意味するところは、キリストの教えは宣べ伝えられるために、弟子達が派遣されるのであって、それは現され、知られなければならないということを意味することになります。


まとめ
 前回と違い、今回は、弟子の宣教前の注意という場面で用いられた表現でしたので、その意味は少し限定的であったように思います。宣教に使わされるのであるから、迫害などを恐れずにきちんと師に託されたことを宣べ伝えなさい。そういう意味合いで理解されるべきであると考えられます。
 そうすると、今回も、こっそり為された悪事は必ずばれるというような意味合いは含まれていないことになります。用いられている語が原語ではマルコ伝の場合と異なっている部分も有りますが、その理解を変えるような要素は見出されませんでした。









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こっそり為された悪事は必ずばれる? 

2011-04-27 22:10:10 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
実際にはもうちょっと違った目的意識を持って取り組んだものでしたので、常体の文で書き始めてしまいました。上手に整理できていないのはわかっているのですが、取り合えずアップさせていただきたいと思います。目的というのは、普通の信徒でも手順を踏んで聖書の述べている事柄の意味を整理して、その意味を確かめることができるというシミュレーションというか、モデルを示すということでした。




マルコ4章21節~25節 ぺリコーぺの意味を探る
                  ―22節の意味を明確にする―

はじめに
この作業は、22節に関する疑問から始まった。

なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。(口語訳聖書)

この句は、陰でこそこそ為された悪事も必ず明るみに出るということを示すために度々引用されるものの一つである。しかし、そのような引用が、テキストの元来の意味から考える時に、はたして適切であるのだろうか。
 そこで、次のような手順でその部分の意味するところの確認を進めることにした。

1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
3.該当テキストにおける22節の特定の意味を確認する。


1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りと意味上の流れを確認する。
 該当テキストの23節には「聞く耳のある者は聞くがよい」という言葉が述べられているが、それが9節にも現れている。何らかの共通のテーマを持っていると考えることができる。
 9節は、4章1節~20節で一まとまりのぺリコーぺの一部である。そして、そのはじめの方に、イエスが譬を用いて多くのことを教えたということが示されている。すると、そこから続く譬は、この導入に続くまとまった譬の例示ということになる。後の方に目を転じて見ると、からし種の譬の後に、33節、34節でキリストが譬を用いて教えられた事実のまとめが述べられている。すると、該当テキストを含む大きなまとまりは、4章の1節から34節までと見ることができる。
 この箇所の良い土地の譬、あかりの譬、育つ種の譬、からし種の譬の四つで構成されている。最初の二つは、先にも述べたとおり、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉が共通しており、後の二つは「神の国」が共通のテーマであることが26節と30節からわかる。
 この箇所のテーマを一つに絞ることができるかどうか考える。先に示したとおり、前半と後半の二部に分けられると考えることもできる。イエスの宣教は、神の国の宣教であったし、聞く耳を持つことが要求されるのは、神の教えを正しい態度で受け入れるようにという警告を含んでいることを考えると、四つの譬は「神の国」というテーマで貫かれていると言える。手元にある注解のアウトラインを確認したが、どれもが「神の国」をこの箇所のテーマとして示していた。


2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 該当テキストは4章21節から25節までである。24節~25節は別の区分になるかどうかを確認したが、細かく項目立てをしている注解でも、ここを別に取り分けている例は見当たらなかった。23節の「聞く耳のある者は聞くが良い」という言葉と、24節のはじめの「聞くことがらに注意しなさい」という言葉が文脈的つながりを示していると考えられる。それが、そこまで含めてあかりの譬のまとまりであるとする伝統的理解の理由と推察できる。
 ここで理解の助けになるのは、3節から20節の、よい土地の譬である。この箇所は、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉が共通している上に、キリスト自身の解説が付されている。聞く耳があってきちんと聞て受け入れた者は、良い地であり、多くの実を結ぶことができる。この原則を元にして該当テキストの意味を考えていくことになる。
 特に聞いて受け入れるというつながりでの理解が容易なのは、後半の24、25節である。あなたがたの量るはかりで、自分にも量り与えられるというのは、神の国の宣教をどう判断するかによって、神の国の恵みを受け取る度合いが違うということを表している。そして、きちんと神の国の福音の言葉を持っている者は、更にその恵みを受けることになり、キリストの宣教の言葉をきちんと評価しない者は、持っていると思っている神の国の恵みでさえ失うことになるのである。それが、土地の譬では様々な悪い土地に落ちた種の姿と重なる。このことを元にして21節、22節を考えると、理解できるようになってくる。
 あかりを点ける時、そのあかりは当然置かれるべき位置が有る。神の国の宣教の言葉も、当然の評価を得るならば、敬意を持って受け入れられたならば、その人の心のしかるべきところに位置を占め、その者の思いを照らすことになる。反対に、神の国の宣教の言葉を受け入れなかったり、その価値を認めなかったり、無視する態度の者は、あかりを器や食卓の下に置くような行為だということになる。
 今回その意味を確認しようとしている「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」は、そのあかりの譬と量りのはなしに挟まれているのである。


3.該当テキストにおける22節の特定の意味を確認する。
 先に確認した流れを元に隠されているもの、秘密にされているものが何であるかを考えるのだが、先に幾つかの語の意味を確認する。「隠されている」「秘密にされている」という内容の語は、元来どんな意味合いが含まれているのだろうか。以下に、ストロングスにおける定義を参照する。
 「隠されている」という語はクルプトスという形容詞で、ストロングズによると、プライベートなという意味合いにおいて「隠されている、内側の、秘密」という語感である。
 「秘密にされている」という語はアポクルフォスという形容詞で、大事にされている、大切にされているという示唆を伴って、「秘密にされている」という意味がある。
 これらを踏まえた上で該当の箇所の意味を考える。プライベートで内側の、大事にされている事柄が、この聖書箇所の文脈から考えると神の国とその宣教の言葉であることは明らかである。しかし、それらは神の国の宣教の言葉を聞いた者の心の中のことであるから、直ぐには周囲の人にはわからないものである。それでも、本当に神の国を受け入れた者は、その行動や生活にそれが反映され、徐々に周囲の人々にも明らかになってくるものだ。それがこの箇所の意味するところであると結論付けることができると考えられる。
 当時キリストの周囲には多くの人々が教えを聞きに集まったが、彼らが本当に神の国の宣教の言葉を受け入れたかどうかは、その時点では不明であった。しかし、それはいずれ明らかになる。キリストは、そのことを念頭に入れて、きちんと神の国の宣教の言葉を評価し受け入れたかは、後には明らかになるのだから、注意して聞くようにと警告したことになる。集まった者たちの中には、キリストを利用しようと考えたり、敵対心を持っていたりする者が含まれていた。そういうことも後には明らかになるということを予告する意味も含まれていたと考えられる。


まとめ
 該当の聖書箇所、マルコ4章21~25節は、前後の譬が農事や植物を使ったものであるのに、そこだけあかりや量りの話しが用いられているため、異質な印象を与える。しかし、神の国という共通のテーマを持っており、植物や農作物のできは後になってわかるように、神の国を受け入れたかどうかは後になって明らかになるという点でも類似点、共通点が有るということが明らかになった。 
 隠されているもの、秘密にされているものが、外見からは神の国を聞いて受け入れたかはわからないということを現していることがわかったので、隠れたところで為された悪事は必ず知られるようになるということを述べるためにこの箇所を引用するのは適切ではないと判断できる。必要ならば、もっと相応しい聖書箇所を見つけて引用するべきである。他の福音書に現れる類似の表現の意味の確認、もっと引用に相応しい聖書箇所の確認については、次の機会に述べる。
 







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「豚に真珠」と「猫に小判」は同義なの?

2011-02-26 18:04:26 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
ちょっと無理矢理ではありますが、このカテゴリーの記事とさせていただきます。

ネットで調べると、「豚に真珠」がマタイ伝七章六節に由来するということが書かれています。また、多くの場合、「猫に小判」と同じように、「価値のわからない者に貴重なものを与えても意味が無い」「勿体無い」というような意味合いで考えられるようです。

普段使う日本語としてはそれで宜しいのでしょうけれども、私達キリシタン忍者としましては、そういう意味だという理解で留まったり、そういう意味しか念頭におかずにこの諺を用いるのはちょっとまずかろうと思うのです。

マタイ伝においては、「豚に真珠を投げてはいけない」という指示の前には、同じ意味合いを示す表現として「聖なるものを犬に与えてはいけません」という言葉が有ります。そして、その後には理由が述べられています。しかし、それは「勿体無いから」ということではないのです。その理由は、「向き直ってあなたを引き裂くでしょうから」というものになっています。キリストの教えを受け入れずにむしろ迫害やその他の危害を加えようとする者達には、それ以上に神の国の福音を説き続けることは止めておきなさいという警告と理解することができそうです。
 これらの言葉は、キリストの神の国の福音を受け入れないパリサイ人や律法学者を念頭に置かれたものです。彼らはキリストの宣教を受け入れずに敵対していました。
 初代のキリシタン忍者達は、迫害の中で散らされたりしましたが、その背景の一部分には、このような理解も含まれていたのではないのかなと十八は思ったりします。
 現代のキリシタン忍者である私達の場合は、証をすることや何らかの形で伝道、宣教に関わることは大事でありますが、それが相手の敵対心や迫害につながるような場合には、それ以上のことをしなくてよいという適用が可能であると思います。神学論争などをして、お互いに激しい敵対心を持ったりするキリシタン忍者同士も、この心からはずれており、キリストの心を忘れた取り組みになっているのではないかと思います。


さて、振り返って「猫に小判」の方を考えますと、猫が向き直って危害を加えるということは想定されていません。ですから、この場合には単純に「意味が無い」「勿体無い」という理解で宜しいのだろうと思います。
 そうしますと、別の理由付けを伴う「豚に真珠」は、その理由付けの方にこそもっと焦点が有り、「猫に小判」とはまったく同義とは言えないという理解になるのではないでしょうか。








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新しい皮袋って新しいスタイル?

2011-02-16 03:19:26 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
新しい皮袋という表現は、マタイ伝やルカ伝に出てくる表現です。で、この表現を教会の新しい礼拝スタイル、運営スタイル、伝道スタイルについて使うケースを時々見かけます。私糸田十八は、そういう使い方をしてはならないのではないかと思う時が有るのです。

私の過去のルカ伝のエントリーでその箇所を扱っていますので、ご確認ください。

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/dd916c3dc30ab5d946ddf8cbc1520bc1
ここでは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければいけないということが比喩的に用いられています。いろいろな説明が可能でありますが、手っ取り早く説明を試みると、新しいぶどう酒はキリストの教えであり、新しい皮袋はキリストの教えの実践的現われである信仰者の実践や行動様式という説明も可能です。

新しい皮袋とは、キリストの教えに根ざした行動様式や霊性全般を指しているのです。硬直した伝統的なキリスト教の礼拝様式、運営スタイル、伝道スタイルをパリサイ人達の律法主義になぞらえて、そこからの反省から出た新しいスタイルを新しい皮袋と呼んだりするわけですが、それは間違っていると思います。何故ならば、キリストの教えに根ざしているならば、私達にとってその有様が古かろうが新しかろうが、そんなことに関係なくそれは「新しい皮袋」と認識されなければならないからです。少なくとも、それが聖書の意味するところの「新しい皮袋」であるはずです。

「新しい皮袋」という考え方は、実はキリスト者の思考においては中心部に関わる事柄です。それを単に「新しい」ということと古いスタイルへの嫌悪感を併せて表現するような目的のために用いてはならないと思います。「新しい皮袋」という表現は、そんな軽いものでは決してないのです。








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「賛美を住まいとされる神」だから賛美の歌を歌う? (詩篇二十二篇三節)

2009-07-17 18:05:36 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
奥義書本文

『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』



この聖書箇所を引用して、賛美の歌を歌うことを奨励したりする文に出くわすことが有ります。しかし、それが適切なこの箇所の理解なのか、もしくは適切な引用なのか、疑わしい部分が有ります。

先ず、この聖書箇所における「賛美」は何であるかということを確認してみたいと思います。

原語は日本語的な表記ではテヒラーと読める語で、ほめたたえる、賞賛するという意味の他に、確かに賛美歌という意味も有り、簡単な辞書では「具体的には賛美の歌」のような解説がついています。しかし、詳しい記述の有る辞書に目を転ずると、「賛美、崇拝、感謝、一般的もしくは公の賛美・崇拝の行為、神の性質・行為への賞賛、神の名声」などの記述も加えられています。

また、注解などに目を通すと、「住まいとされる」という表現は、イスラエルの民が犠牲を捧げる所、即ち幕屋や神殿を念頭に入れていることがわかります。また、これは、旧約時代のイスラエルの民に、特別にご自身を啓示され、礼拝や捧げ物を受け入れる関係を築かれた神という事実や考えが含まれています。荒野をさ迷っていた時代においても、神は彼らの中に「住む」と宣言されています。

更に、この箇所の主旨、この詩篇二十二篇の流れがどんなものであるかにも注目する必要が有ります。これはメシア的詩篇と理解され、キリストの受難の預言になっている部分が有ります。流れとしては、神は私を見捨てたと思う程に私に答えてはくださらないし、私の周囲の人々も私を徹底的に痛めつけているが、それでも私は神に信頼し、神に礼拝と賛美を捧げるというものになっています。主旨は、どんな困難な状況に在っても、ご自身を啓示してくだり、礼拝を受け入れる関係を築いてくださった神に頼り続けるという決意に有ります。「けれども」という逆接の接続詞に、力強い信仰告白を読み取る箇所です。

すると、この詩篇は、賛美の「歌」に留まることなく、神への強い信頼と感謝に基づく、一般的な礼拝全体を念頭に入れたものであることになります。従って、賛美の「歌」にばかり注目した引用の仕方、また、それに基づいた解説や奨励は、やや的外れの感が否めません。

付け加えれば、新約に生きるキリスト者にとっては、聖霊が内住しておられ、既に自分自身が聖霊の宮です。神に住んでいただくため、神に来ていただくために賛美の歌を歌うという感覚で考えてはならないと思います。より深い神との交わりや臨在「感」を求めるという考えは理解できますが、その場合でも「歌」に限定されたこの箇所の理解や引用は改めるべきではないかと思います。







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万人祭司なら牧師は不要? 其の五

2009-02-01 04:42:17 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
自分の書いてきたことで、誤解が有ってはならないと思い加筆することにいたしました。

私は、
1)いわゆる「牧師」を立てない教会の取り組みが有っても一向に構いません。
  それがその群れの導きならそれに従えば宜しいだけの事です。
2)有給の指導者を持たない教会の取り組みが有っても一向に構いません。
  それがその群れの導きならそれに従えばよろしいだけの事です。

私が繰り返して確認しようとしていることは、

そういう取り組みの説明に、万人祭司という概念は関連が無いということです。


聖書に見る祭司の務めは、指導者では有りません。そして、万人祭司の概念には、人の上に立つ権威の問題は含まれていません。勿論これが、カトリックにプロテストするにあたっては、「庶民に聖書を読ませない上からの権威」に対抗する理論として用いられました。しかし、聖書が示している万人祭司の教理は、そういう権威に関わるものではありません。また、モーセ五書に定義される祭司職との関連からすると、牧師への給与の問題などは、万人祭司という言葉を持ち出すと、祭司は民の税によって養われた事実とはどう「関係無い」のかをはっきりさせないと、矛盾のように思えます。(有給の良し悪しはまた別の議論になりますが。)


私の願うところは、そういう取り組みをする方々が、全く関係無い「万人祭司」という言葉を濫用せず、別な手順や方法で説明をするようになることです。


なお、万人祭司をキーワードにして検索すると、きちんとそれを把握していると思われる記述は2,3に留まり、多くの記事はそれに別な事柄を付加したり、あるいは権威の問題に特化した勘違いな理解をしていたりして、残念に思います。






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万人祭司なら牧師は不要? 其の四

2008-12-21 05:36:10 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
このシリーズの前回の其の三の記事で、組織的上下関係や伝達系統を不要とする立場に関連して、聖書にはそういうものが存在するという例を、使徒行伝を中心に長老と執事を取り上げて説明させていただきました。

今回は、直接的に役職への言及ではありませんが「指導者」と訳されている語を取り上げて、それがどのようなものであるかを確認して、其の三の補足とさせていただきたいと思います。


例文(ともに新改訳)
選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。(使徒行伝十五章二十二節)

すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。(ヘブル書十三章二十四節)


初代のエルサレム教会や、その他の教会に、「指導者」と呼ばれる人たちが存在したことがわかります。この「指導者」を表すために用いられている語は、元々はヘイゲオマイという動詞で、「先導する、命令する、権威を行使する、監督する」という意味が有り、また、「考える、判断する、(良いものとして)考慮に入れる。」などの意味にも用いられます。ですから、教会には、何かを判断し、監督し、先導し、権威を行使し、命令する者である「指導者」がいたということです。

この語の雰囲気を、聖書の他の個所ではどう使われているかを確認してみます。

(考え、判断するという意味合いで)
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。。(ペテロ第二の手紙一章十三節)

彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。(ヘブル書十一章十一節)


(指導、監督する意味合いで)
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」(マタイによる福音書二章六節)

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。(ヘブル書十三章七節)

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。(ヘブル書十三章十七節)


このように、用いられている語とその用例を確認すると、やはり初代教会から、そういう組織的上下関係や伝達系統が存在したと判断できます。しかし、注意しなければならないことが有ります。キリストも、その弟子も繰り返し次のように警告しています。


だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。(ルカによる福音書二十二章二十六節)-この「治める人」のところにもヘイゲオマイが使われています。-

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ書二章三節)-この「思いなさい」のところにもヘイゲオマイが使われています。-


治める意味も持つ「判断する」という言葉が、へりくだって他人を自分よりすぐれた者と思うということに用いられています。そうであれば、組織的、伝達系統で下位にある者は当然ですが、上位にある者も、そういう態度を持たなければなりません。これが双方にある時に、教会は健全に機能するのです。肉的な思いのために、その法則が働かないことが問題であって、教会に組織的上下関係や伝達系統が存在すること自体は問題ではありません。また、その問題を指摘するために、万人祭司という要素を持ち出すことはできません。







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万人祭司なら牧師は不要? 其の三

2008-12-15 17:01:43 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
万人祭司であることを理由に挙げて牧師の不要を説く立場は、もう一つ、教会の中に組織だった上下関係や伝達系統が有ることを問題視する場合が有ります。それでは、そういう在り方は非聖書的だと言えるのでしょうか。

実は、聖書を読めば、初代諸教会がそういう組織的上下関係もしくは伝達系統を持っていたことがわかるのです。

牧会書簡と呼ばれるテモテ書やテトス書を読むと、教会運営の中心となる二つの役職についての決まりが記されています。一つは長老であり、もう一つは執事です。

長老の役割は、何度か述べてきました通り、聖書を教え、間違った教えを正したり排除して教会員を養い導くことで、現在の牧師の役割です。

そして、聖書は、明らかに長老とは異なる役職として執事を挙げており、執事になる資質・資格が何であるかを述べているのです。では、その執事の役割は何でしょうか。聖書には長老への呼びかけと訓示は何箇所か有るのですが、執事へのよびかけと訓示は資質・資格の内容の他は有りません。当時の人たちには明らかだったのであり、長老より責任の低い役職であったということが推測できます。そして、これが単なる推測の域で終わらない裏づけが、聖書の中には有るのです。

使徒行伝六章に、最初の執事の任命の記事が有ります。選ばれる人たちには条件が有りました。『御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち』(使徒行伝六章三節)というものです。牧会書簡に見られる条件と比較すると、かなり抽象的ですが、内容は一致すると考えられます。この時に選ばれた人たちが「執事」であるとは書いてないではないかという疑問を持つ方もおられると思います。しかし、次の三つのことが、これを執事の職として考えることを支持していると思われます。

1)使徒行伝六章で用いられているギリシャ語

『そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」』

十二弟子が語った言葉です。そして、この食卓のことに「仕える」というところに用いられている語が、執事を表す語と語幹が同じもしくは同根の語なのです。この語は、また、一般の事業を取り仕切る、マネージする、というニュアンスも有ります。実際に彼らに割り当てられた仕事は、ギリシャ語を話す寡婦への配給の手伝い、管理でした。


2)初代教父達による見解

具体的に引用できるほどの資料が無くて申し訳ないのですがファウセットによる聖書辞典には、初代教父がその見解を支持しているという記述が見出されます。


3)ユダヤ教のシナゴーグの運営形態

長老という職は、モーセの時代から続いており、近隣の諸国にも長老という概念が有ったので、自然にこれが使徒達によって教会にも受け継がれたと考えられます。同様に、ユダヤ教の会堂のシナゴーグでの実践が教会でも用いられたと考えてもおかしくはありません。前出のファウセットによると、シナゴーグには、パルアシムという牧師のような働きをする役割と、チャザニムという執事のような働きをする役割が有りました。ファウセットは、これが自然に教会に受け継がれたと断言する形の記述をしています。


さて、執事は何のために選出されたかをもう一度確認してみましょう。使徒行伝六章を読めば直ぐわかります。後に長老と呼ばれもしくは名乗ることになった十二使徒達が、『もっぱら祈りとみことばの奉仕に励む』ことができるように、それ以外の職務を委任するために選出されました。すると、長老が必要を認めた職務を執事に依頼して執行してもらうという関係が、聖霊に満たされた教会の信徒達の間に存在したということになります。これを機械的に考えれば、組織的な伝達系統や上下関係が有ったということになります。勿論キリストにある聖徒達は、平等ですから、これはあくまで教会運営上の機能的組織的な取り組みにおける上下でありました。

ステパノが雄弁で不思議やしるしを行ったことや、ピリポが宣教師として目覚しい活躍をしたことを指摘して、あの七人は執事ではなかったのではないかという考えも有ります。しかし、執事として与えられた職務を遂行する以外に、彼らにそういう賜物や才能も与えられていたということは十分有り得ることで、それだけで彼らが執事でなかったと言い切ることはできません。


先の其の一、其の二で触れたことも含め、これらのことを考え合わせると、万人祭司であるということを理由にして、教会の中に組織的上下関係などが有ってはならないという結論を導くことには無理が有り、また聖書中に現れる実践例にも反していると言えるのではないでしょうか。






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万人祭司なら牧師は不要? 其の二

2008-12-15 16:00:02 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロ第一の手紙二章九節)

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。(黙示録一章六節)


予告しました通り、この二つの聖書箇所における「祭司」が何を意味しているかを確認してみます。

ペテロ第一の手紙二章九節
これは一章から続く大きな流れの中にある箇所です。ペテロのこの部分の論旨を大雑把に言うと、「あなたがたは救われているが、それは大変大きな恵みであり、あなた方は二章九節のような身分を得たのであるから、聖徒らしい生き方をしましょう。」という流れになっています。

ペテロは、救われた聖徒の特質を表すために、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」という言葉を用い、救われた目的の一つである「宣教」を強調しています。
 この四つの中では、「王である祭司」の部分が一番ぴんと来ない、解かりづらい部分であるかもしれません。しかし、祭司という務めが、「神に捧げ物をする」部分に主眼が有ることは、二章五節の言葉からも判ります。

『そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』  と書いてあります。

9節の表現は出エジプト記十九章六節の引用で、イスラエル民族について語られた言葉ですが、ペテロは、異邦人も含めてクリスチャンにそいう務めと地位が与えられていることを示しています。イスラエル人が皆祭司なのではなかったことを考えると、これはもっと象徴的で霊的な部分を含んだ表現であることがわかります。それは、彼らが、他の民族と区別され、選び出され、神が聖なる存在であることを証し、示すことを託され、律法と祭礼を与えられたことを指します。クリスチャンにはどう当てはまるでしょうか。
 まず、キリストがメルキゼデクのように王である祭司となられました。そのキリストによって、クリスチャンは小キリストとなり、その似姿に成長していき、天の御国の共同相続者となりました。故に我々も同様に王である祭司の務めを持ちます。それは、「神に喜ばれる霊のいけにえ」を捧げることです。その具体的内容は、わたし達の人生、わたし達の体を生きた供え物として、神の栄光を現すことをするために、神を賛美し礼拝するために用いることです。キリストが父なる神の御心を行うために、受肉し、十字架にまで架かられたことに倣うことになります。

そのような内容と理解において、万人祭司であるから牧師は不要であるというような結論が導けるでしょうか。まったく関係の無い事柄ではないでしょうか。


黙示録一章六節
この部分以外にもあと二箇所程黙示録にはクリスチャンが祭司であることを示す部分が有りますが、この六節だけに注目します。ここは序文の一部で、前後の関係は殆ど見出すことはできず、すでに共通理解であるという前提でこの表現は用いられています。ペテロが示したような理解が初代教会の間に行き渡っていたということだと思われます。


これらを考え合わせると、やはり万人祭司ということは、我々がすでにキリストという執り成し手、仲介を得ており、キリストに倣う存在として、旧約時代の制度のように他人である祭司を通してではなく、自ら神に礼拝を捧げることができ、それにもまして、自らの生き方を神に喜ばれる捧げものとして捧げられる存在であるということに主眼が有り、教え導くことには関係無いことがはっきりしてくると思います。







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万人祭司なら牧師は不要? 其の一 

2008-12-06 04:12:59 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
万人祭司の教義は次のような聖書個所に根拠が有ります。(引用は新改訳)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロ第一の手紙二章九節)

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。(黙示録一章六節)


万人祭司であるから、牧師無しに教会もしくは信徒の共同体を運営するのが聖書的であるというような主張を目にすることが有ります。この理解には、祭司職と牧師職の理解の不足、もしくは混同が有ると思います。ですから、第一段階として、祭司の職務と牧師の職務が何であるかを再確認して見るのがよろしいかと思います。


祭司と牧師の区別
祭司の務めは旧約に規定等が見出されます。彼らの仕事の中心は、手っ取り早く言えば、民の礼拝・奉納を神に取り次ぐことでした。民が全焼のささげ物、穀物やぶどう酒のささげ物をする時も、民が直接ささげることがなく、祭司が受け取って実際の処理や祭壇への奉納などを行い、礼拝を神に取り次ぐ仕事をしたのです。
 牧師の務めは、新約聖書では長老の務めと同じです。彼らの仕事の中心は、神の言葉を教え、それに従うように導く教師となることであり、間違った教えが教会に入り込むのを防ぐことでした。
 そういうわけで、祭司の職務と牧師のは別のものですから、それをきちんと区別する必要が有ります。この二つが別の職務である以上、万人祭司であるという理由で、牧師が不要であるとか、牧師無しに信徒の共同体を運営するのが聖書的であるという主張は、非聖書的で、見当違いと言わざるを得ません。


誤解の要因
宗教改革の時にプロテスタントによって万人祭司が強く主張されたのは、当時一般の信徒には聖書を読むことや祈ることが許されておらず、教育を受けた司祭や神父がだけがそれを取り次げるという体制になっていたからです。宗教改革の先駆者達は、民衆に解かり易い説教をし、民衆に解かり易い言葉に聖書を翻訳したということで火炙りの刑に処されました。そのような過去、そのような体制に対するプロテスト、抗議の意味が、万人祭司の主張には有りました。(勿論聖書的にも万人祭司ではあります。)
 司祭や神父無しに聖書を読めるという自由の問題が、いつの間にか教育を受けた牧師や教師は不要だという考え方と勘違いされたか、摩り替わった部分が有るように思われます。そして、それを当たり前のように用いる人が多くなったという面が有るように思います。
 もう一つの誤解の要因は、用語に有ると思います。日本語で考えた場合は、カトリックの「司祭」という用語は「祭司」のそれと同じ漢字を用い、その順番が逆転しただけです。考え無しにさっと見れば、同じもののように思えるかもしれません。また、英語で考えますと、priestという言葉は、旧約の祭司に用いられるばかりでなく、いろいろな宗教の聖職者、神官、僧侶などを表すのにも用いられます。そこから、一般の言語感覚もしくは生活感覚として、祭司と牧師を同列に見る考え方が生まれた部分も有ると思います。しかし、我々キリスト教徒にとっては、そういう言語感覚や生活感覚が大事なのではなく、聖書がその二つをどう定義しているかということの方が遥かに大事なのです。


次回は、引用される二つの聖書個所が、どんな意味を持つのかを確認してみます。






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