先日取り組んだマルコ伝4章22節とほぼ同じ表現を取り上げて、その箇所における意味を確認していきたいと思います。今回は、マタイ伝10章26節の表現についての確認から進めます。
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているも
ので、知られてこないものはない。(口語訳)
1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
前後を読んでみると、10章は、キリストが12弟子を派遣する時に与えた注意が述べられています。すると、大きな括りは10章全体となり、そのテーマは、この時の派遣される12弟子の心得ということになります。
2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
次に、該当テキストの細かい括りを確認してみます。26節は「だから彼らを恐れるな」という言葉で始まっています。恐れの対象となるような事柄への言及は、17節の「人々に注意しなさい」から始まります。そして、31節の「だから恐れることはない」が、その小テーマの締め括りと考えることができます。
すると、この箇所は、この時の派遣で、12弟子が心得ておかなければならない事柄の中の、「人々を恐れるな」という原則についての理由などの説明の中の一つという理解ができます。
更に細かい括りとしては、隠されたものが知られるようになるうというつながりから、27節も同じ括りと考えることができます。
17節から31節までの流れを大まかにまとめると、次のように考えられると思います。
人々は弟子達を迫害したりするので気をつけていなさい。
↓
語るのは聖霊であるから心配しなくて良い。
↓
迫害の現実。耐え忍び、また、他の町に逃れなさい。
↓
師匠が迫害されるなら、弟子達が迫害されるのは当然である。
↓
だから恐れずに、宣教の任務を遂行しなさい。(ターゲットテキスト)
↓
弟子達は父なる神の認め、配下に在る者なのだから恐れる必要は無い。
すると、26節の表現は、恐れずに宣教の任務を遂行するという流れの中で理解するべき箇所であることがはっきりします。
3.該当テキストにおける26節の特定の意味を確認する。
26節の表現とつながっている27節を先ず確認してみます。ここで「わたし」というのはキリストのことです。キリストが弟子達に暗やみで話すというのは、漆黒の闇などの怪しく後ろめたいような意味合いではなく、屋内の暗さという雰囲気で、個人的で親密な感覚を現すと考えられます。ですから、キリストから直接親しく受けた教えを公にしなさいということになります。後半の表現は、それを異なった表現で繰り返していることになります。アダム・クラークによると、耳にささやかれたというのは、秘密ということではなく、ユダヤ教の背景による表現だということです。律法学者など、師匠は弟子の耳元でささやくように教えたということです。そして、屋根の上というのは、ユダヤなどでは公告などがなされる場所であったということです。
26節はこの27節を導くために用いられた言い回しです。このことと、弟子の派遣の前の注意という全体のテーマを考えると、26節の意味するところは、キリストの教えは宣べ伝えられるために、弟子達が派遣されるのであって、それは現され、知られなければならないということを意味することになります。
まとめ
前回と違い、今回は、弟子の宣教前の注意という場面で用いられた表現でしたので、その意味は少し限定的であったように思います。宣教に使わされるのであるから、迫害などを恐れずにきちんと師に託されたことを宣べ伝えなさい。そういう意味合いで理解されるべきであると考えられます。
そうすると、今回も、こっそり為された悪事は必ずばれるというような意味合いは含まれていないことになります。用いられている語が原語ではマルコ伝の場合と異なっている部分も有りますが、その理解を変えるような要素は見出されませんでした。
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だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているも
ので、知られてこないものはない。(口語訳)
1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
前後を読んでみると、10章は、キリストが12弟子を派遣する時に与えた注意が述べられています。すると、大きな括りは10章全体となり、そのテーマは、この時の派遣される12弟子の心得ということになります。
2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
次に、該当テキストの細かい括りを確認してみます。26節は「だから彼らを恐れるな」という言葉で始まっています。恐れの対象となるような事柄への言及は、17節の「人々に注意しなさい」から始まります。そして、31節の「だから恐れることはない」が、その小テーマの締め括りと考えることができます。
すると、この箇所は、この時の派遣で、12弟子が心得ておかなければならない事柄の中の、「人々を恐れるな」という原則についての理由などの説明の中の一つという理解ができます。
更に細かい括りとしては、隠されたものが知られるようになるうというつながりから、27節も同じ括りと考えることができます。
17節から31節までの流れを大まかにまとめると、次のように考えられると思います。
人々は弟子達を迫害したりするので気をつけていなさい。
↓
語るのは聖霊であるから心配しなくて良い。
↓
迫害の現実。耐え忍び、また、他の町に逃れなさい。
↓
師匠が迫害されるなら、弟子達が迫害されるのは当然である。
↓
だから恐れずに、宣教の任務を遂行しなさい。(ターゲットテキスト)
↓
弟子達は父なる神の認め、配下に在る者なのだから恐れる必要は無い。
すると、26節の表現は、恐れずに宣教の任務を遂行するという流れの中で理解するべき箇所であることがはっきりします。
3.該当テキストにおける26節の特定の意味を確認する。
26節の表現とつながっている27節を先ず確認してみます。ここで「わたし」というのはキリストのことです。キリストが弟子達に暗やみで話すというのは、漆黒の闇などの怪しく後ろめたいような意味合いではなく、屋内の暗さという雰囲気で、個人的で親密な感覚を現すと考えられます。ですから、キリストから直接親しく受けた教えを公にしなさいということになります。後半の表現は、それを異なった表現で繰り返していることになります。アダム・クラークによると、耳にささやかれたというのは、秘密ということではなく、ユダヤ教の背景による表現だということです。律法学者など、師匠は弟子の耳元でささやくように教えたということです。そして、屋根の上というのは、ユダヤなどでは公告などがなされる場所であったということです。
26節はこの27節を導くために用いられた言い回しです。このことと、弟子の派遣の前の注意という全体のテーマを考えると、26節の意味するところは、キリストの教えは宣べ伝えられるために、弟子達が派遣されるのであって、それは現され、知られなければならないということを意味することになります。
まとめ
前回と違い、今回は、弟子の宣教前の注意という場面で用いられた表現でしたので、その意味は少し限定的であったように思います。宣教に使わされるのであるから、迫害などを恐れずにきちんと師に託されたことを宣べ伝えなさい。そういう意味合いで理解されるべきであると考えられます。
そうすると、今回も、こっそり為された悪事は必ずばれるというような意味合いは含まれていないことになります。用いられている語が原語ではマルコ伝の場合と異なっている部分も有りますが、その理解を変えるような要素は見出されませんでした。


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