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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

聖書を勉強してはだめ? (使徒行伝四章十三節等)

2008-12-05 08:37:13 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
聖書の学びとリバイバルの記事で、弐戒庵さんがコメントしてくださった様に、聖書は読めば解る、勉強するべきではないという誤解が有ります。そういう誤解を持っている人たちと対話すると、およそ二、三の聖書を裏付けとして引用することが有ります。以下に引用いたします。(すべて新改訳です。)


彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 (使徒行伝四章十三節)

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。(第一コリント八章一節)

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三章六節)


はたしてこれらの聖書個所が、聖書は勉強するべきではなく、一通り読んで解ることで十分だとする根拠に成り得るのでしょうか。

使徒行伝のイエスの弟子達が、「無学な普通の人」と書かれたのは、彼らがユダヤ教の指導者の公認する学校で勉強した経験が無かったことを示す慣用的表現によります。実際にはイエスに多くの聖書の言葉の解き明かしを受け、勉強をしてきました。ですから、この聖書個所を根拠にして、聖書は読めばよいのだという結論を導くことはできません。

次に、第一コリントの部分です。これは、後半だけを抜き出して引用することが多いのです。ですから、パウロがどんなことを教えている時に用いた表現であるかに注意がはらわれていません。また、「知識」が、必ずしも聖書を学ぶことを全体的に指し示す内容ではないことが無視されています。
 ここでは、偶像に奉げた肉は、実際には神でもなんでもない像に奉げたものであって、霊的な意味は無いから、キリスト教徒が食用に用いることは問題無いという知識のことを指しています。そして、コリント教会では、この知識を持っている者が、そういう知識を持っていない者達に対して、「そんなことも知らないのか。」とか「信仰が弱いな。」という気持ちで見下していたという事実に基づいて書かれているのです。ですから、全般的な聖書を学ぶという知識と、それによって高慢になるということとは直接の関係は有りません。従って、この聖書個所を根拠に、聖書の勉強をするべきではないという結論を導くことはできません。

第二コリントの個所は、「文字」という言葉で「モーセの律法」を指しています。「殺す」と表現しているのは、モーセの律法が人間の行いにおける罪を指し示し、責めて、それが霊的な死につながることを指しています。対比されている「御霊」は、イエス・キリストによる新しい契約と、それを通してキリスト教徒に与えられる聖霊を指しています。
 ここでは、旧約やモーセの律法が、実際には罪の責めや呵責をもたらすだけで、救いを完成しないものであり、それらにこだわっているユダヤ人たちはまだそのような罪と死の中に居るが、キリストによる救いを受け入れた者は、新しい救いの命に入っているという対比のため用いられた表現です。従って、これで聖書を勉強するべきではないという結論を導くことはできません。


何度が示してきましたが、パウロがテモテやテトスに送った牧会書簡を読めば、聖徒を教えるために、長老が任命されたことがわかります。長老の資格は、よく教える能力があることでした。長老が教えるべき内容は、聖書からイエスはキリストであるということです。読むだけでわかるなら、そんな長老の任命は不要だったはずです。このことからも、聖書は調べ、勉強するべきものであることがわかります。
 使徒行伝十七章十一節に出てくるべレヤのユダヤ人たちは、一生懸命聖書を調べたことが、好意的に記録されています。ピリポがエチオピアの宦官を教えた記事、アクラとプリスキラがより正確なキリストの道をアポロに教えた記事等を考え合わせれば、聖書の勉強がいかに大事であるかは明らかであると思います。
 また、二千年以上の時間を隔て、違う言語で書かれた聖書ですから、背景の研究、語彙の研究、文脈の確認などの勉強が必要なのは、当然のように理解されるべきではないでしょうか。







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キリストを主と呼べばクリスチャン? (マタイ伝七章二十一節~)

2008-10-29 04:56:26 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。


キリスト教の掲示板を閲覧すると、キリスト教徒でない方で、キリスト教や宗教を熱心に研究しておられる方が、キリストを信じただけでは救われないという根拠として、このような聖書個所を示すのを何度か見たことが有ります。最近ネット・サーフィンをしたところ、キリスト教徒でもそのような読み取りをしているのに出くわしました。このような個所が、はたしてそういう論拠に成り得るのでしょうか。それを考えるためのポイントとして、キリストを主と呼べばクリスチャンなのかということを確認するのが良いと思います。

これは新約聖書の記事ですから、「主」と訳された語の元になっているのはギリシャ語のキュリオスです。キリスト教辞典などで調べますと、これは所有者、権威有る者ということを含意し、王や領主への呼びかけ、奴隷から主人への呼びかけ、また、宗教的には神への呼びかけの他に、ラビや宗教的指導者達への呼びかけにも用いられていたことが判ります。

ここで、この個所における「主」が、どれを念頭に入れたものかを考えてみます。先に確認しました「主」の表すものと照らし合わせますと、可能性は二つに絞られます。キリストを主と呼んだ人の考えは、「ナザレのイエスはラビや宗教的指導者だ」なのか、「ナザレのイエスは神だ」なのかということです。そこで、キリストが、どのような場面でこの発言をしたのかを確認しなければなりません。

マタイの記述では、これは五章から始まり、七章で終わる山上の垂訓の一部です。四章の終わりと五章の始めを見ますと、多くの群集がキリストにつき従っていたことがわかります。また、七章の終わりでは、キリストの教えを聞いた群衆達が、その権威を持った教え方に驚嘆しています。すると、キリストは、最初の弟子達を含む、自分に従って来た群衆に対する教えの中でこのことを語ったことになります。この部分は、キリストのごく初期の宣教活動であり、弟子は居ましたが、十二弟子の召命はまだでした。勿論、キリストを約束のメシアだと既に信じていた弟子はいましたが、当時の一般的認識は、「ナザレのイエスはラビや宗教指導者だ」というものでした。

キリストは、「私にラビとか宗教的指導者として呼びかけ、私の教えを受けた者として人々に認められたいと思っても、それだけでは私の宣教している神の国には入れないのだ。私の教えることを行わなければならないのだ。」ということを意図して発言しているわけです。キリストの教えることの中には、当然「悔い改め」が入っているのですが、後には、キリストを神の子として信じる信仰も入って来るはずなのです。この時周囲にいた群集や弟子達は、どれだけキリストに心酔していたかはわかりませんが、「ナザレのイエスは神」という信仰を持ち、いわゆるクリスチャンと呼べる状態だった人はまだ誰も居なかったと言っても過言ではないと思われます。

もう一つ誤解を導く要素は、続く節に「あなたの名によって、悪霊の追い出し、預言、奇跡を行った」というアピールが有ることのようです。しかし、これらはユダヤ教のラビやその弟子の中にもそういうことをする人達は居たのですから、この部分を持ってキリスト教徒に対する指摘だとすることはできません。「あなたの名によって」というのは、その権威によってということですが、真実な信仰によらなくてもその権威を借りて預言した偽預言者も聖書には現れます。キリストにつき従うグループに入っていなかった人たちが、キリストの名で悪霊の追い出しをした記事も聖書には残っています。また、見落としてはならないのは、この区切りの最初にキリストが「にせ預言者に気をつけなさい。」と言っていることです。旧約聖書にも、にせ預言者が出てきて、力有る業をした場合でも、神から離れるような指導をしたら従ってはいけないという指示が有ります。

これらをまとめて考えれば、ここで取り上げられたキリストを「主よ」と呼ぶ人達は、キリストを神と崇める人々ではなく、にせ預言者やキリストをラビや宗教的指導者と考えている人々の言葉として語られていると考えるのが妥当です。そういうわけで、この発言を、「キリストは神である」という信仰告白をした者、クリスチャンに当てはめて考えた上での引用は、キリストの意図から離れたものであると言わざるをえません。







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牧師を訴えると罪? (サムエル記上 二十四章六節、二十六章九節)

2008-10-18 11:09:53 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
不品行、暴力、横領などの罪を犯した牧師を糾弾したり訴えたりしようとすると、上記のような聖書個所を根拠にして、「神に油注がれた者に手を出してはいけない。神に委ねましょう。」と教える指導者達が居るそうです。はたして、そういう聖書理解は成り立つのでしょうか。

先ず、牧師がこの聖書個所で言うところの「神に油注がれた者」なのかどうかを確認しなければなりません。
 この「神に油注がれた者」は、具体的には、統一イスラエル王国の初代王、サウルのことを指します。では、聖書神学的に、牧師をこの王と同等に考えることができるのでしょうか。十分の一の献金のエントリーで説明いたしましたが、牧師は、聖書的には新約聖書に出てくる長老に該当します。ユダヤ人がモーセの時代から持っていた長老制に馴染んでいたことや、近隣の文化にも長老という考えが有ったことから、使徒達を通して神によって初代教会に与えられた役目でした。ですから、旧約聖書に遡って考えるとしても、牧師は長老に遡ることはできても、王であるという理解をすることはできません。献金問題の時には牧師は祭司であると主張し、訴追などの時には牧師は王であると主張するのは、いい加減なご都合主義と言わざるをえません。
 牧師は任命の時に按手礼と言って、先に牧師となった指導者達から頭や肩などに手を置いて、任命の祈りを受ける典礼を受けます。この按手は、時代を超えてずっと遡って行けば、初代教会の使徒達にまで辿り着くと理解できます。テモテ第二の手紙第一章には、この按手の時に、テモテに何か具体的にわかる「神の賜物」が与えられたようです。そういうことは、聖霊の働きを通して与えられると理解されます。そういう顕著な聖霊の働きを、「聖霊の油注ぎ」と象徴的に表現することが有ります。それで、牧師が任命の時に按手を受ければ、何らかの「聖霊の油注ぎ」が有るのではないかと考えることができます。その意味においては、確かに牧師は「神に油注がれた者」でしょう。しかし、それは、「長老」への任職の油注ぎであって、王としての油注ぎではありません。

牧師は聖書で言う長老の役割をはたすために任命されているのですから、新約聖書に示されている長老の規定を守らなければなりません。資格については、第一テモテ三章に示されています。また、その他の長老の取り扱いについては、五章十七節以降に記されています。十九節には、「長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。」という記述が有ります。すると、手順を踏まえたものであれば、長老=牧師に対する訴えは起こされるものであり、受理されるものであることが明白です。ですから、力有る神の預言者が居た時の、イスラエルの王に対するダビデの態度を引き合いに出して、牧師を訴えてはいけないと教えるような誤解を鵜呑みにしてはいけません。ですから、責めるべきことが有れば、牧師を訴えることはできるのであって、それは罪ではありません。

このことについては、後に補足の記事をアップさせていただく予定です。






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収入の十分の一を献金しないと罪? 補足二

2008-09-26 15:56:59 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
祝福の原則

マラキ書三章
『十節 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあな たがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
 十一節 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・
 十二節すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』

ここには神からの祝福の約束が有ります。十分の一の献金を勧める立場は、このことを強調します。十分の一の献金をすれば、溢れるばかりの祝福が注がれるというのです。あなたの生活と経済活動が損失から守られ、栄えると言うのです。その言葉をそのまま信じて良いのでしょうか。理解しておくべきことが二点程有ると思います。

一点目は、繰り返しになりますが、この契約条項は旧約のユダヤ人に対するものだということです。申命記の二十八章に有る、祝福とのろいの契約とも深く結びついていると考えられます。新しい契約、新約の民であるクリスチャンは、こういう契約を神と結びませんでした。ですから、「あふれるばかりの」祝福という言葉でひきつけ、促し、保証つきであるかのように勧めることには問題が有ると思います。セールスマンが顧客にサービスの拡張のための投資なり料金の増額を持ちかける時に、他社の契約書やサービス条件を提示して話をすることが有るでしょうか。それは商業道徳に反する詐欺行為です。同様に、旧約の契約条件を新約の民にそのまま提示して、全部適用できるかのように語るのは、神の言葉に対する慎重さが無く、冒涜であるとさえ私は思います。

二点目は、神と人間の能動的関係の在り方と、新約聖書に現れる原則に照らし合わせると、真心からの供え物といわゆる気前の良い奉げ物には、相応の報いが有るということは言えるということです。ですから、「十分の一献金をしたからと言って祝福されることは無い」とまでは言い切れないのです。神は人格的存在で、人間と相互に交流をする存在です。ですから、人間的な感覚からもその傾向を知ることができます。詩篇には十八篇には、

『二十五節 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
 二十六節 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
 二十七節 あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。』

という表現が有ります。それならば、心から神に奉げ物をし、多く奉げる物が多く報われることが有ってもおかしくないのではないでしょうか。また、ルカ六章三十八節には、

『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』

という法則がキリストによって語られています。これは人間同士の慈悲深さ、ゆるしに焦点の有る箇所です。これは同時に脱穀の時の様子の描写でもあります。人は、自分に良くしてくれる相手には良くしてあげたいものです。我々が信じ崇める神も、ペルソナを持つ人格神です。神が報いてくださることを信じて惜しみなく奉げるならば、奉げた人には良い報いを与えたいとお感じになる部分を持っておられます。そういう期待をすることも、

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(ヘブル十一章六節)

の信仰に含まれると私は考えます。パウロの第二コリント九章六、七節での

『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 』

という説明がそれを支持していると思われます。ですから、祝福の原則自体は存在し、それまで否定してしまうことは聖書的な判断ではありません。


十分の一という目安を考える

神に得た物の十分の一を奉げるということは、モーセを通して律法が与えられる前から有った観念もしくは習慣でした。創世記十四章では、アブラムが神の祭司、メルキゼデクを通して十分の一を奉げています。(メルキゼデクが受肉前のキリストであると考えることもできます。)また、創世記二十八章では、ヤコブが神に十分の一の奉げ物の約束をしています。
 どうして十分の一なのかは明らかにされていません。生活感覚から、それぐらいが適切で実践的であると思ったのかもしれません。ヘブル文学においては十はこの世の力を象徴する数字です。そういった力も、神の恵みが無ければ与えられないと考え、自分の力であると考えないように、十に満たないように一つ引くという感覚で、十分の一を差し引いて、神に奉げ、神を認め、感謝するというような意図があったかもしれません。いずれにせよ、十分の一は神に返すという習慣が、歴史の記録の始まった頃から既に存在していたことになります。
 しかし、太古から中近東にそういう習慣が有ったというだけでは、キリスト教徒がその基準を同様に守らなければならないということにはなりません。特にキリスト教徒の規範の主な拠り所である新約聖書が、どのように範を示し、規定しているかが大事です。何度か示してきました通り、新約には十分の一の献金の規定を守るようにという指示は有りません。ですから、律法以前からの旧約聖書に見る実践例を参考とし、目安とすることは悪いことではありませんが、守るべき基準として教え、強制力を持たせることは間違った取り組みです。


キリスト教徒の健全な献金のアピールとは何か

初代教会における所謂献金はどのようなものであったでしょうか。最初に記録されているのは、エルサレム教会で、キリスト教徒達がお互いに助け合うためにお金を持ち寄ったものです。(使徒行伝四章)また、パウロが、小アジアの諸教会に、エルサレムを経済的に援助するために、金銭的な贈りものを奨励した記事があります。(ローマ十五章、第一コリント十六章、第二コリント九章など)パウロが自分への金銭的援助に感謝している記録も有ります。(ピリピ四章)第一コリント十六章では、急にお金を集めることにならないように、毎週日曜日に献金を集めるようにという指示が有ります。毎週日曜日に献金する習慣は、おそらくこの時から始まったと思われます。この時にパウロが与えた指示は、十分の一を集めることではなく、「心で決めたとおり」というものでした。(第二コリント九章七節)同時に惜しみなく、気前良く援助するようにという指示も加えられています。神が豊かに報いてくださるということを理由としています。
 実は、旧約における実践も、十分の一の規定を除けば、具体的な必要のための献金のアピールが有り、「心に決めたとおり」「惜しみなく」という取り組みであったように思われます。モーセが荒野で会見の幕屋を建てる時に、材料になるものを奉げるようにアピールすると、心を動かされた者達が自分から進んで、必要を上回る奉げ物をした記録が有ります。(出エジプト三十六章)またユダヤの王のヨアシュとヨシュア(もしくはヨシア)が神殿の修繕費用のための献金を集めた記録が有ります。
 
もう一つの新約における献金のアピールは、二重の尊敬に相応しい長老を経済的に支えることであったと考えられると思います。二重の尊敬、つまり経済的援助をするように指示をしたのであれば、当然財源が必要です。それは教会の信徒の献金によって支えられたに違いありません。しかし、それはやはり努力目標であって、聖書の教えに専念して商売できなかった分全てをカバーしなくてはならないということにはならなかったでしょう。
 現代において初代教会の長老と同じ働きをしている牧師達は、牧師が現代の祭司などというこじつけをして十分の一を押し付けたりせず、単純に必要をアピールすれば良いのです。また、初代教会の実践例から考えれば、牧師が副業を持つのは少しもおかしいことでも不名誉なことでもありません。副業を持つ牧師が、牧会に専念していない不誠実な牧会者のように考えられるようなことがあってはなりません。
 

補足二のまとめ

十分の一は、目安として考えることはできても、絶対的基準ではありません。罪の無い人を罪に定めるような、間違った十分の一献金の神学を押し付けてはなりません。また、十分の一を奉げることで「あふれるばかりの恵み」を保証するかのように語るべきではありません。
 しかし、多くまく者は多く刈り取るという祝福の原則を語ること自体は聖書的な教えです。但し、個人が心に決めた通りにすることがもう一つの原則です。祝福の原則も個人の信仰によって適用されるべきです。誰によっても押し付けられるべきではありません。
 また、教会の牧師や役員は、具体的な必要を示して献金のアピールをするのが聖書的な取り組みと言えます。現在一般的である、毎週献金を募ることは、パウロの指示も有り、現実的で聖書的な取り組みと言えます。






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収入の十分の一を献金しないと罪? 補足一

2008-09-22 15:33:31 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
前のエントリーで予告した、収入の十分の一を献金しないと罪?の補足第一弾ををアップします。

内容に入る前に、前回述べたことに関して、確認をさせていただきたいことがあります。

十八が述べたこと
十分の一の献金をしないことを「罪」とするのは、聖書的判断ではない。
十分の一の献金をしないことが「のろい」となるというのは、聖書的判断ではない。

十八が述べていないこと
十分の一献金を勧めてはいけないとは述べていない。
十分の一献金をすることは無意味であるとは述べていない。


補足

キリストが十分の一の献金を教えていると考えることはできない。

『だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野 菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。』(ルカ十一章四十二節)

上記のような聖書箇所をもって、キリストも十分の一を教えているとする説明をする人がいますが、はたしてそう考えることに整合性が有るでしょうか。新約聖書の全体的記述と、キリストが語りかけているのはパリサイ人や律法学者達であるという点から、私は、そういう判断はできないと考えます。
 一点目は、先のエントリーで述べました。キリストの教えたことをことごとく教えるべき立場にある使徒達は、十分の一献金を教えた様子は有りません。それだけでなく、その主だった使徒達の参加したエルサレム会議の、聖霊の名によって送られた決議文にも、十分の一は現れないばかりか、不品行と血と絞め殺したものを避ける以外に重荷を与えないという宣言がされているのです。それでもなお十分の一の献金は含まれるというのは、理に適っていません。すると、キリストは十分の一の献金を使徒や弟子達に教えたとは考えられません。
 二点目は、上記の聖書箇所でキリストが教えた対象は、パリサイ人や律法学者達であったということです。彼らは律法を守らなければならないとする急先鋒でした。だから、律法に基本的に想定されていなかったちょっとした作物まで十分の一を奉納していました。しかし、神への捧げものに使ったという理由が有れば、親への扶養の分の穀物もあげなくて良いとしていました。キリストはそれは公義と神への愛をおざなりにしていることだと責めましたが、そちらに一生懸命になったとしても、今度は十分の一の方がおざなりになってはいけないと言ったのです。
 それならば、十分の一の奉納や献金を、キリストは教えたことになるのではないかという考えも有るかもしれません。しかし、これは、神の心を考えず、親をないがしろにするような伝統を教えているパリサイ人に対する、皮肉のようなものであったと考える方が、新約聖書全体の記述からすると整合性が有ります。また、彼らが律法を教える立場なのですから、自分の教えていることには忠実でなければならないだろうという部分が有ります。当時、ユダヤ人達の間では、レビ系の祭司達が神殿で仕事をしていましたから、それを維持するためには、実際に十分の一の奉納が用いられていたことでしょう。彼らが神との契約の当事者であり、実際に祭司が神殿で仕えていたのですから、それは当然の指示とも言えるかもしれません。しかし、その指示は、旧約の当事者でないクリスチャンには関係無いことです。


旧約の祭司職と、牧師を混同してはならない。

旧約における祭司職が、キリストの贖いの業がなされた後の新約の時代に牧師職に継がれたということを示す聖書の言葉は有りません。また、新約聖書の記述からは、牧師の仕事や成り立ちは、祭司とは状況を異にしています。ですから、牧師を旧約の祭司になぞらえて、同様に十分の一の献金で支えられるべきであるとか、神がそのように導かれたと考えることには無理が有ります。
 では、その牧師の成り立ちはどんなものだったのでしょうか。牧師とは、信徒を牧する人です。

第一ペテロ五章
『一節 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
 二節 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
 三節 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
 四節 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。』

この聖書箇所に表されているように、神の羊の群れを牧する仕事は、長老の仕事でした。長老という役目は、テトス一章に述べられている長老の資格からすると、正しい聖書の解釈を教えて福音を守り、間違った教えが教会に入って来ないようにし、群れの中の人々を励ましたりすることにあります。(九~十一節)
 祭司の役割は、祭壇で供え物を捧げる、神と民の仲立ちをするという、宗教的な役割に特化されたもので、政治的力は無く、民を統率したり教えたりするものではありませんでした。律法学者というような存在は、後に民の必要から発展したものであって、純粋な祭司の仕事とは言えませんでした。
 このように、成り立ちや役割の違う祭司と牧師を同列に考えて、十分の一の奉納がクリスチャンにも適用されると考えることは、理に適っていません。
 また、旧約に出てくる十分の一の奉納は、祭司を養うためだけに有ったのではありません。それよりももっと広い範囲の、レビ人達までその奉納は用いられました。また、特殊な年の十分の一の奉納は、貧しい者達や寡婦、孤児などが自由に取れるようになっていました。ですから、牧師を養うために十分の一の献金が定められているという理解も、旧約の十分の一の奉納との関連性、連続性を見出すことができず、聖書的な理解とは言えません。

現在の牧師に相当する初代教会の長老たちが、十分の一の献金で養われていなかったことも、聖書の記述から明らかです。長老は、教会の信徒の一員であり、役割ではありましたが、職業ではありませんでした。パウロの長老の扱いに関する指示を読むと、その様子がよく分かります。

第一テモテ五章
『十七節 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわし
  いとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。
十八節 聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」ま
た、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからで
す。』

十七節を見ると、「二重に尊敬を受ける」という表現が有ります。二重というのはどういうことかという疑問がわくことでしょう。これは、尊敬の念と態度で接することと、お金や物質などによる生活の援助と理解できます。なぜならば、十八節には「報酬を受ける」ということが述べられているからです。では、どうしてそういう生活の援助が必要なのでしょうか。パウロは、「よく指導の任に当たっている長老」という条件を述べています。よく指導の任に当たるということは、自分の生活の時間を、自分の群れの信徒達の指導のためにたくさん割いているということです。当時は自由人は皆自分のビジネスを持っているのが普通でした。すると、よく指導の任に当たっているということは、生活を支える収入源であるビジネスに費やす時間が無くなってしまうということでした。だから、そんな長老には、お金や物質などによる生活の援助が必要だったのでした。しかし、この援助のために、収入の十分の一を捧げなさいという指示は、新約聖書中、どこにも見出されません。
 また、「二重に尊敬を受ける」ということが無い長老がいたこともわかります。二重の尊敬を受けるには、よく指導の任に当たっているという条件が有り、能力や環境的事情などで、そうできない長老も当然いたと考えられるからです。すると、全レビ人を養う目的の有った、旧約の十分の一の奉納と同列に考えることはできないでしょう。
 このことからも、旧約の十分の一の奉納を、新約時代のキリスト教徒の牧師にも適用すべき、神が定めた収入の道と考えるのは聖書的に無理が有ると言えます。十分の一の奉納、献金は、ユダヤ民族のシステムであって、キリスト教全般のシステムには成り得ないのです。






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収入の十分の一を献金しないと罪? (マラキ書三章八~九節)

2008-09-19 12:19:10 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。(マラキ書三章八~九節)

この聖書箇所を引用して、収入の十分の一を献金しないことは、神から盗んでいることであり、十戒の「盗んではならない」に違反していて、それは罪であるし、そのゆえに祝福ではなく呪いを受けているというような理解を示す文章を書いたり説教をしたりする人がいるようです。はたしてそれは聖書的で正しい理解なのでしょうか。

このことを確かめるためには、この箇所の文脈だけ確認しても答えは出ません。旧約聖書における十分の一の捧げ物の理解と、新約聖書とのつながりを確かめなければ、その全体像と、現在の私達の正しい適用を知ることはできないからです。
(以下の聖書の引用は、全て新改訳聖書題二版によります)

十分の一の捧げ物の規定は何か?

第一には、神への捧げ物として最初に規定されています。
レビ記 27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
レビ記 27:32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。

しかし、霊的存在である神が、それらを食用に用いるなどの必要は無いわけで、これには別の意図、計画が有ったのです。それが第二の定義になります。


第二に、レビ人(レビ族)の収入として規定されています。
民数記18:21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。
民数記 18:24 それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。

神への捧げ物として規定された十分の一の捧げ物は、約束の地に土地の割り当てを持たないレビ人(レビ族)の財産に充当するものとなりました。レビ族は、祭司の部族で、神に仕えることが専門の仕事であったので、農耕や放牧をするための土地が与えられませんでした。すると、自給するための農作物や食肉用の家畜を得ることができませんから、他の諸部族の援助を受けなければなりません。神への捧げ物である十分の一は、専ら神に仕えることを仕事とするレビ族を支える食物となったのです。

なお、そういう扱いを受けているレビ族も、自分の奉納の分のとして、更に受けた物の十分の一を捧げました。おそらく、それは、彼らが全焼の生け贄、穀物の捧げ物や注ぎの捧げ物をしなければならないときに使われたのではないかと思います。また、レビ族には、諸部族の中に居住地と放牧地がくじ引きによって割り当てられました。(民数記十八章二十六、二十八節、ヨシュア記二十一章参照)放牧地が与えられたのは、少しは自給できるようにということと、子供の贖いのために捧げる家畜などは他の諸部族から貰う規定はありませんでしたので、自分で準備できるようにということではないかと思います。

モーセを通して、イスラエル民族にこのような規定が与えられたのですが、神がイスラエルとホレブ山で契約をした時には、十戒などの最初の基本的な契約条項と、神の教えを守るという約束だけでしたので、十分の一の規定は入っていませんでした。しかし、神の約束を守るという契約ですから、後から追加された条件も当然守らなければなりませんでした。荒野を彷徨っている間は、本格的な農耕や牧畜はできませんから、実際にこれが問題になるのは、約束の地に入ってからでした。神はモーセを通して、彼らがカナンの地に入る直前に、もう一度契約の確認をします。それが申命記の記事で、その中には、十分の一の規定も入っていました。(十二章、十四章)

そうすると、十分の一を神に捧げるというのは、祭司の一族を支えるためであり、また、イスラエルは民族単位でそれを守ることを神との契約の中に持っていたということです。そういう契約をしたにも関わらず、それが守られないことが多かったので、ヒゼキヤ王の宗教改革やネヘミヤの宗教改革の時にはその回復に努めたことが記されています。(歴代誌下三十、三十一章、ネヘミヤ十、十三章)ところが、そのネヘミヤの改革の後、数年しか経たないうちに、イスラエル人達はまたもや神との契約を守らなくなってしまったのです。それで、再び神が預言者マラキを通してマラキ書三章八~十節でそのことを警告したわけです。そして、その聖書箇所が、現代のキリスト教会でも、収入の十分の一の献金をするように指導するために引用されたりしているわけです。


さて、ここで考えなければならないことがあります。現代のキリスト教徒である私達は、はたして、神とこのような事柄を守るという契約をしたのでしょうか。キリストが弟子達に宣教命令をした時に、約束が有れば、それを破った時の罰則も有り、約束を破ったイスラエルの民にはのろいが与えられたのと同様に、クリスチャンにものろいがあたえられるという宣告も可能なわけですが、どうなのでしょうか。
 キリストは宣教命令の中で、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と命じています。しかし、十分の一の奉納の事は、使徒行伝にも、パウロ書簡にも、その他の書簡にも出てきません。献金について一番多くの記述をしたのは、パウロですが、彼も十分の一の奉納のことには全く触れていません。すると、異邦人の割合がどんどん増えていったクリスチャンの世界においては、ユダヤ人の契約と伝統に基づいた十分の一の奉納は関係の無いものとして扱われたいたと考えることができます。
 実際にエルサレム会議でパウロたちと主だったエルサレムの使徒達が話し合った時も、結論の中には十分の一の奉納は入っていませんでした。会議の中で、パリサイ派出身のクリスチャン達は、割礼を含めて、モーセの律法を守らせるべきだと主張しました。(使徒行伝15:5)しかし、各教会に書面で知らされた決議の内容の、規定に関する部分は『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。』としか書いてありません。確認してください。『その上(それ以外に)、どんな重荷も負わせない』『これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。』と書いて有ります。そうであるならば、どうして、キリスト教徒が十分の一の奉納をしないことが「罪」であり「のろいを受ける」ものだと説くことができるのでしょうか。決してそんな結論を導くことはできません。
 繰り返しになりますが、十分の一の奉納は、神とユダヤ人の契約に基づいたものでした。契約の条項が拘束力を持つのは、契約の当事者達だけです。そういう契約をしたことが無いキリスト者は当事者ではありません。

ですから、マラキ三章八~九節を、十一献金をしないと罪であるという主張の裏づけとして引用するのは、全く意味が無いことです。

もしそのような指導が教会でなされているとしたら、聖書神学の手法や釈義、説教学をきちんと学んでいないか、学んでいても、それをこのことを検証する時には用いないで、そういう教えを鵜呑みにしてしまったかのいずれかであると思います。仮に、献金額を増やすための手段として用いているとしたら、そのことこそ罪であります。中には、借金をしてまで献金をすることになった方が居ると聞いたことがありますが、とんでもないことです。そのような偽りを教える教会からは、すぐに去られることをお勧めします。

次回、この項の補足をアップします。






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狭い門って、難行苦行?

2008-09-11 03:01:54 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
努力して狭い門から入りなさい。(ルカ十三章二十四節)
参照:マタイ七章十三節

奥義書講解の中でも扱いましたが、ここにもアップさせていただきたいと思います。

この個所を引用して、キリスト教徒もいろいろ難しいことをしなければならず、それ抜きには救われないような説明をしている文章を読んだことがあります。狭い門を、物理的に狭い門と考え、通り抜けるのが困難な門と考えた結果であると思います。しかし、一、ニ世紀の読者達は、そういう意味を読み取ることは無かったのではないかと思われます。

注解などで文化背景を読むと、狭い門という言葉で想起されるものは、私用の門でということで、公用の門、町や通りを区切る門と区別されるために用いられた言葉であることが判ります。

私用の門ということは、個人宅の門ということですから、その個人を尋ね求め、訪問して門を叩き、主人に開けて貰わなければならないということです。そういう段取りは面倒なことですが、本当にその人に会わなければならない理由が有れば、そういう努力はしなければならないのではないでしょうか。この例話では、その主人が、キリストであるということです。救いを求めるならば、アブラハムの子孫で、ユダヤ人であるという公の事実だけではだめなのだ、キリストを個人的に受け入れなければならないのだということを示しているのです。

マタイにおいては、この例話は、『だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』の例話に続けて語られています。このことも、狭い門が、私的な門であり、キリストとの個人的な関係につながることを示すことを、文脈的に支持していると判断できます。このことは、ルカ十一章五~十三節のつながりからも支持されていると判断できます。(夜中に友人の門を一生懸命叩く例話と、求めなさい、捜しなさい、叩きなさいの例話がつながっています。)

従って、狭い門を、単純に物理的に狭くて通り難い門という理解で捉えようとすると、キリストの意図、記録した記者達の意図とは離れたものになっており、その理解に基づいた引用も、用心して扱わなければならないこと多いようです。






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個人的なアイディアのことではなく! (ピリピ書 二章十三節)

2008-08-15 16:03:24 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:神は、みこころのままに。あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(新改訳第二版より)

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)

「というのは、神が、あなたがたの中で、[神の]善意(みこころ)のために、意志すること(欲すること)と働くことの両方において、原動力になっておられる方だからです。」(糸田十八の理解による原語からの翻訳)



クリスチャンが、教会の奉仕や伝道において、もしくは、普段の生活の中において、心に浮かんだアイディアや計画を、実行に移して良いものかどうか迷っている時に、この聖書箇所を引用して、神のみこころであるから、安心してアイディアや計画を実行に移すように励ます人がいます。しかし、この聖書箇所を、そのように理解し、そのような奨励のために引用することは適切でしょうか。

この部分は、前の十二節で述べられたことの理由を説明している副詞的な働きをする節と考えることができます。その十二節で述べられた内容の中心は、「自分の救いを達成してください。」ということに有ります。すると、志や願いも、事を行い、実現することも、「救いの達成」に関わっているということが読み取れます。個人的なアイディアや計画と関連付けるのは難しいところです。

また、直前の五節から十一節までは、原文では詩の形式になっていると理解されていますが、その内容は、キリストが、人類のために、救いの御業を達成するために、神の計画に従順した姿を詩っているものです。十二節は、それを受けて、「そういうわけですから」という言葉で接続されています。キリストの従順を心に留めて、あなたがたも従順し続けて救いを達成しなさいという流れになっているのです。

このような流れを理解すると、やはり、個人的な思いつきや、それを実行に移すことを奨励するためにこの箇所を引用することは、適切ではないと言わざるをえません。




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自己犠牲からの解放の話ではない!(マタイ伝九章十三節) 其ノ二

2008-07-31 17:21:06 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』(旧約の引用部分)

この箇所の、背景からの理解を先に示しましたが、今回はその箇所自体の文脈から確認してみます。

ここでは、キリストが、取税人の家に食事をしに入ったということが、パイサイ人達に責められています。取税人は不正な取立てをする悪党で、罪人だというのが一般の認識だったのでした。

その時のイエスの答えが、有名なこのことばです。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」

今回取り上げている引用の部分はその続きに出てきます。

元になっているホセア六章六節には、後半部分が有りますので、一緒に表示してみます。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。』

新改訳のホセア書では、「あわれみ」は「誠実」になっていますが、手元の英語の聖書では、どちらも mercy (あわれみ、慈悲)と訳されています。

キリストは、取税人達を罪人として忌み嫌うばかりのパリサイ人達に向かって、「お前達は神がどんな方か知らないな。神は憐れみ深い方なのだ。祭儀律法やしきたりに血道を上げるのではなく、取税人に憐れみの心を持つことの方が、もっと神の心に適っているのだ。」ということを訴えているのです。

そうすると、「神様に倣って、憐れみの心を持ちなさい。」という諫言としては読めても、やはり、前出の人のように、「神の憐れみの前に、ペースを落としてゆったり休みなさい。」という意味を汲み取るのは無理が有るでしょう。





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自己犠牲からの解放の話ではない!(マタイ伝九章十三節) 其の一

2008-07-31 08:24:43 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』(旧約の引用部分)

複数の方から、この個所を引用して、ご自分の状況やこの個所を読んだ感想を聞かせていただく経験をしましたが、その理解がとても主観的であったりすることがありました。

その方々は、いけにえ(犠牲と書いたりします)と自分を同化させて考えたようです。自分が身を粉にして教会のため、伝道のために奉仕して、疲れてしまったということで、自分の犠牲的奉仕の精神が、実は間違っていたのではないかと気付いたというのです。それは神がお喜びにならないことだったのだと。そして、むしろ、神様の憐れみの中で、ゆったり過ごすことが今の自分に対する神様の御心なのだと受け止めていました。

この個所が、はたしてそのような理解と結びつく内容を持っているのでしょうか。

この引用の原型はホセア書六章六節に有ります。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(新改訳第二版)

その理解を助ける聖書的背景は、Ⅰサムエル記十五章二十二節にあります。

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(同上)

 これは、イスラエルの初代王、サウルが、神の命令を聞かないで、神にいけにえ、犠牲を奉げるためだという言い訳で、状態の良い家畜を殺さなかったことに対して、神が預言者サムエルを通して与えた叱責の言葉です。

箴言二十一章三節は、この法則を次のように言い換えています。

「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(同上)

ついでもう一つ、ミカ六章八節です。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(同上)

原型の故事である、サウルへの叱責から発展して、心は創造主なる神から離れているのに、形式的にいけにえを奉げて、神を敬い、礼拝しているふりをし、その裏では偶像礼拝や様々な罪や誤魔化しをしていたイスラエル人達への叱責になっていったものだということがわかります。


すると、私のところに来た人たちのような、自分は頑張り過ぎたから、すこしゆっくりしていいのだという神様からの語りかけという解釈は、文脈も背景も無視した、極めて主観的な思い込みであるということがわかります。

みなさんも、是非、慎重に聖書の意味を汲み取る習慣をつけて下さい。





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