聖書の学びとリバイバルの記事で、弐戒庵さんがコメントしてくださった様に、聖書は読めば解る、勉強するべきではないという誤解が有ります。そういう誤解を持っている人たちと対話すると、およそ二、三の聖書を裏付けとして引用することが有ります。以下に引用いたします。(すべて新改訳です。)
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 (使徒行伝四章十三節)
次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。(第一コリント八章一節)
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三章六節)
はたしてこれらの聖書個所が、聖書は勉強するべきではなく、一通り読んで解ることで十分だとする根拠に成り得るのでしょうか。
使徒行伝のイエスの弟子達が、「無学な普通の人」と書かれたのは、彼らがユダヤ教の指導者の公認する学校で勉強した経験が無かったことを示す慣用的表現によります。実際にはイエスに多くの聖書の言葉の解き明かしを受け、勉強をしてきました。ですから、この聖書個所を根拠にして、聖書は読めばよいのだという結論を導くことはできません。
次に、第一コリントの部分です。これは、後半だけを抜き出して引用することが多いのです。ですから、パウロがどんなことを教えている時に用いた表現であるかに注意がはらわれていません。また、「知識」が、必ずしも聖書を学ぶことを全体的に指し示す内容ではないことが無視されています。
ここでは、偶像に奉げた肉は、実際には神でもなんでもない像に奉げたものであって、霊的な意味は無いから、キリスト教徒が食用に用いることは問題無いという知識のことを指しています。そして、コリント教会では、この知識を持っている者が、そういう知識を持っていない者達に対して、「そんなことも知らないのか。」とか「信仰が弱いな。」という気持ちで見下していたという事実に基づいて書かれているのです。ですから、全般的な聖書を学ぶという知識と、それによって高慢になるということとは直接の関係は有りません。従って、この聖書個所を根拠に、聖書の勉強をするべきではないという結論を導くことはできません。
第二コリントの個所は、「文字」という言葉で「モーセの律法」を指しています。「殺す」と表現しているのは、モーセの律法が人間の行いにおける罪を指し示し、責めて、それが霊的な死につながることを指しています。対比されている「御霊」は、イエス・キリストによる新しい契約と、それを通してキリスト教徒に与えられる聖霊を指しています。
ここでは、旧約やモーセの律法が、実際には罪の責めや呵責をもたらすだけで、救いを完成しないものであり、それらにこだわっているユダヤ人たちはまだそのような罪と死の中に居るが、キリストによる救いを受け入れた者は、新しい救いの命に入っているという対比のため用いられた表現です。従って、これで聖書を勉強するべきではないという結論を導くことはできません。
何度が示してきましたが、パウロがテモテやテトスに送った牧会書簡を読めば、聖徒を教えるために、長老が任命されたことがわかります。長老の資格は、よく教える能力があることでした。長老が教えるべき内容は、聖書からイエスはキリストであるということです。読むだけでわかるなら、そんな長老の任命は不要だったはずです。このことからも、聖書は調べ、勉強するべきものであることがわかります。
使徒行伝十七章十一節に出てくるべレヤのユダヤ人たちは、一生懸命聖書を調べたことが、好意的に記録されています。ピリポがエチオピアの宦官を教えた記事、アクラとプリスキラがより正確なキリストの道をアポロに教えた記事等を考え合わせれば、聖書の勉強がいかに大事であるかは明らかであると思います。
また、二千年以上の時間を隔て、違う言語で書かれた聖書ですから、背景の研究、語彙の研究、文脈の確認などの勉強が必要なのは、当然のように理解されるべきではないでしょうか。
にほんブログ村
にほんブログ村
↑
よろしかったらクリックにご協力ください。
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 (使徒行伝四章十三節)
次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。(第一コリント八章一節)
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三章六節)
はたしてこれらの聖書個所が、聖書は勉強するべきではなく、一通り読んで解ることで十分だとする根拠に成り得るのでしょうか。
使徒行伝のイエスの弟子達が、「無学な普通の人」と書かれたのは、彼らがユダヤ教の指導者の公認する学校で勉強した経験が無かったことを示す慣用的表現によります。実際にはイエスに多くの聖書の言葉の解き明かしを受け、勉強をしてきました。ですから、この聖書個所を根拠にして、聖書は読めばよいのだという結論を導くことはできません。
次に、第一コリントの部分です。これは、後半だけを抜き出して引用することが多いのです。ですから、パウロがどんなことを教えている時に用いた表現であるかに注意がはらわれていません。また、「知識」が、必ずしも聖書を学ぶことを全体的に指し示す内容ではないことが無視されています。
ここでは、偶像に奉げた肉は、実際には神でもなんでもない像に奉げたものであって、霊的な意味は無いから、キリスト教徒が食用に用いることは問題無いという知識のことを指しています。そして、コリント教会では、この知識を持っている者が、そういう知識を持っていない者達に対して、「そんなことも知らないのか。」とか「信仰が弱いな。」という気持ちで見下していたという事実に基づいて書かれているのです。ですから、全般的な聖書を学ぶという知識と、それによって高慢になるということとは直接の関係は有りません。従って、この聖書個所を根拠に、聖書の勉強をするべきではないという結論を導くことはできません。
第二コリントの個所は、「文字」という言葉で「モーセの律法」を指しています。「殺す」と表現しているのは、モーセの律法が人間の行いにおける罪を指し示し、責めて、それが霊的な死につながることを指しています。対比されている「御霊」は、イエス・キリストによる新しい契約と、それを通してキリスト教徒に与えられる聖霊を指しています。
ここでは、旧約やモーセの律法が、実際には罪の責めや呵責をもたらすだけで、救いを完成しないものであり、それらにこだわっているユダヤ人たちはまだそのような罪と死の中に居るが、キリストによる救いを受け入れた者は、新しい救いの命に入っているという対比のため用いられた表現です。従って、これで聖書を勉強するべきではないという結論を導くことはできません。
何度が示してきましたが、パウロがテモテやテトスに送った牧会書簡を読めば、聖徒を教えるために、長老が任命されたことがわかります。長老の資格は、よく教える能力があることでした。長老が教えるべき内容は、聖書からイエスはキリストであるということです。読むだけでわかるなら、そんな長老の任命は不要だったはずです。このことからも、聖書は調べ、勉強するべきものであることがわかります。
使徒行伝十七章十一節に出てくるべレヤのユダヤ人たちは、一生懸命聖書を調べたことが、好意的に記録されています。ピリポがエチオピアの宦官を教えた記事、アクラとプリスキラがより正確なキリストの道をアポロに教えた記事等を考え合わせれば、聖書の勉強がいかに大事であるかは明らかであると思います。
また、二千年以上の時間を隔て、違う言語で書かれた聖書ですから、背景の研究、語彙の研究、文脈の確認などの勉強が必要なのは、当然のように理解されるべきではないでしょうか。


↑
よろしかったらクリックにご協力ください。