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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

万人祭司なら牧師は不要? 其の六

2013-04-07 22:23:20 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
これまでにこのテーマで何度か書いてきました。

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a1fbf894905ee9f77c2f328855bd37b

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/4a98712f6748d0df01ea73275b17631a
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/32868c9553d080fe7091903bf97489ec
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/c815b03dee4df5fb8d8cbaa201af9bd3
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a8df6a0af10467ca6f01e98bb74bd8b

 この内容でまだ確認してこなかったことに気づきましたので、其の六を立てたいと思います。

 先ず、次の奥義書の記述を見てください。

 主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである。(出エジプト記 十九章二十二節 口語訳)

 主がモーセに与えた指示の言葉の一部ですが、そこには「祭司たち」という言葉が出て来ます。この十九章の六節には万人祭司を表す最初の言葉が六節に記されています。このこととの関連からこの二十二節を考えることには意味が有ると考えられます。

 さて、ここで主がモーセに語られた「祭司たち」とは誰のことだったのでしょうか。複数形で記されているのですが、それまでの記述には、まだ祭司の任命の規定は出てきていません。これからモーセが山の上で十戒を始めとする神の掟をいただくという段階です。しかし、すでに「祭司たち」と認識される人々がイスラエルの民の間には存在していたということになります。

 注解によると、アブラハムがしたように、昔から神に犠牲の捧げ物をすることは続いてきました。多くの場合、それは家長の役割でありました。族長時代の背景で書かれているとされるヨブ記においても、ヨブが家族のとりなしのために、罪の贖いの犠牲を捧げており、彼が祭司の働きをしていたことがわかります。この前提は、出エジプト記のはじめの方の、エジプトの王、パロとモーセの会話とも合致します。荒野に神への捧げ物をしに出かけなければならないという時には、当然祭司が必要でしたし、それが誰であるかもパロにもわかっていた様子が伺えるのです。つまり、族長なり家長なりが祭司として捧げ物をするという前提が共有されていたということです。

 そうすると、ここで言う祭司の仕事は家族の罪の贖い、神の恵みの仲介であったと言えます。それは家長がすることでありましたが、イスラエル人全体が祭司の国民になるというのは、全人類中の長男のような立場としてイスラエル人を神が選ばれ、他民族の贖いのためにとりなしをし、神の恵みの仲介を担わされたということにるはずです。

 こういった背景を持つ万人祭司の考え方を我々の忍者としての生活に適応するとどういうことになるでしょうか。私たちの知っている人達、私たちの勤め先、私たちの所属するコミュニティーや社会、国家のために神の前に罪の執り成しの祈りを捧げる生活をし、神の恵みと慈悲を伝えていくことにならないでしょうか。

 このような背景からも、万人祭司の教義は、牧師がいなくても良いという実践には関係が無いと言えます。祭司の基本的な役割が、何かを決定したり教えたりする部分には無いのです。





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ダニエル、ネヘミヤの実践を根拠に挙げていい?

2012-11-05 23:08:25 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
ダニエル書9章2節~、ネヘミヤ書9章2節などを根拠に、日本という国が戦時中に近隣諸国に対して犯した罪について悔い改めるということを勧めることが有ります。しかし、このことについては確認しておいた方が良いことが有ると思います。考慮するべき部分が有るということであって、全て的外れな解釈として退けるつもりは有りませんが、一応このカテゴリで書かせていただきます。

ダニエルやネヘミヤが先祖の罪を悔い改めるという態度において、理解しておかなければならないことが有ります。ユダヤ人は民族全体として神様と契約を結んだのだということです。ですから、その神を捨てて偶像の神に仕えることを選んだ時、民族全体が神に対して罪を犯したと考えることができます。それゆえに、ユダヤ人であるダニエルやネヘミヤが執り成し手として、当事者として先祖の罪の許しを請う祈りを捧げることができるのです。

一方、日本が戦時中に近隣諸国に対して犯した罪という点においては、そういう神様との契約は存在しません。また、その罪の内容が異なります。ダニエルやネヘミヤは神から離れた罪を悔い改めているのであって、他国を侵略したというようなことを悔い改めているわけではありません。ですから、取り成し手として祈るということは確かにできるのですが、ダニエルやネヘミヤの実践をそのまま根拠にするには少し論理的飛躍が有ると思われます。
 また、ダニエルやネヘミヤの実践は、第二神殿の再建を持って完結したと言えると思います。しかし、日本の過去の罪に対して悔い改めるということは、そういう完結を見ることは無いでしょう。背景や内容があまりにも異なっているのです。

個人の時代において、昔広く共有された民族の共同体意識を喚起するような論調も見られます。それはまたそれで意味が有るとは思います。しかし、いずれにしても、旧約の聖徒の神との契約、神を捨てたことを悔い改める、というつながりを無視して、かつてのユダヤ人と戦時中の日本人というの二つの異なる状況を、単にダニエルやネヘミヤの実践を根拠として同じようなことを勧めるのは軽率であると思います。

日本人の忍者として、そのような部分について悔い改め、もしくは執り成しの祈りをすることは悪くはありませんが、ダニエルやネヘミヤの実践を根拠にするのは聖書の用い方として間違っている部分が有ると私は思います。




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『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』

2012-09-29 22:56:37 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 「自己犠牲からの解放の話ではない。」というタイトルで、この旧約聖書の表現については、以前も扱ったことが有りますが、もう一度取り上げてみようと思います。その時と同じカテゴリーでのアップとさせていただきます。

その時の記事はこちらです。
     ↓
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/185abb05aefae9761718e533b44ac420


 マタイ伝ではこの表現が二回引用されていますが、それが同じ理解や意味合いになっているだろうかということを確認してみたいと思います。

 先ず、この引用はどこから来ているのかを再確認します。

 キリストの時代に近い所からから確認すると、ホセア書6:6にこの表現が見出されます。

『わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。』

 ここでは、背信のイスラエルとユダに対する裁きや警告の言葉です。文字通りに理解すれば、祭司達でさえ人の暴虐を働き、人々は偶像礼拝にふけっていたのですが、偽りの悔い改めの告白をして、神殿で犠牲を奉げたりしていました。神様は、そんな犠牲より、暴虐から離れることの方を喜び、神様の教えに忠実に生きることを喜ぶと言っています。

 更に時代を遡れば、1サムエル15:22にこの表現が出てきます。こちらがホセア書の表現の背景になっていると考えることができます。
『サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。 」

 サウル王が神様の命令に聞き従わず、アマレクの家畜を滅ぼさなかったばかりか、それを神様に奉げる犠牲のために取り分けたと言い訳をした時に、サムエルを通して下された神様の宣告です。サウルは王位から退けられることも語られました。


 それではマタイ伝での引用を確認します。

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 収税人であったマタイがキリストの弟子となって、仲間を集めてキリストと食事をしていたところに、パリサイ人たちが来て、どうして罪人たちと食事をするのかと尋ねた時に用いられています。
 また、弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べていたことをパイサイ人達が責めた時にもイエスはこの言葉で彼らへの回答を締め括っています。
(マタイ 9:13、12:7)

 この二つの例から考えると

いけにえ:心も神の愛の理解も伴わない律法の実践により、人を罪に定めて苦しめること
あわれみ:神の心・神の愛を理解して実行に移し、間違った束縛から解放すること

                            と考えてよいと思います。

 それぞれの場合にそれが当てはまることを確認してみましょう。

1・収税人との食事の時
  いけにえ:罪人と食事を共にしてはいけないという伝統的な実践
罪人と断罪するというのは、滅びるべき存在に決まっていると決め付けている部分が有りました。しかし、そんな判断を一方的にされる筋合いは無いのではないでしょうか。全ての収税人が不正を働いていたとは考えられません。しかし、異邦人に仕えることを選んだ収税人であるということだけで、十分滅びるべき存在だと思われていたようです。
  
  あわれみ:この場合は、ユダヤ人社会から見捨てられるような収税人を、同胞、同じ神に選ばれたユダヤ人として、また仲間として、神の祝福の中に受け入れること

2・安息日に麦の穂を摘んで食べた時
  いけにえ:実際にモーセの律法には規定されていないことなのに、長老の律法や伝統によって、弟子たちの行為を罪であると断じたこと

  あわれみ:旅をする者や貧しい者が空腹を満たすという当然の行為を受け入れること
鎌を使ってはならないのですが、そういう人達が他人の畑の穂を摘んで食べることは、律法においても許されている行為でした。





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誰に?

2012-06-01 22:17:45 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。(ヨハネ伝十六章八節)

 聖霊の働きとして、この部分を引用される方が多いのですが、これをクリスチャンの生活に関する記述の中に用いられる方がかなりいらっしゃいます。ところが、この箇所は明確に「世の人の目を開く」と述べているのです。それは、クリスチャンに対する働きとしては述べられていません。
 「世」という語についての解説を見ると、ユダヤ人や異邦人を含む、この世の人、罪人などの記述を見出すことができます。ギリシャ語の辞典でも、一般的な「世」の定義の後に、キリスト教的な語義の最初のものとして「神に従わない群衆」とい内容の説明をしています。

 実は、私も奥義書講義所で忍士として学んでいた時に、そのような用い方をしてしまい、恩師に指摘されてしまった経験が有ります。





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いっそのこと無関心なのがいい?(ラオデキヤの教会)

2012-04-30 00:04:31 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 ヨハネの黙示録三章十四節に出て来るラオデキヤの教会の描写の中に、「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」というものが有ります。いろいろな引用を見ましたが、少し背景の理解から離れた説明などがなされている場合が有るように感じました。
 熱いとか冷たいという表現の対比をもって、神への情熱が有るか無いかというような感覚で捉え、従って、冷たいというのは神への情熱が無く無関心で良くない状態であるが、神はそういう面においては白黒はっきりしていることを望んでおられるのだというような解釈をしているようなものに出会ったことが有ります。はたしてそういう理解が可能な箇所なのでしょうか。

 ラオデキヤの歴史的背景を確認すると、少し違った事情が見えてくるように思います。ラオデキヤは上水道を整備して、必要な時には熱い水も冷たい水も直ぐに汲めるようにしました。ところが、いかんせん、温泉源からも冷泉源からも遠い位置にラオデキヤは有ったのだそうです。ですから、温水の取水口からも冷水の取水口からも生ぬるい水しか汲めなかったのだそうです。当時の理解では、生ぬるい水を飲むと健康を害するという理解が有ったそうです。ですから、その結果にかなり失望したでありましょう。また、そういう描写や例が身近に現実的に受け止められたであろうと思われます。
 こういった背景から考えると、冷たい方も大事なことであることがわかります。熱射病で脱水が起きていたら、水を取らなくてはいけないとはいえ、温水や熱い水を与えることは決っして有り得ません。必ずや冷たい水を与えることでしょう。冷たい水でなければいけない状況が有るわけです。
 現代の我々が、使徒ヨハネがどんな解釈をこの神の言葉に対して持っていたかは、完全には理解できないかもしれません。しかし、先に述べた背景から考えるならば、二つのポイントが考えられると思います。

 ポイントの一つ目は、役に立つ温度の水を得るためには水源が近くなければならなかったのと同様に、私達は霊的生活の源である神とのつながりが近いものでなければならないということではないでしょうか。毎日の御言葉への傾聴や祈りなどが必要であるという部分を考えることが可能であると思います。
 ポイントの二つ目は、熱い水、冷たい水それぞれに役割が有るように、我々もしっかりその役割を果たせることが大事であるということだと思います。神の国の法則、キリストの教えを少しでも実践し、与えられている賜物や使命などをしっかり用い、遂行することであると思います。
 この箇所の後半を読むと、福音書に記録されているキリストの教え、世の光、地の塩の働き、誰にでも明らかとなるべきキリストとのつながりがあまり見えない信仰の態度であったと考えることができるような記述になっていると思います。
 更に同じラオデキヤの教会に対して、キリストは「戸の外に立って、たたいている。」と述べています。やはり、より親しい神との交わりがポイントの一つ目と共通のテーマになっていると思います。
 因みに、この箇所を求道者に対する信仰の招きに用いる伝道者がいますが、これもあれれな引用ではないかと思います。この言葉は、クリスチャンに対する呼びかけだからです。




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収入の十分の一を献金しないと罪? 補足三

2011-08-29 14:07:36 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
マラキ書の、十一献金の説明に使われる箇所からの解説

以前、マラキ書三章八節~十節を含む聖書箇所が、現代のクリスチャンに十一献金の義務が有ることを説明するのに用いることはできないということを述べました。現代のクリスチャンは古い契約(旧約)の当事者ではないからであり、また、現代のクリスチャンの規範である新約聖書には違う基準が述べられているからです。今回は、そういう理解に基づいたこの箇所の解説はどのようなものになるのかを確認してみます。(先の記事で述べたことは繰り返しませんので、過去の記事もご参照ください。)


マラキ書と背景
クロス王のエルサレム帰還令の後数十年から百年ぐらい経った頃と思われます。帰還はしてみたものの、ペルシャの支配下に有ることに変わりは無く、農産物の収穫も思わしくなかったために生活は苦しかった様子がマラキ書の記述からもうかがえます。
 そのような状況で、人々の中には神と神の愛への信頼が失われ、民ばかりでなく祭司達の間にさえモーセの律法を守らない者達が出てきてしまいました。マラキ書に出て来る問題を見ると、エズラ記とネヘミア記で指摘されている問題と共通しており、ほぼ同年代の預言者であるとする考え方も有ります。
 マラキ書では、そのような神を疑い不誠実な態度を取ることの誤りを正す警告の言葉が述べられています。


神に立ち返れ(マラキ書三章七節~十二節)
 解説をするにあたっては、どこからどこまでを一区切りとみなすかを決めなければなりません。今回の目的に合う区切りは、三章七節から十二節と判断して進めてみます。

七節
神はユダヤ人が昔から律法から離れていたことを責めています。それは、列王記、歴代誌を読むだけでもはっきりわかることです。しかし、それを理由にユダヤ人と断絶することはなさらず、「帰れ」と呼びかけておられるのです。それは、六節にある「主なるわたしは変わることがない。」という宣言とつながります。アブラハム、イサク、ヤコブと交わし、また、シナイ山でモーセを通して民全体と交わした契約を、神は決して破ることはなさらないのです。
 「帰れ」と訳された語は、基本的には「方向を変える」という意味を持っていますが、「再び」という感覚を伴っており、関係に戻る、回復するということを含意します。神は変わらない存在であるにも関わらず、「わたしはあなたがたのところに帰ろう。」と言っておられるのは、そういう意味においてであると理解できます。
 ところが、そういう神の呼びかけに、これまでマラキ書の中でユダヤ人達が口答えして来た「どうして~しようか」という言い方で、「われわれはどうして帰ろうか。」と言い返しています。厚顔無恥にも、どうしてそんな必要が有るだろうか、我々はそれなりに掟を守って今でも神の民ではないかという態度を見せているのです。

八節
ここで神は、ユダヤ人達がどのようにして掟から離れているかを指摘します。ユダヤ人達は、神のものを盗んでいるというのです。「盗む」と訳されている語は奪うという意味が主な意味で、単に盗むという語より強い意味合いを持っているようです。
 ここでもユダヤ人達は「どうして盗んでいるか」と言うという指摘がされていますが、彼らがその内容を意識していたと考えることができるのかもしれません。
 彼らは、十分の一と、ささげ物をしないことによって、神から奪っている指摘がここではなされます。
十分の一というのは、毎年農作物や家畜の十分の一をささげることです。これは、レビ人や祭司達を養うために神が定めたものでした。しかし、これがささげられなければ、レビ人や祭司達は基本的には他に収入も耕作地も有りませんから生活ができません。すると、神殿での仕事をしないで生活のために奔走しなければならなくなってしまいます。また、彼らも自分達が受けた分の十分の一をささげなければなりませんでしたが、それを無視することになりました。
 ささげ物というのは、常供のささげ物などのその他に規定されたささげ物や、人口調査をする時には収めるようにと規定された銀半シェケル、寡婦、孤児、貧しい者、外国人などを助けるために三年に一度余計に集められる十分の一などが入っていると考えられます。すると、神殿の管理や弱い者への福祉政策も置き去りにされたことになります。

九節
そんな状況であれば、「あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。」と神に指摘されるのも無理もありません。それゆえに、ユダヤ人達はのろいを受けているというのです。その内容は、続く節でわかることになります。

十節
宝物倉とは、神殿の中に有るささげ物の穀物などを保存する部屋です。この時代にはささげ物がきちんとされていませんでしたから、宝物倉は空であったり、他の用途に用いられていたのでしょう。ネヘミヤ記には、祭司がアモン人の実力者であるトビヤにその部屋を使わせていたことが書かれています。
 ささげ物がささげられず、宝物倉が空だったり他のことに用いられていた結果は、農作物等の不作であったことが、続く表現で理解できます。神が天の窓を開いてあふれる恵みを注ぐかどうか見なさいということですが、逆に言えば、その時点では、天の窓は開かれていなかったということになります。これは、農作物のために重要な季節に従った天候や雨などを指しており、それが与えられていなかったということです。

十一節
ここでは更に不作の理由が付け加えられます。「食い滅ぼす者」が土地の産物や葡萄を食い荒らしてしまうということです。おそらくイナゴなどの害虫が来たということだと思われます。
 しかし、もし神に帰るならば、被造物の上に権威を持っておられる神が、そのような害からユダヤ人を守ると言っておられるのです。

十二節
神に帰って恵みを受ける生活に入るならば、「万国の人」がユダヤ人達を祝福された者と認識し、ユダヤ人の地は「楽しい地」となると言われています。「万国の人」と訳された語は、第一義的には異邦人・ユダヤ人以外の人達を指し語です。また、「楽しい」と訳された語は、心地好い、価値の有る、受け入れられる、という意味合いが含まれます。


当時のユダヤ人達へのメッセージ
 マラキ書を読むと、ユダヤ人達はいろいろな面から神と律法に立ち返ることが求められていました。そして、この箇所で取り上げられたのが、十分の一のささげ物と、その他のささげ物をきちんとささげるということでした。そのことにはどのような意味が有るのでしょうか。
 第一に、十分の一をささげるということは、神を神と認めて敬うということです。十分の一をささげることは、律法の与えられる前から礼拝の形式として存在していました。
 次に、神に信頼し、神の約束に信頼するということです。律法を守ることによって地の産物が祝福され、生活が守られることは申命記十一章に宣言されています。(同時に、神を離れた時ののろいもそこに宣言されています。)そういう約束を信じ続ける信頼と信仰が求められています。
 最後に、神の共同体への心配り、愛と憐れみの心を持つということです。嗣業の地を割り当てられなかったレビ人や祭司達が、落ち着いて民の祝福のために祈り祭儀を執り行うことができるように支え、それが民全体を支え、また、弱い者たちの生活を支えて、互いに心配りと隣人愛の中に生き、神の民として神の性質を反映して生き、神に栄光を帰することが求められています。
 彼らは神の約束に拠らず、自分達の経済的なやり繰りを優先させました。そのことが神との約束を破り、神への信頼を捨て、また更なる不作や生活苦につながって行きました。ですから、この箇所においては、神は上記の三つのことをユダヤ人達に求められたと考えるます。


現代のクリスチャンが学ぶべきこと
 現代のクリスチャンである私達が、古い契約の当事者でないことはこれまでに述べてきました。Bible Knowledge Commentary などの注解書でも、十分の一やその他のささげ物の規定が現代の我々に当てはまらないことが述べられています。
 余談でありますが、十分の一の規定が現代も有効であると主張する人達が、その他の常供のささげ物などを守るようにと言わないのは矛盾しています。マラキ書三章を根拠に十分の一のささげ物を守るように主張するならば、当然その部分まで含めて考えるべきです。
 しかし、旧約聖書に現れる神の性質と基本的原則は生きています。現代のクリスチャンは、それが何であるかを再確認して、神の御心を反映させた生活をして神に栄光を帰し、その生活をもって神を礼拝しなければなりません。
 我々が学ぶべきことは何でしょうか。私達も知らずのうちに、神の御心から離れた生活をしているかもしれません。「神に帰れ」という声を聞かなければならない心の状態になっていることがあるかもしれません。その時には、次の三点を確認してみてはどうでしょうか。


1)神を神として認め、敬うこと。
 特定の命令に限らず、キリストの弟子達を通して伝えられたことを守ることがこの原則につながります。
2)神への信頼を持ち続けること。
 新約の民である我々クリスチャンに対して、キリストは山上の垂訓を通して神への信頼を教えられました。神の国と神の国を先ず求めることによって、すべての必要は満たされることを宣言しておられます。また、自らは何もできず、ただ保護者に信頼することのできない幼子のような信仰を持たなければ神の国には入れないと教えられました。そういう完全な信頼を日々目指して信仰の実践を重ねていきましょう。
3)キリストを頭とする主の体なる教会、愛の共同体を支えること。
 この原則は、使徒行伝の使徒達の実践やパウロの募金などに見出されます。クリスチャン達はお金などを持ち寄り、寡婦への配給事業を行ったり、困難に直面している教会を支援したりしました。
 また、旧約の十分の一の規定が礼拝、神殿、使えるレビ人や祭司のシステムを支えたように、今日我々に与えられている目に見える教会の維持や支援のために金銭的なささげ物をすることも含まれています。
 そして、この精神は、献金でしか反映できないのではなく、奉仕や祈りによって、また愛の行動や言葉によっても実践されていきます。いろいろな宣教団体が、闇雲に伝道するのではなく、困っている人達の必要に応えて行くことによって魂に触れ、人々の心がキリストに向くようになっていく取り組みをしていたりしますが、それも、この中に含まれると思います。

私たちがこのような原則に心開いて日々取り組む結果は何でしょうか。

『こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。』ということが私達の教会においても実現することではないでしょうか。

万国の人とは、ユダヤ人ではない人達という意味だと確認しました。私達の状況に合わせれば、クリスチャンではない人達と考えることができるでしょう。私達の神への畏敬、信頼、従順と神の共同体を愛し育むことが、神が生きておられることを示し、神に栄光を帰することにつながる、そのような私達の実践でありますように。





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こっそり為された悪事は必ずばれる? 付録其の二

2011-05-07 02:02:50 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 旧約聖書に、表題のような原則を示した箇所が有るのかどうかを確認しました。コンコーダンスを使い、新約で用いられたのと同じ訳語を入れて、用例を調べていくという方法が有ります。今回は、かなりその法則に近いと思われる一節をみつけました。

 あなたは心のうちでも王をのろってはならない、
 また寝室でも富める者をのろってはならない。
 空の鳥はあなたの声を伝え、
 翼のあるものは事を告げるからである。 (伝道者の書 10:20 口語訳)


 この箇所は、「王をのろう」という悪事は、鳥や他の飛ぶ生き物によって告げ知らされてばれてしまうという内容を含んでいるように思えます。しかし、この箇所を引用して、こっそり為された悪事は必ずばれるという法則を示そうとしてみると、あまりぴったり合わないと感じられるのではないでしょうか。
 伝道者の書は、ある共通のテーマで幾つかの句をまとめるという編集の仕方になっていると考えられるのですが、それを見つけ出すのはあまり楽な作業ではありません。それで、確認しやすい部分だけ取り上げてみます。索引つきの聖書を見ると、出エジプト記22:28が参照箇所とされています。その内容は、

 あなたは神をののしってはならない。
 また民の司をのろってはならない。 (口語訳)

というものです。民の司と王は同義と考えることができます。すると、モーセを通して神が与えた戒めの確認という側面が強くなるようです。また、実際にそのような思いや言葉は、どこかに表れ、家族や周囲の人にも知られるところとなることが多いということです。寝室でのろったならば、当時は家族がみな一緒に寝ましたから、妻や子供に聞かれてしまい、家族がぽろりと外でもらしてしまうことも有り得たでしょう。また、中近東の王達は、国政と自分の地位を守るために、そういう噂などを聞き集めるような役割の人を町に放ったと言われています。すると、もう一つ、処世術的な警告という面も考えられます。


結論
 この旧約の聖書箇所は、かなり「こっそり為した悪事は必ずばれる」という原則に近い内容を持っているように思えますが、王をのろうという具体的な行為が念頭に有り、それが所謂悪事全般を代表し得る内容とは言えません。ですから、この語を引用してそういう原則を示そうとするためには、ぴったりとは言えません。また、先に述べたような、律法の確認や、処世訓的な意味合いがより強いものと考えられます。
 結局のところ、聖書の中には、「こっそり為した悪事は必ずばれる」という原則を示すために引用できる箇所は無いのだと結論づけることができると判断しました。
 当たり前に思って聞いたり、自分でも使ったりする聖書の引用が、本当に適切であるかを、時々立ち止まって考えていただきたいと思います。


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こっそり為された悪事は必ずばれる? 付録其の一

2011-05-06 23:11:05 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
新約聖書の福音書以外の箇所に、同様な表現があるかどうかをコンコーダンスを使って調べました。福音書で確認した「隠された」とか「現される」という言葉が用いられている他の箇所を参照すると、似たような表現が確認できたのは次の箇所だけでした。

だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
(コリント前書4:5 口語訳)

「主がこられるまでは」という条件がついています。確かにここでは人の心の中のことがあらわにされるのですが、その時は「主がこられるとき」ということになりますから、現在のわれわれの生活の中での一般原則として考えることはできません。



結論
 すると、新約聖書の記述の中には「こっそり為された悪事は必ずばれる」という原則を表す箇所は無いということになります。


次回は旧約を確認した結果をお知らせします。









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こっそり為された悪事は必ずばれる? 其の四

2011-05-04 20:40:22 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
くどいかもしれませんが、このシリーズはまだ続けさせていただきます。でも、福音書のキリストの言葉からの検証はこれで最後になります。其の三と同じルカ伝から確認します。今回は12章1節~12節からで、2節の意味を確認します。


    おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、
    隠れているもので、知られてこないものはない。(口語訳)



1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
 この箇所は11章の内容を受けた流れになっています。11章ではキリストが律法学者やパリサイ人たちを責めました。そのために、彼らからの激しい敵対が始まったことが記されています。
 そういう環境の中で、12章でキリストは弟子たちに律法学者やパリサイ人たちに関する警告を与えています。それが12節までの言葉になっているのです。12節までが大きな括りになっているという判断は幾つかの方法で確認できます。先ず、キリストは弟子たちに語りはじめられましたが、12節までの内容は一貫して弟子たちに対する注意事項です。また、その内容が弟子たちに降りかかるであろう迫害に関わるもので、パリサイ人たちの敵対心があからさまになったこの状況に合致していますし、パリサイ人たちに関わる注意ではじまったキリストの警告の続きと考えることは自然です。更に、この部分の構成は、最初のパリサイ人たちに関する警告から二回「そこで」ということばでつなげられている形になっていますから、その面からも一まとまりと理解できます。
 この大きな括りにおける共通のテーマは何でしょうか。パリサイ人たちの偽善に注意することから始まっていますが、その続きは彼らからの圧力を恐れないということがテーマになっています。キリストは教えを宣べ伝える中で、パリサイ人たちにその権威がどこから来たかと挑戦されました。そして、キリストがパリサイ人たちが持っている間違った態度を指摘すると、彼らからの激しい敵対を受けることになりました。ですから、キリストの弟子たちが神の国の福音を宣べ伝える時も、同様な迫害をパリサイ人たちから受けるのは当然のことでした。
 少し横道にそれますが、偽善と言う言葉を確認して興味深いことに気が付きました。原語では偽善と訳された語はフポクリスィスというものですが、ストロングズの辞書においては、断罪する、有罪にするという意味も掲載されています。他の資料では、内側で判断をすること・審判を下すことという意味の語と同根であるということでした。パリサイ人たちは、常に人々を断罪していましたし、キリストや弟子たちもその対象でした。すると、パリサイ人たちの見せ掛けの善としての偽善も注意しなければなりませんが、彼らの持っている断罪する姿勢にも注意しなければならないということを含意していると考えられるかもしれません。弟子たちはパリサイ人たちの断罪を真に受けてはいけないし、その態度から来る圧力にも負けてはいけません。ましてや、自分の肉的な誇り、傲慢を持って他人を断罪するような態度を弟子たちが持つようになってはいけません。弟子たちは神の恵みと神の国の原理によってのみ行動しなければなりませんし、その原則に従って宣教しなければならないのです。(断罪するという意味を、直接フポクリスィスから引き出すことができるかどうかは更なる研究が必要です。)
 


2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 より小さい括りは、1節から3節です。これまでの流れから理解すると、この部分は、どんなにパリサイ人たちの迫害や圧力が有っても、弟子たちは宣教に携わり続けることになるというキリストの意志を感じることができます。パリサイ人たちの偽善に注意を促しながらも、キリストの教えは言い広められることになるという前提で話されています。使われているのは未来時制受動態です。必ずそうなるということが含意されるようです。
 3節に有る、暗やみで言う、密室でささやくという行為は、マルコ伝ではキリストの行為でありましたが、この箇所においては弟子たちの行為として記されています。キリストは、この箇所においては、更なる宣教の広がりを意識していたと考えられます。マルコ伝においてはキリストが弟子たちに語り告げ、教えたことが、弟子たちによって公に語られるのですが、この箇所では弟子たちが他の人たちに語り告げ、それが伝え聞いた人たちによって更に広められる設定になっています。
 研究の中心となる2節も、キリストの言葉は語り告げられなければならない必然性を表すために用いられていると考えることになると思います。



3.該当テキストにおける2節の特定の意味を確認する。
 ここまでの流れ、全体のテーマから考えると、キリストの神の国の福音は必ず語り告げられなければならないという意味合いで理解するべき箇所であると考えられます。
 ここで、パリサイ人たちの偽善は必ず公に知れることになるという理解の可能性を考えます。それがこの箇所の文脈に合うか、理論的な整合性が有るかどうかは、前後の意味をつき合わせてみれば判ります。「パリサイ人たちの偽善は周知のこととなる」→「だからあなたがたの語り告げることが更に言い広められる」という流れになります。これは理論的な整合性を持ちません。やはり、最初に示した理解の方が良いでしょう。
 さて、このシリーズの疑問は、2節に表れる表現が、「こっそり為された悪事は必ずばれる」という意味合いで引用できるかどうかということです。今回の箇所も、そういう意味は無く、そういう原則をサポートするためにキリストの言葉として引用することは不適切であるという結論になりました。


福音書の、キリストの言葉の中からの確認はこれで終わりになります。今後の流れとしては、書簡の中に見出される同様な表現を確認し、その後に旧約聖書の中に見出される類似表現を確認し、「こっそり為された悪事は必ずばれる」という原則を示すために引用するのに適切な箇所が有るのか無いのかを見て行きたいと思います。

   







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こっそり為された悪事は必ずばれる? 其の三

2011-05-04 16:21:23 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
引き続き同様な表現を確認します。今回はルカ伝8章17節です。


   隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもの
   で、ついには知られ、明るみに出されないものはない。(口語訳)


1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。   
 良い土地の譬の後に続いて出てくる点が、マルコ伝の流れと共通しています。8章3 節から、「さて」という切り出しで、良い土地の譬が始まるのですが、「隠されたもので」のくだりは、キリストのその譬の解説の締め括りに出てきます。ですから、大きなテーマを確認するにあたっては、3節の土地の譬と併せ、キリストの解説が終わる18節までの区切りを一まとまりと捉えることになります。更に、「聞く、聞き方」という点に注目すると、21節までもそのまとまりと考えられます。
 この大きな括りにおける主題は何かということをかく本文から確認します。キリストは最初に群集に良い土地の譬を話た時、「聞く耳のある者は聞くがよい」と言って締め括りました。そして、その解説の締め括りである「隠されているもので」くだりの後に、「だから、どう聞くかに注意するがよい」という警告が入ります。全体の主題はみ言葉を聞く態度に注意するということにより重点が有る構成になっていると考えられます。良い聞き方の具体的な有様は、15節に有る、み言葉を正しい良い心で聞いてその教えを守るといものです。そして、それを別な角度から説明しているのが、19節からの区切りに表れる、「神のみことばを聞いて行う者こそが」という部分です。


2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 17節が含まれる最小の括りは、16節~18節です。みことばをきちんと聞く、良い聞き方をするという流れで考えると、16節のあかりの譬は、聞いたみことばを正しい位置に置きなさいということになるでしょう。あかりを在るべき位置に置くように、みことばを心の中の然るべき位置に置くということでしょう。それは、「どう聞くかに注意する」、「神のみことばを聞いて行う」という説明に合致します。
 17節と18節は「だから」という接続詞でつながっています。17節が今回一番内容をはっきりさせたい部分ですが、これを理由として、どう聞くかに注意せよという注意が与えられています。すると、人がどういう聞き方をしたのか、きちんと聞いたのか、そうでないのかは何れ判ってしまうものだから注意しなさいと警告していることになります。その結果の現れ方が、持っている者はもっと与えられ、持っていない者は持っているものまで取り上げられ、その差が大きなものになってしまうからです。持っているというその内容は、神の国の福音です。1節ではキリストが神の国の福音を説き、また伝えて巡回しておられたことが記されています。また、ユダヤ人たちは神の民の意識が有り、霊的な特権意識が有りましたから、そういう特権や神の恵みという部分も含まれていることでしょう。


3.該当テキストにおける17節の特定の意味を確認する。
 先に簡単に述べましたが、この内容がこの箇所で表していることは、人がみことば良い心で聞いたかどうかは、はじめは外見上は判らないが、何れは判るようになるということです。キリストはこれを集まってきた大勢の群集に向かって話しました。その中には心から神の国の福音に触れたくて来た人、時の人であるキリストの教えを聞くことがステータスであると思うような人、キリストを陥れようとするユダヤ教の指導者などが混ざっていました。そういう心構えは何れ判り、明らかになるのだから、きちんと聞いてみことばを行う者になるようにという警告を促すためのことばであったと考えるのが自然です。 
 この箇所を、こっそり為された悪事は必ずばれるのだという原則を表現するために引用することは相応しくありません。キリストがそういう意味で用いていないからです。









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