これまでにこのテーマで何度か書いてきました。
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a1fbf894905ee9f77c2f328855bd37b
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/4a98712f6748d0df01ea73275b17631a
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/32868c9553d080fe7091903bf97489ec
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/c815b03dee4df5fb8d8cbaa201af9bd3
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a8df6a0af10467ca6f01e98bb74bd8b
この内容でまだ確認してこなかったことに気づきましたので、其の六を立てたいと思います。
先ず、次の奥義書の記述を見てください。
主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである。(出エジプト記 十九章二十二節 口語訳)
主がモーセに与えた指示の言葉の一部ですが、そこには「祭司たち」という言葉が出て来ます。この十九章の六節には万人祭司を表す最初の言葉が六節に記されています。このこととの関連からこの二十二節を考えることには意味が有ると考えられます。
さて、ここで主がモーセに語られた「祭司たち」とは誰のことだったのでしょうか。複数形で記されているのですが、それまでの記述には、まだ祭司の任命の規定は出てきていません。これからモーセが山の上で十戒を始めとする神の掟をいただくという段階です。しかし、すでに「祭司たち」と認識される人々がイスラエルの民の間には存在していたということになります。
注解によると、アブラハムがしたように、昔から神に犠牲の捧げ物をすることは続いてきました。多くの場合、それは家長の役割でありました。族長時代の背景で書かれているとされるヨブ記においても、ヨブが家族のとりなしのために、罪の贖いの犠牲を捧げており、彼が祭司の働きをしていたことがわかります。この前提は、出エジプト記のはじめの方の、エジプトの王、パロとモーセの会話とも合致します。荒野に神への捧げ物をしに出かけなければならないという時には、当然祭司が必要でしたし、それが誰であるかもパロにもわかっていた様子が伺えるのです。つまり、族長なり家長なりが祭司として捧げ物をするという前提が共有されていたということです。
そうすると、ここで言う祭司の仕事は家族の罪の贖い、神の恵みの仲介であったと言えます。それは家長がすることでありましたが、イスラエル人全体が祭司の国民になるというのは、全人類中の長男のような立場としてイスラエル人を神が選ばれ、他民族の贖いのためにとりなしをし、神の恵みの仲介を担わされたということにるはずです。
こういった背景を持つ万人祭司の考え方を我々の忍者としての生活に適応するとどういうことになるでしょうか。私たちの知っている人達、私たちの勤め先、私たちの所属するコミュニティーや社会、国家のために神の前に罪の執り成しの祈りを捧げる生活をし、神の恵みと慈悲を伝えていくことにならないでしょうか。
このような背景からも、万人祭司の教義は、牧師がいなくても良いという実践には関係が無いと言えます。祭司の基本的な役割が、何かを決定したり教えたりする部分には無いのです。
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この内容でまだ確認してこなかったことに気づきましたので、其の六を立てたいと思います。
先ず、次の奥義書の記述を見てください。
主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである。(出エジプト記 十九章二十二節 口語訳)
主がモーセに与えた指示の言葉の一部ですが、そこには「祭司たち」という言葉が出て来ます。この十九章の六節には万人祭司を表す最初の言葉が六節に記されています。このこととの関連からこの二十二節を考えることには意味が有ると考えられます。
さて、ここで主がモーセに語られた「祭司たち」とは誰のことだったのでしょうか。複数形で記されているのですが、それまでの記述には、まだ祭司の任命の規定は出てきていません。これからモーセが山の上で十戒を始めとする神の掟をいただくという段階です。しかし、すでに「祭司たち」と認識される人々がイスラエルの民の間には存在していたということになります。
注解によると、アブラハムがしたように、昔から神に犠牲の捧げ物をすることは続いてきました。多くの場合、それは家長の役割でありました。族長時代の背景で書かれているとされるヨブ記においても、ヨブが家族のとりなしのために、罪の贖いの犠牲を捧げており、彼が祭司の働きをしていたことがわかります。この前提は、出エジプト記のはじめの方の、エジプトの王、パロとモーセの会話とも合致します。荒野に神への捧げ物をしに出かけなければならないという時には、当然祭司が必要でしたし、それが誰であるかもパロにもわかっていた様子が伺えるのです。つまり、族長なり家長なりが祭司として捧げ物をするという前提が共有されていたということです。
そうすると、ここで言う祭司の仕事は家族の罪の贖い、神の恵みの仲介であったと言えます。それは家長がすることでありましたが、イスラエル人全体が祭司の国民になるというのは、全人類中の長男のような立場としてイスラエル人を神が選ばれ、他民族の贖いのためにとりなしをし、神の恵みの仲介を担わされたということにるはずです。
こういった背景を持つ万人祭司の考え方を我々の忍者としての生活に適応するとどういうことになるでしょうか。私たちの知っている人達、私たちの勤め先、私たちの所属するコミュニティーや社会、国家のために神の前に罪の執り成しの祈りを捧げる生活をし、神の恵みと慈悲を伝えていくことにならないでしょうか。
このような背景からも、万人祭司の教義は、牧師がいなくても良いという実践には関係が無いと言えます。祭司の基本的な役割が、何かを決定したり教えたりする部分には無いのです。


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