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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

「指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい(へブル書十三章十七節)」だからなんでもそうしなければだめ?

2016-08-28 19:52:49 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 この聖書箇所を根拠にして、牧師の権威になんでも従わなければならないかのように語る人がいます。決してそんなことは無いのですが、この個所しか知らない場合は、そうかと思ってしまう人もいるかもしれません。
 しかし、十三章の流れを確認したり聖書辞典などで単語の意味を調べたりすると、この個所からも決してそんな理解を導くことはできないことがわかってきます。

 先ず、十三章の流れから考えます。七節から、記者は最初に福音を伝えた使徒や伝道者達、指導者達のことを思い起こすようにと指示しています。彼らが教えたキリスト、福音、教義を思い出し、彼らの生き方や殉教に至るまで忠実だった生き様を思い出してそれに倣いなさいというのです。そして、キリストは昨日も今日もいつまでも変わることはないと言っています。つまり、最初に伝道した指導者達とは異なった教義を持ち込む偽教師がいたということになります。だから、次の九節では、様々な違った教えに惑わされてはいけないということが述べられいるのです。食物に関する記述が出て来ていますが、どうやらユダヤ主義の偽教師が、律法に規定された供え物をささげて、ささげた人が共に食べることのできる肉を食べないと聖い忍者になれないと教えていたようなのです。しかし、イエス・キリストによる救いは完全であり、それに付け足しをするような教えが信仰生活を健全に成長させるはずあがありません。記者は、そうした者は益がなかったということを述べています。
 続く宿営、都の比喩は、偽教師が教えるような人間的な努力を離れて、イエス・キリストによってもたらされた救い、天国の価値に従って生きることを勧めています。たとえそれが、偽教師から謗られたりしても。
 このような流れから確認してみると、十七節の内容も、偽教師の教えに従わないようにという牧師、長老のような指導者の言葉に関して述べられていると理解させるべきなのです。偽教師の教え、異端の教えに従わないようにという指導に従いなさいという流れで理解されるべきことなのです。

 次に、単語の意味の確認をしたいと思います。「聞きいれて」というふうに訳された語は、ペイソーというような発音になる語で、「言葉によって信じるように導かれる、理由づけによって説得される」というような意味合いが有ります。また、「従いなさい」というふうに訳された語は、フペイコーというような発音になる語で、「強い警告や戒めに従う、抵抗しない」というような意味合いが有ります。
 このような定義を見ると、先に確認した偽教師の教えとの関わりでこの節が述べられていることがよく判るのではないでしょうか。指導者は、どうして偽教師の教えが劣っているのか、間違っているのかを指摘するのが仕事です。そして、そのような方向に進まないように、他の仲間を引き込まないように厳しく戒めることになります。そういう指導を聞き入れ、従わなければいけないということだったのです。その他の、教義に関係の無い牧師の計画や指導に従わなければならないということまで示すことのできる言葉ではないのです。

 更に、十七節の後半は、そうするべき理由を述べています。日本語の訳でははっきりしませんが、ギリシャ語では理由を導く接続詞が用いられています。その理由というのは、彼らが「目を覚ましている」からだということです。これは夜警が見張りをしている様子も表すことができる語です。警戒しているということです。正に、牧師、長老の役目は、間違った教えが教会に入り込まないように見張り、警戒することなのです。そして、指導者達が嘆くとするならば、それは忍者達が間違った教えに流されてしまったということになります。間違った教え、異端に流されれば、それは救いも危ういということが有り得るわけです。「益にならない」と訳された語は、アルシテレイスというような発音になる語で、「割に合わない、試す価値が無い」というような意味合いになります。救いを失うような教えを、指導者達の警告を振り切ってまで信奉することは全く割に合わないと言わざるを得ません。だから、指導者の言うことを聞き入れ、従わなければならないと述べられているのです。

 因みに、指導者達が神に申し開き、言い開きをするというのはどういうことかを確認しておきます。原義は目撃証言というような意味が有ります。聖書からその例を確認いたしますと、預言者サムエルは、イスラエルの民が神を退けて王を欲しがった時に、民の言ったことを「神の耳に入れた」ということが有ります。また、パウロがピリピの教会に手紙を書いた時に、冒頭で、彼らが忍者として良い歩みをしていることを思っていつも祈る度に感謝しているということが述べられています。指導者としての執り成しや報告の祈りと考えることができます。彼らの働きはこの地上でしか意味を持ちません。神の御前で審判を受ける時には、イエス・キリストだけが仲保者なのです。その仲保者をないがしろにするような間違った教えや異端の道に進んでしまったらそれは大変なことです。それを防ぐために労している指導者なのだから、きちんと聞き従いなさいということになります。


 冒頭で既に述べましたが、この聖書箇所から、どのような牧師、指導者の指導にも従わなければならないと主張することはできません。





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エリヤ達に倣って預言者学校を運営する?

2016-08-06 16:14:17 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 カテゴリーが少し無理やりに思える方もいらっしゃるかもしれませんが、これでお願いしたいと思います。

 旧約聖書に「預言者のともがら」と訳されている表現が有ります。彼らは共に生活をし、行動したりしていた様子が伺えます。そして、そういう人たちの中には聖書に名前の記録されていない預言者も含まれていました。さて、この人たちの記録を根拠にして、預言者学校が有ったのだと考え、またそういう取り組みをする団体も有ると聞いているのですが、果たしてそれは聖書的な理解なのでしょうか。
 モーセやサムエルの例からも判るように、預言者は直接神様が選ばれてその仕事を託されるものです。学校に行って学べるようなものではありません。神様が語り掛け、それが本当に神様から与えられた預言であった故に、予見的な記述も成就し、それによってその人物が神の預言者であることが明らかになるというのが聖書的な有様です。
 では、この預言者のともがらと表現されているこの集団はどのような性格のものだったのでしょうか。「ともがら」と訳された言葉は、ベンという様な音の語で、息子、若者という意味が中心にある語です。当然預言者は世襲などではありません。この語の理解とサムエル記の記述等から考えると、次のような理解が適切なのではないかと思われます。サムエルが子供の時代には、神からの啓示や預言は稀であったと記されています。ですから、サムエルの他に同様な力のある預言者が出てくるのは少し後のことであると思われます。サムエルの存命中の記録にはそういう他の預言者は現れていません。しかし、預言する人々の一団は登場してきます。これはどういう理解をしたら良いのでしょうか。
 この預言する人々の一団は、サウル王の任命に関する証拠としての予見的記述に出てきます。礼拝を終えた人々が、霊の導きを受けて一致して楽器に合わせて神を賛美する様子も「預言する」と表現されたということです。また、彼らはサムエルの指導の元に有ったと考える立場が有ります。サムエルは、人々に神の言葉を教えるために、イスラエル内を巡回していました。それは、一人でするには大変な仕事でした。ですから、高い志や深い信仰を持った人々の中から、神様に促された人々を集めて、サムエルが神の言葉の理解をよく教えた後に、彼らをも巡回に派遣したという理解です。
 エリヤやエリシャと共にいた「預言者のともがら」も同様な人々であったと考えるのが適切であると思われます。

 このような実践から考えますと、現代の聖書学校とか神学校がこれに近いものになります。従いまして、このような聖書の記述を根拠にして個人預言ですとか神の御心の啓示を受ける人々を養成するような目的で預言者学校を運営するのは、間違った取り組みであります。






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繁栄の神学とは関係ない(ヤベツの祈りから)

2016-07-04 12:05:41 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
ヤベツの祈り(歴代誌上四章九、十節)を引用して、神に祝福と繁栄を求めると叶えられるというような理解をしているものが見受けられますが、背景の研究をいたしますと、そういう文脈で理解できる箇所ではないと判ります。

ポイントとなるのは、「私の領土を広げてください。」という言葉です。「領土」と訳される語はゲブールというような音になる語で「地境、領土」などの意味を表します。この言葉から、聖書学者たちは、ヤベツがカナン入植期の人物であると考えます。どうしてでしょうか。それは、律法の規定から出てくる理解です。律法においては、一度割り当てられた地境や領土は移してはなりません。申命記十九章十四節等にそういう規定が述べられています。ですから、箴言二十二章二十八節でもそのような戒めが語られています。また、列王記下二十一章三節において、ナボテという人物がアハブ王に畑を売ってくれるように依頼された時に、「主によってありえないことです。先祖の割り当ての地を与えるなど。」という内容の答弁をしているのもこの理由によります。

そういたしますと、ヤベツの「領土を広げてください」という祈りは、入植期においてのみ可能な祈りですし、単純に自分の不動産を増やしてくださいという意味にはなり得ません。ユダ族に割り当てられた地をきちんと取ることができますようにという意味に理解されるべきです。

この部分ヤベツが求めているのは、利己心から領土を増やしたいということではなく、神様が割り当てられた土地、神様に与えられた使命を、神の祝福によって果たすことができるように助けてくださいということなのです。ですから、それは同時に同族、ユダ族のための祈り、執り成しの祈りでもあったわけです。


歴代誌は捕囚から帰還したユダヤ人が、先祖の信仰に倣って生きるように奨励する意味を込めて書かれました。ヤベツの生きた入植期のユダヤ人は士師記にも記されている通り、自分たちの目に正しいと思うことをして生きていました。その結果、偶像礼拝をしたり、不道徳なことがはびこっていたりしました。にも関わらず、ヤベツは唯一の真の神を求めて、その使命を果たそうとしたのです。捕囚から帰還した民の間にも、偶像礼拝や不道徳がはびこっていました。歴代誌の記者は、今こそヤベツのように真の神への信頼によって生きるべきなのだと人々の信仰を鼓舞したことになります。
 なお、これは私達も祈るべき内容です。私達の時代も偶像礼拝や不道徳、不義がはびこっています。そして、私達もそういう時代において神を真に求めるべき忍者なのです。私達の「神の子としてこの世を生きる」という使命、割り当てられた霊的な領土を目一杯生きることができるように祈り続ける必要が有り、その領土がどのようなものなのかを奥義書(聖書)の言葉を通して絶えず確認する必要が有ります。


このように、ヤベツの祈りは繁栄の神学の根拠に用いるような内容ではないと思います。





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先祖から伝わる呪いの説明?(出エジプト記三十四章六、七節)

2016-05-29 20:55:40 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。(口語訳)


 先祖からの伝わる呪いを断ち切るという考えが有ります。その時に用いられる聖書の箇所が上記の聖書箇所であるのを見て、これはおかしいことだとどうして気づかないかと思いました。少し検索しましたが、同様なことを述べている大忍のブログがやはりいくつかありました。
 ここでは、私なりの手順で説明させていただこうと思います。

 先ず、この聖書箇所の原則は誰に適用されるものなのかを考える必要が有ります。これは、イスラエルの民と神の間の約束事です。ですから、これが先祖から伝わる呪いを断ち切るという考えを導くには幾つか不都合なことが有ります。
 第一に、この約束事は神と旧約のイスラエルの民との間の約束です。イエスキリストによって呪いから解放された者は、この約束の当時者ではありませんから、これを引用してそういう断ち切りの説明に用いるのは関係上無理が有ります。仮に呪いの問題が存在するとしても、この聖書箇所を根拠にすることはできません。
 第二に、呪いを断ち切る祈りは呪いもしくはサタン、悪霊を対象にしたものです。しかし、この聖書箇所は神様が呪いをもたらすという約束になっています。神との約束の結果来る呪いを、どうやって神の御名によって断ち切るということができるでしょう。しかも、その時には呪いは神ではなくてサタン、悪霊から来ているということになるのは矛盾しています。
 第三に、このような呪いの関係は、旧約聖書時代中に、神様によって改訂されています。エゼキエル書十八章一~三節には、「主の言葉がわたしに臨んだ、あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。」と書いてあり、更に二十節には「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。」と再確認されています。ですから、神様に由来する呪いでもサタン、悪霊に由来する呪いの場合であっても、それが子供に伝えられるということをこの聖書箇所から説明することはできません。


 さて、先祖から伝わる呪いが一切無いかと言われれば、私は無いとは言いません。サタンはこの世の支配者ですし、罪の呪いや結果がキリストにない者を苦しめることは有ります。また、その中で、先祖が子孫を悪霊(偶像)に捧げるようなことも有ります。ですから、そういう悪い影響を受けている人はいると思います。
 しかし、少なくとも、そういうことの説明に上記の聖書箇所を用いることは間違っています。








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幻のない民はみな滅びるからヴィジョンを掲げる?

2016-05-23 21:16:48 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 「幻のない民みな滅びる。だから、幻を高く掲げよ。」と勧める説教やワーシップソングが有ります。これは箴言二十九章十八節の言葉に由来していると思われます。しかし、これは一般的な霊的原則として理解するべき聖書の言葉なのでしょうか。

 実は既に多くの仲間が指摘しており、その中には比較的著名な大忍も含まれているのですが、もっと多くの人に届くべきではないかと思い、私、糸田十八も書いておこうと思った次第です。

 新改訳や共同訳では「幻」と訳されている言葉は、口語訳では「預言」と訳されています。そして、文脈からすると、その意味が正しいと思われます。なざならば、対を成す次の句が「しかし律法を守る者はさいわいである。」というものになっているからです。幻という言葉で我々に思い浮かぶ内容と、民がほしいままに振る舞うとか堕落するという結論がどう結びつくのか、疑問に思われないでしょうか。

 それでは、どうして口語訳はそれを預言と訳したのでしょうか。略称でBDBと呼ばれているヘブル語辞典を確認してみます。カゾーンというような発音になる語で、確かに幻という意味は有るのですが、後半には、「 神からの託宣、預言、神的伝達」と言えるような定義が示されています。また、歴代誌下三十二章三十二節にイザヤに関連した書物のタイトルとしても用いられています。

 次いで、その語の用例を見てみますと、多くの場合は神からの啓示という内容と理解できる場面で用いられています。

 そうすると、この語の定義、用例、該当の聖書箇所における文脈から総合的に判断すれば、この幻と訳された内容は、神の教え、預言、啓示と理解するべき内容になります。

 従いまして、この聖句をもってビジョンを持とう、信仰的な夢を掲げようと勧めるのは間違った聖句の理解や用い方、引用であると言わざるを得ません。神様は私達忍者にそのようなことを求めてはおられません。
 聖書中の主だった人物を見ても、そういう自分で考えたビジョンで生きて神の祝福を得た例は無いように思います。アブラハムは神の導きに従って故郷を離れたのであって、自分のビジョンで行動してはいません。エジプトの宰相になったヨセフは、自分の意に反してことが起こり、神の導きによって一族を助け、人々を助けて高い地位を得たのであって、自分のビジョンによってはいません。モーセは自分のビジョンで同胞を助けようとして失敗し、神の導きとビジョンを得て初めてことを成し遂げることができました。旧約の預言者達は、自分の意志に関係なく召し出され、苦難の道を通っています。使徒行伝のパウロも、異邦人への伝道を神に託されたのであって、自分でビジョンを抱いたわけではありませんし、どこに向かうかも基本的には神の導きによりました。彼がローマに行きたいという考えを持ったのも、先に神の伝道の使命を託されたことによるものでした。
 このように聖書中の人物から考えても、自らのビジョンを持って行動した人は殆どいないと言えるのではないでしょうか。神は、むしろ、神のみ言葉を日々身近に心に留め、それを守り、地道に主を信頼し切って歩み続けることを求めておられると考えられます。






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ギデオンが印を求めたから忍者も印を求めて祈る?

2016-05-13 23:40:11 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 少々印象が異なるかもしれませんが、このカテゴリーでお願いしたいと思います。

 ギデオンに神の使いが現れて、士師としての使命を与えました。士師記六章三十六節から四十節に、ギデオンが神に印を求めた有名なエピソードが記されています。それで、このことを根拠に神に印を求める忍者がいるのですが、はたしてこれは適切な聖書の適用なのでしょうか。

 では、ギデオンの場合をもう少し細かく考えてみます。憐れみによって神はギデオンの願いに答えて印を与えましたが、原則的にはこれはするべきことではなかったと考えられます。なぜならば、神はそれ以前に既に奇跡的な印をお示しになっておられるからです。その様子は六章十七節から二十一節に記されています。
 このような印をいただいた後であるにも関わらず、ギデオンは出陣の前に再び神に印を求めるのです。しかも、二回も求めました。これは不信仰なことでした。明らかに神が語ったということを確かめた後であるのに、再び神に印を求めることは信仰の業とは言えません。それだけではありません。申命記六章十六節では「あなたがたの神、主を試みてはならない。」と戒められています。イスラエルの民が確実な神の業を見たにも関わらず、神が自分達を養い、守れるのかと試したからです。イエス・キリストも荒野で悪魔の誘惑を受けた時に、この言葉を引用して誘惑を退けています。
 ギデオンは亡くなるまで士師として活躍しましたが、その後の歩みはあまり神に忠実とは思えない部分が有ります。神が命じたわけでもないのに黄金のエポデを造り、それが偶像礼拝につながりました。また、妻を多く娶り、子供が七十人もいました。それだけでなく妾もいたというのです。そういう部分も、彼の不信仰な歩みと重なるのではないかと思います。へブル書十一章三十二節においては、信仰の歩みをした者のリストに彼の名前は含まれ、信仰と従順によってミデアン人を追い払ったことへの評価がされていますが、詳細を見ると、注意しなければならない点が有ったと考えられます。
 そういうわけで、ギデオンの例に倣って印を求めるという発想は、皆が倣うべき適切なものと考えることはできません。旧約には他にも神の癒しの宣告に対して印を求めた王の記録が有りますが、やはり、その王も信仰的に良い状況で最期を迎えていはいません。

 参考に述べますと、新約聖書において、イエス・キリストはヨナの印以外には与えられていないと言われました。不信仰なパリサイ人達が信じたくないばかりに印を求めたのですから拒絶されたのです。一方で、初代教会においては使徒たちを通して奇跡的な印が与えられて、信仰に入る人達が出てきました。しかし、すでに信仰に入った者が印を求める記述は見当たりません。

 現代の忍者が印となるような状況を求めて祈ったり、聖書の言葉を示してもらえるように祈って、良い状況に向かった経験談を神の恵の証として語る場合が有ります。わたしはそれを全面的に否定しようとは思いません。しかし、それは旧約聖書には良い事例は無く、新約聖書には実践例が有りません。また、それは、ややもすると自分の責任で状況判断をして信仰によって歩みだすという姿勢を損なうことになる場合が有ると思います。少なくとも、ギデオンの例に倣って印を求めようというのは、適切な発想とは言えません。







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「後の雨」の研究

2014-11-23 00:02:55 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
はじめに 
 霊的復興とか覚醒を叫ぶ人達の中には、そういう現象を「後の雨」と表現することがあります。それは奥義書(聖書)の中に出て来る表現ですが、その表すところは何なのでしょうか。今回はそういう部分から確認してみたいと思います。回りくどい作業になりますが、宜しければお読みください。

辞典から
 この語は主に旧約聖書に出て来る表現で、新約聖書には見出されません。先ずはヘブル語の辞典で「後の雨」と訳されている語を確認してみます。マルコーシュと読める語で、春の雨を指します。パレスチナの穀物を成長させるということです。

 次に聖書辞典ではどのような説明がなされているかを確認してみます。前の雨と後の雨は雨季の始まりと終わりを表す語となるということです。農耕の項目を調べますと、秋の雨である前の雨の後に土を耕して種を蒔くということです。冬の雨の後、3,4月に春の雨である後の雨が降り、それが雨季の終わりを告げます。すると大麦が収穫できるようになり、更に3,4週間後に小麦の収穫ができるようになるということです。この後は次の秋まで通常雨は降らないそうです。

 ここからは、実際の旧約聖書の記述を確認します。コンコルダンスで後の雨という語を探してみますと、申命記11:14、ヨブ記29:23、箴言16:15、エレミヤ書3:3、5:24、ホセア書6:3、ヨエル書2:23、ゼカリヤ書10:1に出て来るということです。


各聖書箇所の表している事柄
 各聖書箇所を見て、必要であれば文脈の確認もしながらどういうことを表しているのかを確認してみます。長くなりますので引用はいたしません。

申命記十一章
 ここでは神がイスラエルの民と契約の再確認をしています。心を尽くして神に従うならば、祝福を与えるという約束の一部です。農耕においても必要な雨を降らせて収穫を与えるということです。
 これは後に出て来る聖書箇所の基本になる知識ではありますが、霊的復興とは直接関係はない箇所と判断できます。

ヨブ記二十九章二十三節
 ヨブの弁明の一部です。災いが彼に降りかかる前に彼がどの様に人々に恵を施し、人々ががどのように彼を扱ったかを述べています。ここでは、ヨブが人々に語り掛けると、人々はその言葉を恵の雨を受け止めるかのように受け止めたということが表されています。農耕をする者にとって、後の雨、春の雨がどれだけ大事で在り難いかということとの対比となっています。
 ここでは、後の雨がどれだけ望ましいものであるかは表現されていますし、ヨブの言葉が人々にとってそのような望ましいものであったかということは表されていますが、霊的復興に関わる表現ではありません。

箴言十六章十五節
 十三、十四節とつながって、王との関わりについての箴言です。この箇所では王から恵を受けることを後の雨の恩恵を受けることに例えています。王の権力を考慮して王と良い関係を持つことを説いていると考えることができます。しかし、霊的復興に関わる表現や意味合いを見出すことはできません。

エレミヤ書三章三節
 神がイスラエルの背信を責めておられる箇所です。最初の申命記のところで恵の約束をしていますが、その契約においては同時に契約が守られなかった場合のことも書いてあります。天は閉ざされては雨は降らないというのです。そして、ここで、その契約の通りになったということを示しています。
 この箇所にはその契約が履行されたことを示してはいますが、霊的復興に関わることは述べられていません。

エレミヤ五章二十四節
 こちらではユダの背信が責められています。神が恵を与え、雨を降らせてくださる神であることを認めて神に立ち返ろうと考えないユダの人達の心の状態を表現している箇所です。
 この箇所では、神の約束と神のご性質が表されてはいますが、霊的復興に直接つながることは述べられていません。

ホセア書六章三節
 一節から始まる民の告白は、エフライムとユダの民の偽りの告白と考えられています。自分たちの惨状を見て悔い改めて神に立ち返る素振りを見せるが、実際には不忠で背いていることを責めている箇所です。
 ここでは申命記での契約を認識した記述になっていはいますが、実際にそれに戻ろうとしてはいない状態が示されています。霊的復興とは逆の状況を示した箇所ということになります。

ヨエル二章二十三節
 ヨエル書はユダへの裁きの日と回復、周囲の国々への裁きなどが預言されています。該当箇所は十八節から二十七節までの、ユダの回復の預言の一部です。
その前の部分は、偶像礼拝に陥って神の守りが離れてしまったユダに対して悔い改めお呼びかけ、祭司たちに悔い改めの祈りをささげるように命じています。そして、それが成就した時のこととして回復の預言の部分につながっていきます。
 この箇所は、民が悔い改めた時に何が起きるかを述べています。申命記で述べられた祝福が回復するという理解ができます。列王記上八章に有るソロモンの神殿奉献の祈りには、民が背いた後で神に立ち返って祈るなら憐れんでくださいという願いが有り、その祈りが応えられるという理解もできると思います。
 すると、この箇所は回復の様子を具体的に記述したということであり、神に立ち返った時には申命記で確認した約束の通りに恵の雨が与えられるということを述べていることになります。

 ヨエル書はリバイバルのメッセージに用いられることが多いので、もう少し考えてみたいと思います。ことが起きる順序を考えます。祭司が心から民に代わって悔い改めの祈りをささげるような心の変化が起きる。明確には述べられていませんが、それは民の悔い改めにもつながるのかもしれません。祭司の執り成しの祈りに応えて神が民を憐れまれるとしても、契約は民が心を尽くして神に仕えることが条件だからです。
 そうしますと、霊的復興の条件はやはり祭司が主導するとしても民が神に立ち返って心を尽くして神に仕えることになります。
 次に、この状況は現代の私たちに当てはまるかどうかを考えてみたいと思います。私たちは旧約の契約を神と交わしてはいません。また、キリスト教界が別の神格に鞍替えして偶像礼拝をしたわけでもありません。また、後の雨は具体的な生活の祝福の約束ですから、霊的な復興とはつながりません。仮に後の雨に例えることのできることが有るとしても、順序としてはキリスト教界が悔い改めて立ち返ることが先になります。しかし、日々悔い改めるべき事柄が私たちに無いわけではありませんが、ユダが悔い改めなければならなかったような課題を私たちは持っていません。
 すると、この聖書箇所を根拠に私たちが悔い改めの祈りをするとキリスト教界に霊的復興や覚醒が起きるという理解や適用をするのは無理が有ります。また、霊的復興のために霊的な恵を送ってくれるように祈り、その恵を後の雨と呼ぶことはアイディアとしては良いかもしれませんが、この聖書箇所を根拠にした行動としては不適切です。

ゼカリヤ書十章一節
 メシア預言を含んだ箇所の一部です。メシアの到来と期待の預言が有り、また偽りの指導者や偶像礼拝の状況と回復も述べられています。
 この箇所では、春の雨の時に雨を主に請い求めるように命じています。雨の時期に雨を求めるように命じるのはおかしいと感じるかもしれません。文脈から考えますと偶像の神にではなく創造主なる神に雨を求めよということだと考えて良いでしょう。偶像礼拝をするから神との契約の通りに天が閉ざされて雨が降らなかったのです。
 すると、後の雨は求めるべき相手に求めよということを表している箇所であると理解することができます。民が心を整え、神の恵によって時が来てメシアが来るということにつながって行きます。しかし、この箇所が述べているメシア、すなわちキリストの来臨は、一度きりのできごとです。ですから、この箇所を根拠に霊的復興のために後の雨に象徴される天の恵を求めるのは、不適切な適用です。


まとめ
 後の雨を聖書から理解することにきちんと取り組みますと、これまで確認して来たように、それを霊的復興とか覚醒の説明に用い、それを根拠に霊的復興のために恵を送ってくれるように祈ることは聖書的取組とは言えないことが判ります。
 勿論そのような神の介入を求めて祈ることは悪いことではありません。しかし、その根拠を旧約聖書の「後の雨」という用語やそれを含む聖書箇所に求めることはできません。
 後の雨は毎年のことですし、農耕に関わることです。特別な霊的収穫の時を思って使うのはおかしいことです。また、それを霊的なことに当てはめるならば、人が信仰を持つとか信仰が成長するとかいうことは定期的なサイクルでは語れないことです。比喩的表現だからいいではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、整合性が無さ過ぎると私は考えます。









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神同等の聖さを会得せよ?

2014-09-23 22:37:54 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 ある牧師が神学生であった時に、ある教団から奨学金をもらっていたそうです。それで、その教団の関係の教会で一度説教をするようにと連絡が入りました。その教団のモットーや強調点に関係の有る聖書箇所から説教するのが良いだろうと判断して、字義的には表題のような理解になる表現が有る聖書箇所から説教しました。「聖書にそう書いてあるのだから、私たちも神のように聖くなれる」と力強く説いて、これなら教団の人々に喜ばれるであろうと思ったそうです。しかし、説教後にすぐ主任牧師が登壇して、「この牧師はまだ若いからこのような説教をしましたが、私たち霊的現実は聖書からみてもそうようなものではありません。」というようなフォロアップされて、面目がつぶれたといいますか、恥ずかしい思いをされたそうです。
 それでは、その聖書箇所の基本的な理解はどういうものなのでしょうか。この表現は旧約聖書にあらわれ、新約聖書にも引用されています。ですから、その両方がどのような意味を持っているかを確認して行きたいと思います。


 先ず旧約聖書です。「わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記十一章四十五節)となっています。
 この箇所を確認するためには、その節だけでなく、全体的なつながりを理解する必要があります。神様からのご命令は二節から始まっています。その内容は穢れた動物と死体に関わる指示になっています。すると、この箇所で「聖い」というのは、穢れた動物や死体に触れていない状態を示していることになります。
 ここで用いられているヘブル語を調べると、カドーシュというふうに読める語が用いられています。定義としては、「儀式的あるいは道徳的に聖いこと、名詞的に聖いもの(神、天使、聖人、聖所)ということです。すると、この聖書箇所の流れからは「儀式的に聖いこと」に重点が有ると理解することができます。聖俗の区別を意識することが必要であることを教えるために神がそのようなことを教えたと理解されていますから、神がそういう区別を持っておられるのだからのイスラエルの民も同様にそういう区別の感覚をもっているべきだということになります。そうでなければ、たかが人間が神と同じ聖さを持つなどという到底不可能な要求をしていることになってしまいます。

 次に同じレビ記の十九章二節に同様の記述が有ります。この前には、近親相姦を含むカナンの風習に染まってはならないことが書いてあり、後には偶像礼拝やまじない、不正や社会道徳に関わる規定が書いてあります。神にも人にも聖俗、正邪の区別が有り、神が喜ばれるのは聖であり正であることを示すために述べられたと理解することができます。
 更に次の章である二十章では七節と二十六節に同様の記述が有ります。モレクの神との関わりにはじまり、十九章と同じ近親相姦などを含む性的な不道徳やきよい動物と汚れた動物の区別などの戒めが記されています。他の民族が平気で行っている不道徳な行いや偶像礼拝を含む習慣から離れることを主旨とするものです。十九章と同様の理解ができる箇所であると思います。


 今度は新約聖書を見てみます。

 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。(ペテロ第一の手紙一章十六節)

 先に確認した旧約聖書の引用という形で記されています。どのような意味合いであるかを確認するためには、文脈の中でとらえるために十九節から二十一節のまとまりで考えるてみます。直前と直後のつながりから考えると、十四節の「無知であった時代の欲情に従わず」十八節の「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出された」という部分に注目することができると考えられます。キリストの道の者となる前に神の標準に従わずに生きてきた習慣や道徳基準を捨てて、神の戒めと標準に従った生き方をすることが神の御心であることを述べるために用いられています。


 まとめ
 ここまでの確認したことからいたしますと、旧約でも新約でも求めていることは創造主なる神に出会う前の道徳基準や習慣から離れて、聖書に啓示された神が人間に与えた標準や道徳観念で行きなさいということを求める記述ということになります。ですから、超人間的な完璧主義的聖さを求める記述ではないことが判ります。神は人間の様子を十分に理解している全知の神ですから、無理な要求をしているはずがないのです。


 参考 
 似ている表現がイエス・キリストによってなされています。

「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書五章四十八節)

 「聖い」ではなく「完全である」という言葉が使われています。旧約の引用ではありませんので用語の確認もしてみます。「完全である」と訳された語は、テレイオスというふうに読める語で、完成しているさま、欠けるところの無いさまを表す語になっています。文字通りに取りますと不可能な要求であると言えます。神に欠けるところが無いように完全であれというのは人間を止めなさいというのに等しいことです。
 では、文脈からどういう意味合いであるかを確認してみましょう。前後の流れから考えますと、四十三節から四十八節のまとまりで考えると良いと思われます。この箇所は敵を憎むのではなく「敵を愛し、敵のために祈る」という実践を求めています。そこまで敢えて実践することが「欠けることの無いさま」に至っていて「神の子」と認められるに相応しいということです。そのために四十五節の記述が有るわけです。(引用しませんので、ご自身で奥義書を開いてご確認ください。)
 具体的には何を求めるためにイエス・キリストがそう述べられたのかということを文脈からきちんと確認しませんと、無理難題をふっかけられたような理解になってしまいますので注意が必要であると思います。






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収入の十分の一を献金しないと罪? 補足四

2013-07-21 23:36:30 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
補足三の中で取り組まなかった作業や取り扱わなかった部分が有りますので、補足四を立てておきたいと思います。

十分の一献金の根拠として頻繁に用いられるマラキ書三章の記述の中心的に意義は何であるかを別の角度から確認してみようと思います。

 十節にある神様の命令を確認してみます。主節となる部分は「十分の一を全部倉に納めよ」ということですが、目的もしくは結果の副詞節と考えられる内容は「宮に食物が有るように」となっているのです。つまり、命じている神様が物質的に焦点を当てているのは「食物」であるということなのです。
 この食物と訳された語は、テレフというように読めるもので、幾つかの辞書を確認すると、裂かれたもの、断片を含意し、獲物、食物、葉、戦利品等と訳されるものであるということです。すると、この語には「分かち合う」という感覚が含まれていると理解することができます。すると、神様の命令は、分かち合われるべき食物としての十分の一の奉納物で宮の倉を満たせという意味が含まれると考えられます。

 以前確認してありますが、十分の一は貨幣ではなく家畜や農作物で捧げられました。それは祭司やレビ人達を養うために用いられました。また、貧しい人達を助けるためにも用いられたのです。そして、神様の御心は、特にこの貧しい人達を助ける部分に有ったのではないかと私は考えます。どうしてそういう考察が可能なのでしょうか。この時代の背景を確認してみましょう。
 注解を調べてみますと、マラキはエズラやネヘミヤの時代に活動した預言者であるとするのが一般的な理解のようです。この時期は、農作物があまり穫れなかったために、人々の生活が苦しかった様子がネヘミヤ記から確認できます。ネヘミヤ記五章を読むと、不作などで人々の生活が苦しく、同じユダヤ人から田畑などを抵当に借金をしていたことがうかがえます。しかも、貸した方のユダヤ人は律法を守らずに利息を取ったりしていました。ユダヤ人を奴隷にすることは許されていたのですが、基本はユダヤ人の間で奴隷となり、解放の年には自由になるのでした。しかし、ある人達は他国人に売られてしまったりしていたようです。
 その時代でも裕福な人達がいて、金を貸したりしていたわけですから、彼らを含む国民全体がが十分の一のをきちんと奉納していたならば、貧しい人達もかなり救済されたであろうと思われます。しかし、そういうことがきちんと為されなかったので、レビ人達も自分の農耕地に帰ってしまうし、貧しい人達は奴隷に売られてしまうほど困窮を極めることになりました。
 ユダヤ人たちは「食物を分かち合う」ことをしなかったことが、神様の御心に反していたことは、これで明らかであると考えて良いと思います。そこで、愛なる神様は、律法の精神である神を愛し人を愛するということをもう一度実行して、神の民であることを示しなさいと迫っていることになります。そうすると、この箇所の中心的な意味は、十分の一を捧げなさいということよりも、律法の精神を守ってお互いに助け合いなさいということになります。モーセが律法の再確認を申命記十五章でした時も、貧しい者を惜しみなく助けるようにと述べています。ですから、この箇所から作物ではなくて金銭を捧げ、貧しい者を助けるよりは主に教会の運営に用いられる十分の一献金の勧めを説くことはできないのではないでしょうか。

今回の考察を元に考えると、マラキ書三章十節~十二節の記述は、次のような原則を我々に語り掛けていると考えることができると思います。
1)神様は貧しい者達に心配りをしておられる。
2)神様は我々が愛と心配りの有る教会を建て上げることを望んでおられる。
3)神様は神を愛し、人を愛し助ける人々を祝福される。






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信じていない人達は迷える羊なの?(ルカ伝十五章一~七節)

2013-06-08 14:30:58 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
少々性質が異なる内容かもしれませんが、このカテゴリーでアップさせていただきます。

 ブログでしたかウェブサイトでしたか記憶が定かではありませんが、クリスチャンではない友人から「クリスチャンは信者でない私たちのことを迷える羊だと言っているんでしょう?」というようなことを言われたという記事を読んだことが有ります。

 さて、私、糸田十八が考える時、この質問への回答は「はい」とも「いいえ」ともなりそうな微妙な部分が有ると思います。
 この箇所のつながりを見ますと、あと二つの例話が続きます。十枚の銀貨の例話と放蕩息子の例話です。羊の例話と併せてこの三つの例話には共通点が有ります。羊は迷っていても同じ群れの羊、銀貨は見失われていても一組で意味をなすもの、息子は二人揃って息子というように、元来一つであった、あるいは一つのまとまりであったということです。
 キリストがここで直接的に述べようとしていたことは何でしょうか。この部分は、パリサイ人達に向かって語られています。彼らは取税人やその他のユダヤ人を罪人として切り捨て、滅びに決まっている人々だと断じていました。しかし、キリストは御許に集まって来た収税人達を受け入れて、神の国の福音を語りました。それはパリサイ人達の攻撃の対象となる行為でした。そういうパリサイ人達に対して、キリストはこれ等の例話を通して、彼らが罪人として切り捨てている人達もアブラハムの契約と祝福の対象である同じユダヤ人ではないか、あなた達と併せて契約の民であり、故に神の愛の対象ではないかと言っているのです。続く十六章の幾つかの例話も、仲間を切り捨てているパリサイ人達への同様な警告という面が有ります。
 そういう意味の流れから理解しますと、第一義的には迷える羊というのは既に契約の当事者で救いの対象になっているユダヤ人についての話ですので、ユダヤ人以外には直接的には関係の無い話になります。ですから、迷える羊をクリスチャンの信仰を持たない人達という理解を即座に肯定して、先のような質問に「はい」と答えるのは少々乱暴であると言えるでしょう。

 では、「いいえ」と答えてしまえば良いのでしょうか。確かにユダヤ人以外は直接の救いの契約の当時者ではありませんし、嫁入りの印の十枚の銀貨のようにユダヤ人と確実に併せて一組というような立場にもありません。
 しかし、例話に登場する羊飼い、既婚女性、父親の姿勢が神の心を表しているとしたら、そこから第二義的にはどうなのかということになると思います。最初の二人は与えられている立場であらゆる努力をして探し出そうとしています。父親は毎日のように今か今かと放蕩息子の帰還を待っています。果たしてそういう神の心がユダヤ人以外には向けられていないということができるでしょうか。
 実は、新約による神の民であるクリスチャンは、ユダヤ人と共に神の国の共同の相続者となったことがエペソ書には記されています。それが嘗ては人々に知らされていなくて、今や明らかになった奥義(ミステリー)であるとパウロは述べています。(二章、三章をご確認ください。)それは、イエス・キリストの働きによって実現しました。広義の原則を確認すれば、イエス・キリストと神の心にあってユダヤ人とそれ以外の人達も同様に救いの対象であり、その意味において一つであると考えることができます。
 一方で、ユダヤ人以外の人達は、最初から皆が神との契約を持っているのではなく、自分から求めてイエス・キリストとの個人的な関係を結ぶことによってその契約に入ります。ですから、大きな目で見ればユダヤ人以外も救いの計画の中に入っていて、それが預言書でも確認できるのではありますが、キリストとの個人的な関係が結ばれる前の状態を「迷い出た」と理解するのは無理が有ります。

 話があちこちに振れてしまいましたが、糸田十八としてのまとめをしてみます。最初に掲げたクリスチャンの信仰を持っていない人の質問に対して、私ならば「いえ、迷える羊というのはユダヤ人内での話です。でも、私たちはキリスト教の神が例話の羊飼いの様にクリスチャンでない人達がその神との関係に入って欲しいと切実に願っていると信じています。」という回答もしくは説明をします。



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