この聖書箇所を根拠にして、牧師の権威になんでも従わなければならないかのように語る人がいます。決してそんなことは無いのですが、この個所しか知らない場合は、そうかと思ってしまう人もいるかもしれません。
しかし、十三章の流れを確認したり聖書辞典などで単語の意味を調べたりすると、この個所からも決してそんな理解を導くことはできないことがわかってきます。
先ず、十三章の流れから考えます。七節から、記者は最初に福音を伝えた使徒や伝道者達、指導者達のことを思い起こすようにと指示しています。彼らが教えたキリスト、福音、教義を思い出し、彼らの生き方や殉教に至るまで忠実だった生き様を思い出してそれに倣いなさいというのです。そして、キリストは昨日も今日もいつまでも変わることはないと言っています。つまり、最初に伝道した指導者達とは異なった教義を持ち込む偽教師がいたということになります。だから、次の九節では、様々な違った教えに惑わされてはいけないということが述べられいるのです。食物に関する記述が出て来ていますが、どうやらユダヤ主義の偽教師が、律法に規定された供え物をささげて、ささげた人が共に食べることのできる肉を食べないと聖い忍者になれないと教えていたようなのです。しかし、イエス・キリストによる救いは完全であり、それに付け足しをするような教えが信仰生活を健全に成長させるはずあがありません。記者は、そうした者は益がなかったということを述べています。
続く宿営、都の比喩は、偽教師が教えるような人間的な努力を離れて、イエス・キリストによってもたらされた救い、天国の価値に従って生きることを勧めています。たとえそれが、偽教師から謗られたりしても。
このような流れから確認してみると、十七節の内容も、偽教師の教えに従わないようにという牧師、長老のような指導者の言葉に関して述べられていると理解させるべきなのです。偽教師の教え、異端の教えに従わないようにという指導に従いなさいという流れで理解されるべきことなのです。
次に、単語の意味の確認をしたいと思います。「聞きいれて」というふうに訳された語は、ペイソーというような発音になる語で、「言葉によって信じるように導かれる、理由づけによって説得される」というような意味合いが有ります。また、「従いなさい」というふうに訳された語は、フペイコーというような発音になる語で、「強い警告や戒めに従う、抵抗しない」というような意味合いが有ります。
このような定義を見ると、先に確認した偽教師の教えとの関わりでこの節が述べられていることがよく判るのではないでしょうか。指導者は、どうして偽教師の教えが劣っているのか、間違っているのかを指摘するのが仕事です。そして、そのような方向に進まないように、他の仲間を引き込まないように厳しく戒めることになります。そういう指導を聞き入れ、従わなければいけないということだったのです。その他の、教義に関係の無い牧師の計画や指導に従わなければならないということまで示すことのできる言葉ではないのです。
更に、十七節の後半は、そうするべき理由を述べています。日本語の訳でははっきりしませんが、ギリシャ語では理由を導く接続詞が用いられています。その理由というのは、彼らが「目を覚ましている」からだということです。これは夜警が見張りをしている様子も表すことができる語です。警戒しているということです。正に、牧師、長老の役目は、間違った教えが教会に入り込まないように見張り、警戒することなのです。そして、指導者達が嘆くとするならば、それは忍者達が間違った教えに流されてしまったということになります。間違った教え、異端に流されれば、それは救いも危ういということが有り得るわけです。「益にならない」と訳された語は、アルシテレイスというような発音になる語で、「割に合わない、試す価値が無い」というような意味合いになります。救いを失うような教えを、指導者達の警告を振り切ってまで信奉することは全く割に合わないと言わざるを得ません。だから、指導者の言うことを聞き入れ、従わなければならないと述べられているのです。
因みに、指導者達が神に申し開き、言い開きをするというのはどういうことかを確認しておきます。原義は目撃証言というような意味が有ります。聖書からその例を確認いたしますと、預言者サムエルは、イスラエルの民が神を退けて王を欲しがった時に、民の言ったことを「神の耳に入れた」ということが有ります。また、パウロがピリピの教会に手紙を書いた時に、冒頭で、彼らが忍者として良い歩みをしていることを思っていつも祈る度に感謝しているということが述べられています。指導者としての執り成しや報告の祈りと考えることができます。彼らの働きはこの地上でしか意味を持ちません。神の御前で審判を受ける時には、イエス・キリストだけが仲保者なのです。その仲保者をないがしろにするような間違った教えや異端の道に進んでしまったらそれは大変なことです。それを防ぐために労している指導者なのだから、きちんと聞き従いなさいということになります。
冒頭で既に述べましたが、この聖書箇所から、どのような牧師、指導者の指導にも従わなければならないと主張することはできません。
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しかし、十三章の流れを確認したり聖書辞典などで単語の意味を調べたりすると、この個所からも決してそんな理解を導くことはできないことがわかってきます。
先ず、十三章の流れから考えます。七節から、記者は最初に福音を伝えた使徒や伝道者達、指導者達のことを思い起こすようにと指示しています。彼らが教えたキリスト、福音、教義を思い出し、彼らの生き方や殉教に至るまで忠実だった生き様を思い出してそれに倣いなさいというのです。そして、キリストは昨日も今日もいつまでも変わることはないと言っています。つまり、最初に伝道した指導者達とは異なった教義を持ち込む偽教師がいたということになります。だから、次の九節では、様々な違った教えに惑わされてはいけないということが述べられいるのです。食物に関する記述が出て来ていますが、どうやらユダヤ主義の偽教師が、律法に規定された供え物をささげて、ささげた人が共に食べることのできる肉を食べないと聖い忍者になれないと教えていたようなのです。しかし、イエス・キリストによる救いは完全であり、それに付け足しをするような教えが信仰生活を健全に成長させるはずあがありません。記者は、そうした者は益がなかったということを述べています。
続く宿営、都の比喩は、偽教師が教えるような人間的な努力を離れて、イエス・キリストによってもたらされた救い、天国の価値に従って生きることを勧めています。たとえそれが、偽教師から謗られたりしても。
このような流れから確認してみると、十七節の内容も、偽教師の教えに従わないようにという牧師、長老のような指導者の言葉に関して述べられていると理解させるべきなのです。偽教師の教え、異端の教えに従わないようにという指導に従いなさいという流れで理解されるべきことなのです。
次に、単語の意味の確認をしたいと思います。「聞きいれて」というふうに訳された語は、ペイソーというような発音になる語で、「言葉によって信じるように導かれる、理由づけによって説得される」というような意味合いが有ります。また、「従いなさい」というふうに訳された語は、フペイコーというような発音になる語で、「強い警告や戒めに従う、抵抗しない」というような意味合いが有ります。
このような定義を見ると、先に確認した偽教師の教えとの関わりでこの節が述べられていることがよく判るのではないでしょうか。指導者は、どうして偽教師の教えが劣っているのか、間違っているのかを指摘するのが仕事です。そして、そのような方向に進まないように、他の仲間を引き込まないように厳しく戒めることになります。そういう指導を聞き入れ、従わなければいけないということだったのです。その他の、教義に関係の無い牧師の計画や指導に従わなければならないということまで示すことのできる言葉ではないのです。
更に、十七節の後半は、そうするべき理由を述べています。日本語の訳でははっきりしませんが、ギリシャ語では理由を導く接続詞が用いられています。その理由というのは、彼らが「目を覚ましている」からだということです。これは夜警が見張りをしている様子も表すことができる語です。警戒しているということです。正に、牧師、長老の役目は、間違った教えが教会に入り込まないように見張り、警戒することなのです。そして、指導者達が嘆くとするならば、それは忍者達が間違った教えに流されてしまったということになります。間違った教え、異端に流されれば、それは救いも危ういということが有り得るわけです。「益にならない」と訳された語は、アルシテレイスというような発音になる語で、「割に合わない、試す価値が無い」というような意味合いになります。救いを失うような教えを、指導者達の警告を振り切ってまで信奉することは全く割に合わないと言わざるを得ません。だから、指導者の言うことを聞き入れ、従わなければならないと述べられているのです。
因みに、指導者達が神に申し開き、言い開きをするというのはどういうことかを確認しておきます。原義は目撃証言というような意味が有ります。聖書からその例を確認いたしますと、預言者サムエルは、イスラエルの民が神を退けて王を欲しがった時に、民の言ったことを「神の耳に入れた」ということが有ります。また、パウロがピリピの教会に手紙を書いた時に、冒頭で、彼らが忍者として良い歩みをしていることを思っていつも祈る度に感謝しているということが述べられています。指導者としての執り成しや報告の祈りと考えることができます。彼らの働きはこの地上でしか意味を持ちません。神の御前で審判を受ける時には、イエス・キリストだけが仲保者なのです。その仲保者をないがしろにするような間違った教えや異端の道に進んでしまったらそれは大変なことです。それを防ぐために労している指導者なのだから、きちんと聞き従いなさいということになります。
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