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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

マグニフィカート(ルカ伝一章四十六節~五十五節)

2013-02-11 21:10:17 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
 聖霊に満たされたエリサベツの祝福を受けた後、マリヤは神への賛美の告白をします。マグニフィカートと呼ばれるのは、マリヤが最初に主を「あがめ」と告白したところにちなんで、賛美する、あがめるという意味のラテン語で呼ばれることになったためのようです。
 注解によると、この部分には旧約聖書の引用と考えられる部分が少なくとも15箇所有るということです。それは、マリヤが如何に旧約聖書に通じていたか、また、神に忠実な女性であったかを物語っています。信仰の教育がユダヤ人の習慣や伝統であったとはいえ、まだ十四歳ぐらいであったマリヤが相応しい場面で、自由自在に旧約聖書の言葉を用いて賛美をすることができたということは、それだけマリヤが心を尽くして神を信頼していたと考えることができると思います。また、ユダヤの女性として成熟した存在であったと言うことができます。そんな資質がキリストの降誕のために用いられることになったのであろうと思います。また、私達の模範となる部分が有ると思います。私達も、そのように御言葉に通じた者となりたいものです。


賛美の内容は大まかに言って二つの部分に分けられと思います。

第一部 マリヤ自身への神の恵みに対する賛美 (四十六節~四十九節前半)
 
その部分までは、「わたし」という言葉が出て来ます。
 
 マリヤにとっては、自分の状態が救われなければならないという認識があったかどうかはわかりません。しかし、大いなる神は、いつでも救いをもたらす神です。ですから、「救い主なる神をたたえます。」という告白は相応しいのです。
 神の恵みと祝福は、たいしたことのない地方の、名も無い結婚適齢期になったばかりの女性を選んでくださったのです。旧約聖書には、人々が賞賛するような女性が何人か出て来ます。個人的にはミリアム、へベルの妻のヤエル、デボラ、ルツ、アビガイル、エステル、などが思いつきます。しかし、マリヤは当然そのような名声とは縁の遠い、ただの若い女でした。
 そんなマリヤを神様は選んで救い主の母となるようにしてくださったのです。そのようなマリヤに大きな恵をくださったのですから、彼女は幸せな女であり、また、代々の人々は彼女を幸いな女と認めてきているのです。


第二部 全能の神のご性質を告白する賛美 (四十九節後半~子十三節)
 
そのみ名はきよく、 そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

 ここでは「主は」という記述が中心になっています。その御性質を告白することは、賛美の表現の本質です。また、この中で大事なことは、アブラハムとの契約の成就であるという部分であります。偶発的なことではなく、約束によることであるということで、ひいてはこれまでの預言の成就であることも宣言しており、神の誠実さと救いの計画の確かさを宣言していることになります。

 さて、先に伸べたことの繰り返しになる部分が有りますが、マリヤの賛歌は、幾つかの旧約聖書の引用と考えられる部分が有るということですが、多くの注解が指摘しているのは、サムエルの母ハンナの賛美の祈りとの類似点です。マリヤにとっては、ハンナの気持ちがリアルに理解でき、共感できていたのかもしれません。ローマの支配下に有るユダヤ人の持つ悲しみと、まだ結婚適齢期に達したばかりの自分の無力さとを重ね合わせて、そこに応えてくださった神様への感謝がほとばしり出たのではないかと思います。そういう生きた聖書の記述との親しい交わりと共感を持っていたマリヤがいかに素晴らしい神のしもべであったのかということを思わされます。その資質が、生涯彼女を支えたのではないかと思います。

 マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰ったということですが、エリサベツと日々礼拝を捧げ、祈りを捧げ、霊の養いを受け続けたのではないかと想像することができるように思います。マリヤはまたエリサベツの身の回りの世話や手伝いをし、もしかしたら、バプテスマのヤハネの誕生まで見届けたのかもしれません。三ヶ月という期間には、そういう含意が有るかもしれません。

 さて、この箇所から私達が学ぶべきことは何でしょうか。
 第一には、賛歌の中に直接的に表現されている最初の事柄、神の救いへの感謝と賛美の心を持ち続け、告白し続ける態度を持つということではないでしょうか。自分の無力さをマリヤのように自覚して感謝し続ける者でありたいと思います。 
 第二には、そのような救いを下さった神のご性質をいつも思い、告白して神を賛美する姿勢ではないでしょうか。毎週、毎日、毎瞬、繰り返し飽きることなくこの主の語性質を喜び告白し続けることが私達のあるべき姿であると思います。
 第三は、マリヤの姿勢から間接的に学ぶことですが、聖書の言葉に通じた者となり、それを繰り返し味わい、リアルにその内容を感じることができるような霊的な交わりを主と持ち続けること。そのことを通して、神への信頼を深め、誠実に信じ求める神のしもべで有り続けることではないかと思います。






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再考 良い方とは? 付録其の二 (ルカ伝十章三十八~四十二節)

2013-01-05 11:52:36 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
 昨年書き溜めた、私が耳を傾けた説教のメモを整理していましたら、この記事に関連するものが出てきましたので、記録しておこうかと思います。

 ご用をされた中忍が調べたところによりますと、この「良い方」というのは、イエス様の語られた内容に関係が有るのではないかということです。
 彼によると、ある聖書学者(達?)は、この時イエス様が語っておられたのは、ご自身の十字架の死、復活、贖いを旧約聖書から説き明かしであったのではないかと考えるそうです。 確かに、福音書を確認すると、イエス様はそういうことを繰り返しされていたであろうことがうかがえます。
 一方で、この箇所でイエス様がそういう内容のことを語っておられたということをはっきり理解できる材料は有りません。従いまして、霊想としては意義のあることですが、この奥義書の箇所の理解を語る主たる材料としては用いることができません。





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再考 良い方とは? 付録 (ルカ伝十章三十八~四十二節)

2012-05-19 11:00:59 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
この箇所の聖書箇所で「良い方、只一つの大事なこと」は何であるかということについて、二つの考えを示してきました。そこで、考えておかなければならないことが有ります。そういう解釈においては、必ずしも結論が出ない場合が有るということです。その場合は、それぞれの解釈の強い点と弱い点を確認し、意識するということです。自分は一番整合性が有ると思って一つの立場を選んだ場合も、当然その立場の弱い点は理解しておかなければなりません。また、どちらにも決めないで、両方の立場から得られる教えや恵を心に留めるという方法も決して退けられるべきではありません。

今回の二つの立場について、簡単に強い点と弱い点を記しておこうと思います。


立場一、 良い方とは「キリストの御言葉を聞くということである」
強い点)この立場の強い点は、物語の直接的つながりに合致している点です。キリストは、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。マルタの要請に従ってマリアを仕事に行かせた場合「取り上げられる」事柄は何かと考えれば、「キリストの御言葉を聞くこと」というつながりは大変直接的でわかり易いのではないでしょうか。

弱い点)この立場の弱い点は、その原則をそこに居合わせた全員に適応できないという点です。マルタも仕事を止め、他の人も仕事を止めたら、キリストの一行をもてなすために家に迎え入れた意味はなくなってしまいます。キリストも、そうなることをもよしとして発言してはおられないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。


立場二、良い方とは「心を騒がせないということである」
強い点)キリストがマルタの状態を指摘して「あなたは心を騒がせている」と言ったことが、問題の中心を分析、指摘していると考えられる点です。キリストを証する福音書の中のキリスト御自身の言葉です。また、そうであれば、誰にでも適応される霊的一般原則と考えられます。こちらの理解であれば、マリアはキリストの足元で御言葉を聞き続けていても問題ないし、マルタは仕事に戻っても問題ありません。キリストの一行をもてなすために家に迎え入れた女主人のするべきことを遂行することができます。

弱い点)立場一の裏返しになりますが、キリストがマリアから取り上げてはいけないと言われた内容が、直接的に且つ明確に「心を騒がせないこと」であることを示す記述が無いことです。「心を騒がせない」ことをマリアから取り上げるということは、再解釈や二次的な考察をする必要が有ります。



こういう状況では、自分の立場の決め方は二通りになると言えるでしょう。一つは、総合的に考えて、自分がより聖書的原則と文化背景などの状況に合致していると思える方を自分の立場とすることです。二つ目は、どちらにも強い点と弱い点が有ることを考慮して、どちらか一つに絞り込むことを止めて、両方の可能性に心を留めるという立場を取ることです。それは決して悪いことではありません。自分の限界と聖書の権威の両方に目を留めた、謙遜な姿勢と理解されるべきだと思います。





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再考 良い方とは? (ルカ伝十章三十八~四十二節)

2012-05-17 23:43:26 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
一般的にマリヤが選んだ「良い方、只一つの大事なこと」というのは、「御言葉を聞くこと」であると言われます。私もその立場で一度記事をアップロードいたしました。

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/m/200803
しかし、自分でこの箇所をじっくり再確認した後で、別の考え方も可能であると思うようになりました。それは、良い方とは「心を騒がせないこと」とではないかということです。

マリヤが選んだことが「良い方、只一つの大事なこと」であるならば、マルタもそうするべき事柄であるはずです。しかし、この箇所の状況においては、マルタが御言葉を聞くためにイエス様の足元に座っているというのは相応しい状況ではないと考えられます。
 マルタは危険を冒してイエス様の一行をもてなすために家に迎え入れたと言っても過言ではないと思います。すでにその頃にはパリサイ人達は、イエスを認めるものを破門すると宣言していましたし、イエスの命をも狙っていました。その態度は賞賛に値すると思います。
 イエスの一行は、最低でも20人ぐらいになります。12弟子の他に、イエス様の宣教を助ける女性達の名前が三人挙げられ、その他にも大勢女性の助け手が同行したとルカは記録しています。八人ぐらいの女性が居たとする解説も読んだ記憶が有ります。その一行をもてなすためには、相当量の仕事が必要になります。ですから、その一行を招き入れたマルタが、実際には仕事をイエス様を助ける女性に委ねて御言葉を聞くということは有り得ません。仮にそうしたならば、今度はその女性達から「良い方、只一つの大事なこと」を奪うことになります。

福音書の解釈では、イエス様の言葉は大事なキーワードです。イエス様はマルタに対して「あなたは心を騒がせている」という指摘をしています。マリヤの方はそういう状態ではありませんでした。
 マリヤが支度を手伝うために立つと、彼女から取り上げられるものは、御言葉を聞くことのほかに無いではないかと考えられるかもしれません。しかし、一旦支度に駆り出されれば、マルタの騒ぐ心は伝染するかもしれませんし、マリア自身もいろいろ考えるうちにそういう心の状態になるかもしれません。すると、マリアから大事なものを「取り上げた」ことになるのではないでしょうか。

 状況的背景や重要な要素であるイエス様の言葉から考えると、「心を騒がせないこと」が「只一つの大事なこと、より良い方」であり、イエス様の御言葉に聞き入ることが、その唯一の源であるという理解の方が整合性が有るように感じます。

伝統的な結論の方を採用するにしても、マルタが奉仕に心を砕いていたことを否定的に解釈するのは違うのではないかと思います。

この考え方、どう思われますか?





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マリアのエリサベツ訪問 (ルカ伝一章三十九節~四十五節)

2012-05-03 18:08:01 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
ルカは受胎告知後のマリアの行動を記録しています。ルカがここで順序立てて説明する中で何を伝えたかったのでしょうか。いつもの様に各節の内容を確認しながら考えて行きたいと思います。奥義書(聖書)を開きながらお読みください。

三十九節
 日本語訳では、「そのころ」などとするものが多いようですが、どちらかというと「それからすぐに」というニュアンスの方が良いように思われます。外国語の訳においてはそうなっているものも有るということです。身支度が出来次第直ぐという感覚であったろうとする解説も有ります。「立って」という言葉は旅に出るニュアンスが有るということです。
 行き先については暗喩的に述べています。山里と訳したり山地と訳したりしていますが、実際にどの町を考えているかによって受け取り方は違うように思います。場所の考え方については諸説有るようです。一つ目は、「山地に有るユダの町」というような表現を慣用的なものとして捉え、広い範囲で考えてエルサレム周辺の町と考えます。二つ目は、その他の条件を加えてより絞りこんで、祭司の町であったヘブロンと考えます。三つ目は、一世紀の教父などの記述から、ヘブロンよりももっとエルサレムに近く、丘に囲まれたアイン・カリムという町だと考えます。いずれにせよ、若い女性の一人旅は山賊などに襲われることを考えると大変可能性は低く、旅の一団や商隊に同行させてもらうということであったろうと考えられます。
 「急いだ」という表現が用いられていますが、原語から考えると、旅程を急いで進めたということではなく、マリアの心の持ち方であったのかもしれないとも思います。原語では速度を意味する名詞が用いられていますが、派生的には熱心、勤勉、努力などのような意味が有ります。

四十節
 目的地はザカリアとエリサベツの家です。家に着くと挨拶はエリサベツにしたということが記されています。エリサベツに会いに行ったのですから当然ですが、他にも、男性と女性が挨拶をすることは稀であったとか、ザカリアは子供が生まれるまで口が利けなくなっていたなどの事情が重なっていたことも考えられます。
 二人が親戚とは言え、面識が無い場合も有ったことでしょうが、マリアには一目でエリサベツがわかったでしょう。それなりに高齢でありながら妊娠六ヶ月の目立つお腹をしていたでしょうから。マリアは天使ガブリエルの言うことを信じて受け入れましたが、自分の未来に起こるであろう不利で難しい状況などを考えると、更に確信と力を得たいという思いが有ったことでしょう。そこでガブリエルが印として伝えたエリサベツが妊娠六ヶ月であるということを、自分の目でも確かめたかったと思われます。そして、この挨拶の瞬間に、その目的の大半は遂げられたと考えられるのではないかと思います。

四十一節
 マリアの挨拶がどんなものであったかはわかりません。しかし、そこには普通ではない現象が伴いました。エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネがおどったということと、エリサベツが聖霊に満たされたということでした。この二つは同時に起こり、また、胎内のヨハネとエリサベツの両方に聖霊は働かれたと考えることが多いようです。
 胎児は周囲のできごとを理解しており、胎児も罪を犯すことが有るというのが当時の理解でした。それは別にしても、聖霊によってこの状況を理解し、喜びの表現としておどった、跳ねたと考えることは間違ってはいないと思われます。この部分をもって、ガブリエルが十五節で述べた「母の胎内にいる時から聖霊に満たされており」という預言の成就の一部であると考える注解が有ります。また、バプテスマのヨハネが後にヨハネ伝三章二十九節で「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。」と告白したのも、この原体験とも結びついていると考える注解も有ります。
 とにかく、この胎児においてさえ、ガブリエルの伝えた二つの奇跡が真実であり、霊的な一致の証を持っていたということを理解することができると思います。
 一方のエリサベツも聖霊に満たされて、この一連の出来事とガブリエルが伝えたこれから起こることが、神の業であり確かなことであるということを預言する言葉を神から授かりました。
 ルカはこのような記述を通しても、書き記されている事柄やキリストについて教会内で語られていることが本当のことであるという論証を重ねようとしている姿勢がうかがえます。

四十二節
 聖霊に満たされたので、エリサベツは自分自身では知らなかったのではないかと思われる預言の言葉を語ります。大声を上げたというのは、その霊の感動と喜びが大きかったからだと思われます。
 最初に出てきた言葉は「女の中の祝福された人」ということでした。ガブリエルの「恵まれた女」という内容と合致していると思います。次いで、「胎の子供も祝福されている」ということでした。これも、ガブリエルを通して伝えられた内容に合致しています。こうして、聖霊の働きによるエリサベツの言葉を通して、先に示されたことが確認されることになりました。

四十三節
 続くエリサベツの言葉は「なんということでしょうか。」という語調のものです。実際には、「どうしてこのような恵が与えられたのでしょうか。」という雰囲気に近く、謙遜の表現であるという説明をする注解も有ります。聖霊に啓示されたその内容を考えれば、そう言わないではいられなかったであろうと思います。その内容とは、「主の母が私のところに来るとは。」という驚くべきものでした。天使ガブリエルの言葉の通りであれば、生まれてくる子供は神なのですから、主と呼ばれるべき存在ですし、その子を宿している女性ですから、マリアは主の母と言える状況でした。人間の考えでは決して起こりえないことですが、それがエリサベツに実現した驚きが現れています。そして、そればかりではなく、この言葉によって、ガブリエルの語った中心的で重要な内容についても確認がされたことになるのです。

四十四節
 原語では理由を導く接続詞と理解できる言葉が入っています。マリアの挨拶の声を聞いてエリサベツの胎の子供が喜び踊ったから知る事ができた、というような意味合いが含まれているのかもしれません。ユダヤ的背景の有る人にとっては、この部分も神の業が起きていたことを強調する意味を持ち得るようです。ユダヤ人の伝統によると、神が紅海の水を開いて、モーセに導かれてユダヤ人達がそこを渡り終えてエジプト軍に勝利した時、胎児達も歌を唱って神をほめたたえたということです。ですから、胎内にいたバプテスマのヨハネの喜び跳ねた様子だけは関係無いとは言えないのではないかという主張が背後に有るようです。

四十五節
 聖霊に満たされたエリサベツの預言を締め括る言葉は、「主が語られたことは成就すると信じる者は幸いです。」というものでした。エリサベツはマリアの話しを聞く前にこのようなことまで聖霊によって知り得たわけです。
この部分は特別な奇跡的で不思議な事柄は含まれていません。そして、それはマリアの信仰についての神による評価の記述であるのみならず、私達信じる者たちに関わる普遍的な法則である部分が有ります。締め括りに語られた言葉でありますから、私達が心に留めるべき重要な要素であると考えることもできるでしょう。
 

まとめ
ルカがこの箇所から伝えたかったことを、次のように考えてみました。
1) 神の与えてくださった印や恵は、同じ霊と恵を分かち合った仲間を通して確認することができる。
2) 天使ガブリエルの言葉と聖霊によるエリサベツの預言は内容の一致が有り、教会で伝えられているキリストの福音は本当のことである。
3) マリアのように、神が語られたことを信じる者は幸いである。キリストの福音を信仰によって受け入れる者の幸いも同様である。

このように見ますと、繰り返し同じ要点を確認し続けているように思います。現代に生きる私達キリシタン忍者達も、これらのことを心に留めることに意味が有ると思います。特に、締め括りで語られ、受胎告知の時にも確認された、神の言葉を信じ、疑わず委ねる信仰を繰り返し修行しようではありませんか。
 





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受胎告知 (ルカ伝一章二十六節~三十八節)

2011-10-19 21:17:09 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
 ルカは検証されて本当だと確証されたことを順序立てて記すという姿勢で福音書を書きました。天使ガブリエルによるバプテスマのヨハネの誕生の予告の記事の次に記されているのが、マリアへの受胎告知でした。節を追って確認してみます。奥義書を見ながらお読みください。

二十六節
 エりサベツの妊娠から六ヶ月目のことです。ガブリエルの予告は実現して確実に進んでいたということになります。神のなされることは確実に進むのです。
 さて、その同じガブリエルが再び遣わされました。ガブリエルの役割は、特に神の意思を伝えることにあるとも言われています。今回ガブリエルが遣わされた場所は、普通の人たちからはあまり見向きもされない町でした。しかも、その訪れた先は無力な女性のところでした。処女と訳された言葉は、結婚できる年齢に達した女性という意味が有り、だいたい十三歳ぐらいからそう考えられたようです。この時のマリアは十四歳かそれ以下であったろうという注解もあります。

二十七節
 結婚適齢期ということを裏付けるように、この女性には婚約者が居ました。具体的な名前が記録されているのは、それが実在の人物であり、当時であれば本人はすでに死亡していたとしても、まだ取材が可能であるという示唆でもあったように思われます。

二十八節
 ガブリエルの挨拶は、原語では「喜べ」という意味を持つ命令形ですが、挨拶の言葉として割合幅広い意味で用いられたようです。「喜び、平安があなたに有るように」という意味を持っていたと考えられます。おめでとうという意味は有りません。
 恵まれた者という表現が有りますが、神の好意を得た者、誉れ有る者という意味を含んでいます。それは主があなたと共におられるということとつながると思われます。
 私たち忍者も、神の好意を得、キリストにあって誉れ有る者となり、神が共におられる存在とされました。その意味では、同様の恵みに与っていると言えるのではないでしょうか。

二十九節
 マリアの胸騒ぎは、一重にガブリエルの挨拶の意味が良くわからなかったことによるものでした。どこの世界にも独特の挨拶の言葉が有り、その挨拶に相応しい場面が有ります。「永遠に生きられますように」と言えば王に対する挨拶だったりしましたし、「ようこそ」などと言えば、歓迎されていることがわかります。しかし、ガブリエルの挨拶の言葉は、一般によく聞かれる挨拶や口上ではありませんでした。ですから、その後に何が起きるのか彼女には想像がつかなかったのです。大事な場面や仕事でマナーがわからなかったり次に何が起きるのかがわからなければ、身の処しようがわからず不安になります。マリアの状況はそんな感じであったと考えて良いでしょう。しかも、この時は天使と対面していたのですから。

三十節
 「恐れるな」という言葉は聖書に三百六十五回出てくると言われます。神と共に在る者は一年中三百六十五日恐れる必要が無いのです。ガブリエルもその言葉をマリヤにかけました。しかし、この場合はそれ以上の理由が有りました。マリアは特別な神からの恵みをいただいているというのでした。

三十一節
 生まれる前から神の使いによって名前を与えられた者は特別な存在です。今回も子の名前がガブリエルによって告げられました。イエスというのは「主は救い」という意味が有る名前です。それは、一般的な希望としてではなく、本当にこの子を通して実現することになるのでした。

三十二節
 生まれる子は大いなる者となると言うのですが、そこからが普通の内容ではありません。「いと高き者」というのは、神ということです。生まれてくる子供は「神の子」であるというのです。しかも、その神が彼を王にするというのです。

三十三節
 キリストは人間的な家系から言えば、ダビデの子孫でした。神はまたダビデに対してもその王座に着くものは絶えないことを約束していました。マリヤから生まれてくる子が「とこしえに」「限りなく」ヤコブの家、つまりイスラエル人を支配するということは、その約束に合っています。しかし、今回は、その一人の子の支配がとこしえに続くというものです。その子供が神であるということを述べていると理解できます。
 ルカは、ここで神の約束と結びついた生まれて来る子についてのガブリエルのメッセージを記録することによって、キリストの神性を確認させようとしています。

三十四節
 ガブリエルが告げた神のメッセージは、それが自分に起きるとは想像ができないような途方も無い内容でした。マリアの口から「どうして、そんな事があり得ましょうか。」という質問が出るのも無理からぬことのように思えます。しかし、この訳はあまりその原意を伝えていないように思います。むしろ、「どのようにして、そのような事は起きるのでしょうか。」という感覚が強いと考えられます。質問はガブリエルのメッセージに対する不信というものではありませんでした。その焦点は「どのようにして」という、方法や手段に有ったのです。マリアに不信の思いが無かったことは、ガブリエルがザカリアの時のようにマリアが話しができなくなるようにしたりしなかったことでもわかります。
 確かにマリアが考える時、ガブリエルの言葉が実現できるような状況ではありませんでした。第一に、生物学的に無理が有りました。婚約者はいましたが、まだ成婚という状況ではありませんでした。第二に、社会的状況的に無理が有りました。未婚の女性が懐妊することは大変不利な状況で、その子が人々の認知を受けて王にまで成るというのは難しいことだと言えました。

三十五節
 そこでガブリエルは、「どのようにして?」という方法に関する疑問に答えます。聖霊が彼女に臨み、神の力が彼女をおおうという方法によってであるというのです。人間的な方法によらず、聖霊と神の力によって子供が生まれるのだから、その子は聖なるものであり、神の子というわけです。これは、後に成就する十字架の贖いにおいて、大変重要な要素でありました。

三十六節
 ここでガブリエルは次の節に示される結論につなげるための身近な例を示します。神の力によれば、不妊で老齢であったエリサベツも妊娠し、流産もなく健やかに六ヶ月になっているということです。

三十七節
 エリサベツの妊娠は、旧約のサラの妊娠と同じぐらい難しいことでした。しかし、それが実現して今も順調に進んでいるのです。それは「神には何でもできないことはない。」という結論を示すのに十分な例証であったでしょう。
 マリアの「どのようにして?」という疑問は、生物学的な障害と社会的な障害などを考えたことから来るものでした。しかし、人間的に考えた時にどのような障害が有ろうとも、神には不可能は無いのです。

三十八節
 ここまでのガブリエルの言葉を聞いたマリアには、もう何も言うことは有りませんでした。彼女の自己認識は、「主のはしため」ということでした。ですから、聖霊によって事が起きるというのが、具体的にどういうことかたとえ理解できなくてももう関係なかったのです。ただ、神の心、神の計画が成れば良いのです。それが、「主のはしため」の立場であり、とるべき態度でした。はしためと訳された語は、自発的であるか否かに関わらず奴隷や僕であることを表す名詞で、女性名詞の語尾になっています。
 ガブリエルの使命はマリアがこの信仰の告白に至ったことで果たされ、その場を去って行きました。


 さて、ここでルカが伝えたかったことから考えてみます。以下の四つを挙げることができるように思います。

1.キリストの誕生は、宣教されている福音の通り、罪の無い神の子としての誕生であったということ。

2.ガブリエルの伝えた内容は、旧約聖書の預言に合致しており、且つ宣教されているキリストによって人々にもたらされた神の国の有様と合致していること。

3.神には何でもできないことは無いということ。

4.マリアの態度は、福音を信じた者たちの態度でもあるということ。

4.は、私の考え過ぎかもしれませんが、そういう願いも含まれていたのではないかと思います。


 続いて、現代に生きる忍者(クリスチャンという意味です)はどのようなことを学ぶことができるかを考えてみます。この箇所に登場する人物中で、我々が倣うことができるのはマリアです。天使ガブリエルに倣うなどということはできませんから。

 マリアは天使ガブリエルによる特別な啓示を受けましたが、そのような経験をする人は今日ほとんどいないことでしょう。しかし、私たちには同様な、いやそれ以上の特別啓示である聖書が有ります。その中心的なメッセージはイエス・キリストです。

 マリアは肉体的にイエス・キリストをその胎に宿し、また世に送り出しました。また、その子が永遠の王となるという預言がありました。それがどのような方法で起きるかということがマリヤの疑問でした。しかし、マリヤがその方法を心配する必要は無かったのです。神には何でもできないことは無いからです。
 私たちは、ガブリエルがマリアに告げたキリストの永遠の支配の一部に加えられた存在です。しかし、時にはそんなことがどうして起こりえるだろうかという疑問がわいたりします。キリストが私たちのうちに生きるとか、聖霊の実が私たちのうちに結ばれるというのは無理ではないかとか、いろいろなことを考える時が有るかもしれません。

 マリアは、ガブリエルが「神には何でもできないことはない」と告げた時に、それを受け止めました。それが信仰であると言えるでしょう。マリアの「どうして、どのようにして。」という疑問は無用なのでした。同様に、私たちにもいろいろな疑問が有るかもしれません。また、将来に対する心配なども有るかもしれません。しかし、そういうことも含めて、神は私たちに恵みを与え守ると言われました。どうしてそのようなことが起きえるだろうかなどという心配をする必要は無いのです。神には何でもできないことはないからです。私たち忍者はそれを信じることに決め、神からの応答の経験を積み重ねて生きているのです。
 この過程は、福音を聞いて、これから信仰に入ろうとする人たちにも起きることであると思います。


次のようにまとめてみたいと思います。
1.私たちには聖書の言葉が与えられています。それは私たちの一般常識には合わないことも有るでしょう。しかし、私たちにはそういう神様の言葉は届いているのです。

2.私たちには、神の言葉がどのように自分自身や自分の人生に実現しえるかという疑問が有るかもしれません。しかし、神の御心は、私たちがキリストの永遠の支配の中に入ることです。マリアにはエリサベツという神からの証拠が有ったように、現代に生きる私たちにも後押しとなるような経験や情報をくださることでしょう。

3.聖書を通しえ与えられた福音や神の言葉が、どのように実現可能かという疑問は必要有りません。神には何でもできないことは無いからです。神の力は私たちにも及び、イエス・キリストの血潮の贖いと聖霊の内住が私たちを覆い支えているのです。そのことを信じて告白する神の僕となり、マリアの模範に倣う者となりましょう。




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十二使徒の選び (ルカ伝六章十二節~十九節)

2010-12-05 05:19:37 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
―福音は忠実に伝えられた―
*奥義書を確認しながらお読みください。


導入
 十一節で、パリサイ人達がキリストをどうしてやろうかと話し合ったという記述が有ります。この頃から彼らはキリストを殺すことを考え始めていたと判断してよいでしょう。事態は決定的に困難な方向に転換したと考えることができます。その時、キリストは静かな所に退いて祈りました。困難に対処するためでもあったと思います。また、その困難な状況を越えて成し遂げなければならないことに向けて準備をするためでもありました。


本論
 キリストは一晩中祈ったとされます。それは、彼がこれからしようとする事柄の重要さを示しています。それは、神の国を宣べ伝える十二使徒を選ぶことでした。

 日の出と共に、キリストは弟子達を呼び寄せて、その中から十二人を選びました。選んだという語はエクレゴマイが使われていて、呼び出すという語感が有ります。ここで選んだのは使徒でした。弟子は師から学び従って行く者のことですが、使徒は使者として主人の言葉を伝えるために送られる者のことで、区別が必要です。学び従う者達の中から、主人の言葉を伝えるために送る者として相応しい者達を選び出したということです。主人の言葉を正確に伝えられなければ使徒、使者の意味も価値も有りません。メシアであるキリストは、確実に自分の言葉、福音を伝える能力の有る者を選んだに違い有りません。

 選ばれた使徒達の記述の中から、特に確認が必要と思われるものについて述べます。最初のユダは別の箇所ではタダイと呼ばれています。バルトロマイは別の箇所ではナタナエルとよばれています。熱心党のシモンという表現は、二通りに考えられるようです。一つは政治結社で熱心党というものが有ったとするもので、もう一つは、彼が宗教的実践に熱心であったことを形容する表現とするものです。イスカリオテのユダという表現についてもまだ疑問の余地が有る様子ですが、イスラエルの南部のユダヤの町、ケリオテ出身という意味に考えることができるようです。
 こうしてみると、十一人はガリラヤやその周辺の出身で、一人だけユダヤの出身ということになります。確実に判っていることは、四人は元漁師で、一人は収税人であったということです。学者達によっては、七人が漁師で、トマスはマタイと双子で同業の収税人であっただろうと考えるそうです。その確かさは別にして、様々な背景の人々が神の国のために働くことができ、神の使者として主人、キリストの言葉を伝えることができることを見ることができます。

 人数はどうして十二人だったのでしょうか。イスラエルの十二部族に合わせたと考えるのが一番解り易いようにおもいます。霊的象徴的意味ではありますが、新しいイスラエルの始まり、新しい国に始まりという考えが含まれていると思われます。それを抜きにしても、ユダヤ的な数字の考え方では、三は完全な神の数字、四は人間の数字で、それを掛け合わせてできる十二と言う数字には神と人の完全な調和と力の象徴であるということであり、また、実践的にも丁度良い人数であったと考えることができそうです。

 十七~十九節は、どのような区切りとして考えるのが良いでしょうか。ここは、時間の流れに従って、十二使徒の任命の直後に山を下り、そこに各地から人々がキリストの教えを聞き、癒しを求めて集まっていたことが述べられています。この後の山上の垂訓の箇所につながって行く橋渡しのように見えます。
 文脈的な理解を試みますと、キリストの言葉を伝える使徒が選ばれた後にすぐにこの説明を挟んでキリストが神の国の説教をするというつながりから、記者はこの後に使徒が伝えるべき主人から託された言葉が何かを読者に示そうとしていると考えることができます。つまり、この三節は、単純な時間に沿った記述なのではなく、十二使徒の選びと山上の垂訓をしっかり結びつける大事な役割を持っていると考えることができます。


結論
 ルカが読者に伝えたかったこと、現代の私たちが学ぶべきことは何かを考えて見ます。ルカは異邦人でした。また、ルカ伝も異邦人に向けて書かれています。それは詳細に調べた結果の報告であり、キリストの教えに基づいた事実であると主張しています。この福音書が回覧され、筆写されるようになった頃の読者達は、直接キリストの働きを目撃したことの無い人々が殆どでした。ですから、ルカは、その世代の人達に、教会で起きていることや教えられていることはきちんとキリストにつながる事柄であることを確信させたかったのです。(ルカ自身も、キリストの地上での働きの直接の目撃者ではありません。)
 ルカが当時の異邦人のクリスチャンに伝えたかったことは、次の様に整理できると思います。

一、異邦人に伝えられた福音は、キリストが深い祈りを通して選んだ使徒、使者(単なる弟子ではなく)を通して、キリストの語った通りに忠実に伝えられたのだ。

二、教会で語られる福音だけでなく、癒しの業や悪霊の追い出しも、キリストの権威によって起こっていることである。

三、ツロ、シドン人もキリストの元に集まったように、福音は異邦人にも与えられているものであり、確信を持って受け止め、この道を歩もう。







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誰に権威が有るのか(ルカ伝六章一~十一節)

2010-11-27 03:03:08 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
-奥義書を見ながらお読みください-

導入
 今回取り上げた区切りは、二つの逸話が含まれていますが、安息日にしてはいけないこと、しても良いことは何かという問答が共通です。その疑問から発して、キリストはどんな方であるのか、私たちは何を学ぶべきかを考えて行きます。


本論
一つ目の問答(一~五節)
 引き続きカペナウムでのことではないかと考えられます。安息日に麦畑を通っていたということですが、弟子達が麦を揉み出して食べたのですから、空腹を感じていたわけですが、そのことから、これは朝のことではなかったかとする解説書が有ります。安息日には朝食も取らないで早く礼拝所に行くので、途中で空腹を感じることも有っただろうということです。原語では、穂という意味合いの言葉が使われていますので、実際には何の穂かまでははっきり判りませんが、揉み出して食べるのですから麦であると判断することができます。
 さて、いつものようにキリストの行動を監視するパリサイ人達が現われて、弟子達の行動は安息日にしてはいけないものだと言いました。はたしてそうであるのかどうかを確認してみます。申命記二十三章二十五節などを見ると、鎌を使うようなことはしてはいけないが、空腹な隣人が手で穂を摘んで空腹を満たしても良いことになっていました。モーセが伝えた律法では許されていることを、なぜパリサイ人達はいけないことだとしたのでしょうか。それは、ラビの法や伝統に反するという意味でした。穂を摘んで揉み出し、中身を食べるという動作は、刈り取り、脱穀、食事の用意という労働と同じであるという考え方をして、モーセの律法が具体的に禁じていないことまで禁じてしまったのです。
 キリストは、旧約聖書の英雄であるダビデの行動を取り上げて反論しました。これがどうして有効な反論になるのでしょうか。ここではダビデとキリストの弟子達が律法で禁止されているとされたことをしたということが共通点です。ダビデが食べた聖別のパンはどう扱われるべきかはユダヤ人の共通理解でした。それが破られたのですが、ダビデにパンを与えたのは祭司でしたし、彼が罰せられることは有りませんでした。ですから、この話を引き合いにだされては、パリサイ人はそれ以上反論するのは難しかったのです。仮に反論を試みれば、皆の英雄であるダビデをも貶めることになり、パリサイ人もさすがにそれは避けたかったであろうと思われます。イザヤ書五十八章六、七節などにみ出されるように、飢えたり困っている人を助けるのが神の命じるところであり、命を保つことに優先順位が有るのでした。モーセを通して与えられた律法でさえ例外が有りました。ラビの律法や伝統の優先順位がそれ以下なのは言うまでもありません。
 反論としてならば、そこまででも十分に効果が有ったのですが、キリストはそれに留まらず、更に「人の子は、安息日の主です。」という言葉を加えました。キリストは、五章二十四節などで、自分のことを「人の子」であると宣言していました。それは、前に確認した通り、ダニエル書の記述から、神の称号として理解されていました。キリストはここで、「私は神であり、安息日と律法をも自分の権威の下に置いている存在だ。」と言ったことになります。神は律法を与えた存在なのですから、その解釈についても権威が有るのは当然だったわけです。更には、「お前達が何者だからと言って、律法を与えた神に楯突いているのか。」という意味にも取れます。ああ、そうかと思えたら素晴らしい開眼であったかもしれませんが、プライドの高いパリサイ人達には、大変悔しく腹立たしいことであったに違い有りません。

二つ目の問答(六~十一節)
 別の安息日にキリストが会堂で教えていたのですが、そこに右手の萎えた人がいたということです。その人は偶然居合わせたのか、パリサイ人達が策略として連れてきたのかはわかりません。この時も彼らはキリストを訴える口実を見つけようとして、キリストをじっと見ていました。関心の焦点は、キリストがその人を癒すかどうかでした。癒すことは、医者の仕事でありましたから、安息日には労働をしてはならないという律法に違反することになると考えられました。ですから、癒しを求める群集も、安息日には次の日となる日没まで待ってからキリストの元に来たりしていました。
 今回の問答の口火を切ったのは、パリサイ人達ではなく、キリストでした。その手の萎えた人を真ん中に立たせて、パリサイ人達を含む出席者達に質問をしたのです。安息日にして良いことは善を行うことか悪を行うことか、命を救うことなのか失うことなのかという質問でした。答えは言わなくても明らかです。キリストは誰の答えも待たずに、その結論に従ってその男に「手を伸ばしなさい。」と言われました。
 ここで確認されるべき原則は、善、特に人の命を維持すること、回復させることに優先順位が有るということです。その原則は、直前の問答の中にも示されたことでした。ユダヤ人達は、たとえ安息日でも、家畜が井戸に落ちたら引き上げてその命を助けるということが、他の箇所でキリストによって指摘されています。まして、人の病を癒し、命を助けることは許されるべきことです。ですから、誰も反論をする余地は無かったわけです。
 キリストはその権威によって男の萎えた右手を癒しましたが、それは、医者の仕事のような方法にはよりませんでした。触診などせず、ただ手を伸ばせと命じただけでした。会堂で手を伸ばすのは普通の礼拝の行為でした。ですから、誰もキリストの行為を医者の仕事をしたと言って責めることはできませんでした。
 この問答においても、キリストが何者であるのかが繰り返し確認されていることになります。キリストは人を癒す力の有るメシアであり、律法を与え律法の解釈をする最高の権威の有る存在であるということです。
 またもやパリサイ人達の反応は自分のプライドと義を押し通す、罪深いものでした。彼らは怒りに満たされて分別を失い、キリストにどういう手を打とうかと話合いました。怒ったのは、キリストの理論に対抗できなかったからであり、キリストがラビの律法や伝統をも破らすに男を癒してしまったからでありました。そんなことができる者は、真実の神の使者しか居ないのですが、彼らは謙ってそれを受け入れることはできませんでした。彼らは自分達が権威の座に居ることに固執していました。


結論
 パリサイ人達は、自分が律法の権威であり中心人物であろうとしました。ですから、キリストに太刀打ちできないと怒りました。彼らのそういう有様は、彼らの礼拝が何の意味も無いことを示しています。彼らは、礼拝の場所においても、人を貶めようという邪悪な意図もっていました。そこには神への礼拝の心も有りませんでしたし、安息日や律法の精神への理解も有りませんでした。
 私たちは礼拝の場所にどのような心を持って集まっているでしょうか。自分の何かを満足させるために集まっていてはなりません。神の道を求め、神が私たちの生活にも権威を持っておられることを繰り返し確認することに目が向いているでしょうか。私たちがただ礼拝形式などに満足するために集うなら、また、それ以外のあり方を非難したりするような姿勢を持っているなら、パリサイ人達と同じです。
 パリサイ人達は、神が定めたモーセの律法以外の決まりや伝統を守ることを厳しく守り、それを誇りとし、そうしていない人達を責め立てていました。しかし、そのことによって、神の心からはずれた判断と行動をするようになっていました。
 私たちも、礼拝に集う中で、いつの間にか神の御心から離れたことに一生懸命になり、自分達が正しいと思って、それを神の御心に優先させてしまうことがないか、時々立ち止まって考えてみる必要が有ると思います。権威は神に有ります。私たちにもっと権威が有るかのような振る舞いにならないように気をつけなければなりません。


補足
 キリストは律法を与えた神であり、パリサイ人の律法や伝統に勝る。律法に現われる神の御心は、善を為すことであり、癒し、命を維持することである。人の考えた掟や伝統は、それに勝らない。








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神の道を人の道に当てはめようとしてはならない(ルカ伝五章三十三~三十九節)

2010-11-22 18:52:02 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
 -奥義書(聖書)を確認しながらお読みください-

導入
 キリストの弟子となったレビの開いた食事のもてなしにやって来たパリサイ人達は、弟子達に質問をすることで、キリストに文句をつけました。それに対して、キリストは直接回答し、「私は罪人を招くために来たのだ、これはお前達には関係ないことだ。」と退けました。しかし、彼らは引き下がらず、執拗に次の質問をしてきました。それは、「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」というものでした。これは、直接キリストの行動を非難するものではなく、弟子達の行動についての非難ではありましたが、間接的にその師であるキリストを非難していることに違いはありませんでした。


本論
 さて、パリサイ人達の今回の質問について考えてみましょう。彼らの真意をもっと明らかにすると、「ヨハネやパリサイ人達は弟子達をよく訓練しているので、彼らは頻繁に断食をするが、あなたは良い師ではないから、その結果弟子たちは断食をしないでしょっちゅう食べたり飲んだり しているではないか。」ということでした。
 果たしてそういうことができるのでしょうか。律法の規定を確認してみましょう。モーセの律法では、ユダヤ人は「贖いの日」という定められた時に断食をしなければなりませんでした。しかし、それ以外は悔い改め・改心とか熱心な嘆願の祈りのためにするというような、自発的なものでした。それなのに、パリサイ人達は、週に二回、月曜日と木曜日に断食をして、それを敬虔な神に従う者の標準であるかのようにして、それを守っている自分達を自慢していたのです。イザヤ書五十八章などを見ると、自己満足や人に見せびらかすような態度で断食をしてはいけないということが書いてありますが、彼らはその逆のことをした上に、他人にも強要しようとしていたわけです。(バプテスマのヨハネの弟子達が断食したのは、エッセネ派の習慣や精神によったのかもしれません。)

 キリストは三つの例話を用いて回答しました。後半の二つは特に新しいものと古いものの対比になっています。簡単にまとめてしまいますと、新しい生き方は、新しい心構えと行動様式が伴わなければならないということになります。それでは、これらの例話の意味を確認してみましょう。
 
 
第一の例話
 この例話は、ユダヤ人の習慣に基づいたものです。結婚を祝う時には、一週間にわたる宴会を催しましたが、その期間には、関係者達は断食したり悲しんだりすることは許されませんでした。例話の中では、花婿とはキリストのことであり、花婿に付き添う友人達は弟子達のことです。神の子が地上に現われて福音の宣言をするというのは、歴史上二度とない出来事でした。それは喜ぶべき時であり、断食や悲しみの時と考えられるべきではなかったのです。キリストはパリサイ人達に「神の国の到来を喜ぶべき時に、誰も弟子達を断食させることなどできはしないのだ。」と言ったことになります。
 自分の霊性が高いのだと見せびらかすような断食は、パリサイ人達が発明して発展させた古い肉的な生き方でした。しかし、キリストの弟子達は新しい生き方をしているのでありますから、たとえ断食することになったとしても、それは自分の業を見せびらかすためではなく、神に仕える者としての必要を熱心に祈り求めるためになされるのです。
 新しい生き方は、神の国の福音による生き方です。神による義と平安の中を歩むことがその福音です。キリストの第一の例話は、「私の弟子達は神による義と平安によって歩み、時が来れば神の御心に従って断食をするのであり、お前達のような自分の業を自慢するような姿勢で断食したりはしないのだ。」というメッセージになっています。
(なお、この箇所でキリストは将来的にはキリストが取り去られる時が来ることを暗示しています。その時には、弟子達は力強く福音を宣べ伝えることができるため、また、迫害に耐えることができるように熱心に祈るために断食をすることになりました。)


二つ目の例話
 古い布に接ぎを当てるためには、同じぐらいの古い布を使わなければなりません。そうしないと、新しい布の弾力性や強さに古い布が負けますし、洗濯をすれば新しい布が縮んだりして、古い布を引き裂いてしまうことが有ります。ですから、新しい布はそんなことに用いてはならないのです。新しい布は、ちょっと切り取って接ぎを当てるためではなく、新しいドレスを作ったりするために全体的に用いられなければならないのです。
 それと同じように、新しい生き方はあなたの生活に部分的にちょっとずつ適用されるべきではありません。謙遜になって、従順に、その生き方の法則や姿勢を全体的にあなたの生活に適用しなければなりません。神の国の福音は、あなたの古い生き方を保ったまま、その古い生き方のせいで引き起こされた問題を部分的に修繕するような姿勢であなたの生き方に適用されてはいけないのです。キリストに従う者になるというのであれば、神から与えられた新しい生き方に全て置き換えられなければなりません。二股掛けて両方保つという矛盾した生き方はできないのです。同様に、断食であっても、自分の義をひけらかすために用いられるようなことがあってはいけないのです。


三つ目の例話
 ぶどう酒を入れる皮袋は山羊や羊の皮で作られました。新しいぶどう酒はまだ発酵の途中にあります。ですから、炭酸ガスを発生させることになり、ついには皮袋を破裂させてしまうことがあります。ですから、皮袋の強度を確保するためには、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないわけです。
 パリサイ人達は、キリストの弟子達にも彼らの方式に従って断食をさせようとしました。これは新しいワインを古い皮袋に入れるようなことでした。キリストの弟子達はキリストの新しい教えに従って生きていました。しかし、彼らにパリサイ人達は古い習慣や古い行動をさせようとしたのです。キリストから新しい教えを授かった弟子達が、パリサイ人達のような断食をすることは有り得ませんでした。見せかけの義のために断食するような習慣は、神の国の福音の前には新しいぶどう酒に張り裂かれる古い皮袋のような、意味の無いものでした。
 この例話では、キリストはまた律法の終わりを予告したことになります。律法主義ではキリストの教えを包括することはできないのです。歴史的には、ローマ帝国がエルサレムの神殿を破壊した後、モーセの律法に述べられている儀式などを守ることは終わりました。霊的には、キリストが十字架の上で「完了した」と言い、神殿の至聖所の厚い幕が裂かれた時に、律法の古い皮袋は破れてしまったのです。

 三十九節のキリストの言葉は一般的な話のようでありますが、同時にパリサイ人達を非難する言葉にもなっています。それは、「お前達パリサイ人は、自分達がプライドを守るために作り上げた古いやり方にしがみついて、神の国の福音を受け入れようとしない。しかし、その古いやり方は間も無く打ち壊されるのだ。お前達も新しい道を喜んで受け入れ、神の国の福音を受け入れなければならないのだ。」


結論
 この箇所に見出される法則何かを再確認してみましょう。「パリサイ人達がプライドで作り上げた古い伝統や習慣は、キリストが教える新しい道と混ぜることはできない。」ということでした。ところが、自分の力や行いで義と認められようとし、成し遂げたことを誇ってプライドに凝り固まった生き方は、キリスト者の間にも忍び込み、パウロ書簡の中で責められ、正されていたりします。実は、知らないうちにパリサイ人的な古い考え方が私たちの中でも作用しているのです。見聞きする現代の教会内の問題もそういうところから始まっています。私たちはパリサイ人達を非難していられるような立場ではないのです。
 実際に自分の信仰生活を考えてみると、私たちがいかに旧来の人間的法則と福音の新しい道の両方を生活に適用しようとしてる瞬間の多いかが見えてくると思います。少なくとも、自分のプライドを満足させ、守り、自分の行いが良いから自分は正しく義人なのだという思いを、潜在的なレベルからも追い出していかなければなりません。キリスト者としての歩みが、いつの間にか形式的になって、礼拝に欠かさず出席しているから、休みがちな人より勝っているという自負心などを持つようなことが有れば、それこそが、古布に新しい布を当て、古い皮袋に新しいぶどう酒を保存するような歩みです。あなたの義は、唯一、キリストの贖いを受けたという一点にしか有りません。
 ですから、時々自分を点検して、キリストの十字架の贖い以外のもので自分の義を立てようとしている瞬間が無いかどうかを確かめる必要が有ります。そして、一点でも何か気付くことが有ったならば、その度にそれを悔い改めなければなりません。
 これは、生涯続く戦いでもあります。しかし、私たちの義はキリストの内にしか無いことを、いつも思いましょう。それが私たちの新しい道です。







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神の御心は人を悔い改めに導くことである ルカ伝五章二十七~三十二節

2010-11-05 05:37:44 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
(奥義書-聖書-を開きながらご確認ください。)

導入
 余計な口出しをするなという意味で、”Mind your own business.” という英語の言い回しが有ります。辞書的な定義では、「自分自身の問題のことに考えを向け、他の人の生活について質問をしたり関わろうとするな」という内容になるようです。他人に「余計な口出しをするな。」と言われないためには、物事の境界線を理解する分別が必要です。自分自身が何者であるか、相手は何者であるかを知るということも含まれるでしょう。
 今回の物語においては、パリサイ人、律法学者達の質問がキリストを煩わせていると言ってもよいかもしれません。幸いに、その質問がキリストが何者であるかということを現すことになりました。この物語から学んでいきましょう。


本論
 二十七節の「この後」というのは、中風の男の癒しとキリストが罪を赦す権威を持つ神であることの宣言の後ということです。まだガリラヤ湖に面しているカペナウムの町に居たということいなります。そして、同様に、キリストのことを監視しに来ていたパリサイ人や律法学者達もまだ周囲に居たわけです。
 キリストは出掛けると、レビと呼ばれる収税人をみつけました。彼は税金の徴収所に座っていたということでしょう。彼の仕事は、通商のために船でガリラヤ湖を渡って違う地方に行く人々から通行税を取ることだったと考えるのが自然でしょう。一人でそんな仕事をするのは難しいことですから、仲間が数人一緒にいたに違いありません。しかし、キリストは彼だけを選んで、「わたしについて来なさい。」と言われたのです。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネが大変収入の良かった漁師の仕事を捨ててキリストに従ったように、レビもここで、大変良い収入を得ることができた収税人の仕事を捨ててキリストに従いました。(ローマ帝国は、手下として働く収税人に割りの良い報酬を与えていたとも言われています。)
 聖書はどのようにレビがキリストを知り、キリストを信じるようになったかをはっきり示してはいません。しかし、その地方で仕事をしていたならば、確実にキリストの教えを聞き、奇跡の業が行われるのを目撃する機会が有ったでありましょう。もしかしたら、ペテロ達がキリストに従うようになったという話も伝わっていたかもしれません。そればかりでなく、この人達がレビにキリストを紹介したりしていたかもしれません。とにかくレビはキリストに従って行きました。彼には、キリストに従うことが収税人でい続けるよりもはるかに価値の有る生き方であることが解っていたと考えられます。

 数日後、レビはキリストのために大ぶるまいをしました。そういうことは、一日では準備できないものです。しかし、このことから、レビには大きな喜びが有ったと考えることができます。他の宗教的指導者達であったら決してしないことを、キリストはレビに対してしてくださったのですから。
 収税人は宗教的な共同体からは締め出されていました。収税人達の中には、法律で定められたよりも多くの税金を取り立てて私服を肥やす者がいました。たとえ正直に仕事をしていたとしても、パリサイ人達は、収税人が異邦人(ローマ政府)のために働いているという理由で切り捨てていました。税金の一部はエルサレムの神殿の維持のためにも用いられていたのですが、同時に、異教の神の神殿のためにも用いられるということも有り、パリサイ人達は決して収税人と交流を持とうとはしなかったのです。しかし、キリストはレビを弟子になるようにと呼び寄せたのです。彼の驚きも喜びも相当に大きいものであったに違いありません。レビは別名をマタイと言い、マタイ伝を著したと考えられています。マタイとは「神の賜物、贈り物」という意味が有ります。正に神の偉大なる賜物、贈り物であるキリストが実際に彼の元に来て、彼の個人的な主、そして神となったのです。レビにとっては大変に有難く、栄誉なことであったと言えます。
 ローマ政府は収税人に良い報酬を与えていたので、レビは裕福でした。ですから、彼は自力で、おそらく自分の家で食事のもてなしの準備をしたでしょう。また、元同僚である収税人達や知り合いの人達をたくさん招いていたようです。これがお客達にキリストを紹介し、彼らがキリストをメシアと信じる機会になればという期待も持っていたかもしれません。とにかく、彼が神からいただいた恵みを分かち合いたいという気持ちで一杯だったに違い有りません。
 その他大勢の人達という表現は、ユダヤ人的な理解では、多分異邦人達ということであったろうとする考えも有ります。そうだとすると、レビにはユダヤ人に嫌われていた異邦人にもキリストの良い知らせを伝えたいと考えていたことになります。


 さて、当時のユダヤの習慣では、だれかが大きな宴会や食事会を開催する時は、招待されていない人達でも、訪問して来て主賓の言葉を聞いたり話しかけたりしても良いことになっていました。それで、この時も、パリサイ人達や律法学者達も公にキリストの近くにやってくることができました。今回も彼らはキリストを監視し、また、批判するためにやって来ました。しかし、どういうわけか、直接キリストに向かって発言することは躊躇したようです。それで、弟子達に向かってつぶやいて言うことになりました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
 収税人達が集まっていたことは先に述べられていましたが、罪人どもと呼ばれた人達はどんな人達のことでしょうか。パリサイ人達は異邦人を罪人どもと呼んでいました。すると、先に出てきた「その他大勢の人達」が異邦人であったという理解と合致することになります。食事を一緒にするということは、共に生きるということです。パリサイ人達は、「いったいどうしてそんなカスどもと一緒に生きることができるんだ。」と言ったことになります。
 彼らは弟子達に質問をしましたが、キリストはそれを聞きつけて答えました。

 
結論
 キリストのこの回答が、この物語の主旨を表現しています。この前半は、諺の引用であったかもしれません。これによって、キリストは彼がその医者であると言ったことになります。「パリサイ人達よ、私が医者だということを知らないのか。医者が病人の所に来るのは当然のことではないのか。余計な口出しをしなさんな。ばかげた質問はしないことだ。」という意味に取ることができます。しかし、それは喩えであって、実際の意味は、「余計な口出しをするな。私が誰であるかをまだ認めないのか。私は罪人を悔い改めるように呼び出すメシアだ。そうすることが私の仕事であり使命なのだ。お前達は私にも私の使命にも関係無いではないか。なぜならば、お前達は悔い改めの必要を感じていないのだから。」と考えることができる状況です。
 さて、私たちがもし「余計な口出しをするな。」と言われたりしたら、私たちは越えてはならない線を越えてはいないかを考えなければなりません。自分が誰であり、相手は何者であるかを確認しなければなりません。
 パリサイ人達の場合、彼らは何者でどんな線を越えてしまったのでしょうか。それは、彼らの言葉から判断することができます。彼らは収税人や異邦人を「罪人」だと判断し、決め付けました。また、自分達は単なる人間に過ぎないのに、神であるキリストを批判しました。しかし、真に人を罪に定める権限を持っているのは神です。そして、人間は神のやり方を批判したりすることができる存在ではありません。パリサイ人達は、収税人や異邦人は滅びに定められていると決め付けていました。しかし、それは自分が神の座に着くような越権行為でした、私たちは、自分が単なる人間に過ぎず、神の役割を演じることなどできないことを知るべきです。しかし、私たちのプライド、私たちの中の罪が、私たちを神の座に着くように押しやろうとするのです。
 キリストの方に目を転じると、彼こそが判断をくだす権威を持つ存在でありましたが、ここでは彼らを罪に定めることはせず、彼らを悔い改めに導くために交わりに加わろうとしました。キリストはパリサイ人達を叱ったことになります。キリストの言葉は、更に、「お前達は宗教的指導者ではないのか。それならば、そういう人達に共感する心を持つべきではないのか。人を罪に定めるのはお前達の仕事ではない。それは私のすることだ。しかし、その私でさえ彼らを悔い改めに導くために働いているのだ。いったいお前達は何をしているのだ。」という意味を含んでいたと理解できます。

ここで確認してみたいことが有ります。パリサイ人達は、弟子に質問した時「どうしてキリストは罪人達と食事をするのか。」とは言わず、「どうしてあなた達は罪人達と食事をするのか。」と聞いています。それに対して、キリスト自身が答えて、「私は義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのだ。」と言いました。キリストはその宣教の初期の段階から、既に弟子達と一体感を持っていたと考えることができるのではないでしょうか。私たちも、初代教会のキリスト者達が、キリストに対して持っていたのと同様の一体感を持つ必要が有るのではないでしょうか。

 「余計な口出しをするな」ということは、私たちも考えるべき部分が有ります。私たちもパリサイ人達がしたように、キリスト者では無い人達などを滅びるに決まっていると決め付けて神の座に着くようなことをしてはなりません。反対に、私たちもそういう人達との交わりを保ち、キリスト者としての証を立てていかなければなりません。私たちはキリストに従う者達です。医者達が患者の気持ちを察して治療に当たるように、私達は、そういう人達の霊的な必要に目を留めて交わりを持ち続けるのです。私たちがキリストに従う者であるならば、そういうキリストの姿勢にも従って行く心がけが必要です。パリサイ人のように、神の座に着こうとして、余計な口出しをするものであってはなりません。







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