聖霊に満たされたエリサベツの祝福を受けた後、マリヤは神への賛美の告白をします。マグニフィカートと呼ばれるのは、マリヤが最初に主を「あがめ」と告白したところにちなんで、賛美する、あがめるという意味のラテン語で呼ばれることになったためのようです。
注解によると、この部分には旧約聖書の引用と考えられる部分が少なくとも15箇所有るということです。それは、マリヤが如何に旧約聖書に通じていたか、また、神に忠実な女性であったかを物語っています。信仰の教育がユダヤ人の習慣や伝統であったとはいえ、まだ十四歳ぐらいであったマリヤが相応しい場面で、自由自在に旧約聖書の言葉を用いて賛美をすることができたということは、それだけマリヤが心を尽くして神を信頼していたと考えることができると思います。また、ユダヤの女性として成熟した存在であったと言うことができます。そんな資質がキリストの降誕のために用いられることになったのであろうと思います。また、私達の模範となる部分が有ると思います。私達も、そのように御言葉に通じた者となりたいものです。
賛美の内容は大まかに言って二つの部分に分けられと思います。
第一部 マリヤ自身への神の恵みに対する賛美 (四十六節~四十九節前半)
その部分までは、「わたし」という言葉が出て来ます。
マリヤにとっては、自分の状態が救われなければならないという認識があったかどうかはわかりません。しかし、大いなる神は、いつでも救いをもたらす神です。ですから、「救い主なる神をたたえます。」という告白は相応しいのです。
神の恵みと祝福は、たいしたことのない地方の、名も無い結婚適齢期になったばかりの女性を選んでくださったのです。旧約聖書には、人々が賞賛するような女性が何人か出て来ます。個人的にはミリアム、へベルの妻のヤエル、デボラ、ルツ、アビガイル、エステル、などが思いつきます。しかし、マリヤは当然そのような名声とは縁の遠い、ただの若い女でした。
そんなマリヤを神様は選んで救い主の母となるようにしてくださったのです。そのようなマリヤに大きな恵をくださったのですから、彼女は幸せな女であり、また、代々の人々は彼女を幸いな女と認めてきているのです。
第二部 全能の神のご性質を告白する賛美 (四十九節後半~子十三節)
そのみ名はきよく、 そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
ここでは「主は」という記述が中心になっています。その御性質を告白することは、賛美の表現の本質です。また、この中で大事なことは、アブラハムとの契約の成就であるという部分であります。偶発的なことではなく、約束によることであるということで、ひいてはこれまでの預言の成就であることも宣言しており、神の誠実さと救いの計画の確かさを宣言していることになります。
さて、先に伸べたことの繰り返しになる部分が有りますが、マリヤの賛歌は、幾つかの旧約聖書の引用と考えられる部分が有るということですが、多くの注解が指摘しているのは、サムエルの母ハンナの賛美の祈りとの類似点です。マリヤにとっては、ハンナの気持ちがリアルに理解でき、共感できていたのかもしれません。ローマの支配下に有るユダヤ人の持つ悲しみと、まだ結婚適齢期に達したばかりの自分の無力さとを重ね合わせて、そこに応えてくださった神様への感謝がほとばしり出たのではないかと思います。そういう生きた聖書の記述との親しい交わりと共感を持っていたマリヤがいかに素晴らしい神のしもべであったのかということを思わされます。その資質が、生涯彼女を支えたのではないかと思います。
マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰ったということですが、エリサベツと日々礼拝を捧げ、祈りを捧げ、霊の養いを受け続けたのではないかと想像することができるように思います。マリヤはまたエリサベツの身の回りの世話や手伝いをし、もしかしたら、バプテスマのヤハネの誕生まで見届けたのかもしれません。三ヶ月という期間には、そういう含意が有るかもしれません。
さて、この箇所から私達が学ぶべきことは何でしょうか。
第一には、賛歌の中に直接的に表現されている最初の事柄、神の救いへの感謝と賛美の心を持ち続け、告白し続ける態度を持つということではないでしょうか。自分の無力さをマリヤのように自覚して感謝し続ける者でありたいと思います。
第二には、そのような救いを下さった神のご性質をいつも思い、告白して神を賛美する姿勢ではないでしょうか。毎週、毎日、毎瞬、繰り返し飽きることなくこの主の語性質を喜び告白し続けることが私達のあるべき姿であると思います。
第三は、マリヤの姿勢から間接的に学ぶことですが、聖書の言葉に通じた者となり、それを繰り返し味わい、リアルにその内容を感じることができるような霊的な交わりを主と持ち続けること。そのことを通して、神への信頼を深め、誠実に信じ求める神のしもべで有り続けることではないかと思います。
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注解によると、この部分には旧約聖書の引用と考えられる部分が少なくとも15箇所有るということです。それは、マリヤが如何に旧約聖書に通じていたか、また、神に忠実な女性であったかを物語っています。信仰の教育がユダヤ人の習慣や伝統であったとはいえ、まだ十四歳ぐらいであったマリヤが相応しい場面で、自由自在に旧約聖書の言葉を用いて賛美をすることができたということは、それだけマリヤが心を尽くして神を信頼していたと考えることができると思います。また、ユダヤの女性として成熟した存在であったと言うことができます。そんな資質がキリストの降誕のために用いられることになったのであろうと思います。また、私達の模範となる部分が有ると思います。私達も、そのように御言葉に通じた者となりたいものです。
賛美の内容は大まかに言って二つの部分に分けられと思います。
第一部 マリヤ自身への神の恵みに対する賛美 (四十六節~四十九節前半)
その部分までは、「わたし」という言葉が出て来ます。
マリヤにとっては、自分の状態が救われなければならないという認識があったかどうかはわかりません。しかし、大いなる神は、いつでも救いをもたらす神です。ですから、「救い主なる神をたたえます。」という告白は相応しいのです。
神の恵みと祝福は、たいしたことのない地方の、名も無い結婚適齢期になったばかりの女性を選んでくださったのです。旧約聖書には、人々が賞賛するような女性が何人か出て来ます。個人的にはミリアム、へベルの妻のヤエル、デボラ、ルツ、アビガイル、エステル、などが思いつきます。しかし、マリヤは当然そのような名声とは縁の遠い、ただの若い女でした。
そんなマリヤを神様は選んで救い主の母となるようにしてくださったのです。そのようなマリヤに大きな恵をくださったのですから、彼女は幸せな女であり、また、代々の人々は彼女を幸いな女と認めてきているのです。
第二部 全能の神のご性質を告白する賛美 (四十九節後半~子十三節)
そのみ名はきよく、 そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
ここでは「主は」という記述が中心になっています。その御性質を告白することは、賛美の表現の本質です。また、この中で大事なことは、アブラハムとの契約の成就であるという部分であります。偶発的なことではなく、約束によることであるということで、ひいてはこれまでの預言の成就であることも宣言しており、神の誠実さと救いの計画の確かさを宣言していることになります。
さて、先に伸べたことの繰り返しになる部分が有りますが、マリヤの賛歌は、幾つかの旧約聖書の引用と考えられる部分が有るということですが、多くの注解が指摘しているのは、サムエルの母ハンナの賛美の祈りとの類似点です。マリヤにとっては、ハンナの気持ちがリアルに理解でき、共感できていたのかもしれません。ローマの支配下に有るユダヤ人の持つ悲しみと、まだ結婚適齢期に達したばかりの自分の無力さとを重ね合わせて、そこに応えてくださった神様への感謝がほとばしり出たのではないかと思います。そういう生きた聖書の記述との親しい交わりと共感を持っていたマリヤがいかに素晴らしい神のしもべであったのかということを思わされます。その資質が、生涯彼女を支えたのではないかと思います。
マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰ったということですが、エリサベツと日々礼拝を捧げ、祈りを捧げ、霊の養いを受け続けたのではないかと想像することができるように思います。マリヤはまたエリサベツの身の回りの世話や手伝いをし、もしかしたら、バプテスマのヤハネの誕生まで見届けたのかもしれません。三ヶ月という期間には、そういう含意が有るかもしれません。
さて、この箇所から私達が学ぶべきことは何でしょうか。
第一には、賛歌の中に直接的に表現されている最初の事柄、神の救いへの感謝と賛美の心を持ち続け、告白し続ける態度を持つということではないでしょうか。自分の無力さをマリヤのように自覚して感謝し続ける者でありたいと思います。
第二には、そのような救いを下さった神のご性質をいつも思い、告白して神を賛美する姿勢ではないでしょうか。毎週、毎日、毎瞬、繰り返し飽きることなくこの主の語性質を喜び告白し続けることが私達のあるべき姿であると思います。
第三は、マリヤの姿勢から間接的に学ぶことですが、聖書の言葉に通じた者となり、それを繰り返し味わい、リアルにその内容を感じることができるような霊的な交わりを主と持ち続けること。そのことを通して、神への信頼を深め、誠実に信じ求める神のしもべで有り続けることではないかと思います。


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