糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

良い方を選んだ (ルカ伝十章三十八~四十二節)

2008-03-31 06:47:08 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
導入
イエスはエルサレムに向かって旅をしていましたが、直接エルサレムに入らず、先に、3.2キロぐらい東にある村、ベタニヤに行きました。そこには、イエスが心を許すことのできる3人の姉弟、マルタ、マリヤ、ラザロがいました。

解説
三十八節
 ルカは村の名前を記してませんが、共観福音書等から、これがベタニヤであることがわかります。マルタという女がイエスを家に迎えました。イエスを迎え入れるということは、同行する弟子達も迎え入れるということです。それだけ大勢の人を迎え入れることができるということは、大きな家を持っていたということであり、裕福であったと推測されます。裕福でありながら、夫の名前が出てこないことから、多くの学者達は、マルタは寡婦であっただろうと考えます。
 すでに、パリサイ人、サドカイ人、律法学者達は、イエスを敵視していましたし、イエスを認める者は破門扱いであることが決められていました。ですから、イエスを迎え入れるということは、本当にイエスを認め、信仰を持っていなければできないことでした。

三十九節
 マルタの妹のマリヤは、イエスの足元に座ったことが記されています。用いられている動詞と前置詞から、くっつくぐらい間近に座ったことがうかがわれます。当時、弟子達は、師の足元に座って教えを受けました。マリヤは、イエスに従う者、弟子であるという心構えを示したことになります。ユダヤでは、ラビは、女性を弟子にとることはしませんでした。しかし、女性を蔑視せず、平等に扱うイエスは、マリヤが弟子として足元に座ることを禁じたりはしませんでした。
 マリヤの「聞き入っていた」という動作は、継続的な動作を表す時制が用いられています。ある学者は、マリヤには、いつでも習慣的に、イエスの教えに耳を傾けて聞き入るということがあったのであろうと考えます。

四十節
 マルタはいろいろなもてなしの用意のために、心を煩わされていたことが記されています。この状態を表す言葉は、「引き離される、分けられる」というような意味合いが有ります。準備のためにすることが多過ぎて、注意が分散されて落ち着かなくなってしまったのかもしれません。8章では、イエスの宣教旅行には、裕福な女性達が同行して、いろいろ助けていたことが記されていますから、この時も、マルタの準備を助けていたかもしれません。その場合は、女主人であるマルタとしては、「他人が手伝っていてくれているのに、身内で、お迎えする側のマリヤが何もしないのは体裁が悪い。」というような考えに、気持ちが落ち着かなかったということも有ったかも知れません。
 そこで、マルタはイエスの所に行き、マリヤに手伝いをするように指示してくださいと頼みます。彼女の言葉に、マリヤが彼女を離れっぱなしであるという不満が示されています。ここで用いられている「手伝う」という動詞には、「共に力を合わせる、共に支える」というような意味合いが有ります。協力して何かを為すという行為をよく表している言葉です。それだけ、マルタにとって、マリヤは頼りになる存在であったということかもしれません。
 マルタのこのような発言は、イエスに対して無礼なのではないかという印象があるかもしれません。しかし、この質問の真意は、「主よ、あなたもこれは問題だとお考えですよね。」という気持ちであり、イエスからの肯定的な答えを当然期待している質問でした。また、当時、弟子は、師の許可無く教えている師の元を離れることはできませんでした。マルタは、マリヤが許可を得るきっかけを作ろうとしたのだとも考えることができます。

四十一節
 イエスはマルタの名を二度繰り返して呼びました。これは親愛の情の表現であり、また、注意を促す呼びかけでもありました。「愛するマルタよ、よく聞いてもらいたい」と呼びかけたことになります。イエスはマルタの現状を指摘します。多くのことに悩んでいるというのです。

四十二節
 マルタは「多く」のことに悩んでいたわけですが、イエスは必要なことは「一つ」であると言いました。そして、マリヤは「良い方、良い部分」を選んだと宣言しています。それが何であるかは、続きの言葉からわかります。「それを取り上げてはならない」ということが書かれています。マリヤがマルタを手伝うために立ち上がることによって取り上げられることになることとは何でしょうか。それは、「イエスの教えに聞き入る」ことです。
 世の中にはしなければならないこと、したいことが「多く」有るでしょう。しかし、その中の「一つ」が「良い方、良い部分」であるならば、その他のものは、価値や良さがより少なく、優先順位が下であるということになります。イエスの教えに聞き入る、イエスの教えを聞き続けるということが、最優先であるということになります。
 イエスは、「愛するマルタよ、私を迎え入れてくれて有難う。多くのことに心を奪われて、思い煩っているね。しかし、私の教えを聞くことが最優先なのだよ。」ということを言ったのです。

まとめ
 現代に生きる私達が、この聖書箇所から学びとらなければならないポイントは、次にように考えられそうです。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
   最高権力であるユダヤ人の議会から排斥されているイエスを迎え入れるこ
  とは、大変難しい判断でした。しかし、それでも、信仰のゆえに、マルタ、
  マリヤ(そしてラザロも)イエスを自分の家の迎え入れました。私達も、こ
  の模範に倣って困難や迫害が有っても、私達の心にいつもイエスとその教え
  を迎え入れる態度を持ち続けましょう。

2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
   マルタは自分の不満や苛立ちをイエスに話しました。返ってきた答えは、 
  自分の期待と全然違っていたかもしれませんが、愛に溢れた答えと、必要な
  教えをいただくという結果になりました。
   私達も、心にある不満や苛立ち、困難などを、イエスに祈りのうちに告白
  するのです。自分に期待した答えではないかもしれませんが、私達がイエス
  に告白して祈る時、聖霊によって、聖書の言葉を通して愛に溢れた答えと、
  必要な教えをいただくことができます。ヨハネによる福音書では、イエスの
  ことを「ことば」であると表現しています。ですから、聖書のことばを通し
  て答えを得るその時、イエスが直接教えてくださったと信じるのです。

3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。
   私達には、この世の思い煩い、あるいは、神への奉仕をあれこれ考え過ぎ
  て、心が落ち着かなくなることが有るかもしれません。その時こそ、優先順
  位を確認するときです。イエスは、必要なことは「一つだけ」だと言いまし
  た。最優先となるべきことは、神の言葉である聖書を読み続け、聖書に答え
  を求め続けることです。継続的に聖書に親しみ続けるのです。

 クリスチャンであるならば、私達はすでにイエスを迎え入れた存在です。イエスを迎え入れていても、心が乱されることは有るものです。しかし、乱れた心をイエスに告白する時、私達には答えが有るのです。その答えを得るためにも、私たちは、イエスの教えに聞き入ること、聖書を読み続けることが最優先となるのです。
 イエスの言葉に聞き入っていたマリヤの心は、あれこれ考えて、心が千路に乱れてしまったマルタの心とは反対に、平安であったでしょう。私たちも、聖書の言葉を聞き続け、神と神の言葉に信頼して、委ねて生きる時、心が乱されることが少なくなり、困難な中でもより平安に過ごすことができるようになるのです。そのような平安を得たいと思いませんか? まだそのような信仰の前進を始めていないのならば、信仰を新たにし、新しい決意をして、祈り、聖書を学び続け、神に信頼して委ねる人生の第一歩を踏み出しましょう。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。

このことを毎日心に留め、神への信頼が深められ、より平安に生きるクリスチャンを目指そうではありませんか。





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