COCOA

memorandum&curiosity

疑う心。

2005年04月23日 19時57分40秒 | Weblog
ここのところ、猜疑心というものに、惑わされている気がしているんですが・・・。
人の行動をよく観察したときに、行動と言動に相違点があって、信憑性に欠けたり、信頼関係を築けなかったりすることがあると思うんですけど、それはそれで、危険を回避できる賢い選択だと考えていたんですけど、この頃少し、その考え方に疑問を覚えるようになりました・・・。

まず、人を疑うことで、危険を回避しその結果が、良い結果につながるのか?人を疑うことに、どのような正当性があるのか?という問題もでてくるような気がします。

なぜ、そう考えるようになったのか?と言いますと・・・
これは体験談じゃないですけど、友人が、借金の保証人になって欲しいと言ってきたとします、保証人になった後に、その友人について良くない噂を耳にしたとして、猜疑心の塊と化してしまう状況下で、「あいつは俺に借金を負わせる気でいるな」と思い込みはじめるでしょう・・・。ところがその友人は、誠実に自分で借金を返済しようと考えていたのならば、そこに、大きな溝ができるでしょう・・・。
そうなると、友人の方も、「あいつが信用していないのなら、開き直って、本当に借金を負わせてやる」ということで、それは、本当に望まない展開になってしまいます。

これでは、どちらにとっても良い結果じゃないに決まっています。
安易に人を疑っても良いのか?という問題でいえば、もう一つ考えなければならない問題があります。
たとえば、よくある話だけど、一度窃盗を犯した人間と同じ職場のときに、その職場で、窃盗事件が起きた場合に、真っ先に疑われてしまうのは、前歴のある人間だと思います。ですが、何の証拠もないのに、その人を犯人呼ばわりして良いはずがありません。やはり疑うには、それなりの証拠がないと・・・。他人を傷つけていい権利なんてどこにもありません。

それじゃあ、証拠を見つければ、問題がないのでは?と考えたとしても・・・。
たとえば、相手の浮気の証拠を探すために、相手の携帯電話を調べる行為も、やっぱり、相手を傷つける行為になるでしょうし、証拠があってはじめて疑うことが成立するべきで、疑うために証拠を探すようでは、本末転倒になってしまいますしね。

疑ってかかることが、結果として良い場合もありますが、事態はそんな単純じゃないってことなのは確かだと思いますよ。

だけど、自分としては、なるべく、そういう境遇にならないことを祈るだけで、実際に、どのような判断を下すかは、そのときにならないと、分かりません・・・。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿