いま新しいパソコンを買いに行くと Windows 8 プレインストールのものしかありません。
使いにくいそうだから嫌だと言うと、 Windows 7 のような使い方もできるようにできますと言われるでしょう。
できるようにできる、そんな回りくどいことになぜつき合わされるのかと、ぶつぶつ言っても、逆回転させない開発推進機構にぼやき声は届きません。
OSには、バージョンごとに厳然とした設計思想があるようです。
民主主義のもとでは、思想信仰は自由ですから、設計思想が受け入れられないということはあり得ません。
売り出せばそこで勝負あったなのです。
買う側には選択の自由はありません。
買う側にあるのは、信仰するかしないかの自由です。
もし売れ行きが悪ければ、そのバージョンが短命であるというだけのことです。
短命のバージョンを、そのときにやむなく買った人は不運であったというわけです。
あまりにも酷ければ、次のバージョンが無償という恩義の熨斗紙をつけて配られます。
その本名は、先代の番号プラス子番号という形で、売る宣伝には美しそうなニックネームがつけられます。
さて、Windows 8 の設計思想は、と考えてみました。
「自由」ではないかという気がします。
「学ばなくてもよい、慣れればよい」自由です。
学ばなくてもよければ、教える必要はありません。
抱いてなでていればだんだん慣れてくる、イメージは多分「ネコ」でしょう。
Windows 8 は、何かを動かし始めても、終了の仕方がわかりにくいという話をよく聞きます。
しかし、終わらなくてよいのだそうです。
仕掛りがいくら並んでも気にせずに、どんどんほかのことを始められるようになっているのだそうです。
振り返らずにひたすら進む、前だけ見ていきましょうというわけです。
そこには一時はやった「後工程はお客様」という考えはありません。
設計者のプロファイリングをこころみます。
発散型、前進感覚旺盛、片付け嫌い、外食専門、A○○マーケット好み。
A○○マーケット好みを補足しておきましょう。
あの店は、品物がどこにあるか、店の出口はどこか、慣れなければわかりません。
Windows 8 は、散らかし文化の粋のような気がします。