「検索」には、そのことを知るだけでなく、固まりかけた頭をほぐす効果もあります。
「科学的」であるとかないとか、どなたかの言い分を聞いて検索を試みました。
真っ先に出てきたのは「科学的流産」という言葉です。
何だこれはとその記事を呼び出してみると、「科学的」ではなく「化学的」だったのです。
そのことについて知りたいというFAQへの質問に「科学的流産」という字を使っていたからというだけのことでした。
「かがく」という発音の同じ「化学」は、専門的に聞こえる度合いが「科学」より強く敬遠されたのでしょうか。
「科学的判定による」と前置きされると、世の人々はそれを正しいものと受け取りやすいようです。
「空想より科学へ」というエンゲルスの著作がありましたが、科学は空想というあやふやな世界を超えたしっかりしたものという感覚を、どこかで身につけてしまっていたのかもしれません。
しかし、科学の成れの果てのような、原子力発電装置の無ざまな姿を見れば、それが正しいものと思えと言われても、もう勘弁してくださいと言いたくなります。
科学的判定が社会的に常に正義であるとは限りません。
科学的=正義というのは、ある種の誤解だったようです。
ここで、難しいことに興味をお持ちの方へ、難命題をひとつ提供しておきます。
『科学的合理性は宗教と矛盾するか』
これは宮台真司教授の紹介によるフランスの大学入試問題です。
○×式科学的採点の容易などこかの出題とはだいぶ違うようです。