『うらそえ文藝』第14号に編集長の星雅彦氏と上原正稔氏の対談が載っている。その中で両氏は、大江・岩波沖縄戦裁判で原告の梅澤氏・赤松氏らが、なぜ『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)を訴えないのかと議論している。星氏は〈なぜそうならば『鉄の暴風』を訴えないのか。そこに何か秘密があるような気がする〉〈そう、『鉄の暴風』の間違いに対しては、訴えるべきだろうし、抗議して謝罪させることだってできるはずだったのに…〉(256ページ)と言い、上原氏は原告側から聞いた話として〈攻撃目標は、ヤマトから見ると沖縄タイムスというのは小さな新聞です。小さな新聞よりか『沖縄ノート』を書いた大江健三郎という、大物を持ってきた方がいいだろうということだったらしい〉(256ページ)と語っている。それに加えて上原氏は、原告側が『鉄の暴風』を訴えなかったことについて、次のような〈裏話〉を披露している。
〈上原 それについては次のような裏話がある。ある悪い奴がいてーー富村という男が沖縄タイムスに何度も訪れ、執拗に賠償金を要求してタイムスから金を受け取ったという。そのことを僕は八〇年頃にタイムスのある記者から聞きましたよ。
星 悪いウチナーンチュ?
上原 そういう奴が、沖縄タイムスを脅迫したんです。彼は梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけて、それをネタに沖縄タイムスを脅迫して、賠償金を要求したんです。
星 そんなでたらめなことを。
上原 でたらめじゃなくて事実です。「梅澤さんは生きている。これを書いたのは君たちの間違いだろう」というふうに沖縄タイムスに抗議したわけです。それでお金を要求して、仕方なく五〇万円を沖縄タイムスは渡したわけです。これは有名な裏話ですよ。
星 その男に渡したんですか。それ本当の話ですか。それ立証できますか。
上原 間違いない。彼はあくどい点でも有名な男ですから。
星 生きているのに、慰安婦と一緒に死亡とは、悪意さえ感じられる。
上原 梅澤さんは要求など、そんなことはしない。タイムスの昔の記者だったらたいてい知っていますよ。富村という男がタイムスに抗議して、梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせたのです。この削除にはそういう背景があったということです。
星 そうすると、一九七〇年に東京タワー事件を起こして、アメリカ人の神父を人質にして昭和天皇を処刑台に送れ!と叫んだあの富村順一ですね。それにしても彼がタイムスへの謝罪要求をしていたとは…〉(257~257ページ)。
上原氏は訳知り顔に引用した〈裏話〉を語っているのだが、仮に上原氏が言うとおり富村氏が沖縄タイムスから五〇万円を受け取ったとして、だからといって梅澤氏が『鉄の暴風』を訴えない理由にはならない。〈梅澤さんは要求など、そんなことはしない〉と上原氏は言うのだから、それなら梅澤氏は沖縄タイムスに対して何の負い目もないはずだ。そもそも富村氏と梅澤氏はどういう関係にあるのか。上原氏はそのことにはまったく触れない。それでどうして原告側が『鉄の暴風』を訴えなかった〈裏話〉になるのか。
また、大江・岩波沖縄戦裁判で梅澤氏らが問題にしたのは、「集団自決」を隊長が命令したか否かということだ。上原氏の〈裏話〉なるものは、富村氏が〈梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせた〉ことを語っているだけであり、その点でも的はずれなものでしかない。
上原氏はさも裏の事情に精通しているかのように語っているのだが、実は大江・岩波沖縄戦裁判で梅澤氏の沖縄タイムスへの抗議・要求行動が取り上げられたことを知らないらしい。星・上原の両氏とも判決文を読んでいないが故に、富村順一氏の恐喝まがいの行動を、もっともらしく議論しているのである。
控訴審判決文には『鉄の暴風』の評価に関して次のような一節がある。問題にしたいのは後半部の梅澤氏の発言だが、正確を期すために長くなるがその前の部分から引用する。
〈(オ)……「鉄の暴風」には、初版における控訴人梅澤の不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば、平成5年7月15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。)、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定できないものと認めるのが相当である。
(カ)ところで、控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し、控訴人梅澤の陳述書(甲B33)にも、昭和63年11月1日に新川明と面接した際のことについて、「私の方から提出した幸延氏の『証言』を前に、明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には、対応した同社の新川明氏(以下「新川氏」)が、謝罪の内容をどのように書いたら良いのですかと済まなさそうに尋ねて来たため、私が積年の苦しい思いを振り返りながら、また、自分自身の気持ちを確かめながら、自らの望む謝罪文を口述し、それ新川氏が書き取ったのです。」「その後、昭和63年12月22日、私の上記要求に対する回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社において新川氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様、岩崎氏に立ち会って貰いました。そうしたところ、沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』と主張して私の言い分を頑として受け容れませんでした。」と記載している。
先に認定したとおり、沖縄タイムスは、控訴人梅澤と面談した直後である昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長宮里正太郎は、同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり、こうした回答を待つことなく、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を示されただけで、困惑して謝罪したというのは不自然の感を否定できない。仮に、控訴人梅澤が陳述書で記載するとおり、昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば、同年12月22日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判するのが合理的であろうが、会談の記録を録音し、それを反訳した記録である乙第43号証の1及び2には、そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて、証拠(乙43の1及び2)によれば、控訴人梅澤は、「日本軍がやらんでもええ戦をして、領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは、これは歴史の汚点ですわ」「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」と述べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが、それは、控訴人梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば(さらに言えば、控訴人梅澤の主張を前提とすれば)、控訴人梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。
この点についての控訴人らの主張を踏まえても、「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定することはできない〉(〈控訴審判決文」206~208ページ)。
判決文によれば梅澤氏は、『鉄の暴風』に記された座間味村における「集団自決」の軍命令に関する記述に対し、宮村幸延氏の「親書」を示して、昭和63年11月1日と同年12月22日の二回にわたって沖縄タイムスの新川明氏らと面会し、謝罪を要求した。それに対し、沖縄タイムスは同年11月3日に座間味村に問い合わせ、11月18日付けの回答を得て、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張し、梅澤氏の謝罪要求を受け容れなかった。
事実関係について控訴人(梅澤・赤松氏)側と被控訴人(大江氏・岩波書店)側の主張は食い違っているが、細かい点については判決文を参考にしてもらいたい。『うらそえ文藝』第14号の星・上原対談との関連で注目したいのは、引用の後半部にある梅澤氏の「日本軍がやらんでもええ戦をして……」以下の発言である。昭和63年12月22日の沖縄タイムスとの交渉での発言だが、「集団自決」の軍命令の問題に関して梅澤氏は、「もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です」と言って、交渉を打ち切っているのである。しかも、この発言は証拠(乙43の1及び2)として会談の録音を反訳した記録として提出されている。録音まであるのだから、梅澤氏がこの発言をしたことは否定しようがない。
裁判の過程でこのことを知った時、大江・岩波沖縄戦裁判が起こってから抱き続けた、どうして原告側は『鉄の暴風』を訴えなかったのか、という疑問が解けた。梅澤氏が上記のような発言をしていて、それが録音までされていた。しかもその後、梅澤氏は自らの発言どおりに『鉄の暴風』をめぐって沖縄タイムスに抗議や要求をしなかった。これでは名誉毀損や出版停止を求めて、今さら沖縄タイムスと『鉄の暴風』を訴えても、勝つのは難しい。原告側はそう判断したのではなかったのか。
無論、『沖縄ノート』を持ち出して大江氏と岩波書店を訴えた理由には、著名な小説家である大江氏を訴えることで、社会の耳目を集めたいという思惑があったはずだ。しかし、だからといってそれが『鉄の暴風』を訴えない理由にはならない。沖縄タイムスと『鉄の暴風』も訴えて、同時に裁判を進めることも可能だったはずだ。それをやらなかったのは、上記の理由があったからであろう。
ところで、梅澤氏が訴えた『沖縄ノート』で取り上げられているのは、主として渡嘉敷島における「集団自決」の問題であり、座間味島におけるそれは具体的には論じられていない。しかも、裁判を提訴した2005年8月の段階で梅澤氏は、『沖縄ノート』を読んですらいなかった。栗原佳子著『狙われた「集団自決」』(社会評論社)から二〇〇七年十一月九日に行われた本人尋問の様子を引用する。
〈ちぐはぐさが目立った梅澤尋問のなかでも、極め付けは近藤弁護士に「『沖縄ノート』を読んだ時期」を聞かれて「去年」と答えた場面だった。傍聴席には一拍おいて、失笑が漏れたという。訴訟が提起されたのは二年前だ。肝心の本を提訴後から一年も経って読んだということになる。
被告側代理人(以下被告側)「どういう経緯で読んだのか」
梅澤「念のため読んでおこうと」
被告側「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
梅澤「ない」
被告側「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
梅澤「ない」
原告側の弁護士が再尋問し、「曾野綾子さんの『ある神話の背景』に『沖縄ノート』が紹介されているのはご存じですね」とフォローしたが、時すでに遅し、だった〉(203ページ)。
『沖縄ノート』を訴えた本人が、提訴の段階で同書を読んでいなかったというのだから、呆れはてるしかない。私もこのとき裁判を傍聴していて、梅澤氏の発言をじかに聞いた。失笑の前に「一拍おいて」とあるのは、傍聴席にいた人たちが梅澤氏の想定外の発言に、一瞬唖然としてしまったからだ。
以上のことを見れば、梅澤氏にはもともと『鉄の暴風』を訴える気もなければ、『沖縄ノート』を訴える気もなかったことが分かる。それなのになぜ大江健三郎氏や岩波書店が訴えられたのか。そこには赤松嘉次元隊長の陸軍士官学校の同期生だった山本明氏や、「靖國応援団」を自称する弁護士グループによる梅澤裕氏、赤松秀一氏へのはたらきかけがあった。そして、自由主義史観研究会など右派グループの支援のもと、教科書から「集団自決」の軍命令、強制という記述を削除させる狙いを持って、大江・岩波沖縄戦裁判は起こされたのである。
『うらそえ文藝』第14号の星・上原対談の末尾には、〈二〇〇八年十二月二十七日正午より二時間レインボーホテル「スポーツバー」にて収録〉(270ページ)とある。チャンネル桜での星氏の発言によれば、実際には何回か収録して構成したようだが、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決の後に行われた対談である。対談の中で同裁判について論じるのなら、星・上原両氏は少なくとも判決文や関連する資料をちゃんと読んで、上記のような事柄は押さえておくべきだろう。
〈上原 それについては次のような裏話がある。ある悪い奴がいてーー富村という男が沖縄タイムスに何度も訪れ、執拗に賠償金を要求してタイムスから金を受け取ったという。そのことを僕は八〇年頃にタイムスのある記者から聞きましたよ。
星 悪いウチナーンチュ?
上原 そういう奴が、沖縄タイムスを脅迫したんです。彼は梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけて、それをネタに沖縄タイムスを脅迫して、賠償金を要求したんです。
星 そんなでたらめなことを。
上原 でたらめじゃなくて事実です。「梅澤さんは生きている。これを書いたのは君たちの間違いだろう」というふうに沖縄タイムスに抗議したわけです。それでお金を要求して、仕方なく五〇万円を沖縄タイムスは渡したわけです。これは有名な裏話ですよ。
星 その男に渡したんですか。それ本当の話ですか。それ立証できますか。
上原 間違いない。彼はあくどい点でも有名な男ですから。
星 生きているのに、慰安婦と一緒に死亡とは、悪意さえ感じられる。
上原 梅澤さんは要求など、そんなことはしない。タイムスの昔の記者だったらたいてい知っていますよ。富村という男がタイムスに抗議して、梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせたのです。この削除にはそういう背景があったということです。
星 そうすると、一九七〇年に東京タワー事件を起こして、アメリカ人の神父を人質にして昭和天皇を処刑台に送れ!と叫んだあの富村順一ですね。それにしても彼がタイムスへの謝罪要求をしていたとは…〉(257~257ページ)。
上原氏は訳知り顔に引用した〈裏話〉を語っているのだが、仮に上原氏が言うとおり富村氏が沖縄タイムスから五〇万円を受け取ったとして、だからといって梅澤氏が『鉄の暴風』を訴えない理由にはならない。〈梅澤さんは要求など、そんなことはしない〉と上原氏は言うのだから、それなら梅澤氏は沖縄タイムスに対して何の負い目もないはずだ。そもそも富村氏と梅澤氏はどういう関係にあるのか。上原氏はそのことにはまったく触れない。それでどうして原告側が『鉄の暴風』を訴えなかった〈裏話〉になるのか。
また、大江・岩波沖縄戦裁判で梅澤氏らが問題にしたのは、「集団自決」を隊長が命令したか否かということだ。上原氏の〈裏話〉なるものは、富村氏が〈梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせた〉ことを語っているだけであり、その点でも的はずれなものでしかない。
上原氏はさも裏の事情に精通しているかのように語っているのだが、実は大江・岩波沖縄戦裁判で梅澤氏の沖縄タイムスへの抗議・要求行動が取り上げられたことを知らないらしい。星・上原の両氏とも判決文を読んでいないが故に、富村順一氏の恐喝まがいの行動を、もっともらしく議論しているのである。
控訴審判決文には『鉄の暴風』の評価に関して次のような一節がある。問題にしたいのは後半部の梅澤氏の発言だが、正確を期すために長くなるがその前の部分から引用する。
〈(オ)……「鉄の暴風」には、初版における控訴人梅澤の不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば、平成5年7月15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。)、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定できないものと認めるのが相当である。
(カ)ところで、控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し、控訴人梅澤の陳述書(甲B33)にも、昭和63年11月1日に新川明と面接した際のことについて、「私の方から提出した幸延氏の『証言』を前に、明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には、対応した同社の新川明氏(以下「新川氏」)が、謝罪の内容をどのように書いたら良いのですかと済まなさそうに尋ねて来たため、私が積年の苦しい思いを振り返りながら、また、自分自身の気持ちを確かめながら、自らの望む謝罪文を口述し、それ新川氏が書き取ったのです。」「その後、昭和63年12月22日、私の上記要求に対する回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社において新川氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様、岩崎氏に立ち会って貰いました。そうしたところ、沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』と主張して私の言い分を頑として受け容れませんでした。」と記載している。
先に認定したとおり、沖縄タイムスは、控訴人梅澤と面談した直後である昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長宮里正太郎は、同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり、こうした回答を待つことなく、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を示されただけで、困惑して謝罪したというのは不自然の感を否定できない。仮に、控訴人梅澤が陳述書で記載するとおり、昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば、同年12月22日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判するのが合理的であろうが、会談の記録を録音し、それを反訳した記録である乙第43号証の1及び2には、そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて、証拠(乙43の1及び2)によれば、控訴人梅澤は、「日本軍がやらんでもええ戦をして、領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは、これは歴史の汚点ですわ」「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」と述べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが、それは、控訴人梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば(さらに言えば、控訴人梅澤の主張を前提とすれば)、控訴人梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。
この点についての控訴人らの主張を踏まえても、「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定することはできない〉(〈控訴審判決文」206~208ページ)。
判決文によれば梅澤氏は、『鉄の暴風』に記された座間味村における「集団自決」の軍命令に関する記述に対し、宮村幸延氏の「親書」を示して、昭和63年11月1日と同年12月22日の二回にわたって沖縄タイムスの新川明氏らと面会し、謝罪を要求した。それに対し、沖縄タイムスは同年11月3日に座間味村に問い合わせ、11月18日付けの回答を得て、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張し、梅澤氏の謝罪要求を受け容れなかった。
事実関係について控訴人(梅澤・赤松氏)側と被控訴人(大江氏・岩波書店)側の主張は食い違っているが、細かい点については判決文を参考にしてもらいたい。『うらそえ文藝』第14号の星・上原対談との関連で注目したいのは、引用の後半部にある梅澤氏の「日本軍がやらんでもええ戦をして……」以下の発言である。昭和63年12月22日の沖縄タイムスとの交渉での発言だが、「集団自決」の軍命令の問題に関して梅澤氏は、「もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です」と言って、交渉を打ち切っているのである。しかも、この発言は証拠(乙43の1及び2)として会談の録音を反訳した記録として提出されている。録音まであるのだから、梅澤氏がこの発言をしたことは否定しようがない。
裁判の過程でこのことを知った時、大江・岩波沖縄戦裁判が起こってから抱き続けた、どうして原告側は『鉄の暴風』を訴えなかったのか、という疑問が解けた。梅澤氏が上記のような発言をしていて、それが録音までされていた。しかもその後、梅澤氏は自らの発言どおりに『鉄の暴風』をめぐって沖縄タイムスに抗議や要求をしなかった。これでは名誉毀損や出版停止を求めて、今さら沖縄タイムスと『鉄の暴風』を訴えても、勝つのは難しい。原告側はそう判断したのではなかったのか。
無論、『沖縄ノート』を持ち出して大江氏と岩波書店を訴えた理由には、著名な小説家である大江氏を訴えることで、社会の耳目を集めたいという思惑があったはずだ。しかし、だからといってそれが『鉄の暴風』を訴えない理由にはならない。沖縄タイムスと『鉄の暴風』も訴えて、同時に裁判を進めることも可能だったはずだ。それをやらなかったのは、上記の理由があったからであろう。
ところで、梅澤氏が訴えた『沖縄ノート』で取り上げられているのは、主として渡嘉敷島における「集団自決」の問題であり、座間味島におけるそれは具体的には論じられていない。しかも、裁判を提訴した2005年8月の段階で梅澤氏は、『沖縄ノート』を読んですらいなかった。栗原佳子著『狙われた「集団自決」』(社会評論社)から二〇〇七年十一月九日に行われた本人尋問の様子を引用する。
〈ちぐはぐさが目立った梅澤尋問のなかでも、極め付けは近藤弁護士に「『沖縄ノート』を読んだ時期」を聞かれて「去年」と答えた場面だった。傍聴席には一拍おいて、失笑が漏れたという。訴訟が提起されたのは二年前だ。肝心の本を提訴後から一年も経って読んだということになる。
被告側代理人(以下被告側)「どういう経緯で読んだのか」
梅澤「念のため読んでおこうと」
被告側「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
梅澤「ない」
被告側「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
梅澤「ない」
原告側の弁護士が再尋問し、「曾野綾子さんの『ある神話の背景』に『沖縄ノート』が紹介されているのはご存じですね」とフォローしたが、時すでに遅し、だった〉(203ページ)。
『沖縄ノート』を訴えた本人が、提訴の段階で同書を読んでいなかったというのだから、呆れはてるしかない。私もこのとき裁判を傍聴していて、梅澤氏の発言をじかに聞いた。失笑の前に「一拍おいて」とあるのは、傍聴席にいた人たちが梅澤氏の想定外の発言に、一瞬唖然としてしまったからだ。
以上のことを見れば、梅澤氏にはもともと『鉄の暴風』を訴える気もなければ、『沖縄ノート』を訴える気もなかったことが分かる。それなのになぜ大江健三郎氏や岩波書店が訴えられたのか。そこには赤松嘉次元隊長の陸軍士官学校の同期生だった山本明氏や、「靖國応援団」を自称する弁護士グループによる梅澤裕氏、赤松秀一氏へのはたらきかけがあった。そして、自由主義史観研究会など右派グループの支援のもと、教科書から「集団自決」の軍命令、強制という記述を削除させる狙いを持って、大江・岩波沖縄戦裁判は起こされたのである。
『うらそえ文藝』第14号の星・上原対談の末尾には、〈二〇〇八年十二月二十七日正午より二時間レインボーホテル「スポーツバー」にて収録〉(270ページ)とある。チャンネル桜での星氏の発言によれば、実際には何回か収録して構成したようだが、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決の後に行われた対談である。対談の中で同裁判について論じるのなら、星・上原両氏は少なくとも判決文や関連する資料をちゃんと読んで、上記のような事柄は押さえておくべきだろう。
赤松氏が言い間違えたか、『週刊新潮』の記者が聞き間違えたのか、いずれにしろ何らかのミスで3月26日と活字になったのでしょう。
『鉄の暴風』の上陸日の件をあげつらう人には、それじゃあこの赤松元隊長の発言はどうなんだ?と訊いてみるのも面白いですが。
レス有難うございます。
取り急ぎ、68年の週刊新潮の赤松インタビューを、
コピーを見つけて確かめましたが、「3月26日」でした。私のTEXT書き起こしのエラーではなかったようです。
>3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html#id_7bb41f8c
では、赤松氏が68年まで米軍上陸を「3月26日」と考えていたかというと、そうともいえないでしょう。週刊新潮の文章も、「3月26日」は「住民からの申し入れ」に懸るともいえますし、「上陸が迫ったとき」のつもりでいったことが、そのまま「上陸したとき」と、書かかれちゃったのかもしれません。etc
復員後、昭和21年1月9日に書き(赤松印)、浦賀の復員援護局に提出し、同20日付け「(本省)第2課」受領印がある、海上挺進第三戦隊「戦史資料」によれば、
>明くれば二十七日早朝戦車数十輌を伴う約一ケ連隊の敵は留利加波 渡嘉志久 阿波連の三方から上陸す
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1406.html
と赤松氏は云ってます。投降時に米軍カナリー中佐から聞いた知識が、入っているかもしれません。
しかし、この赤松資料は「鉄の暴風」などの執筆時には誰にも公表されてないのですから、曽野綾子のペテン性はかわりません。
約10年前? 防衛研究所が<沖台・沖縄>ファイルの公開に踏み切ったのは何時でしょうか?
~~~~~
辻中尉が in situ で書いた「陣中日誌」原本の記述は、3月27日の項、
>三、○四:○○約一ケ中隊ノ各敵ハ渡嘉敷、留利加波ノ茶畑付近ニ進出 部隊ハ速ニ警戒配備ニ着ク
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2251.html
とあるだけです。 「上陸」場面を誰か監視兵が見たといった現認の記録はどこにもないのです。誰も現認してないということは、情況として納得できます。
ところで、ni0615さんが「15年戦争資料@wiki」で紹介されている『週刊新潮』1968年4月6日号のインタビューで、赤松元隊長も渡嘉敷島への米軍上陸日を3月26日と発言しています。
以前から疑問に思っていたのですが、1968年の時点で赤松元隊長が26日と発言しているのはなぜでしょうか。
上陸日が不正確だから『鉄の暴風』が信用できないというのであれば、赤松氏の証言も同じでしょう。
記述や証言の正誤を検証しながら総合的に判断していくのではなく、一部の誤りを持って全面否定するような愚は避けたいものです。
1)住民は米軍上陸を観察していない(座間味とは違うか)住民は26日だと思っていたかも。
2)赤松隊だって米軍上陸を現認してない。「陣中日記」原本。
3)32軍も大本営も、3月25日の第1報を一貫して公式見解とし訂正していない。
4)戦後の復員省作成の公刊戦史にも引き継がれた。昭和24年の改訂版(昭和43年刊行の「戦史叢書 沖縄地方陸軍作戦」の土台)において訂正され、3島とも「3月26日」となった。
なんのことはありません。偶然の一致か、必然の一致かは知りませんが、「鉄の暴風」の記述は、陸軍省の後裔である復員局の見解と一致していたのです。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1223838/