海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

沖縄戦慰霊の日/本部町八重岳の「三中学徒之碑」と「本部壕・病院壕跡」

2022-06-23 23:43:23 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 23日(木)は沖縄戦慰霊の日で、午前中、本部町八重岳に行き「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねた。

 「三中学徒之碑」は八重岳の山頂に向かう途中にある。道路を挟んで向かいの森は真部山で、渡具地方面から登ってくる米軍と交戦し、日本軍の兵士や学徒の多くが犠牲となった場所だ。

 私の父も三中学徒隊の一員として、この地で戦闘に参加しているので、毎年慰霊に来ている。

 碑のある場所からは伊江島を望むことができる。沖縄戦の中でも激戦地の一つで、本部や今帰仁の住民は飛行場建設に駆り出された。

 「三中学徒之碑」では、もう慰霊祭は行われていない。それでも兄弟を亡くした遺族の皆さんが、子や孫の運転する車に乗ってやってくる。

 いつもより早い時間に訪ねたので、まだ誰も来ていないようだったが、お菓子や花、泡盛、さんぴん茶などを供え、板御香を立てて手を合わせた。

 「三中学徒之碑」から山頂に向けて100メートルほど行き、脇道に入ると「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」がある。

 水の枯れた谷川沿いに、沖縄戦当時の石垣や壕が残っている。

 本部町教育委員会が設置した説明板に、当時の状況を描いた絵と証言が書かれている。

 米軍の攻撃を受け、国頭支隊は八重岳から名護の多野岳に敗走するが、自力で歩けない負傷兵たちは置き去りにされ、手榴弾を渡されて自決を強制された。

 これが戦争の現実である。見捨てられた兵隊たちの苦しみや痛み、恨み、恐れ、悲しみに、昭和天皇や軍中枢の幹部らは、どれだけ思いをはせただろうか。

 沖縄戦から77年が経ち、かつての戦友や遺族がこの地に来ることもない。最後に「海ゆかば」を歌って自決していったという兵隊たちのことを思い、この場所でも供え物をして線香をあげ、手を合わせている。

 


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