23日(月)は沖縄戦から80年目の慰霊の日で、お昼過ぎに八重岳の「三中学徒之碑」を訪ね、お菓子やお茶、酒などを供えて手を合わせた。
沖縄戦当時、私の父は三中の2年生で、鉄血勤皇隊の一員として八重岳・真部山の戦闘に参加している。
子どもの頃から当時の様子を何度も聞いてきた。そのせいもあって毎年、慰霊の日にはここを訪ねている。
「三中学徒之碑」からは海の向こうに伊江島が見える。
今帰仁村民も伊江島の飛行場建設に動員されているが、飛行場があったが故に米軍が上陸し、住民も戦闘に巻き込まれて多くの犠牲者を出した。
戦争になれば真っ先に狙われるのは軍事施設であり、制空権・制海権を制するために飛行場と港湾は最重要の標的となる。
そのことをよく分かっているから日本人(ヤマトゥンチュー)は、沖縄に米軍基地を押しつけ、自分たちが住む地域で引き受けようとはしない。
碑のまわりをコノハチョウが飛んで、近くの木でしばらく羽を休めていた。
上の動画は2013年の慰霊の日に撮影したものだ。敗戦から70年の年まで慰霊祭が行われていた。
体験者は亡くなっても、歴史を学び、受け継ぎ、語り続けたい。
三中学徒之碑から八重岳頂上に向かって少し行くと、国頭支隊本部壕・病院壕跡がある。
80年前の4月16日に伊江島に米軍が上陸し、八重岳を拠点にしていた国頭支隊は羽地村の多野岳に撤退する。
その際、歩けない負傷者はこの地に置き去りにされ、手榴弾を渡されて自決を強いられている。
軍隊は住民を守らないだけではない。追い詰められれば兵隊も守りはしないのだ。
勝ち目がないのは分かりきっていたのに、お国のため、天皇陛下のため、と戦場に動員され、負傷して動けなくなれば見捨てられる。
そうやって死んでいった兵隊たちが、「皇国の春に甦る」わけがないだろう。
慰霊の日の前には草刈りが行われ、沖縄戦当時の石垣が見られる。
八重岳は桜で有名だが、ぜひこの場所にも足を運んで、置き去りにされた兵隊たちがどういう思いで死んでいったか、想像してほしい。
八重岳から名護小学校の敷地にある「少年護郷隊之碑」に移動した。
午後2時過ぎに着いた時には、お坊さんは読経を終えて帰ったとのことで、あとから来た遺族の皆さんが花やお菓子を供え、線香を立てて手を合わせていた。
最後に「和魂之碑」に行き手を合わせた。
ヤンバルの地で戦死した日本兵の中には、住民虐殺を行った者もいれば、食料強奪を行った者もいる。
「アメリカ―よか、友軍がるうとぅるせーたる」(米軍よりも日本軍の方が怖かった)。
子どもの頃、祖母から聞かされた言葉だ。私の祖父も日本軍に命を狙われ、父も米軍のゴミ捨て場から食料を拾って与えていた日本兵たちに殺されかけている。
日本人が都合の悪い歴史を消し去ろうとしても、殺された側の人間は決して忘れないし、伝え続ける。沖縄以外の地域・国でも同じだ。