海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

多野岳にて

2008-04-28 15:49:36 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 朝早くから多野岳に行く。頂上にはホテルがあるのだが人の姿はなく、駐車場にも車は数台しかない。まわりの景色を眺めてから森の中の遊歩道を歩くと、慶良間ツツジが赤い花を咲かせている。平地ではツツジはすでに散っているのだが、半袖では肌寒いくらいだから、ここでは開花が遅いのだろうと思う。ウグイスやホーピル(アカショウビン)の鳴き声がこだまする。春から若夏に変わりつつあるのを鳥の声が示す。
 新緑から深い緑に変わりつつある森の静けさと冷気を楽しみながら小一時間ほど過ごし、車に向かう途中イチュウビ(野苺)がなっていたので久し振りに口にした。エビネの白い花も咲いていたのだが、野生のまま残っているなら今では貴重なものだ。
 四月になると、沖縄戦当時の両親や祖父母が、この日はどうしていたのだろうと考えることが多い。六三年前の四月下旬、父は多野岳の森の中にいた。三中学徒隊として本部半島の八重岳で戦ったあと、宇土部隊とともに多野岳に「転進」していたのだ。その時の三中生の様子は宮里松正著『三中学徒隊』(三中学徒之会)に詳しい。ただ、父の移動ルートは宮里氏らと違い、武田薬草園の近くを通ったようだ。薬草園付近では米軍が機関銃で待ち伏せ攻撃をかけている。多野岳に行く途中では伊差川のあたりを越えるのが大変で、たくさんの死体を見たと父は話していた。ちなみに旧羽地村の古我知にあった武田製薬の薬草園では、コカインが栽培されていた。
 去年もこの時期に多野岳に来て、父はどのあたりにいたのだろうかと思いながらまわりの山や森を眺めようとしたのだが、霧が深くてほとんど眺められなかった。今日は薄曇りで遠くは霞がかかっていたが、眺望はよかった。頂上から眺めると、第三遊撃隊(護郷隊)が多野岳を拠点にした理由がよく分かる。西には本部半島や羽地内海、屋我地島、古宇利島が望め、南には久志、恩納連峰から読谷方面、東シナ海が見える。東にはキャンプ・シュワブ基地のある辺野古先や太平洋が見え、北には国頭にいたる山岳地帯が続いている。周囲の戦闘状況を観察しながら遊撃戦を行い、米軍が攻めてきたら国頭方面の山中に移動する上で打ってつけの場所だったのだろう。
 第三遊撃隊は大本営直属の隠密部隊であり、大隊長や中隊長は陸軍中野学校出身者である。ゲリラ戦によって米軍の後方攪乱をしながら情報を収集し、大本営に報告することを任務としていた。多野岳に宇土部隊の敗残兵がなだれ込んでくると米軍の攻撃目標となるうえ、宇土隊長の指揮統率力のなさ(放棄)に第三遊撃隊の村上隊長が不満を持っていたことが『三中学徒隊』には記されている。その敗残兵達によって北部の山中や集落で、住民虐殺や、食料強奪、暴行などが行われるのである。
 沖縄島南部の戦闘の激しさに比べれば、北部はまだましだったと言う声もある。ただ、それはあくまで比較の上でのことだ。北部に疎開や避難をしてきた中南部の人たちは、米軍の攻撃だけでなく日本軍の敗残兵の暴力にもさらされ、山中で飢えやマラリアに苦しむことになった。北部にもまた沖縄戦の悲惨な歴史がある。
 多野岳周辺も今では開発が進み、山頂にはテレビやラジオ、携帯電話などのアンテナが林立している。見渡せる風景も平野部には建物が密集している。それでも、南や北に向かって伸びる山並みは変わらずに深い森に覆われている。その木々の下で何が起こったかを想像してみたい。「ヤンバルの美しい自然」という言葉にはくくられれないべつの風景が見えてくるはずだ。

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