海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

日本軍のトーチカ

2009-08-13 06:38:42 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 海岸近くには日本軍のトーチカが残っている。あちこちに弾痕があり、鉄筋として利用された軽便鉄道のレールものぞいていた。中に入ると蜂の巣だらけで、余り長くはいられなかった。
 三ヶ野大典『悲劇のサイパン』は〈北西部の水際陣地にいた歩兵第五十連隊第三中隊と海軍陸戦隊は上陸前のすさまじい砲爆撃でほとんど全滅し、米軍は午前八時すぎには早くも一部が第一、第二飛行場まで進撃して来た〉(190ページ)と記している。
 このトーチカの中にいた兵士たちは、どのような最期を迎えたのだろうか。
 テニアン守備隊の緒方守備隊長は、その日の夜に夜襲を行うが、サイパン戦で日本軍の夜襲の性格と方法を把握していた米軍は、迎撃体制を整えていた。

 〈日本軍は二十五日午前一時を期して三方面から突撃した。日本軍の夜襲のやり方を熟知している米軍の備えは固かった。橋頭堡前面に鉄条網を張りめぐらし、集音器を設置し、真昼のように照明弾を打ち上げていた。前面には戦車を並べ、突撃する日本軍に銃砲火を集中した。 
 日本軍は四時間にわたって突撃を繰り返したが、最前線を突破できず、夜明けとともに二千五百人の戦死体を残して後退せざるを得なかった〉(『悲劇のサイパン』192ページ)。

 8月15日の敗戦の日が近い。今あらためてテニアンで撮った写真を見ながら、65年前にこの島で亡くなった人たちのことを考える。このトーチカの中で、日本兵たちは米軍の砲撃に耐えながら何を思っていたのか。どのように想像力を駆使したところで分かり得ないことではあるのだが、考える努力はしなければならないと思っている。

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