俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

5月29日(金)のつぶやき

2015-05-30 04:55:10 | twitter

偏屈なんだなぁ。いちいちやることに理由を用意していて、そとから見るとこだわりが強い人間に見えるらしい。


多様性の欠如。この言い方が微妙に意識高い系の戯れ言に聞こえてしまうのだけど、まぁたしかに学者さんやコラムニストさんがいうのは正しい。日本人は破滅に向かうとわかっていてもやめられない。なにも変わってない、腹切り、カミカゼの時代から。


だらだら生きたっていい。あんたに理解されなくたっていい。私は私でいることになんら恥じることはない…たしかにそう思えれば幸せだ。


違うと思うんだな。私は私だから構わないでくれ、と細々と生きていくことも、マジョリティーの価値観にたいして一切目を向けず超然的になるのも違うと思うんだなぁ。


マジョリティーの世界に足を突っ込み卑屈になりながらも、こんな生き方は間違ってると、てめぇにも教えてやるよ、その価値観が絶対的な価値観でないことをって。その証明は川の向こう側でするのではなく、同じ土地で行うことに意味があると思うのよ。


だって、違う世界からあんたのいる世界はわしの住む世界とは違うんだなぁ!っていうのは多様性の必要性を訴えることはできても、それは多様な価値観が共存する世界ではなくて、排他的な区別された世界しか想像されないじゃない。


多少、自分に部が悪くてもマジョリティーの価値観に小便引っ掻けるのはやり逃げではなく、居続けてやり続けることに意味があるのだと思う。それが負け犬の遠吠え、負け犬の小便でもいいと思う。多様性を身をもって実現してやるのだよ。


だからですよ、まったく隔絶された、スタンドアローンな状況に身をおいて「ウェーイ!」しているのはなんか、違うと思うのよ。それはそれでいいとも思うけど、一人の人生としては。


だから。こうしてぎりぎり日本社会に接する状況に身をおいて意識高い系の「ウェーイ」をやっているわけで。

わからないけども、どこにいようとも何をしようとも、自分の生まれ育った国を捨てられるわけもなく、より良くあってほしいと思うのよね、うん。


ひとりの人間として生きることは恐いし、恥ずかしいし、後ろめたい。それにシャチクと揶揄されても、公僕である気持ちを持ちたいと思うし、社会の役に立ちたいと思う。


どんな自分の周囲がくそだ、だめだ、絶望的だって口でいったとしても、アムロがいう「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」という気持ちを捨てられないし、諦められないのが自分の良さだと勘違いしたり、期待したりしてもいいのかなと思う。


逃げて逃げて逃げ切れればいいけど、そうじゃないのね、きっと。自分が正しいと思えたことにちょっと本気だして、誰かのために自分のために生きてみたっていい。そう生きてみることも間違いじゃないことを見せつけてやろうじゃない。そう思ったり、思わなかったり。ラジバンダリ。


ただ矮小たる私個人の精神は、結果の大小を意識してしまうので、どうしようもなく不安であり、どうしようもなく孤独であり、どうしようもなく惨めであると感じてしまう。ちっぽけな槍。ちっぽけな手榴弾。


なにも伝えられない無力感。なにも変えられない無情感。私もアイドルのファンみたいに自分の1票が世界を変えるぐらいの自信や気持ちを持ちたいと思うよ。


和をもって尊びとなす。この気持ちや精神は好きなんだけど、これを完全否定する人間もちょっとあれだと思うし、この考えが実際にはマジョリティーのウィンウィンの関係に属せない人間には死を!みないなことを状況的に要求している日本の息苦しさはあると思う。


たえずその闘争ではあるけども、マジョリティーの転覆を狙うわけでもなく、すべてのコミュニティの廃絶を目指すわけでもなく、マイノリティーの根絶やしを求めるのでもなく、たえず、血ヘドを吐きながらも中庸を求めよう。


学生が「なんで先生は自分一人でベトナム語を勉強するんですか?」と聞いてくると必ず「勉強っての教わることではなく、学ぶことをいうんだ」と答えるっての鬼畜。


(習ってうまくならなかったら嫌だから)



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