俺もお前も人生の敗北者

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インド「ヴィヤーサ」に学ぶ、本質というものの在り方

2013-06-13 16:55:05 | 勉強
今読んでいる本(森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』)の受け売りなので申し訳ないんですけど

古代インドには”ヴィヤーサ”という人がいて、叙情詩『マハーバーラタ』の作者として有名らしいです。
そんでもって『ヴェーダ』の編纂者でもあり、そのほかの経典の編集者でもあるそうです。
※歴史的な物証はありません

そして彼の名前の”ヴィヤーサ”という言葉の意味は「編纂者」という意味だそうです。

「は?」って僕も思ったんですけど、そこにはインドの長い長い時間の経過とその時間ではぐくまれた文化、その中で生活してきたインド人に言わせればなんてことはない些細な問題らしい。

昔こどもの頃「法隆寺をつくったのは誰ですか?」という問いに、素直に「聖徳太子」と答えると不正解になり、「正解は大工さんでした」みたいなのをついつい思い出してしまいました。

神の言葉を記録したのは「編纂者(ヴィヤーサ)」であり、長い時間語り継いできた物語を完成させたのも「編纂者(ヴィヤーサ)」である。それでいいじゃない?ね?…みたいなのがインド人の思うところらしい。誰が作ろうとそんなのは大した問題ではなく、そこに書かれていることが重要なんだと。


そんなのただの頓智(とんち)じゃないかって思うんですけど、今の時代そういう考えに戻ってみてもいいんではないかというのも少し思うわけです。

どこか「君はAという要素とBという要素があるからCだ!」みたいな明文化というか、方程式で座標を固定されてしまいがちな世の中ではあるものの、それだけではなくて、どこにカテゴライズやポジションに置かれても私は私である一種の信仰心もまた重要なんだろうなぁと思うわけです。

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論新社

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