俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

生き方

2006-12-22 16:21:51 | 社会問題
 最近、親父と話す機会が割りとあったので、その中のひとつを取り上げたいと思う。
 亀田の試合があった日、親父に「ボクシング見た?」と聞いたら「見てないけど、買ったらしいね。お母さんは『(亀田は)TBSにいくら払ったんだろうね』っていってたけど」と返ってきた。そんなことを言う母親もどうかと思うのだが、私個人としてはくそ試合だと思っていたのでそのくそっぷりを話そうとした。しかし、私が話そうとした前に親父が「試合はともかくとして、あーやっていることが格好いいという風に考えることにNOといえないのが教育現場の問題」と珍しく教育者らしいことを言った。
 私個人としては亀田のあの生き様が格好いいように思えてこないのだが、あれでわりと共感する人がいるらしい。正直どこがどうすばらしいのかよくわからない。TBSの異常報道に踊らされているのか、見る人たちが幸せな生活を送っていないのかが問題なのかわかりませんが、私はすばらしいというよりはすごく安い感じを印象として受けます。もっと言えばあの一家がやってることって「漫才か!?」と思いますし、もし近所に住んでいたら扱いとしては「騒音おばさん」とそう変わらない気がするんですよねぇ…。演出が大きすぎてどんどん胡散臭く感じてきて、ボクシングの試合自体も胡散臭くなってきていて、それで勝って「どんなもんじゃい!」といわれても、何ひとりで興奮しているんですか?と私は思ってしまう。
 ともかくとしてあれが格好いいように思えない私にとっては教育現場でNOといわなくてもいいんじゃないかと思うわけですが、親父からすればそう思えないんだろう。でも私としてはあれはあれで生きていけるならそれでもいい気がするんですよ。あの生き様はともかくとしてやはりボクシングに対してはものすごい練習をやってのけて、世界チャンピオンになっているわけだから。それは生き方のモデルの1つだろうし。
 親父はやはり古い考えというか昔ながらの考え方なのかもしれない。しっかり勉強して、就職するのが一番いいという感じの考え。私はそう思わないんですよね。それは1つのモデルでしかないんですよ。そうしないでも生きていけるならそうしなくていいわけで、人生にはいろいろな生き方が存在していいはずです。その形を制限する必要はないし、そういった多様性についていけない社会のほうがよくないと思います。ただ問題として、そこのすみわけがちゃんとできるかどうかだと思うんですよ。「あーいう生き方もあれば、こーいう生き方もある。あーいう風に生きていれば将来的にこうなるから、あー生きよう。」みたいなのが自分自身で考えることができればいいと思うんですよ。ただやはり問題なのが日本人のとくに若者にそれができるかどうか。残念なことにそれができるまで成長しているかといえば、むしろ昔よりもできなくなっているように私は思います。教育者からすればあーいう生き方にNOといってあげたほうが、そういうすみわけのできない若者にとっては救いなのかもしれません。教育現場でNOという必要は私はないと思いますが、YESかNOかを問うことはしていかないといけないのではないかと思います。