冬野菜
久しぶりに山の畑に行く。冬野菜の準備もソロソロである。この夏ははじめて夏野菜に挑戦した。植えたのは、トマト、キュウリ、ナス、シシトウなど。春にはジャガイモにも挑戦していた。食べきれずまだ残っている。水菜も壬生菜も食べきれなかった。
キュウリの苗を植え始めたとき、ウリバエという虫に植えたばかりの苗の柔らかい葉っぱをほとんど食い尽くされてしまった。みんなは苗の周囲を精霊流しの行灯のようにして囲っていたのに、私はお得意の「ずぼら農法」を決め込んで、放ったままにしておくと案の定だった。
もう、とうていまともに育たないと思っていた。それでも、急きょ周囲を古新聞で囲ってやると、やせ細りながらも何とか成長し始めた。それがやがて、7月8月になると食べきれないほどにキュウリの実をつけたから驚きだ。一週間も放っておくと、キュウリか瓜かわからないくらいに太く大きくなってしまう。トマトもよくなった。トマトに特有の香りも存分に嗅いだ。逆に新鮮さを失ってしまったかもしれない。よく熟れたトマトを冷やして食べたのも、今年の夏の思い出となる。親戚に宅配でお裾分けするほどに多くもなく、中途半端な量なので自家消費した。
少しずつ自然に親しみはじめて驚いたことは、自然のもつ「生命力」だろうか。昨年の晩秋から畑仕事にかかわり始めたのだけれど、はじめは枯れ草が目立ったので、それらをスコップなどで掘り起こして整地することなど心がけていた。
やがて春が来て桃の木が花を咲かせたりして、それなりにきれいだったけれど、春を過ぎ夏を迎えると、雑草が生い繁った。山の中に分け入るのがむずかしいほどになった。周囲の景色が一変するほどで、自然の「生命力」の一端に触れた気がする。
植物についての知識はほとんどないので、全てが雑草でひとくくりである。それでも、いつか余裕ができれば、それぞれの植物をデジカメで撮って、その種類なども分類してゆければと思っている。
はじめは闇雲に植えていったけれども、多少なりとも収穫できはじめると、採れた野菜をどう処理するかも問題だということがわかった。つまり、当然のことながらおいしい食べ方も知っておかなければならないのだ。キュウリなどははじめは生かじりがほとんどだったけれども、それでも食べきれない。かといって「ずぼら」だから、ぬか漬けなど作る気にもならない。
たまたま「キュウリのQチャン漬け」のレシピを、ある人のブログで読んで、これなら簡単そうだ、と思い立って作った。キュウリの他にナスや、山から採ってきた青ジソを加えた。確かに美味しかったけれど、三、四日経つと、何と上澄みにカビがはびこり始めた。びっくりして思わず捨ててしまおうとしたけれど、鼻を近づけて嗅いでみると何となく甘酸っぱい香りがする。おそるおそる食べてみると、なかなか美味しい。
食べれる物か食べれないかは、口に含んでみるとすぐにわかる。食べられないものは、はじめから舌が受け付けないはずである。タッパーウェアの中にキュウリがよく漬かってなかなか美味しくなっている。「Qチャン漬け」とはずいぶん違う味になってしまったけれど、美味しければいいと思って、そこへさらにキュウリを足した。Qチャンの白カビ漬けにしてまだ食べている。ご飯にはあう。このカビはたぶん何か糠味噌などと同じ、酵素カビなのだろうけれども、ヒマがないので調べる気にもならない。
イチジクは自分の背丈よりも大きくなった。柿の木はやはり、冬の霜柱の立つころに移植したのが悪かったのか、とうとう根付かなかった。植え替えるつもりでいる。
ところで、新しい「百科辞事典」を少しずつでも作ってゆこうかと思っている。もちろん、ヘーゲルの「エンチュクロペディー」を踏まえているのだけれど、ただ、構成については、私の立場から変えてある。カントの平面的なカテゴリー表をヘーゲルは立体的に再構成してみずからの哲学大系を作ったが、私は出発点を変えた。事物の生成のはじめに、ビッグバンという現代科学の知見を取り入れるつもり。どこまでやれるかはわからない。
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