作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「存在」と「概念」

2014年01月06日 | 哲学一般

 

「存在」と「概念」の関係について、先日たまたまツィートすることがありましたが、概念と存在の関係については、重要なテーマでもあると思いますので、『小論理学』の中から、参考となる個所を引用しておきました。興味と関心のある方もどうぞ。

小論理学§51


その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。

概念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表しているにすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。

なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。

もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。

―――とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したものであるが、それについては後に述べることにする。

岩波文庫版『小論理学§51』( s 197 )

 

 


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