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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

熊本市長の『赤ちゃんポスト』

2007年04月07日 | 教育・文化

熊本市長の『赤ちゃんポスト』

最近で、これほど愚かしいニュースを耳にしたことがないと思いました。熊本市の病院で、『赤ちゃんポスト』の設置が許可されたというものです。それに対し、次のような内容で反対意見のメールを熊本市の市長秘書課と総務課に送りました。今のところ、これくらいしか私には抗議の意思を伝える手段がありません。

熊本市  幸山政史 市長殿

慈恵病院の『赤ちゃんポスト』についての意見です。

このたび、貴熊本市の幸山政史市長が、慈恵病院の『赤ちゃんポスト』を認可されたと聞きました。

何という愚かな判断だろうと思います。幸山市長の、あまりにも愚かな決断には、一瞬言葉を失いました。

戦後の日本生まれの市長の、地獄にも通じる『善意』の無自覚な退廃の精神には、救いようのない気持ちと憤りを感じます。

また、そうした市長を選出された熊本市民の皆様にも、深い
軽蔑と憤りを感じています。

両親の子供に対する養育責任は、モラルの根幹ではありませんか。それを破壊することを認可する『赤ちゃんポスト』のような公的な判断をすれば、社会や家庭は根底から崩壊し、人間の精神は退廃し腐ってゆきます。

今回の幸山市長の判断は、日本社会を根幹から腐らせてゆく、罪、万死に値するものであると思います。このことに気付いていただきたいと思います。

すみやかに、今回の判断を是正し、撤回されることを望みます。
  
       2007年 4月 6日


                     住所、記名
・・・・・・・・・・・

今回の幸山政史市長の認可の背景には、過激なフェミニズムの影響が隠れているのではないだろうか。その病的な思想の問題の解決なくして、こうした問題は根源的には解決されないのではないかと思う。過激なフェミニズムの思想的な問題については機会あれば今後も取り上げたいと思うし、また興味や関心のある人は、是非に問題にしてほしい。

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日本の内なる北朝鮮

2007年01月12日 | 教育・文化

かって在日朝鮮人が歓喜雀躍して帰国運動に従事し、祖国再建に希望をもって北朝鮮に夢を抱いて渡っていった頃にくらべれば、もはや北朝鮮の評判は地に落ちてしまったといえる。マスコミなどから折に触れて伝えられる北朝鮮についての情報が、飢餓や脱国、拉致などについてのニュースばかりであるから無理もない。

わが国で北朝鮮への帰国運動が行なわれていた当時にあっては、社会主義体制と資本主義体制が世界を二分するいわゆる冷戦構造がまだ揺るぎもせず、まして崩壊するなどとは誰にも予想できなかった時代である。日本の国内の政治も、当時の世界のイデオロギーを反映して、社会党と自民党が国会を二分するいわゆる55年政治体制のもとにあった。

朝日新聞や岩波を中心とした「知識人」たちに、中国の文化革命や北朝鮮の千里馬運動を理想社会実現の試みとして共感し支持する者も少なくなかった。社会主義や共産主義に対する夢がまだ見られていた時代だった。学校教育の中でも、とくに日教組に属する教員のなかには共産主義者が少なくなかったし、彼らも自民党の教育行政と鋭く対立、拮抗しながら、一方で戦後の日本の教育のあり方を規定してきた。


戦後の日本は、朝鮮やドイツのように同じ民族がイデオロギーによって社会主義国家と自由主義国家に分断されることは免れたものの、同じ国内に二つの分裂国家を抱えていたようなものである。社会党や共産党と自民党が敵対的なイデオロギーで対立しながら、戦後政治を行なってきた。

公式には現在の北朝鮮は社会主義国家ということにはなっているけれども、かっての毛沢東中国と同様、その実質は封建的儒教国家とでも呼ばれるべきものだろう。そこでは国民大衆がまだ自由の意識を形成しておらず、自由な社会の上に形成された国家ではないからである。国民大衆が自由に解放されていない社会では、国家のその理論的な骨組みを社会主義に求めようが民主主義に求めようが、その実体は不自由な社会であることには変わりはないのである。


その点では、中国も朝鮮も日本もその民族的な資質という点では、類縁関係にある。いずれも儒教的な文化圏に属し、家父長的な封建体制の下に権威主義的な文化に長い間民衆が生活してきたという点では同じである。中国においては毛沢東の個人崇拝は今ではそれほど露骨ではなくなっているが、その芽はなくなってはいない。北朝鮮における個人崇拝は相変わらずである。これらの諸民族は自由についての経験も浅く、全体主義に馴染みやすい傾向をもっているといえる。

この傾向は、何も朝鮮や中国だけの話しではない。戦後は曲がりなりにも、日本では自由と民主主義を国是として運営されてきたので、それほど露骨な全体主義的な動向は見られないが、国民や民族の資質として、全体主義に馴染みやすい体質をもっていることは明らかである。


多くの自称共産主義者や社会主義者、平和主義者たちは自分たちの思想を狂信して、他者がそれ以外の信条をもつことを否定する傾向があるのもそうである。たとえば、今一部に存在する「日の丸」や「君が代」の否定論者たちは、その狂信的な、不自由な意識からすれば、彼らがひとたび強制的な権力を手にすると、現在の石原東京都知事以上の思想統制を実行するのではないだろうか。社会主義者や共産主義者が実際に国家権力を手にした諸国での歴史的な経験も、そうした事実を教えているのではないだろうか。自由を尊重する精神に欠けるという点では、右翼も左翼も同じ民族の体質として変わりはないのである。


戦後の日本国民は一応は建前としては、自由と民主主義国家に生活しているとはいえ、自由と民主主義の教育が十分に実行されてきたとはいえないし、その自由の意識が国民に十全に確立しているとも思えない。戦後の日本の教育が共産主義者の日教組と皇国史観の自民党文教族によって担われてきたために、学校教育での自由と民主主義の教育がはなはだ不十分であるという事実は自覚されていない。


民族の体質としては、全体主義の色彩を強固に残している。それは、教育や人間関係、宗教などの文化に刻印されていて、条件さえそろえば、かっての中国の文化大革命の熱狂が、再現されるようなものである。民族の体質としての全体主義的な傾向を完全に克服し切れているものではないと思う。


戦後の学校教育が自由と民主主義教育において十分にその責任を果たして来なかったことは、いわゆる有名大学の卒業生たちがオーム真理教などに対して何らの免疫力も持ちえていなかったことからも明らかである。その傾向は現在も改善されてはいない。

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「日本国の概念」とイギリス

2006年11月20日 | 教育・文化

「日本国の概念」とイギリス

日本国は日本国であって決して英国ではない。しかし、英国と日本とは、ユーラシア大陸を挟んで極東と極西と地理的には正反対に位置するけれども、同じ立憲君主国家であり、大陸の周辺国家であり、また島国であるなどの類似点も多い。

なぜこのようなことを言うかというと、今日の日本国の現状は周知のように教育亡国、政治亡国の瀬戸際にあるからである。それらは日本国民の教育や国家意識など多くの点で、太平洋戦争における日本の敗北の結果としてもたらされた国家概念のゆがみと、その戦後政治体制の行き詰まりに起因していると考えられるからである。そうした状況から脱却してゆくうえで、明治維新に伊藤博文などが欧州に国家観を学んで新しい日本の国家体制を確立したように、まだなお多くの点で英国などの国家体制を参考にできるし、すべきであるからである。


英国は、日本のように第二次世界大戦で敗者として外圧によって、政治的にも文化的にも国家体制を強制的な転換させられることもなく、今日に至っている。また、明治維新のように、黒船などの諸外国の暴力的な圧力によって強制的に開国させられることによって、文化的な断絶を国家として経験することもなかった。それゆえに英国などは、私たちがオーソドックスな国家の概念を考える上で参考になる。


そうして、自由で独立したあるべき正しい国家概念を、まず日本国民が日本国の再生のためにしっかりと自覚し、目的としてゆく必要がある。その際に英国やスイスなどの国家体制は参考にしうる。


まず第一に、自由で独立した国家として英国やスイスは、その国内に日本のように外国駐留軍を置いていない。日本国民のモラルの退廃の一つの原因としてアメリカの駐留軍の存在が大きいのである。

もちろん、政治的には今すぐには在日アメリカ駐留軍の撤退を実現させることはできない。しかし、それは国民の「悲願」であるべきである。国内に外国の軍隊が駐留していることを国民は恥じるだけの誇りを持たなければならない。

いつの日になるか、アメリカ軍にお礼を言って国内から早く帰ってもらい、日本人自身の手で、国家と国民の安全を確保できるようにしてゆくことである。そして、アメリカとは現在のような半植民地のような従属的パートナーの関係ではなく、イギリスのように、より対等な同盟国家関係にしてゆく必要がある。

そのためにも防衛庁は国防省に、自衛隊は国防軍に改組し、さらに必要とあれば、自発的な兵役の義務も国民に復活させる必要があるだろう。また、国家情報機関も強固な組織に編成する必要があるかも知れない。

そして、そのために何よりも大切な前提としては、現在の日本の自由民主党や民主党などの政党で行なわれているような偽物の自由と民主主義ではなく、イギリスやスイスで行なわれているような自由と民主主義についての真正の自己教育を国民一人一人に実行してゆく必要がある。

 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(4)

2006年10月21日 | 教育・文化

さらに学校をはじめとする教育環境の改善をもっと大胆に推し進めることである。日本サッカー協会の川渕三郎チアマンがかねてより主張されているように、学校校地の芝生化を進めることである。校内環境の緑地化をもっと図るべきだ。とくに小学校や中学校では、森の中に学校があるような雰囲気を作るべきだ。教室内の机上学習が終われば、いつでも身近な「森の中」で遊べるような環境を用意すべきである。これは社会全体の緑地化とも関連する。

さらに、現在の教室環境の、机や椅子のプレハブ状態を改善してゆくことである。廃材の木材などを利用して、もっと、どっしりとした落ちついた「気品」を感じさせる家具備品を使用することである。鉄パイプと合板の安っぽい机や椅子の使用は止めるべきだ。教室内の雰囲気に芸術や文化の香りがなく、クラス学級内の環境はどこかの工場の倉庫のような無機質な雰囲気で教育が行われている。政治家や文部科学省の役人の教育や文化芸術についての感覚と見識が問われている。


大胆で根本的な意識改革と、革命的な発想が指導者、教育関係者に求められる。


 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(3)

2006年10月20日 | 教育・文化

そうしたクラスの組織面での研究とともに、民主主義の精神的な、倫理的な教育訓練をも研究改善し実施してゆく必要がある。

たとえば、「民主主義手帳」(名前は何でもよいし、冊子の形式でもよい)を作成して配布し、生徒たち一人一人に持たせることである。その中に、学校生活のあり方や民主主義の倫理観などの基本的な事項を記載し、ホームルームの時間などに、常時活用できるようにしてゆくのである。戦前は「教育勅語」などがその機能を果たしていたが、今日に至るまで、それに代わる確固とした倫理基準が学校現場で生徒たちに教えられていないことが問題なのである。

「教育勅語」に代わるべき倫理観とは何か。それは「民主主義の倫理観」である。そうした問題意識が、首相や文部(科学)大臣、教育委員長などに必要ではないだろうか。

それとも「民主主義の倫理」など聞いたこともないか。
個人の尊厳とは何か、基本的人権とは何か。なぜそれは尊重されなければならないか、具体的な学校生活の状況のなかで教えてゆかなければならない。現状ははなはだ不十分だから、問題を防ぎきれない。オーム真理教事件などは、現在の日本の学校教育の失敗の象徴ではなかったか。

その他にも、法律や規則は遵守すべきこと、多数決には従うこと、しかし、少数意見も尊重されて、意見を無理に変える必要はないことなど、そうした民主主義の精神と倫理についての基本的な概念を生徒たちに教えて行くことである。そうして学級や学校を民主主義教育の現場にしてゆく必要がある。

また、具体的な教科の内容や教材などについての学習上の問題の把握と改善や、体育祭・文化祭などのクラス運営の問題などについても、子供たち自身の民主主義的なクラス運営によって、できうる限り自主的に解決してゆくための教育訓練も必要である。クラス会議の議長や書記の選出や議事録の取り方、文書管理の仕方など、会議の運営の仕方を教え訓練して、クラス運営の技術などについて基本的な事項を説明し、それを常に生徒と教師に携帯させて活用して、教育訓練してゆくことである。

そうしたクラス運営のための基本的な知識や技術も「民主主義手帳」に記録して、日常的に民主主義の精神倫理とその活用の技術をクラスの現場で教えてゆく必要がある。

ホームルームなどのクラス全体会議で、クラス内で起きている問題を、もし北海道の滝川中や福岡の筑前市の三輪中の生徒たちに起きているような「いじめ」があれば、それをクラスの問題として、生徒自身に自発的、自主的に発言させ、常にどんな問題であってもクラス内の出来事は隠すことなく問題提起でき「情報公開」できる雰囲気をつくり、同時に、クラス全体の力でクラス内の問題を自主的に解決してゆく訓練に日常的に取り組んでゆくことだ。

そうした教育訓練の必要を学校教育関係者、文部科学省職員、さらには安部首相や伊吹文部科学省大臣などが切実な問題意識としてもち、そうした民主主義教育の研究こそを実行して、その恩恵を生徒たちにもたらすようにすべきである。

安部内閣は教育改革を重要な課題として取り上げ、教育改革諮問会議をも立ち上げている。しかし、率直な感想としては、おそらくこれらの陣容では改革の実は挙がらず、今度もせいぜいお茶を濁すだけに終わるのではないだろうか。

 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(2)

2006年10月19日 | 教育・文化

子供のいじめ行動は、また大人社会の模倣行動でもある。どこかの学校で教諭が校長の「パワハラ」で自殺したことも報じられていたが、大人社会の「いじめ」文化が子供社会に反映しているにすぎない。

こうした「いじめ」を学校内から発生することを防ぐ根本は、まず第一に共同体としての性格を学校に復活させることである。仲間意識や友情が育まれやすいように環境を整えてゆく必要がある。そのためには現在の学校教育における立身出世主義の、受験本位の、単なる就職のためだけの教育観を改めてゆく必要がある。もちろん、競争は健全な人間社会に不可欠であるが、ライバルと友情が両立する文化社会でなければならない。

他者のために、社会や国家のために尽くす、そうした人間を誉めたたえるような人間観や価値観や文化の浸透した社会を形成して行く必要がある。戦前のいびつな滅私奉公に国民が懲りたからかもしれない。それにしても今日の国民大衆の国家意識や郷土意識のなさも問題ではないだろうか。

国家や民族意識の欠如した「ホリエモン氏」のような弱肉強食のグローバル競争社会の覇者、「勝ち組」を、大人社会が持て囃しているから、子供たちもそれを見習っているにすぎない。そこには遅れた敗者や仲間に対する思いやりの感情のかけらもない。どこかの国のボクシングのチャンピオンのように、ただ暴力的に強いだけでは何の価値もないことを思い知らしめるような文化の環境が、そもそも大人社会にない。

たしかに、学校は市民社会と家族の中間に位置する共同社会である。
学校は小さな一つの市民社会であるが、同時に、家庭の性格も持たせる必要がある。そうして学校という集団に共同体としての性格を復活させ、今子供たちに欠けている「横の道徳」を回復し、生徒同士のモラルを確立してゆく必要がある。

そのためにまず、一学級の単位定員数を二十四名にすることである。そうして生徒一人一人の言動について、クラス担任の目が、つぶさに行き届くようにすることである。現在の学級定員では、教師による生徒の心理と身体の状況把握は、物理的にも困難であると思われる。

そして、クラス内に三人を一単位とした「班」を作る。その目的は、子供たちが学校生活や学級生活を営んでゆくうえで出会う、さまざまな問題についての相互扶助のための最小単位を作ることにある。学校生活の中では、子供たちの間に自然発生的に友だちやグループが形成されるが、それを自然発生的に任せるのではなく、三人一組の「班」を人為的に組織的にクラス内で作り、それを、生徒のさまざまな行動単位として、またクラスの運営単位としても明確に位置づける。

戦前日本の町内会に隣組とか五人組とかいった近隣同士の相互扶助を目的とした最小単位の組織が作られたが、それと同じように相互扶助単位を学級内に「班」として作ってゆく。それは、名簿順にか席次順にかで作っていってよい。いずれにせよ、そうした「班」単位の生徒関係を作ることによって、生徒一人一人の友情関係を深めるきっかけを作るとともに、子供たちが「いじめ」のような内面的な心理的な問題や健康上や身体的な悩みに出会ったときに、子供たちの間に助け手が身近にいるようにするためである。

生徒が孤立して周囲の友人から何の支援も受けられないという、殺伐としたクラスの人間関係を「組織的」に防いでゆくことが目的である。またそれは、学習活動の遅れや欠点、弱点を補う、生徒同士の相互援助の単位でもある。このように子供たちの学級構成を、友情や相互扶助が成立しやすいように、まず生徒たちの人間関係を組織面から改善してゆく。

 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(1)

2006年10月18日 | 教育・文化

北海道と福岡のいじめ自殺 文科省、現地調査へ(朝日新聞) - goo ニュース

相変わらず、学校でのいじめは深刻で改善されていないようだ。以前にもこうした問題で論じたことがある。高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)さらにいくつかの提言を加えたい。

いじめはどこの国にでもある。それは人間の本性の一面でもあるから、根絶することはむずかしい。だからこそ、教育関係者はいじめの存在を前提として日常的に対策を講じてゆく必要がある。いじめの報告がなかったという表面的なことで満足するのでなく、むしろ、報告のないことを不自然に思うくらいの感覚を持つ必要があるだろう。

北海道で小学校六年生の女の子がいじめを理由に自殺をしたのは一年も前だそうである。福岡県筑前町の三輪中でおきた中学二年の男子生徒の場合には、遺書も残されていたそうである。本来、楽園であるはずの学園生活が、周囲の生徒の「いじめ」によって地獄と化している。

「いじめ」を根絶することは、人間社会から殺人事件をなくすようにむずかしいかもしれない。それが人間の悲しい性(さが)なのだろう。しかし、たとえ現実がどうであれ、「いじめ」は根絶すべく対策を講じてゆく必要がある。「いじめ」問題もその方法次第によっては、対策のあり方次第では相当の成果をあげることができる。学校生活で、いじめによる自殺など、万が一にも起させてはならない。

「いじめ」は犯罪であり、場合には、それは殺人行為である。そのことを、生徒自身のみならず、社会も教育関係者も保護者も持つ必要がある。今回の自殺をした北海道や福岡の生徒の保護者の皆さんは、みずから受けた被害を殺人事件として警察に告発するべきである。
調査によって犯罪が明らかになれば、加害者は少年院なり刑務所で刑に服すことになる。「いじめ」は刑事犯罪であるという認識が、生徒らにも教育関係者にも弱いのではないか。

サラ金の過酷な取立てでよって、債務者を鉄道自殺に追い込んだ業者が逮捕されたように、生徒を自殺に追い込んだことに客観的で明白な事実や証拠があるならば、そうした行為を行った生徒や教員は逮捕して正当な処罰を受けさせる必要がある。そうして、「いじめ」がれっきとした刑事犯罪であることを、社会にも教育関係者にも、そして、なにより生徒たち自身にはっきりと自覚させる必要がある。

そして、結果として、事実として「いじめ」による生徒の自殺を防ぎえていないということは、学校教育関係者がその職業的な義務と責任を全く果たしていないということである。学校内やクラスで起きた事件については、学校関係者は全責任を負わなければならない。それが職業的な管理者の責任であり、義務である。学校の教職員は、子供たちの人格と人命を保護し育成するという重大な責務をになっている。学校関係者がその義務を果たせていない以上は、司直の手によって法的に問題が解決されるよう対処する必要がある。


また、学校内に存在するさまざまな「いじめ」の現象のほかに、「大人社会」の中にも発生するさまざまな「いじめ」の現象傾向についても、首相や文部科学省の大臣らをはじめ、現在の日本の社会的な指導者の地位にある者の問題認識が弱いのではないか。

たとえば先般、靖国神社参拝問題で意見が異なることを理由に、元自民党幹事長の加藤紘一氏の自宅に放火した男がいた。その際にも、公然とマスコミに向かって、時の小泉首相がそうした暴力行為を非難したということも聞いていない。

今問題になっている北朝鮮の核実験にからんでも、どこかの朝鮮学校の竹やぶが放火されたり、朝鮮学校に通学する子供たちに「嫌がらせ」があるようだ。これらも明らかにいじめにほかならない。それなのに安部首相をはじめ文部科学大臣が、こうした国民大衆の下劣な傾向を、マスコミなどで公然と非難したということも聞いていない。

そうした「いじめ」にからむ品位のない国民の犯罪行為に対しては、一国の指導者である首相や文部科学大臣が、率先してマスコミなどに向かって非難し、批判するべきなのである。そうした習慣や文化を指導者が伝統的に作ってゆく必要がある。これまでの日本の指導者の誰が、そうしたことを十分に行ってきただろう。

首相をはじめとする国家社会の指導者たち自身の、「個人の尊厳」についての自覚と感度、「民主主義の倫理観」が問われている。現実がこの程度のものであるから、国民全体の水準も推して計り知るべしではないか。

 

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高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

2005年06月16日 | 教育・文化

高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

 

教室に爆発物が投げ入れられるという信じられない事件が起きた。

教育は国家の一大事であるので、私も少なからず関心を持っている。それで、こうした問題についてこれまでもいくつか発言してきたし、これからも発言して行きたいと思っている。それが現代の日本の教育の抱える問題の解明とその改善にいささかでも寄与するところがあれば幸いである。

事件を起こした少年が、彼の所属したクラスの同級生たちに対して恨みを持っていたことはわかる。もし彼が暖かい友情に囲まれ、周囲との人間関係に調和して、楽しく愉快に高校生活を享受していたのであれば、このような事件が発生することはなかった。この事件の物語る事実は、少なくとも推測させる事実は、この学校において存在した、生徒や教師の間の「索漠とした人間関係」であろう。

事実としてこの事件を起こした生徒がクラスの中で疎外感を持っていたことである。この感情には、生徒自身に原因があったのかも知れないし、また、クラスのほうに原因があったのかも知れない。恐らく、両方に原因があったのだろう。

しかし、生徒と学級のそれぞれに問題があったとしても、いずれにせよ、このように事件として顕在化することはまれである。光高校と同じように、全国に存在する多くの高校では、たとい、それぞれに何らかの問題を抱えているとしても、日常的に何とか処理し解決して行っているはずである。どんな高校であっても、生徒同士に、あるいは生徒と教師との間に全く問題がないということはありえない。

 

だから肝心なことは、生徒や教師の間にこうした問題が発生したときに、それをどのように対処し解決して行くかという問題処理のシステムが、それぞれの学校の中にきちんと存在していたか、そして、それが正しく機能しているかである。また、そのシステムが能力として正しく機能するように生徒や教師や保護者にきちんと日常的に教育されているかということである。光高校の場合はどうか。結果論としてであるが当然に、「否」である。ちゃんと機能していれば、今回のように事件として表面化することなく解決されていたはずである。

 今回のような光高校で起きた事件を単にこの高校だけの個別特殊な事件としてみなすべきなのか、あるいは、この特殊な事件の中に、普遍的一般的な性格を認識すべきなのか。それについては、単に光高校だけの特殊な事件としてのみ見ることは出来ないと思っている。今日の日本の青少年教育が、学校教育が一般的に抱えている普遍的な問題であると認識すべきだと考えている。

 

今回この光高校で起きたこのような事件は、そのほかのどんな高校でも、いつ、どこにでも起きても何ら不思議ではない普遍性を持っている。その根拠はここでは説明することは出来ないが、また、その論証はとにかく、こうした問題は、単に光高校だけの個別特殊問題として取り組んでも本質的な問題解決にはなり得ない。日本の抱える教育一般の問題として原因が究明され、問題が解決される必要がある。今日の学校教育が抱えている問題を象徴する事件の一つであると考えてよいと思う。

 

この事件から推測される問題を、一応確定しておこう。この事件の背後には、まず、この高校生自身に見られる倫理意識や道徳的自己規律の問題、あるいは、自己抑制能力の欠如といった生徒の家庭教育や家庭環境の問題がある。さらには、この生徒が今回のような「いじめ」にあったときに、生徒自身やさらに生徒の保護者である両親や学級担任教師、また学校側の生徒管理のなかでこうした問題の対処のし方についてきちんと教育されていたかという問題もある。そのほか多くの問題が含まれていると思う。これらはまた、現在文部科学省が問題にしている「学力低下」の問題とも無縁ではありえない。

ここでは家庭教育の問題について触れることはできない。
学校教育上の問題としては、この事件は本質的には今日においても相変わらず続いている「いじめ」と同じである。学校教育における生徒間、あるいは生徒と教師の間の人間関係の問題、倫理道徳の問題である。このような事件は、心理学者が特定の個人である犯罪少年の異常心理に対する処方箋を書いて済ますことの出来るような問題ではない。

 
なぜこうした事件が起きるのか。このような事件の発生を防ぐにはどうすればよいのか。さらには学校教育はどのようにあるべきか、そうした問題意識を持って、教育は、全国民的な課題として研究され、日常的に取り組まれる問題だろう思う。

この問題が示されているのは、学校教育における永年の病弊である。結論として言えば、現在の学校教育のにおいて、民主主義の倫理的内容が教育されておらず、また、内容のみならず制度としても、問題解決の方法としてもほとんど機能していないという現実である。
民主主義の思想と方法についての教育の必要が自覚されてもいず、文部科学省をはじめとする教育関係者も、その必要についての切実な問題意識を持つものがほとんどいないのが現実ではないだろうか。

 
学校教育の現場のみならず、どんな組織や団体にあっても、一般的な倫理的道徳的な規範と、共同体として必要な問題解決のためのシステムが存在しなければならない。ところが、現在の教育現場には、それらはなく、その機能も不全状態にある。

戦前の「教育勅語」の権威失墜と、上意下達の権威主義の教育システムの崩壊以来、それに代わる倫理道徳の規範と、学級や学校において発生するさまざまな問題を理性的に解決するシステムが、今日に至るまで教育現場にいまだ十分に確立していないという現実がある。これが問題なのである。

もっと民主主義の倫理規範としての意義を教育現場でも自覚する必要がある。そして、民主主義の方法を問題解決の手段として、その形式的方法を教育現場においても確立しなければならない。(この民主主義は、日教組や共産党の主張する「人民民主主義」ではもちろんない)。民主主義の精神と方法の真の活用が、こうした教育上の課題や問題に不可欠であること論証して行きたいと思う。

 

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