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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 芸術・文化

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには辛くはないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

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セザンヌのりんご

2007年02月19日 | 芸術・文化

セザンヌのりんご        拡大図

人間はなぜ絵を描くのか。絵や景色などは、ただ楽しめばよいものを、こうした不粋な問いでしらけさせてしまうのも、哲学愛好者の悪い癖なのかもしれない。

それにしても、なぜ人間は絵を描くのだろう。いや、単に絵だけではなく、音楽を作曲し、詩や小説などの文学を創作する。芸術を創作し、楽しむ。猿などの動物たちがそんなことを楽しんでいるとは考えられないから、それは人間だけの特性であり、特権であると言える。

人間はなぜ芸術にかかわるのか。それは根源的な問いでもある。この問いには、さまざまな答えが用意されるだろう。そこに、回答者の数だけの人間観が現われる。あなたならどのように答えられるだろう。

それは人間が神の子であるからだ。あるいは少なくとも、人間が精神的に神に似せられて造られたからだ。神が世界を創造したように、人間も神に似て、神のように世界のなかに自分の創造物を刻もうとする。それが芸術行為にほかならない。神が創造の御技を楽しむように、人間も芸術作品の製作と鑑賞を楽しむ。神も人間も精神的な存在だからである。そこに祈りも会話も成り立つ。

人間が人間として世界に登場して以来、歴史的にも芸術においてさまざまの創作に従事してきた。その中でもとくに近代絵画の扉を開いた画家としてセザンヌは知られている。なぜ、セザンヌの芸術が近代のとば口に立つのか。それは画家セザンヌの精神がもっとも近代人のそれだったからである。

近代人の精神とはどのようなものか。それは二人の人物に、ルターとデカルトの精神にそれを見ることができる。ルターは信仰における個人の自立を果たした人間である。そしてデカルトは、思考に存在の根拠を見出した人間である。彼らはそのような精神をもって神に、世界に、そして自然に絶対的に対峙した。(ここではその歴史的な由来は問いません。)

セザンヌもまた近代人として、自然を光と色彩の感覚で捉えようとした印象派の画家たちの跡を受けて、美術の世界に登場した。しかし、セザンヌは世界を単に感覚で捉えるだけでは満足できなかった。もちろんセザンヌは画家としてなによりも視覚の人である。モネたちの印象派のあとを受けて、光と色彩の価値は十分に知り尽くしていた。しかし、セザンヌが印象派に感じた不満は何か。印象派に欠けていたのは何か。それは堅固な構想力である。

印象派は世界を自然を光と色彩に分析しただけである。そして、外からの自然の美を、自分たちの感覚にただ感受するままにキャンバスに映したに過ぎない。それではまだ自然の真実を捉えきったことにはならない。光と色彩にあふれた自然の奥行きにはさらに何があるか。それは何をもって構成されているのか。それをセザンヌは追及した。そして、そこで彼が発見したのは、色彩の光学的な原理と自然の空間が球と円筒と円錐からなるという単純な原理の発見だった。

セザンヌは、絵画の世界ではじめて立体を、三次元を、空間を発見した画家であった。もちろん、ダビンチもレンブラントもかねて対象を物体を物体として描いてはいたが、対象を三次元の空間として分析してとらえたことはなかった。そこにセザンヌの近代人として知性が、その精神が明確に見て取れる。

しかし、セザンヌは単に分析に終始するのではなく、それを自我の意識において再構成しなおし、それを第二の自然として、みずからの自我の生産物として、自然から独立したセザンヌの独自の世界として、それを自然のなかに打ち立てるのである。それはあたかも近代世界で科学的な工業製品を芸術の世界で実現するようなものである。

セザンヌの絵画の世界では、一度は分析され分解された色彩と空間が、セザンヌが理想とする色彩と立体によってさらにふたたび再構成されて世界に置かれる。それは自然から感受した美を、印象派のように単に写し取るだけではなく、セザンヌみずからの自我によって分析され構想されて、人間の精神によって新たに創造された美として、より深い真実の美として主張されているのである。

   セザンヌの絵画は次のサイトでも楽しめます。

   Cezanne's Astonishing Apples

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短歌をはじめるべきか

2007年01月30日 | 芸術・文化

短歌をはじめるべきか

先日の1月25日で終わってしまったけれども、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して、佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていた。
第一回と第二回は記事も読んだはずだったけれど、さして興味も無く印象にも残らず、どんな内容だったかも忘れてしまった。調べればわかるはずだけれど、そこまでする気にもならない。

第三回の講座では、「口語・現代語のうねり」と題して現代短歌のかっての文語・古語の伝統からの変遷が語られていた。現代歌人として若山牧水も取り上げられ、彼の歌集『みなかみ』から、

  さうだ、 あんまり自分のことばかり考えてゐた、
  四辺(あたり)は  洞(ほらあな)のやうに暗い
 
という一首が取り上げられていた。和歌の中に読点を入れ、破調も極端で、こうした作品も現代語短歌の一つとされているらしい。伝統的な和歌の概念からすれば、おそらく、とうてい和歌とも呼べない作品だろう。

もちろん、若山牧水については、

  白鳥は  哀しからずや  空の青  海のあをにも 
  染まずただよふ  
                    『海の青』

といった学校教科書に掲載されていた歌などは記憶に残っている。紙面には、その他にも山崎方代、平井弘、林あまり、穂村弘ら四人の現代歌人の名前が取り上げられていた。こうした歌人は、短歌に造詣の深い人にはなじみの深い名前なのだろうが、和歌にはほとんど関心のない私には、いずれもはじめて聞く名前ばかりである。ただ私には、そんな現代短歌を詠んでみても、古い和歌のような豊かで深い情調を見出せず、よく分からない。たとい佐佐木幸綱氏が「現代短歌ベスト20」として取り上げていたとしても、賛同する気にはなれない。

私の知っている歌人とは、時々マスコミに登場する、黛まどかさんや(この人は歌人ではなく俳人だったか)、かって『サラダ記念日』で一躍有名になった、俵 万智さんとか、全共闘世代の女性歌人で大道寺なんとかさん(失礼ながらお名前を失念してしまった)ぐらいしか知らないし、そうした歌人、俳人の作品も実際にほとんど知らないような短歌音痴である。和歌については、西行のそれか百人一首か源氏物語や伊勢物語などの古典作品に登場するもの以外には全く関心はなかった。

ただ、それが少し心動かされたのは、「現代短歌ベスト20」の最後の第四回で、和歌と戦争とのかかわりのある和歌が取り上げられているのを読んだからである。  

その中で、佐佐木氏は三枝昂之氏の評論『昭和短歌の精神史』を紹介したあとで、『渡辺直己歌集』から、

     涙拭いて  逆襲し来る敵兵は  髪長き  
     広西(カンシー)学生軍なりき

     頑強なる  抵抗せし  敵陣に
     泥にまみれし  リーダーありぬ

という二句と、宮 柊二氏の歌集『山西省』から、

     おそらくは  知らるるなけむ  一兵の
     生きの有様を  まつぶさに遂げむ

を取り上げていた。これらの歌を詠んでいて、短歌の記録性と描写力に、あらためて感銘を受けた。短歌の専門家ではない私には、もちろん、これらの短歌の破調や音韻その他の表現技巧については評価できない。主観的な印象評価しか述べることしかできない。

ただ、これらの作品の中に、その歴史的な記録性と、それに遭遇した個人の心情が、さらに一昔前の流行語で言えば、人間の実存性が表現されていると感じたことである。とすれば、短歌によっても哲学の可能性を追求できるかもしれない。

また、ふだん絵画にせよ音楽にせよ芸術的な鑑賞からは遠い、論理と概念の世界に専念しようと志している者にとって、寸暇にでも芸術的な感興に浸れる短歌は貴重である。

それに西行などの作品をたんに分析、鑑賞するだけに終わるのではなく実作することによって、芸術的なあるいは宗教的な、さらには「哲学的」な「情操」をも記録し開発するのに有効であるようにも思われた。

それで、勇気を出して、恥の上塗りを覚悟で、実作を試みてみようかと思うようになった。また、それでブログの更新がマメになるかもしれない。その他、ボケ防止(短歌を専門に創作されている方には大変失礼)や思考の訓練にさえ、意義があるかもしれない。

西行や源氏物語、伊勢物語や百人一首その他古典に登場する和歌、短歌はいずれも歴史的で奇跡的な名歌がほとんどである。それはそれとしても、たんに散文的な記録だけではなく、心情の起伏などをもふくめた「生活」を、短歌によって記録し描写することもそれなりに意義があるようにも思われた。07/01/29

それで、せっかちな私は早速作ってみることにした。

姉歯建築設計事務所によるマンションの構造計算書の偽造事件が一昨年あったばかりなのに、また新たに、水落建築士の耐震偽装問題が持ち上がっている。その建築士が設計したホテルがたまたま京都にあって、それを実際に目にしたときの気持ちを題材に「詠ん」でみた。短歌のルールにも全く無知のまま推敲もろくにせず。

耐震偽装で話題になったホテルを、ビルの窓より眺めて詠む。

     冬空の  ビルの窓より  耐震の  
     偽装記事なる  ホテル眺むる

大原野を散歩していたときを思い出して詠む。

     冬枯れの  大原野行き  聖霊の
     白き鳩舞う  逸話思ほゆ

どうかお笑いを楽しんでいただくだけでも。誰か添削指導していただければ幸いです。時間に余裕があれば練習してゆくつもりですが。
熱しやすく冷めやすく飽きっぽい私が三日坊主に終わらずに済むかどうか。最後に、アメリカ映画を見ていたときに思い出した愛好の恋歌一句をお口直しに。 こんな和歌を作れたらうれしいのですが。

   難波江の  蘆のかりねの  一夜ゆゑ 
                        身をつくしてや  恋ひわたるべき                                                                                                                                                                                『千載和歌集』皇嘉門院別当

定年退職を迎えようとされている団塊の世代の皆さんも短歌をはじめられればどうでしょう。恥じ掻きの仲間が増える?

 

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小野の篁の詩の事

2007年01月16日 | 芸術・文化

撰集抄  巻八

  第一  小野の篁の詩の事

むかし、嵯峨の天皇が、西山の大井川のほとりに、御所をお建てになられまして、嵯峨殿と申しまして、とても立派にご造営され、きれいにお作り飾られるのみでなく、山水や木立がこの上なく素晴らしく、とりわけ心に残るようでございました。如月の初めの十日のころ、御門のはじめての御幸のございましたときに、 小野の篁が、お伴たてまつり申しあげましたが、御門は篁をお召しになられて、
「野辺の景色を、すこし漢詩に作ってたてまつりなさい」との仰せがありましたので、篁はとりあえず、

  紫塵嬾蕨人拳手、碧玉寒葦錐脱嚢

とお作りもうしましたので、御門はとてもご感動なさって、宰相にめしあげなされました。多くの人を飛び越して、その位におつきになられました。このうえなく名誉なことでございましたでしょう。
それにしても、篁が逝去した後、大唐の国から白楽天の詩などが送られて来ましたが、

  蕨嬾人拳手、蘆寒錐脱嚢

という詩がございました。詩の趣は篁のと少しも異なりませんが、言葉はいささか違っていました。当時の秀才の人々が申されたのは、篁の句はさらにすばらしいとお褒め申し上げました。

まことに、心言葉がすばらしいです。わらびが紫色であるので曲がっているようです。曲がっているので物憂い様子です。これは、また手を握っているようにも見えます。物憂いものは首をかしげるという文が、高野の大師のお言葉にございます。碧玉の寒き蘆の生い出ています様子は、錐が嚢から出てくるのに似ています。紫塵に対するに碧玉、嬾い蕨に向き合っている寒き葦、まことに面白いです。宰相公に召し上げられた主君の御心もすばらしく、世の中を照らしている鏡に塵もつもらないで、人の芸能を評価することにも曇りはございません、とてもとてもありがたいことです。
ですから、人を多く出し抜いて宰相に連なられたのに、誰一人として、悪しく言う輩などございましたでしょう。

 

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バッハの言語――②カンタータ第25番

2006年12月23日 | 芸術・文化

バッハの言語――②カンタータ第25番

バッハのカンタータ第二十五番は、詩篇第三十八篇第四節のコラールを基礎に歌われている。

私の肉体には健やかなところがありません。あなたの激しい憤りのために。
私の骨にも安らぎはありません。私の過ちのために。
(詩篇第三十八篇第四節)

この詩篇第三十八篇では詩人はおぞましい疫病に冒されている。彼の肉体は爛れて膿み、悪臭を放っている。(第七節)
そのために、かって親しく付き合った友も、愛した人も今では自分から離れて去ってしまった。(第十二節)

それどころか、これを機会に敵は彼の命を付けねらい、彼を破滅に陥れようとうかがっている。(第十三節)

こうして、この詩人は不治の業病を患って、この世で考えられるかぎりの生き地獄の世界をさすらっている。

こうした悲惨な状況にある詩人の境遇は、マタイ受難曲思わせる悲しい旋律で合唱される。(第一曲)

それに応じて、次のレチタティーヴォでは、この全世界は無数の病人を抱え込む病院に過ぎないと説明される。子供も大人も病み穢れ、熱と毒で四肢を冒された病人に満ち満ちた病院の様子が、福音史家を思わせるテノールによって描写される。患者たちは人々からも見捨てられて、この世に身の置き所もなく、当てもなくさすらわなければならない(第二曲)
Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital  !

そうした救いのない世界で、彼の肉体の病を癒してくれるどんな薬も見当たらない中で、身と心を癒してくれる唯一の医者であるイエスに対する希望と願いが、苦しむ詩人のアリアのバスによって歌われる。(第三曲)

Du mein  Arzt, Herr  Jesu, nur  Weisst 
die  beste  Seelenkur.

しかし、この悩める詩人は、とうとうイエスの中に遁れ、そして清められ心も新しく強められて癒される。それで全心で命の限り感謝を捧げようと思う。ここでは明るいソプラノによって詩人の喜びが描写される。(第四曲)

続いて、救われた者のいっそう高揚した感謝の気持ちが、ソプラノのアリアで歌われる。(第五曲)

そして終局では、イエスの強い御手によって、まさに死の境にあった患いと悩みから解放された歓びと感謝から、人々は合唱によって、イエスを永遠にほめたたえるように勧める。(第六曲)

わずか10分たらずの小さな曲の中に、キリスト教の本質が美しく、心の中の対話があらわになる形で、その苦悩と感謝が、バッハのその芸術の天才によって、人々の心に刻み込まれる。こうしたカンタータを土台にして、彼の受難曲などが作曲されたのだろう。

聖書の詩篇も、もともと楽曲をともなって歌われたのだろう。中東の世界においてはもっと素朴な旋律だったと思う。バッハの場合は、詩の趣旨が見失われかねないほどに、その旋律はあまりに美しすぎる。ここでも罪の問題が人類の深刻なテーマであることには変わりはない。全世界は一つの病院である(Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital )と言う。

 

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荻の上風

2006年10月27日 | 芸術・文化

季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。

日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。


松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。

西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。

   山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
   紛えて聞こえければ

1146 竹の音も  荻吹く風の  少なきに  たぐえて聞けば
   やさしかりけり

ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。

   世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、 
   後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
   竹の柱を立てたりけるを見て


1147 世々経とも  竹の柱の  一筋に  立てたるふしは
   変らざらなむ

出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。

西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。

友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。

あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。

こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。

嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。

今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。

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真珠の耳飾りの少女

2006年09月29日 | 芸術・文化

真珠の耳飾りの少女

拡大図

ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るようにして、私たちを見ている。

その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と、同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。

少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでないこの少女の小ぶりな顔は、これからの彼女の成長を暗示するかのように、まだ開き切っていない莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。

この少女のふたつの瞳は何を見ているのだろう。声を掛けられて振り返った一瞬を捉えたようなこの瞳は、否応なく私に彼女と二つの精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の心の、短い履歴を一瞬の内に想像させ、また、一方で、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験は作品にこめたフェルメールのテーマなのだろう。

この少女は、教会に飾られたマリアではなく、地上に降りてきて私たちと生活をともにする少女マリアである。フェルメールはこの少女の面影に、明らかに聖母マリアを見ている。私たちの世俗の中のどこかに生きるマリアを思い出させる。

漆黒の闇のなかに、画面の左から差し込む光に照らし出されて浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中によって、二等辺三角形に画面の中に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。

トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかっただろうか。

フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本では人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。

 

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西行の歌、二首

2006年06月07日 | 芸術・文化
 

久しぶりに西行の歌を詠む。現代人の多くにとっては、ほとんど無縁の世界なのかも知れない。こうしたネットで、たまたま偶然に出逢う以外は。

 

年頃申しなれたる人に、遠く修行する由申してまかりたりけり。名残り多くてたちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて、待ちつる甲斐なく、いかに、と申しければ、木の下に立ち寄りて詠みける。

1086 

心をば  深き紅葉の  色に染めて  別れて行くや  散るになるらん

 

駿河の国久能の山寺にて、月を見て詠みける

1087

涙のみ かきくらさるる  旅なれや  さやかに見よと  月は澄めども

 

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老いらくの恋

2006年06月01日 | 芸術・文化

在原の業平は、西洋におけるドン・ジュアンのように、色好みの男としてわが国において伝説化された男性である。そのいわれに大きな影響を及ぼしたのは、もちろん『伊勢物語』である。単なる口伝だけでは、これだけ深く広く業平伝説は伝わらなかっただろう。伊勢物語は、歌集であるとともに、在原業平という一人の男性を描いた、日本の原風景ともいえる物語でもある。

この歌物語は、元服したばかりの少年の初恋に始まり、異性の幼馴染たちとのさまざまな思い出から、青年時代の東国へのさすらい、また、仕えた主君の没落にともに涙をながし、身分違いの恋や別れた妻との再会、狂気じみた恋、田舎娘との恋など、献身や友情、さまざまな恋愛を遍歴し、そして、やがて病んで老い死に至るまでの、人間なら誰しもがたどる生涯の時間が、業平とおぼしき男性を主人公にして語られている。

そこで語られる物語は、多かれ少なかれ人間なら誰もが体験するような事件を内容としている。天真爛漫な幼少期から、異性への目覚めと恋、青年の出世欲と壮年期の挫折と不遇の中の失意など、千年や二千年の歳月では変わらない人間性の真実を明らかにしている。それらが日本語の美しい響きと描写とあいまって『伊勢物語』に古典としての価値を保っている。


業平の恋多き生涯の中でも、彼にとってもっとも切実な女性は藤原高子だった。その氏が示すように、高子は栄華を極めつつあった藤原家の出自であり、一方の業平自身は、平城天皇を祖父としながらも、父である阿保親王が「薬子の変」に連座したために、権力の中枢への道は閉ざされていた。それで、もてあましたかのような業平の男性のエネルギーは恋愛へと一途に注がれる。

特に、高子が、二条の后として清和天皇の女御として入内し、もはや手の届かぬ女性となってからは、その失恋のゆえに、業平の恋はいっそう奔放なものになった。

業平と高子との恋の軌跡は、伊勢物語の初めの数段にもよく記されている。第二段には男の愛した女は西の京に住んでいたとされている。実際に現在の西京区大原野にある大原野神社には藤原氏の氏神である「天児屋根命」が祭られているから、高子が少女時代をこの辺りで暮らしていたと考えてもおかしくはない。かっての右京区、現在の西京区あたりに藤原高子が娘時代を過ごしていたのかもしれない。

一方、業平の母であった桓武天皇第八皇女、伊登内親王が長岡京に住んでいたことは、第八四段の「さらぬ別れ」に記されている。だから、業平が青少年期に母と一緒に長岡京に住んでいたと考えれば、かっての長岡京と西の京は隣どうしだったから、業平と高子は幼い頃に目と鼻の先で暮らしていて、第二十三段「筒井筒」に記録されているように、業平と高子は幼馴染だったかもしれない。

また初段の「初冠」に記されているように、少年業平が、奈良の京、春日の里に狩に行ったときに出逢ったとされる美しい姉妹の一人が高子であったのかもしれない。春日野には、春日神社があり、この神社は藤原氏の総本社だから、高子がこの地で生まれ、幼少の時期を姉と一緒に暮らしていた可能性はある。それに洛西の大原野には今も春日町という地名が残されているし、奈良の春日野も京都の大原野のいずれも、藤原氏とはゆかりの深い土地である。ただ、物語そのものには業平と高子のなりそめは記されてはいない。

奈良の平城京から長岡京に遷都されたのは延暦三年(794年)、そして、それからたった十年後にはさらに、平安京へと遷都されている。都の真中を貫いていた朱雀大路あたりにはまだ十分に屋敷も整っておらず、新しく遷された都はまだ建設の途上についたばかりである。そうした時代に業平も高子も生きていた。

その二条の后、高子がまだ「春宮の御息所」と呼ばれていた時、小塩山のふもとにある大原野神社にお参りになったことがあった。その折に、近衛府の役人としてお供したのが、すでに年老いた業平だった。晩年の彼は右近衛中将になっていた。昔愛した女性の乗った御車のお供をして、彼女手ずから禄を賜ったとき、業平はどんな気持ちだったろう。彼はお礼に

大原や  小塩の山も  今日こそは  神代のことも 思ひいづらめ

と詠んだ。

この時の業平の気持ちは、わざにぼかされて明らかにされていない。しかし、この歌にこめられた業平の心は、

藤原氏の子孫であるあなたがお参りする今日こそは、大原野神社に祭られた藤原氏の祖とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のお供して天から降臨された神代の昔のことを思い出していらっしゃるでしょう。そのように私も、あなたと共に過ごした昔のことを思い出すでしょう、というのである。

晩年の業平は、「近衛府にさぶらひける翁」といかにも老人のように記されているけれども、このとき業平はまだ五十歳になるかならずかだった。高子はまだ三十歳前後だったはずである。当時にあっては、今日のような寿命の尺度ではなく、五十歳も過ぎれば、能面の翁のように、すでにもう相当に老人扱いだったのだ。この歌は老年になって知った恋を詠んだものではない。昔恋した女性を眼前にしながら、晩年の業平が若かりし日の恋を追憶しているのである。

 

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遊女の救い

2006年05月09日 | 芸術・文化

 

ようやく連休が終わった。桂川の土手をバイクで走っていても、美しい新緑が眼に沁み入る。新緑のきれいな季節になった。

先日、たまたま日経新聞を読んでいたら、その文化面に、たぶん五月三日の記事だったと思うけれど、河鍋暁斎の「地獄太夫と一休」の絵について、どこかの学芸員による解説コラムが掲載されていた。

一休禅師は室町時代の僧侶であるが、河鍋暁斎は幕末から明治にかけての画家である。江戸、明治期の画家が、室町の一休宗純と遊女の地獄太夫を題材に絵を描いている。

そのコラムの解説によると、地獄太夫という女性は、もともと高貴な家の──武家らしい──生まれであったが、悲運にも泉州堺の遊郭に身を落とすことになった。誘拐され、身代金代わりに売られたとも言う。江戸時代のみならず先の戦前までは、日本には遊郭は存在したし、戦争ではそうした女性は慰安婦と呼ばれたりもしていた。

太平洋戦争後、日本から少なくとも公娼制が廃止された。もし、それが敗戦によるものとすれば、それだけの価値はある。もちろん現在においても、実質的な「遊郭」は、今もその名前だけを変えて存在しつづけているけれども。

遊女という「職業」は、人類の歴史と歩みを伴にしている。聖書の福音書の中にも、姦通を犯して石打の刑にされかかった女が救われた話や(ヨハネ第八章)、イエスの足を涙と髪で拭った罪深い女性の話が出てくる。(ルカ第八章)

遊女の境遇は「苦界」とも「苦海」とも呼ばれたりする。そして、女性がそうした世界に身を沈めるのは、多くの場合「お金」のためである。貧困のためであったり、借金を身に背負ってそうした世界に足を踏み入れる場合も多いのだろうと思う。ドストエフスキーの小説『罪と罰』のソーニャもそうした女性の一人だった。

今、サラ金業者のアイフルがその強引な取立てのために、金融庁から業務停止の処分を食らっている。聖書の中では、すでに数千年前にモーゼは、同胞からは利息を取ってはならないと命じている(レビ記第二十五章、申命記第二十三章)。同国人から暴利と高利を貪る現代日本人とどちらが品格が高いか、藤原正彦氏に聞いてみたいものだ。サラ金や暴力金融の取立てから、売春の世界に余儀なく落ちる女性も少なくないのではないか。10%以上の金利は法律で規制すべきだ。それが悲劇をいくらかでも減らすことになる。まともな政治家であれば、そのために行動すべきである。サラ金から政治献金を受けて、高金利を代弁するサラ金の走狗、あこぎな政治屋でないかぎり。

一休和尚となじみになった地獄太夫も、自らを地獄と名乗ることによって、彼女自身の罪を担おうとした。一休はそうした彼女を、「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうだ。しかし、一休は現実に彼女を解放することはできなかった。そんな言葉だけの慰めが何になる。

遊女の隣にあって、一休和尚が骸骨の上で踊っている姿は、すべての人間の真実の姿である。骸骨が、肉と皮を着て、酒を食らい宴会で踊っている。仏教ではこんな人間界を娑婆とも呼んでいる。

 

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