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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

安倍晋三元首相、国葬の日

2022年09月27日 | 日記・紀行

 

2022(令和)4年9月27日(火) 晴れ、曇り一時雨。 安倍晋三元首相国葬の日。

テロの犠牲になられた安倍晋三元首相に、あらためて心から哀悼の意をささげます。

このことは安倍晋三元首相や私の政治的な立場とはいっさいかかわりはありません。

 

 

 

 

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2022(令和)4年9月10日(土)中秋の名月

2022年09月10日 | 日記・紀行

2022(令和)4年9月10日(土)中秋の名月


今日は中秋の名月。雨模様の天気予報もあり、あまり期待はしていなかったけれど、厚い雲の間から小さな満月が見えた。この月を眺めると、どうしても九月八日にお亡くなりになってまだ生々しいエリザベス二世女王陛下のことを思わざるを得ない。私の物心のつき始めた時から今日に至るまで、英国といえばエリザベス女王であり、エリザベス女王といえば英国だった。

つい先の六日には、英国に新しく女性首相に選任された、同じくエリザベスの名を持つエリザベス・トラス新首相を女王の療養先のバルモラル城に迎えて叙任されたばかりだった。そのニュース写真も届いていたのに、それから間も無く女王の医師団より「女王の健康に懸念がある」と発表されて一日の間を置かずしてご崩御の報が届いた。peacefully穏やかにお亡くなりになったという。


 

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2022年、天橋立海水浴紀行

2022年08月06日 | 日記・紀行

2022年、天橋立海水浴紀行

2022(令和)4年8月6日(土)曇り時々晴れ。

今年も何とか海水浴に行くことができた。いつまでも武漢ウイルス・コロナ騒動も終息せず、今年はその第六波の影響もあって、公共交通機関を避けて車で京都縦貫自動車道を使って天橋立まで行くことにした。
だから、前に天橋立まで行った時のように、電車中でこれといったエピソードになるような体験もなく、沓掛のインターチェンジから京都縦貫自動車道に乗ってからは、ただひたすらに高速道を走り続けるのみだった。単純に続く山並みや街並みを高速道の途中に傍らに眺めながらひたすら走り続けることになった。

前日には台風が滋賀県や福井県に到来して、大きな水害をもたらして過ぎ去ろうとしていた。京都には直撃もなかったけれど、その台風の余波はいくらか残っていて、少し曇り空も続いたが、海水浴にはとくに差し障りもなさそうだった。

京都縦貫自動車道の終点の一つ手前の与謝天橋立ICを降りて、天橋立海水浴場をめざした。山間部を抜けて広い舞鶴湾の海に出くわすといつもそれなりに感動する。ふだん見慣れない者にとっては、海はそれなりにインパクトを与える力をもっているらしい。

JR天橋立駅の近くの有料駐車場に車を停めて、見覚えのあるお堂を抜けて、海水浴場をめざした。

 

少し沖に出て仰向けになり、波に揺られるまま青い空を眺めた。ただ青い空のみを眺めていると、ちょうど宇宙から地球を眺める宇宙飛行士のように、あたかも自分が宇宙に漂っているかのような錯覚にとらわれる。蚊トンボほどに小さく銀色に輝いた航空機が一機、二機とはるか遠く高い青空を横切っていく。

折りしも今日は、77年前に広島に原爆の投下された日だ。勤労動員に出ていた多くの少年少女たちが犠牲になったことを思った。広島では式典はもう済んでいるはずだ。

 

帰途は、宮津天橋立ICから縦貫道に入って帰った。綾部から京丹波あたりまで来て、トンネルを潜って出るとすぐ、前方の視界がほとんど遮られて見えないほどに、激しく雨がフロントガラスを打ちつけた。トンネルを三つか四つ抜けるまでその雨は続いた。

 

 

 

 

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名曲喫茶「柳月堂」2

2022年02月18日 | 日記・紀行

名曲喫茶「柳月堂」2

2022(令和4)年2月18日(金)翳、粉雪。

先月の1月22日の雪の日に昔のままに出町柳に柳月堂が営業されていたのを知ったので、時間に余裕のあったこの日に再訪した。前はカウンタ席に行ったが今日は鑑賞室に入った。バッハのフランス組曲が流れていた。久しぶりに音楽に満たされた空間の中に身を置く。

哲学と音楽の啓示の差異などが思い浮かぶ。二曲目はモーツァルト、曲名はわからない。三曲目はハイドンのチェロ協奏曲。ヨーロッパの古典音楽の時代のような人間の精神はもう二度とよみがえることもないのかもしれない。

家に帰ってから思い出したように、二十歳台の頃の昔に手に入れて、ここしばらくすっかり使わなくなっていた大型スピーカーで音楽を流してみた。

LPレコードを使わなくなって、ほとんど無用の長物のようになっていたアナログのレコードプレーヤーとソニーのステレオ・スピーカーだけれども、ブルーツースのおかげで復活してYOUTUBE の音楽も聴けるようになっている。

 

J.S.Bach - French Suites

 

 

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出町柳、柳月堂

2022年01月21日 | 日記・紀行

 

2022(令和4)年1月21日(金)雪。

 

出町柳、柳月堂

昨晩から降り続いた雪で、先週の金曜日に引き続いて今朝もかなりの積雪があった。ふだんに雪に慣れてもおらず、雪の恐ろしさも知らず経験しない市民は突然の雪に足を取られたり自転車やバイク通勤などに四苦八苦することになる。凍結した路上や積雪の上を通行することも業務上からも避けることのできないデリバリー、配送や運輸、郵便配達などの仕事は、この積雪のために障害や困難にやむをえず遭遇することにもなる。こんな雪の日にも一人一人には人それぞれの個人的なドラマがあるとしても、総体としての市民生活は機械の歯車のように黙々と継続してゆく。

この積雪のために私もまた多少なりとも時間の変更を余儀なくされ、乗り換えの調整のために出町柳に出ることになった。その時に本当に久しぶりに柳月堂のことを思い出して訪れてみる気になった。学生の頃にこの出町柳近くに下宿していた友人もいて、この店にはよく来たけれどもここ数十年はご無沙汰していた。だから、今も変わらずあるのかどうかすら行ってみるまでわからなかった。

出町柳の一角に、今も変わらずに昔と同じように「名曲喫茶柳月堂」はあった。急な階段を二階に上がり扉を開けて入ると古典音楽が聴こえてきた。店の奥に初老らしい紳士と、紺色のセーターを着たもう一人の後ろ姿が目に入った。若い女店員に音楽は聴かれますかと尋ねられて少し戸惑ったが、それほど長居もできないと思いカウンター席の方を希望した。若い頃はこの席の方に来ることはなかった。

流れ来る音楽にケーキとコーヒーを味わいながら、積雪のために思いかけず若き日の一日を反復することになった。しかし今は昔の我ならず。

 

J.S. Bach Violin Sonatas and Partitas BWV 1001-1006 Menuhin 1973-1975 - YouTube https://youtu.be/XkZvyA69wCo

 

 

 

 

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雪の日の帰り道

2022年01月14日 | 日記・紀行

雪の日の帰り道

かなりの積雪のあった金曜日の帰り道、小川の中にアオサギ、シラサギ、カモが一所に集まっていたのが珍しくスマホで記録した。積雪の少ない京都では、たまの積雪は風流心を刺激するけれども、雪国の北国では、積雪は「白いデビル」そのものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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伊勢姫

2022年01月09日 | 日記・紀行

伊勢(狩野探幽『三十六歌仙額』)Wikiより

 

2022(令和4)年1月9日(日)晴れのち翳。

伊勢姫

昨年末に能因法師の事跡を訪ねようと計画していた。しかし思いがけずに初雪に降られて延期していたのに、この日たまたま思い立って訪ねてみた。

年末年始の休みの間に、つれづれにネットで能因について検索してみた。より知識を深めて尋ねればそれだけ深く観賞できるかもしれない。ネット時代のありがたさで、能因についても様々なことを追加して知ることもできた。

西行が能因法師を追慕していたことを知ったことがきっかけに、能因法師にも関心をもつようになったけれども、この能因法師自身はさらに女流歌人の伊勢の作風を慕って私淑し、「一六歳で出家した能因は伊勢の旧居を慕って自身の隠棲の地も、古曽部に定め、古曽部入道と称した」(Wikipedia 能因の項)」という。今も古曽部は高槻市にあり町名として残っている。

それでカーナビを頼りにとりあえず能因の事跡を辿りに出かけたけれど、まず辿り着いたのは伊勢寺だった。しかし、出立するのも遅かったのと寄り道などしていたこともあって、伊勢寺をみて写真などを撮っているとあたりは暗くなってきた。

伊勢寺は丘陵地にあるが、周辺はすっかり宅地開発がされてしまっており、かっては竹林に覆われたはずの丘陵の面影は、ただお寺の境内の中にのみ残されていた。その時に京都にある勝持寺(花の寺)のことも思い出した。勝持寺もその近くを京都縦貫道が走るようになってすでに久しいから、伊勢寺と同じように往時の面影が侵され喪われてゆくのかと思うと切ない。周辺の広大な景観をも含めての文化遺産保護だと思う。しかし行政は景観の保持には無関心である。

三六歌仙の一人で、伊勢の和歌は百人一首のなかにもある。女流歌人としては勅撰和歌集には最も多く再録されているという。

小倉百人一首

第19番

 難波潟   みじかき芦の   ふしのまも 
 
    あはでこの世を   過ぐしてよとや

古今集

第31番

帰雁(かへるかり)をよめる

春霞  たつを見すてて  ゆく雁は

   花なき里に  住みやならへる

 

参拝を終えて、さらに近くにあるはずの能因塚を訪ねようとしたがなかなか見つからなかった。歩いて探した方がわかりやすかったかもしれない。それで、この日は伊勢にゆかりの伊勢寺のみを訪ねて、能因塚はまたの日に来ることにして帰途についた。

能因に関する記事の中に「能因法師雨乞いの樟」の項があったので見てみると、能因は大旱魃の際に大山祇神社のクスノキの巨樹に雨乞いの祈祷を行ったという。ちなみにこの大山祇神社のある大三島は私の本籍地でもあり、この大山祇神社の神紋は我が家の家紋と同じである。能因法師がどういう因縁で大山祇神社の境内にあるクスノキの巨樹に雨乞いを捧げることになったのか興味はあるがそれは今の所わからない。

伊勢桜

 

※参考記事

伝能因法師墳/高槻市ホームページ  https://cutt.ly/zU50IBe

伊勢寺・能因塚コース/高槻市ホームページ  https://cutt.ly/lU50TcO

伊勢と伊勢寺/高槻市ホームページ  https://cutt.ly/NU52waj

能因 - Wikipedia  https://cutt.ly/cU52vZR

能因法師雨乞いの樟 - Wikipedia https://cutt.ly/hU52gIf

伊勢 (歌人) - Wikipedia  https://cutt.ly/3U6wxOw

伊勢寺 - Wikipedia  https://cutt.ly/hU50Lh5

伊勢 | 古今和歌集一覧データベース  https://cutt.ly/YU6To9c

伊勢(伊勢の御、歌人伊勢) 千人万首  https://cutt.ly/MU6YOVL

能因法師 千人万首  https://cutt.ly/UU6PX1u

先一昨年の2019年の秋に京都国立博物館で「佐竹本三十六歌仙と王朝の美」展を訪れたときに撮り残していた写真をいくつか。

坂上是則

小大君

 

 

 

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明けましておめでとうございます

2022年01月03日 | 日記・紀行

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

Pèlerinage de Saigyō au mont Yoshi   西行物語絵巻  吉野山への西行巡礼。江戸時代の写し。Saigyō monogatari emaki —Wikipédia  https://cutt.ly/FUJBz2h  Auteur inconnu Unknown author • Public domain

 

 

 

 

 

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2021(令和3)年クリスマス

2021年12月25日 | 日記・紀行

 

2021(令和3)年12月25日(土)晴のち曇り。クリスマス


今宵はクリスマス。これまでずっと毎年、クリスマスには記事を記録してきたつもりだったけれど、
ちょっと調べてみるとそうでもないことがわかった。これらのブログを開設したのは2005年だけれど、驚いたことに昨年のクリスマスにも記事がない。てっきり毎年書いてきたつもりだったけれど、調べてみると、2010年、2011年、2016年、それに昨年の2020年と合計4回もクリスマスの記事がない。
これまで、それぞれの年にさまざまなクリスマスの記事を日記として書いてきたけれども、ブログやツイッターを利用するようになって、中学生の頃から続けてきた日記帳や大学ノートに日記をつける習慣をやめた。それからずいぶんと時間が経つ。

クリスマスに関連しても、これまであまり直接的にはキリスト教については書いてはこなかったけれども、ここで簡単に私の個人的な「キリスト教体験」とでもいうべきことを記録しておきたい。

私が自分の意識のうちに「キリスト教」を自覚するようになったのは、自我の目覚めもすでに終わった高校生の頃だった。やはり初めは書物を通じてであり、それも時代や土地とも決して無縁ではない。

私より一世代うえで1960年に青年時代を過ごした世代も日米安保条約制定の社会的政治的影響を色濃くうけているが、それよりひと回り下の私たちの世代も1970年の安保改定期の政治的社会的な影響を直接間接に受けている。私たちが高校生の時代にも、校内で「食堂値上げ反対闘争」が組織されていたし、友人たちの間でも生意気にマルクス主義やサルトルなどの実存主義云々するものが多かった。

私が「キリスト教」のことを意識に上せたのは、そうした頃に読んだキルケゴールやヘーゲルの著作を通じてだった。当時の若者たちに圧倒的に支配的に流行したマルクス主義にはとくに惹かれることはなかった。

すでにひと昔の事になったけれど、オーム真理教の松本智津夫の詐欺師教祖に誑かされて、多くの有為な青年たちが死刑に処され、自らの人生を棒に振ったばかりではなく、社会、国家にも深刻な傷跡を残して去っていった。

しかし、私の経験をかえりみても、多くの青少年たちがその青少年時代に自らの生き方を求めて、宗教や政治の世界に足を踏み入れる、そうした気持ちは理解できないこともない。私たちの青年時代にはマルクス主義などの共産主義、社会主義が熱病のような影響力をもっていたし、多くの友人たちも、政治運動や学生運動にのめり込んで、良かれ悪しかれ自らの人生に深刻な影響を被った。私個人としては高校生時代からのキリスト教への「傾倒」から共産主義などの政治思想に直接の影響を受けることはなかった。

高校の剣道部の延長で、大学に進学しても体育会で合気道をやっていたが、一方で私はキリスト教に関する疑問を抱えていたせいか、今ではほとんどの大学生が着ることもない学生服を着て、教会のキリスト教入門講座に数年も通った。神父さんのことも教えを聞いたこともよく覚えている。けれども、どうしても納得がゆかずに、この問題はヘーゲル哲学に行くことによって個人的に解決を図ることになった。それがこの年に至るまで続いている。

青少年時代に受ける思想的な影響力は、自他の経験にてらしても、まことに深刻であると言わざるを得ない。ヘーゲルも「哲学は信仰深くあろうと欲することは戒めなければならない」とも言っている。

いずれにせよ今ここは、私の思想的な遍歴を語る場でもないのでこれくらいに。

武漢コロナ禍も今年も三年に入ろうとしているけれど、その影響は深刻で、連れ合いもコロナの病ではないけれど、この年末体調不良で入院することになってクリスマスも共に過ごせず、また満足に面会にもゆけない。

そうしたさなかにあっても、曲がりなりにもクリスマスの宵を平安のうちに家に過ごせることを感謝しつつ、メリー・クリスマス。みなさんも楽しいクリスマスの宵のひとときをお過ごしください。

 

いくるはいかに とうときかな、
めぐみの神は  ともにませば、
そとなるからだは  やぶるるとも
うちなるひとこそ  日々にあらた。(讃美歌141)

 

J.S.バッハ: クリスマス・オラトリオ 第10曲 BWV 248:シンフォニア(第2部)[ナクソス・クラシック・キュレーション #特別編:クリスマス]

 

 

 

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2021年クリスマス・イブ

2021年12月24日 | 日記・紀行

 

2021(令和3)年12月24日(土)晴.

 

クリスマス・イブの土曜日の今日、ゲーテ『親和力』第三章を読む。

 

第三章

大尉がエドアルト、シャルロッテ夫妻の屋敷に来る。到着前に大尉からの手紙を読んで、シャルロッテは大尉の人柄に安心感をもっている。久しぶりの再会でエドアルトと大尉は活発に語り合う。夕方になってシャルロッテは大尉に新しい庭の散歩を勧める。丹精を込めたシャルロッテの庭を大尉は大いに気に入る。東家 ⎯ それは苔葺の小家だったが、シャルロッテは二人のために飾っていた。男たちの会話の中から、大尉とエドアルトがいずれもそのファーストネームがオットーであることがわかる。屋敷の方角から猟笛の音が聞こえてきたとき、三人はお互いのつながりに深く幸福を感じる。

エドアルトは東家からさらに見晴らしのいい丘の頂上へと大尉を案内する。頂上へと通じる段々や坂道はシャルロッテが手入れをしたものである。その山峡の中を渓流が池にそそいでいた。池の傍らには居心地のいい休憩所のように水車小屋が立っている。そこから見渡せる見事な眺望を前にエドアルトは友人に子供の頃の思い出を語る。

やがて三人は満ち足りた思いで屋敷へと戻ると、大尉にはその右翼の広い一部屋があてがわれた。大尉はその部屋に書類や書物などを整えて仕事ができるようにした。エドアルトは初めの数日間は大尉を連れて馬や徒歩で所有地の一帯を案内して回る。エドアルトは所有地を有利に使うために測量術に長けた大尉に計測の計画を打ち明ける。エドアルトはそこで大尉から妻シャルロッテの庭園づくりの素人ぶりを指摘されるが、大尉はシャルロッテの自信を傷つけてはいけないと口止めする。しかし初めの間こそ口には出さなかったが、エドアルトはとうとう堪えきれずに男たちの庭園の構想を話してしまう。シャルロッテはそのことで動揺し、それまでの庭づくりの楽しみを失ってしまう。

一方で男たちは貴族的な暮らしぶりに耽ったので、シャルロッテは日増しに心さびしくなりゆき、それを紛らわすかのように、姪のくらす寄宿学校との手紙のやりとりを交わす。

寄宿学校から届いた女校長と助教師の手紙によって、姪のオッティーリエの寄宿学校での生活の様子が伝えられる。オッティーリエが食事を十分にとらないこと、偏頭痛もちであることなどが明らかにされる。

女校長の手紙に添えられた助教師からは、オッティーリエがフランス語の授業に抜きん出ていること、将来教師をめざしていることなど、しかし、シャルロッテは助教師がオッティーリエについて、まだ若く固い将来を秘めた果実にたとえて書いて寄越したことに、教え子に対する好意以上のものを感じて微笑まずにはいられない。

 

 

 

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