作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

書評  藤原正彦『国家の品格』 (1)

2006年03月11日 | 書評

およそ批判や批評の対象として取り上げる科学論文なり学術論文が、理論的に価値のある著作であれば、そこで展開されている思想の概念、判断、推理は当然に精確なものであるはずである。

とはいえ、もちろん批判や批評の対象は、必ずしも科学論文、学術論文のみに限らない。詩歌や小説などの文学作品から絵画、音楽、また映画などの芸術作品なども当然に取り上げられる。だが、その際には、「純粋な」科学論文,学術論文を批判する場合のように、その理論を厳密に検証するということにはならない。学術論文を批判する場合と、随筆や宗教的著作や芸術作品を批評の対象とする場合とでは、当然にその方法も内容も異なったものになる。

とはいえ、批判とはいずれにせよ、対象作品を、批判者自身の価値観の体系のなかに取り組み、位置付けることによって評価することである。このことは同時に、批判者の判断力や認識能力など、その理論的水準自体が問われることでもある。だから、何よりも批判者自身が、その作品を批判し、批評する能力や資格があるのか、ということが当然にまず問題にされるだろう。また、その内容がどれだけの理論的な水準にあるか、その批評行為そのものによって批判者自身が批判されることでもある。

この藤原正彦氏の『国家の品格』はベストセラーにもなったそうだ。それにしても、この作品は、ジャンルとしては何に分類されることになるのだろう。作者の藤原正彦氏は数学者である。しかし、言うまでもなく、この著書は数学の本ではない。『国家の品格』という書名が付けられているけれども、国家理論などを厳密に展開したいわゆる国家学の書物であるということもできない。恋愛や愛国心などの人間の心理を掘り下げ追求した心理学書でもなければ、もちろん小説というジャンルに分類することもできない。

また、多くの個所で「論理」の問題が取り上げられているけれども、認識や存在や時間や弁証法などを問題にする哲学の本に分類するにも無理がある。

一読したところ、一冊の本としては、倫理を問題にした随筆か、あるいは愛国心などについて論じた道徳的な啓蒙書として捉えるのが妥当であると思う。愛国心(筆者によれば祖国愛)や倫理的な精神としての武士道を取り上げている。これが本書のテーマでもあるといえる。

「はじめに」(p3~6)のなかに、本書の全体の趣旨が簡単にまとめられているといえる。筆者自身のアメリカとイギリスでの留学体験が語られ、そこでの筆者の価値観の変化、すなわち論理偏重から情緒重視へと、さらに武士道精神の再発見へと心境の変化が語られる。それは、現在わが国社会においても進行しているグローバリズム、アメリカナイズの過程で、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に日本が身を売り、わが国古来の「情緒と形」を忘れ、それが日本の「国家の品格」を失わせることになったという筆者の問題意識が、その時代的な背景としてある。(p6)

第一章  近代的合理的精の限界(p11~34)

もともと「野蛮で遅れていた」西洋はルネッサンス、宗教改革、科学革命により理性が解放されて、ヨーロッパは初めて論理や近代的な合理的精神を手にし、それによって産業革命を起こし、世界の欧米支配が実現した。 (p16)

しかし、今日いわゆる先進諸国では、家庭や教育が崩壊し、犯罪が多発している。筆者の主張によれば、それは近代的な合理的精神が破綻したからだという。そして、帝国主義や植民地主義もその西欧的な論理であり、その論理が通っているからこそ非道なことも行われたという。

ここで、筆者は「西欧的な論理」とか「傲慢な論理」とか「美しい論理」「見事な論理」というように「論理」にさまざまな形容詞を冠してしているが、論理それ自体は、感情的な評価とは無縁なのではないか。論理においては正しいか、必然的であるかだけが問題にされるのではないだろうか。


筆者は「帝国主義の論理」や「資本主義の論理」を取り上げているが、それらの論理がどういうものであるのか、具体的に展開して説明しないで、その論理の帰結だけを見て、弱肉強食とか卑怯とかケダモノとか下品とかといったことばで評して非難しているだけであるのは、単なるレッテル張りで、具体的な説明の展開がないだけ物足りない。この分野を専門としないことから来る限界かもしれない。


そして現在、資本主義が進化した市場原理主義に至って、世界経済自体が危機的な破綻を迎えているといい、それを救済するのは、筆者の主張によれば、「武士道精神」なのだそうである。なぜそうなのかは以下の第二章で説明される。


第二章  「論理」だけでは世界が破綻する(p35~64)     

どんなに論理的に正しくとも、それを徹底してゆくと人間社会はほぼ必然的に破綻に至ると筆者は言う。(「必然的」に「ほぼ」という形容詞を付すのはどういうことなのかよく分からない(笑)が)、だから、「論理」だけでは世界が破綻するという。その理由として、さらに筆者が追加するのは、

①論理には限界があること、   

②もっとも重要なことは論理で説明できないこと、

③論理には出発点が必要であること、

④論理は長くなりえないこと、

などをあげている。   
しかし、この四つ内容は、本当に「「論理」だけでは世界が破綻する」ことの理由の説明になっているだろうか。これらの四点は、理由として必要十分でかつ、必然的だろうか。いずれも非常に粗雑な説明で、論証になっていないと思う。

まず、「「論理」だけでは世界が破綻するという」説明自体が、第一にそもそも意味不明である。おそらく、論理のほかに「情緒や形」がなければ幸福な世界は成り立たないことを説明しようとしているのだと思うけれども。


また「人間の論理や理性の限界」の例として、「社会に出るとタイプが必要だから、学校でタイプを教えると、ろくな英語しか使えなくなった」ことを筆者は取り上げているが、それは、アメリカの当局者の教育理論が、ただお粗末なだけであって、「論理」に限界があるといった大げさなことではまったくない。そして、さらに、筆者は「論理に限界があること」の事例として、「市場経済主義だから株式投資」とか「国際化だから英語」という理由で小学生に英語や株式投資を教えることを、教育上の失敗の例として挙げているが、これもまた、その教育理論が拙劣なだけであって、「論理に限界がある」ためなどではない。

こんな拙劣な事例を取り上げて、厳密に「論理」を検証する余裕も能力もない人々に、事実として「論理」に対する偏見や蔑視を植え付けるのは教育上においても問題ではないだろうか。

特にわが国のように、過去において、その精神主義本位の傾向のために、人間性尊重と技術合理主義の精神の徹底を図れないまま、多大の被害や犠牲を出すという失敗の経験に事欠かない民族においては、「論理」や「合理主義」に対する偏見や蔑視を助長するような、筆者の非合理的な「説明」は、弊害が少なくないのではないかと思う。


また、「論理」だけでは世界が破綻する(笑)第二の理由として、「もっとも重要なことは論理では説明できない」ことをあげているが、これも、また当然のことであって、たとえば女性の心理など、「数学的な論理」で説明できないのは言うまでもないことである。しかし、大衆は日常生活の経験から鍛えられた論理的思考で、のびのびと「論理的」に思考し、日常の問題を解決しているのではないだろうか。奥さんが氏の話を「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」というのも一つの見識ではないかとさえ思う。


注意しておく必要があるのは、筆者である数学者藤原正彦氏の念頭にある「論理」の内容が、とくに「数学の論理」であって、それが「特殊な論理」であることである。

数学の論理というのは、ただ、量と数をのみ目的として、その証明は機械的な自然の段階、領域においてのみ通用する論理であって、有機体や生命や社会構成体の運動や発展を説明できる論理ではない。

だから、単なる数学的な論理のみでは、藤原氏自身が述べているように「もっとも重要なことは(藤原氏の数学的な)論理では説明できない」のも当然のことであり、そのことは別段に新しい発見でもない。


論理的に説明できないことの、もう一つの例として、藤原氏は「人を殺していけないのはなぜか」をあげている。しかし、これも当然であって、これらの問題は数学的な論理の問題ではなく、倫理の問題であり、したがって、家族や社会や国家の論理から説明されるべきものである。

またさらに、第三の理由として、論理には出発点が必要であることを上げておられる。だがこれはまさしく、数学的な証明の欠陥を、あるいは限界を示すものであって、数学にあっては、この出発点Aの必然性が洞察されず、これこれの仮説Aから出発せよと外的に命令されて、その命令が証明にとって合目的的であることをさし当たっては盲従するしかないからである。

筆者にとって論理の出発点は、「情緒や形」である。この出発点は恣意的なものであって、その必然性を論証できないから、藤原氏は盲信するしかないし、また、この出発点AやBの恣意的な選択の結果として、結論が異なるのも当然のことである。

これは、数学の目的が、その論理的な証明が、貧弱で、その素材も、一という数や空間という量的なものに過ぎないからである。数学は、時間や有機体など、純粋な生命の不安定な事柄を対象にはできないからである。数学の証明というものは外的な必然性を目的にするものでしかない。
この「数学的な論理」の特殊性を普遍化して、「「論理」だけでは世界が破綻する」と藤原氏がいうのは正しくない。

また筆者は「最悪は情緒力がなくて論理的な人」(p53)というが、これもまた、能力と善悪が必然的に一致するものでないことを考えれば、当然のことである。

筆者が言うように、「数学をいくら勉強したところで、現実(民主主義や哲学など、人文科学や社会科学の領域)において適切な(判断や)振る舞いができるとは限りません」(p54)というのは、全くもって当然の話である。

そして、最後に藤原氏は第四の理由として、「論理は長くなりえない」ことをあげる。(p55)ここで筆者の専門である数学の論理で説明する。数学における証明はここでも説明されているように、1とか0.5といったは数量で取り扱える領域だけであるのに、現実の世界は、生命や磁石を見ても分かるように、生と死や陰極と陽極のように、その完全な境界を設定できない世界である。ここでは明らかに数学的なデジタル論理は破綻する。「短い(数学の)論理は深みに達しない」(p62)のだ。


だから、「「論理」だけでは世界が破綻する」という、この第二章の標題は、「世界の現実に直面して、藤原氏の論理は「破綻」する」とでもしておけばよかったのではないかと思う。


数学者、藤原氏は本質的には、論理の人ではなくて、感情の人、文学の人ではないかと思う。この章の最後で、氏が「欧米の支配を支えてきた論理や合理のほぼすべてがワンステップやツーステップで彩られている」(p64)というのは、西洋の数千年にわたる伝統の中で蓄積された哲学的思索や論理的な精神についての無知な、井の中の蛙の世界観ではないかと思う。

 

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書評  中川八洋『日本核武装の選択』(2)

2006年01月31日 | 書評

本書による日本の安全保障論議についての中川氏の批判の核心は、以下にあると思われる。氏は言う。


>「五十年に及ぶ「反核」運動が、日本人を、カルト宗教の呪文「反核」「非核」でどっぷりと洗脳していたのである。かくして、知識人といわれる人ですら、核兵器に関する知見も思考力も小学生未満へと、蛇の足のように退化してしまった。これほどに空恐ろしい、お寒い光景がどこの国にあるだろうか。日本は、独立国家の資格たる自国の安全保障を検討する能力を喪失している。日本人の無教養さは、GHQの占領政策によるのではなく、日本人の資質の生来の低級さが生んだのである」(p147)

「日本が現実に核武装すべきかどうか」という問題については、現在のところ私には判断は下せず保留するが、少なくとも、核武装をはじめ、あらゆる角度から、日本の安全保障問題について国民によって大いに議論することについては何の異論もない。多くの国民によって議論され、さらに研究されるべきであると思う。

日本国の安全保障問題を、単に「反核」「非核」をスローガンとしていたずらに叫ぶのではなく、客観的に科学的に、その核保有と非核のいずれにせよ、その両面から、二面性について日本の独立と安全にとってのそれぞれの意義と限界、長所と短所、国際外交上の有利と不利などについて冷静にまず議論の俎上にのせることが必要であることを、中川氏が主張している点には全く賛成である。これまで日本の安全保障論議については、少なからず、「平和主義」「原水禁」一辺倒で、自由で科学的な議論が行われる背景から遠かったように思われるからである。

狂信的な「平和主義者」の最大の害悪は、何事についても自由な本音で議論する雰囲気を許さず、言論にタブーを生んでいることである。自分の盲信する「正義と平和」を狂信して、正義家ぶって傲慢にならないこと、自分の信念を相対化する謙虚さを失ってしまわないことが大切であると思う。

まず今日の日本に必要なことは、「非核」であれ「反核」であれ、また核武装論であれ、日本の安全保障にとって諸外国との外交交渉において、何がもっとも有効で必要かという、客観的で科学的な自由で活発な議論である。もちろん、人間は単なる動物ではないから、安全至上主義に終始すべきではないことは言うまでもない。私たちが守るべき価値とは何か、守るべき国家の価値とは何か、自由や独立はどういうものかという、議論や教育が、核武装論議の前に必要である。残念ながら、日本の教育ではそうした問題を真剣に取り上げられてこなかった。このことは、日本国民が真に自分たちの民主主義政府をいまだ持ち得ていないことと無関係ではない。

国家の安全は、ただに市民の生命と財産の保全を至上の目的としているのではない。そうではなく、むしろ逆で、市民もまた一国民として、国家の自由と独立のためには、自らの生命と財産とをもって国家のために奉仕すべきものである。そうして、国家の主権を担う困難と責任は、すべての国民が平等に分かちあい責任を果たすべきものである。


国家に対する義務と責任においては、「勝ち組み」も「負け組み」もなく、金持ちも貧乏人もなく、すべての国民が国家に対して平等に奉仕することが義務づけられる。この点で中川氏の核武装論は日本国民の倫理的意識の覚醒にとって何らかの意義をもつかもしれない。ただ、現状においては、国民投票に付したとしても、日本の核武装は現段階においては過半数の賛意を獲得することは難しいと思われる。しかし、そうした大衆の意識とは別に、常に緊急の特殊な事態の発生に備えて、中川氏のような専門的な観点からの多数の識者による、自由な日本の安全保障論議は重要である。


緊急の特殊な事態として、さし当たって外国からの核攻撃からの危険にさらされる可能性としては、やはり対北朝鮮との関係だろう。特に北朝鮮は、昨年の十一月以降六者協議に復帰することを拒否している。最近になってアメリカは北朝鮮に対して、タバコやドル札、麻薬の偽造や輸出に厳しい態度をとっている。また。マネーロンダリングでアメリカが北朝鮮に対して金融制裁などで示している厳しい態度は、北朝鮮の感情的な暴発を招く可能性はある。


また、大量破壊兵器の武器輸出で、北朝鮮船籍の船がアメリカ軍の臨検を受けたりした場合に、突発的に北朝鮮が在韓米軍や在日米軍に対して、さらにはソウルや東京を攻撃してくる可能性がある。

その他に緊急性のあるのは、台湾の独立問題に絡んで、中国が独立阻止のために台湾に武力攻撃を加える可能性である。そして、日本との間には東シナ海で領土問題や天然資源問題で武力抗争の発生する可能性がある。その際に、外交交渉上戦略的に必要な有力な背景として、実際に核兵器を使用するかはとにかく、核武装の意義を研究する価値はある。その際に、この中川氏の核武装論も一つの参考意見にはなる。

しかし、日本にとって根本的に要請されることは、今の段階においては、中川氏の主張するような核武装にあるのではなく、まともな民主国家としての日本の再建である。そのためには、政府の質と国民の意識の根本的な変革が必要とされる。現在のような安全保障や外交交渉で示されているような主権意識のぼやけた政府と国民とでは話にもならない。日本国内に、ホリエモン氏のような国家意識の希薄な人間を生むようでは話にもならないのである。


その改造には日本を国家として倫理的に再建することが急務である。そのために、中川氏のように核武装についての論議の喚起も一つの手段としては可能性としてはありうるが、しかし、現在の国際情勢から考えて、その選択は、さしあたって現実的ではないと思われる。周辺諸国に不必要な警戒感を生むだろう。

それよりも、効果的で現実的な方策は、国民の間に兵役の義務を復活させることである。その対費用効果において核武装よりもはるかに優れている。また、市民が避難し数ヶ月待機できる、巨大な地下避難基地の建設なども当面の緊急の課題とすべきかもしれない。都市景観の整備や、公共的な事業として経済政策としても意義をもつのではないだろうか。

万が一日本に核武装の必要があるとすれば、核兵器の保有については、イスラエル方式を採用する。イスラエル方式とは、北朝鮮のように自国の核保有を諸外国に宣言をすることはしないが、その保有の実力は諸外国には「公然の秘密」にしておくことである。少なくとも、緊急時には一ヶ月以内に核配備を実現させうる態勢を確立しておくことである。

いずれにせよ、その前提は何よりも、日本国民一人一人がより成熟した民主国家の成員になることである。民主主義の精神と制度について高度な自覚を日本国民一人一人が体得しないまま――先の大阪市長選の投票率を見よ――現状で、核武装をすることは、危険な玩具を子供に与えるようなものかもしれない。日本の民主主義はまだ、その程度に疑念を残している。中川氏の核武装論に危惧を覚えるとすれば、この点である。杞憂であれば幸いである。

(ロシアや中国などの東アジア諸国とアメリカの戦力の具体的な数値にもとづく批評は、私自身の現在の情報の不足、知見の不足によって行えなかった。引き続き検討課題としておきたいと思う。)
 

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書評  中川八洋『日本核武装の選択』(1)

2006年01月11日 | 書評

先の九日に駐日ロシア大使ロシュコフは、北方領土問題の問題解決の基盤はむしろ小さくなっていると言ったそうである。


これまでの日本の拙劣な外交の結果として、北方領土の回復はさらにいっそう遠のいたことになる。鈴木宗男の利権がらみの外務省介入の結果である。拙劣な一貫性のない政府と外務省の対ロシア外交はいっそう北方領土の回復を遠ざける。田中真紀子の騒動以来、せっかく俎上に乗り始めた、外務省改革も頓挫したままである。

また、小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐって、中国や韓国との首脳外交も停滞したままである。北朝鮮とは、日本人拉致問題をめぐって北朝鮮が誠意のある態度を──拉致被害者全員の無事原状回復──を見せない限り、国交回復などありえないことは言うまでもない。


また、最近になって、アメリカが北朝鮮によるマネーロンダリング・資金洗浄にかかわったとしてマカオの銀行に発動した金融制裁について、北朝鮮は、九日に「われわれを窒息させようとねらったものだ」と非難し、解除しなければ核開発問題をめぐる六か国協議の再開に応じられないとしている。


北朝鮮は、この六ヶ国協議を、自国の核開発のための時間稼ぎとして利用していることは言うまでもない。そもそもこの六カ国協議は、北朝鮮問題を東アジアの当事者である、ロシア、中国、北朝鮮、韓国、日本の五カ国に任せて、アメリカは出来るだけ手を引こうとして、アメリカがはじめた試みであるが、この六カ国協議は、今では北朝鮮をだしにする、ロシアと中国による対日米攻略の場としても利用されている。


この六カ国協議は、ロシアと中国にとっては、その主たる戦略の対象が北朝鮮にではなく、日本にあることはいうまでもない。したがって、日本はこの会議の隠れた交渉相手は、ロシアと中国であることを国民としても再確認しておく必要がある。北朝鮮の核兵器保有は直ちに日本の核武装の問題に関わるし、日本の核兵器保有こそロシア、中国両国にとっても最大の懸案だからである。

このような最近の東アジアの状況が背景にあって、日本の核武装についての議論の現状を知るために、さしあたって中川氏の『日本核武装の選択』を手にした。一応の感想を記録しておくことにする。日本の核武装の問題についての議論は主に保守派と称される人々によって行われて来たのであって、共産党をはじめとする、いわゆる「進歩派」のグループでは、まともに取り上げられることはなかった。この派には狂信的な「平和主義者」が多いからである。中国とロシアの巨大な核武装には反対せず、ただ、日米の核武装にのみ反対する彼らの偽善的な「平和主義」は、ただ中国とロシアを利するだけである。

本書は直接的には、中川氏の北朝鮮の核武装による日本の安全保障上の危機意識を背景に書かれた。もちろん、北朝鮮と日本との関係においては、核の問題のほかに言うまでもなく拉致問題があるが、この両者はもちろん無関係ではない。


中川氏の結論ないし主張は、日本の核武装による北朝鮮の核軍事基地への攻撃を契機とする金正日体制の崩壊によって、北朝鮮人民を独裁と飢餓から解放すると同時に日本人拉致被害者を解放しようというのである。

日本は、世界初の原爆被害国になったこと、そして、その被害のあまりに悲惨であったために、国民の間に核武装については、きわめてアレルギー反応的な拒絶反応を示してきた。そのために戦後六十年間、核武装の問題についてほとんど国民の間にまともに──科学的に──議論されてこなかったといえる。

中川氏は直接的には北朝鮮の核武装を契機に論じているが、むしろ、実際の日本への核攻撃の脅威の程度からすれば、その対日核ミサイルの保有数からいって、対日核脅威の水準は、ロシア:中国:北朝鮮はそれぞれ、100:10:1になるという。中川氏は、むしろロシア主敵論の立場に立っている。

残念ながら今のところ私は、ロシアや中国や北朝鮮の核爆弾、およびその運搬手段であるミサイルの保有状況や、その規模についての専門的な技術的な知識を、持ち合わせていない。だから、それらの是非については、ここで具体的に検討することは出来ない。

したがって、ここではただ、核武装の思想的な前提と、核兵器を中核とする東アジアの軍事情勢の論理構造について検討することしか出来ない。そして、何よりも緊急に検討を要するのは、核武装の問題をめぐる日本国内の政治的経済的な、あるいは、思想的な状況についての論理的な解明である。中川氏の『日本核武装の選択』の内容を検討しながら、この問題について解明してゆきたいと思う。

 

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