荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

河合映画巣鴨撮影所(大都映画巣鴨撮影所前身)跡

2020年11月04日 | 散文

国道17号線(白山通り)を走っていたら目に入って止まりました。都営三田線の西巣鴨駅出入り口の前です。

 

振り返ります。気になったのは左手の煉瓦塀です。煉瓦塀の向こうは学校のグラウンドです。

 

この凹んだ部分です。

 

へえ~!? そもそも「河合映画」や「大都映画」なるものを知りません。説明を読んでみます。「大都映画 大正8年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際活動映画(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の朝日中学校がある所に巣鴨撮影所を持っていた。大都映画は昭和17年に大映に吸収されるまで、『貞操』、『街の爆弾児』、『宮本武蔵』などを制作した。 東京都豊島区『豊島区50年のあゆみ』より」 銅板にある建物の上に、「合」、「映」、「巣鴨」、「撮」の文字も見えます。

 

煉瓦塀の角から目をやると、やって来た方向の塀にまだ凹みがあります。引き返してみます。校庭のみかんが色づいています。

 

「大都映画巣鴨撮影所全図ー現在朝日中学校ー」が画かれています。白山通りと市電側(今居る場所)に正門があって、敷地の中央に「お稲荷さま」が祀られていて、その向こうに「現像部」があります。更にオープンステージがあります。先程の説明によると、ここが歴史の始まりです。スタジオは第1、第2、第3とあります。現像部を取り囲むように、衣装部、結髪部、床山部、食堂、大道具部、小道具部、男優大部屋、女優大部屋等々が画かれていて位置関係がよく分かります。

 

次の凹みです。「大都映画巣鴨撮影所(初期のもの)ー現在朝日中学校ー」の写真があります。私が通った木造校舎のようです。傍に、「後に事務所は洋館になった」との記載があります。説明を読みます。「昭和2年に河合映画会社が設立され、昭和8年には大都映画(株)に発展した。昭和2年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和17年に大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の制作、配給が続けられた。戦前の日本映画界では制作本数最多を誇り、配給・興行の一貫体制を堅持し最も大衆に愛された映画会社であった。 ノーベル書房(株)協力による」

 

学校の正門です。現在は「朝日中学校」ではなくて、「豊島区立巣鴨北中学校」となっています。学校にも歴史在り、です。

 

正門からグラウンドを見ます。映画会社が在った雰囲気は全く感じられない普通の学校グラウンドと校舎です。

こういった歴史を記録しておくのは文化の継承に必要なことです。そして、散策の喜びにもなります。一つ知識が増えました。

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