荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

ハカマイラーの2

2016年07月26日 | 散文
雑司ヶ谷墓地でのお墓訪問が続きます。


「泉鏡花の墓」
木漏れ日の中で端正な墓が佇んでいます。

墓石には「鏡花 泉鏡太郎墓」と刻まれています。

幼くして亡くした母を生涯追慕し、折に触れて作品に登場させます。

友人の下宿で尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」を読んで衝撃を受け、文学を志します。
師の紅葉を神格化する程に仕えました。

紅葉が死んだ後、芸者すずとの結婚を紅葉に反対されたいきさつを「婦系図」に綴ります。

(昭和14年)7月、「縷紅新草」を『中央公論』に発表するも、この月下旬から病床に臥し、9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去します。
10日芝青松寺にて葬儀がおこなわれ、雑司ヶ谷霊園に埋葬されました。
(ウキィペディアより)

誠実に、端正に佇んでいます。



「サトウハチローの墓」
詩人です。
別名をいっぱい持った人で、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、並木せんざ等があります。
多くの詩を書き、「リンゴの唄」の作詞者として知られています。

明治36年に生まれ、昭和48年に亡くなりました。
70年の生涯です。

母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られ、2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関する詩です。

作風に反して私生活は奇行が多く生き様は放蕩でした。

ハチローは小学生時代から不良少年で、実母に対しても愛情らしきものを示したことはなく、作品に表現されている「母親への想い」はフィクションだといいます。

無頼を心配した小説家の父紅緑は、現在の池袋三丁目に所帯を持たせました。

しかし、父の故郷・青森県には生涯で一度しか訪れていない一方、母の故郷・仙台市への訪問は50回を越えています。

(ウキィペディアより)


「大川橋蔵の墓」
墓地の間を走る道路に案内の石柱があって来ました。


1929年に生まれ、1984に亡くなりました。

六代目尾上菊五郎に目をかけられ、その夫人の養子となって権門入りしますが、後に映画・テレビ俳優に転向します。

子供の頃田舎の映画館に、近所の兄ちゃんに連れられて観に行きました。
絶対に田舎には居ない二枚目で、近所の姉ちゃん皆が胸を焦がせていました。

銭形平次が生涯の当たり役です。

そんな事をしていたら、TV東京のインタヴューを受けました。
よく見ている局だし、暇なので付き合いました。
流石はTV東京です。
女子アナがカメラマンとスタッフとゲストを引き連れての取材体制なんか取りません。
兄ちゃん然とした若者が、手持ちカメラでインタヴュアーを兼務します。

お墓めぐりの番組を作っているとの事です。
彼曰く、偉人のお墓を巡って故人の足跡に想いをはせる人を「墓マイラー」と言うそうです。
この「参ラー」が増加中とのことです。
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ハカマイラーの1

2016年07月26日 | 散文
朝起きて、雑司ヶ谷霊園へ行こうと思い立ちました。

夏目漱石の墓が目的です。
目的地は、初めての場所にはいつも持っていく地図帳「街の達人」に記載されています。

「夏目漱石の墓」
他と違ってこの霊園内には有名人の墓所の案内板等が少ないのですが、拍子抜けする程簡単に見つかりました。

方向音痴の私は、地図を見れば見る程場所が分からなくなるのに、今日は凄いです。

随分と立派な墓です。

明治期の成功者らしい墓です。

説明板はありません。

尤も説明を聞く必要がないくらい有名です。


「竹久夢二の墓」
夏目漱石にお参りして「さてどうしよう」と自転車を漕いでいたら、偶然案内柱に行き当たりました。


案内板を読みます。
「大正浪漫を代表する画家。明治17(1984)年9月16日、岡山県本庄村に生まれた。本名は竹久茂次郎。明治34年単身上京し、翌年に早稲田実業学校に入学する。(中略)明治38年6月の「中学世界」に小間絵「筒井筒」が1等入選し、初めて夢二と署名した。「夢二式美人」といわれる独特の抒情的スタイルを生み出し、一世を風靡した。(中略)

昭和6(1931)年アメリカからヨーロッパへの旅に出るが、翌々年病気に罹り帰国する。昭和9年9月1日信州の富士見高原療養所で肺結核により死亡した。9月5日麹町心法寺で葬儀、おくり名は竹久亭夢楽居士。9月19日雑司ヶ谷墓地に埋葬された。」

シンプルで上品な墓です。
夢二らしいと思います。

墓石には「竹久夢二を埋む」とのみ刻字されています。

墓の入口には休憩用のテーブルとイスがあります。

他には無い施設です。
先ほどまで夢二ファンと思しき若い女性の2人連れが座っていました。


「永井荷風の墓」
木で囲まれた一角に永井家の墓と、その中の石で囲った場所に荷風の墓がありました。


その左は荷風の父禾原(かげん)の墓のようですが、随分風化しています。

吉原の遊郭と縁の深い荷風は、投げ込み寺「淨閑寺」に葬られる事を望んでいましたが、仲が良かったとは言い難い父の隣に眠っています。

有名人の墓石には当該者の生死・業績等を刻書する場合が多いですが、裏には「永井壮吉 昭和34年4月30日卒 享年79」とのみ書かれています。



「小泉八雲の墓」
真ん中に八雲、左に妻セツ、右側に小泉家の墓が並んでいます。


「耳無芳一の話」を読んだ人が多いと思います。
日本贔屓の異邦人パトリック・ラフカディオ・ハーンが明治29年に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗りました。

日本の怪談まで書くのですから「凄い!」の一言です。

父がアイルランド人、母はギリシャ人、アメリカで新聞記者をした後来日して日本人と結婚して帰化しました。
コスモポリタンです。

大好きな日本で、日本人の妻を娶って、自分が日本で創った一族に囲まれて眠っています。
幸せな人生だったと思います。

雑司ヶ谷墓地内を移動します。

次回に続きます。
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