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お湯の国 日本

美しい日本の温泉地中心の旅記録(おんせん鑑定士:監修) 【記事・映像は著作権、人権保護法等により無断使用を禁じます】

高知城追手門(高知県)

2017年11月12日 |  🏰城郭史跡探訪

四国のお城は数こそ少ないが、名城が多い。その名城の一つが高知城
その追手門。明治政府の廃城令の破壊を免れた。江戸時代からの歴史
の重みがズシリ。切石を積み桝形上に堅牢に建てられた両脇戸付櫓門

参照追手門前の山内一豊公像

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山内一豊像(土佐藩高知城)

2017年11月10日 |  🏰城郭史跡探訪

土佐高知の藩祖。豊臣秀吉子飼いの武将でありながら徳川家康方となり
明治まで土佐藩が続く礎を作った。土佐藩はを形成して
明治政府を起こし、今日の日本の礎を築く重要な勢力となったのである。

薩長土肥:明治維新の原動力となった雄藩(外様大名)。薩摩藩、肥前
   鍋島藩、長州藩、土佐藩の連合。共に有事に備え藩内で鍛錬する。

考察歴史は繰り返す。西の平家を滅ぼしたのが東の源氏。東の徳川を
   滅ぼしたのが西の薩長土肥。その流れで現在西高東低の政治気圧

参照一国一城の主の名城:高知城

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神宮徴古館(伊勢神宮)

2017年10月05日 |  🏰城郭史跡探訪

伊勢神宮の内宮と外宮のほぼ中間に位置している。構内はかなり広く明治42年に
日本で最初の私立博物館として創設された伊勢神宮の「歴史と文化の総合博物館
は佇まいも立派。国重要文化財11点を含む歴史・考古・美術工芸品等を収蔵する。

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松山城一ノ門(松山市)

2017年07月08日 |  🏰城郭史跡探訪

四国の名城松山城。それは正に坂の上の城。本丸天守が創建以来現存する貴重なお城。
お城の重要な護りとなる門は本丸の随所にある。まるで迷路。その最初の門が一ノ門。
木造の高麗門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割が大きく、豪放な構えである。

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武田氏館跡(甲斐国守護武田氏)

2016年12月30日 |  🏰城郭史跡探訪

戦国時代の雄武田信玄。その拠点(居城)がここ躑躅ヶ崎館である。現在
は遺構の大半は武田神社境内となっている。わずかに往時の井戸などが
残っている。しかし城郭の遺構がそのまま残り、映像が大手門跡である。

城郭:連郭式平城 城主:武田氏~河尻秀隆~徳川氏~豊臣秀勝~加藤光泰~浅野長政 
遺構:石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、天守台、復元馬出
指定:国史跡、日本百名城(指定24番) 家紋:武田菱 石高:推定100万石 

参照:①武田神社(山梨県甲府市)   ②米沢城址(上杉家居城)

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武田信玄公像(JR甲府駅前)

2016年12月29日 |  🏰城郭史跡探訪

甲府市には長野温泉探査時の始まりとして立ち寄った。静岡の泉友との合流地点として
選んだ。合流後には武田神社に参拝して、信州の諏訪湖周辺の温泉地の探査に向かった。
そう、諏訪は武田信玄の側室諏訪御料人の郷である。温泉探査は歴史探査の旅でもある。

考察:戦国時代を華やかにした武田信玄は京都上洛の途上で病死したというのが通説だ。
   もしも、生きていたなら、歴史は変わっていただろう。それ程の影響力のあった
   人物だが死んでしまえば何もない。それは今の世も同じだ。生きて人生を楽しめ

参照武田信玄の居城(館)が甲府盆地を望む高台に今は武田神社となって存続している

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真田幸村像(信濃国上田藩)

2016年11月25日 |  🏰城郭史跡探訪

≪ 速報:関東中部紀行・真田幸村像(真田丸) 2016.11.18 ≫
映像:北陸(長野)新幹線JR上田駅前広場に立つ真田幸村像

真田幸村。NHK大河ドラマの前半では、真田昌幸が存在感があったが
ドラマ後半に入って、俄然真田幸村存在力を増して来た。それは
の意思を継いだ行動力と若さ。結果的に戦場に消える儚さ・・・故なのか?

旅録:この日は上田の友人の誘いで美ヶ原温泉などを探訪して、別所
 温泉旅館花屋で入浴し上田駅前小料理店でA博士、友人夫妻と懇親。

参照上田地方の温泉と言えば別所温泉

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川越城本丸御殿(武蔵野国川越藩)

2016年06月30日 |  🏰城郭史跡探訪

小江戸川越は川越城から発展した中世からの城下町。
城郭は今ではこの本丸御殿しか目に触れることがで
きない。川越藩は江戸の甲信越への前線基地なのだ。

城郭:平山城 築城主:太田道灌(江戸城を築城)
石高:松平家17万石  家紋蔦 遺構:堀・土塁・御殿他
指定:埼玉県有形文化財(本丸御殿)、日本百名城(指定19番)

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富山城址(越中国富山藩)

2015年11月30日 |  🏰城郭史跡探訪

富山市電ループラインで富山城にやって来た。こじんまりと端正な城構え、
彦根城や犬山城など現存する天守を参考にして復元された模擬天守である。
ここも歴史の波を感じられる。 主は神保氏、佐々氏、前田氏と変遷した。

城郭:梯郭式平城 平城 城主:佐々氏 遺構:石垣、堀
石高:加賀藩支藩10万石 家紋:丁子梅鉢(ちょうじうめばち)

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源義経像(中尊寺:平泉町)

2015年11月30日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:安住の地極楽浄土平泉の地をめざした史実を伝える弁慶堂に義経像が安置される。

源義経は実兄により滅ぼされた悲劇の英雄。異母兄弟ではあるが血が繋がっていたが
源平の戦いで活躍が著しく、その武勇を、名声・朝廷の優遇を嫌った兄頼朝の冷たい
仕打ちとも思える。現代のsns時代だったもう少し分かり合えたかもしれないのだが。

感想:結局は兄頼朝の鎌倉時代も短命に終わり源氏の治世は続かなかった。一方では
   源義経の武勇、悲劇、北方回帰は伝説となり、いまでも人々の心に残っている。
   驕る平家久しからず、戦う源氏やすまらず、悲劇の義経主従伝えは永遠なりや

参照源義経(悲劇の英雄)探訪紀行

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岩出山城址 (陸奥国:岩出山伊達氏)

2015年11月29日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:城跡岩出山城の本丸、中央にあるセメント像が伊達政宗の晩年の雄姿

隻眼の英雄と言えば、伊達政宗。彼は生まれながらにして目が不自由だった。
その伊達政宗が充実した生活ををしたのがこの岩出山城だ。小さな山城だが
急峻な坂に当時の武者備えを感じる。近くに御殿湯として東鳴子温泉がある。

城郭:山城 城主:氏家直益~伊達政宗 石高:岩出山伊達家1万4千640石
遺構:土塁、空堀、堀切、石垣、虎口、曲輪     家紋:「竹に雀」(定紋)

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天草四郎墓石(長崎県原城址)

2015年08月22日 |  🏰城郭史跡探訪

島原半島の中央部。断崖の史蹟原城の片隅に天草四郎の墓石がある。
江戸幕府の大罪人の墓など残っているのも不思議だが、信者の農地
に埋没のものが土石流で発見されたのを移設。天草四郎を忍び合掌

天草四郎:島原の乱の首謀者として捉えられ斬首の上、原城や長崎
  の出島でさらし首にされたと伝えられる。悲劇の美少年である
   
参照世界遺産 島原半島 原城

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島原藩武家屋敷(長崎県)

2015年08月07日 |  🏰城郭史跡探訪

何処の城下町でも武家屋敷がお城を取り囲むように存在する。
島原もお城の堀割近くにその遺構が残されている。今直住ん
でいる生活感あふれる場所だ。あの、吉田松陰も訪れている。

解説:本州の武家屋敷は板塀が主であるが、さすがに南岸沿
   い台風襲来から石垣塀で頑丈になっているのが特徴だ

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千歳御門(前田家富山城)

2015年06月28日 |  🏰城郭史跡探訪

加賀百万石の前田家富山城の本丸(千歳御殿)の前にある門。現在の千歳御門は富山城の
唯一の創建当初の建造物。その作建築様式は三間薬医門といわれる格式の高い城門建築で
東大の赤門と同様とのこと。そいえば、赤門も加賀藩前田家の江戸屋敷跡の門構えである。

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三戸城址(陸奥国南部藩)

2015年06月08日 |  🏰城郭史跡探訪

旅は人を感傷的にさせる。陽光が眩しい五月に南部紀行を開始
先ずは、南部の元祖的城三戸城にやってきた。三戸という風土…
青森県を二分する文化はここから始まりだと思うと。感慨深い

城郭:連郭式山城 城主:南部氏  家紋:南部鶴  遺構:城山公園 
石高:南部藩約10万石(1591年九戸城に移転当時三郡)
解説:青森県の文化は八甲田山を境に東が南部、西が津軽の文化
   同じ青森県でありながら南部と津軽は犬猿の仲である事は
   県内外に知られている。言葉(南部弁と津軽弁)風土(南
   部の東風、津軽の降雪)気質(南部の質素、津軽のおごり)
   何よりも、戦国時代に領土をめぐって幕末迄一触即発状態。
   とどめは明治維新時に津軽の新政府方南部の旧幕府方だ。

参照南部と対立した津軽藩のお城「弘前城」探訪紀行

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