日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

数の準備

2020-05-26 17:44:00 | 算数
仕事から帰る頃、雨が降りそうな空模様だったし、ほわっと雨が降りだす前の独特の匂いも感じました。

その雨が降る前の、降り出しはじめの独特の匂いのを「ペトリコール」ということを昨日知りました。

それで、ふと、「草いきれ」にもそういうなんか名前が付いているのかな、と思ったのですがどうなんでしょうね。

この写真を見て、全部でいくつ、と聞かれたらどう考えますか?





私は大人なので(エッヘン)4+2で6個だな、と思います。

算数の足し算に慣れ親しんだ小学生も同じか、或いは「2+4だから6」と考える子もいるかもしれません。

幼児(ざっくり、3歳くらい〜小学校入学前くらいまで)に「全部でいくつある?」と聞くと、まず、「1、2」と数えて、次に「1、2、3、4」と数えて、その後で全体を「1、2、3、4、5、6」と数える作業をして「6」と答えるそうです。

でも、足し算を習うまでこのやり方に固執するわけではなく、誰に教えられるでもなく数え方が変化するそうです。

それは、まず最初の集合を「1、2」と数えて、次の集合を「3、4、5、6」と数え足していくやり方に変化するそうです。

更に「基数性」(最後の数詞が全体の数〈全体の量〉ということ)をわかってくると、最初の集合を「2!」と唱えて次の集合に対して「2、3、4、5、6」と答えを出す方法に進化したりします。

更に更に、4つの方の集合をまず「4」と数えて、次に2個の方の集合を「4、5、6」とやる場合も出てくるそうです。

小学校で足し算を習う前に、遊びながらこういう知識を幼児は獲得している場合が多いそうで、これは幼児のモノを数える計数の力の発達とリンクしているそうです。また

幼児であってもなるべく、全体の数を知るための手数を減らそうとしたり、何か新しいことを求める能動的な意欲に支えられているとも言えます。

こういう力が小学校入学前にあるならば、小1の算数の足し算なんて、お手のものと思いがちですが、さにあらず。

例えば、4+2と2+4は同じ答えというのを理解しにくかったりします。

それは、幼児にとって、足し算というものが、最初の数に2番目の数を足す、という一方向性のものと捉えていることが大きいそうです。

さて、幼児の間に数に対して、このくらいの認知をしておくには、一つの集合を構成しているものをバラバラに1つずつ見る力や指でそのバラバラの物を1個ずつ指させる力、また、口なり自分の内側の言葉で数える速度と指で指す速度を同じくらいに調整できるなどの力が必要になります。

そうなると、目や手や自分の体を自分でコントロールできないうちに、小さな子に早期学習とばかりにプリント的なものばかりやらせても、あまり効果が得られないように思います。

もしも、身体の使い方に凸凹があって、どうも数えるのも苦手だな、と思われるお子さんは、掴みやすい物を掴んで投げたり、投げた物を目で追ったり、目標になる物を見つめたり、「3つ投げよう」と遊びに数を取り入れたりしながら、幼児が身体に染み込ませていく算数の準備をしていくと良いと思います。

身体の使い方は今ひとつだけれど、数を頭で写真のように取り込めている子も中にはいます。そんな子は、じゃんじゃんその子のやりたい問題しながら、身体は身体で育てていけば良いですよ。

でも計算以前の数の捉え方の準備は、身体、目や手や本人のリズムなど身体も意識してみてくださいねq

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役割。

2020-05-25 23:29:00 | 日記
いちごの季節も終わりに近づくと、普段いちごを4パックつめている段ボールいっぱいにいちごは入って500円とかで売っています。いつでも出会えるわけではないのですが、今日出会っちゃった!

で、いちごジャムに。
煮すぎて、さらさらになったけど、ま、いいか。理想のジャムを求めて一年に一回がんばろう。


学校で、不登校気味で、でも学校に来ると、あれもこれもやってみたい、引き受けてしまう、そういうお子さんがいます。

先日の南雲さんの話を聞きながら、「ああ、あの子も自分の役割を見つけていたのかなぁ」と十数年ぶりの納得。

不登校のお子さんだから、たまにしか来ないのに、来るとあれこれやりたがる姿に、クラスメイトやどうかすると心ない担任にまで、冷めた目で見られていたけれど、自分のその日までの立ち位置などぶっ飛んで「これならできる」とどうにか人の中での役割を見つけ、懸命に振舞った結果だったのかもしれません。

そんな子の一人が、家庭を持ったというおめでたいニュースが飛び込んできました。
仕事で、お家で、待ったなしにあれやこれやと役割があることだろうなぁ、と思うと
生き生きと活動していたときのその子のはじけるような表情を思い出しました。

幸せに暮らしてほしいなぁ、と願わずにはいられません。

おめでとう!
幸せにね。


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夏がくる。

2020-05-24 23:05:00 | ねこ
みなさん、夏を感じるのはどんなときでしょうか。

ときには、ゆるゆる猫について。

梅ちゃんは、戦ったら多分、うちで最強。




でも、その強さに気がついていない、乙女です。いや、今年の9月で7歳になるので、もう、いい加減いい年のマダムです。

ちなみに、猫の7歳は人でいったら44歳。
ほらね、良い加減のマダム期突入です。



天敵は、茶トラ男子のちぃ。



人畜無害の顔をしてますが、近寄り甘えて噛む厄介なくせ者です。

梅ちゃんの声が耳に触るのか、梅ちゃんが鳴くとどこからともなくやってきて、威嚇します。

それが嫌で、梅ちゃん逃げ回り、リミッター切れたら、はたきます。




そんな梅ちゃんが、へそ天で足をおっぴらげて寝ているので、ああもう初夏だ…と感じた今日。

ただ、それだけです。


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プレ講演会 南雲さん編 その2

2020-05-24 16:14:00 | 発達応援
講演会終わりを入り口で出待ちしてた李。


さて、南雲さんはお話の中で現在の支援に対する本質に幾度となく触れられました。

例えば、支援は弱い者を救うためにあると思うけれど、一部の支援は弱者を弱者に留め置く支援をしているのではないか、ということ。

また、支援でやったことを「今日はこんなことやりました」と記録に残すけれど、その記録に残したものは、支援者のやったことの記録に過ぎないということ。受けてきた支援が子どもの中に自立の助けとなり、根付くという意味で記録となっているか、ということ、等々。

改めて、これまでの支援が向き合っていたものが、人ではなく、制度を活用し、対価を生み出すシステムとしての側面が強かったのではないか、と私は思いました。

だから、支援のシステムを利用して、世の中を自由に生き抜いているつもりだったのが、「不要不急以外は自粛」と言われ、まさか、自分の日常が崩れて行くなんて!とパニックに陥らないように、南雲さんが何度も繰り返された「自分の頭で考える」ことが本当に大切なのですね。

そうは言っても、今後も「支援」というシステムはなくはならないでしょう。

でも、これまでのように「家族の息抜き」としてやお手頃に利用できるレクレーションとしての支援では、成り立たないと思います。

これからの支援は、南雲さんのお話にあったように将来的には外す前提で、子どもたちは、失敗してもチャレンジを繰り返し、試行錯誤も子ども自身がしていくことが大切なのではないでしょうか。

もちろん、障害の重さによっては、支援を外すことは難しいかもしれません。

それでも、子ども自身の「どう生きるか」「どう生きたいか」を重視して個々人が自分の歩む道を選べる支援であって欲しいものです。

ところで、昨日のお話に通じることを以前、浅見さんと南雲さんがお話されています。ここも多くの方々に読んでいただきたいので紹介しますね。


さて、今回、お二人のお話を聞きながら、たとえ、それ良心に起点していた支援だとしても、他者に日常を預けることで得る安定が、実はとても不安定なことを感じました。

そして、先の見通しが立たない世の中と言われ、明日のスケジュールは変更があっても、子どもの育ちのみちすじには、変更はありません。

周りの大人は、南雲さんの言われたように自分の頭で考えて、しっかりと子どもの育ちに向き合いながら、楽しく共に主体性を育んでいくことが、新型コロナ後の社会で生き抜く土台になっていくのではないかなぁと思いました。

そして、最後にご紹介です。
5月31日 栗本さんの本講演があります。
テーマは「感覚過敏、治るが勝ち」です。


感覚過敏、邪魔になりませんか?
支援を外し、己の主体性を存分に発揮しましょう。

楽しみな講演会です。








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プレ講演会 南雲さん編 その1

2020-05-23 16:39:00 | 発達応援
実は、実は、ちぃも聞いてた⁉︎(講演会終了後撮影)


浅見さんのお話後、今度は南雲さんのお話です。

浅見さんのブログで前もってレジュメも発表してくださっていました。


テーマは、「支援を整理する時代へ〜生き抜くための作戦会議〜」です。

これまでお子さんやご家族に対して、「こんなことやろうね」とか「親御さんは息抜きも必要ですよ」と行われてきた支援。

内容はもちろんそれだけではないでしょうが、それらは本当に必要な支援だったのか、本当に子どもの発達を支えていくために必要なことは何か。

南雲さんがタブーを打ち破って淡々とした表情で、しかし熱く語ってくださったのがとても印象的な講演でした。

内容で最も印象的だったのは、南雲さん自身は、いわゆる今、「発達支援」と言われるようなものを受けてこなかったこと。その代わり自分の頭で考えて、色々な局面でどうやって起き上がるか、懸命だったということでした。

そして、そういうことを自分一人きりの力で乗り越えたのではなく、家族の応援、家族の力もあって乗り越えてきたということ。

これを聞きながら、やはり治っていく過程でご家族の存在が大きかった藤家寛子さんのことを思い出さずにはいられませんでした。

発達障害を治していくことや支援を整理していく過程において「家族の力が大きい」というのは、大切なことであり、もっと言えば真実だと思います。

これを言うと「それができない家もある」とか「それはお家の人に力があるからだ」「結局、家族内への押し付けだ」との反発もあり、まるで無策のような扱いを受けるリスクがあるであろう中、よくぞ言ってくださったとオンラインのこちら側で、私は目が潤み、胸が熱くなりました。

極端な例ですがその昔、日常の中で暮らすことが困難な人を「私宅監置」した時代があったり、障害児が教育を「免除」「猶予」という名の元に学校から排除されていた時代もありました。

今がその時代と変わらなければ、発達障害の傾向があったり、表立ってわかる障害があれば、家族という小さな集団に全てを担わせて、全責任を個人に押し付けていたことでしょう。

でも、今は、そんなことは全くなく、体の機能改善・獲得のために通える療育施設があり、学校も行かない選択肢はなく、「就学相談」というステップはあるが、選ぶことができるのです。

どちらかというと、体の機能獲得〜言葉・認知面の育み〜ちょっとしたレクレーションまで全て外部委託できるくらいに、支援は公のものから民間のものまで充実しています。

そうやって、育てにくさを持つお子さんの育ちについて、外部発注できる今だからこそ、もう一度、「家族」という単位で子どもを育てていく大切さを見つめて欲しいという思いを南雲さんのお話から感じました。

そんな中、南雲さんが言われた「子どもは支援されるよりしたい」というのは、子どもに限らず人間の本質のように思うのです。

その本質を発揮するには、南雲さんが言われたように「アセスメント」や「支援」は不要だと思います。お家の中で、その子にできることを存分にやってもらって、「ありがとう」や「助かった!」の言葉のやり取りで子ども自身が自分のできたことを喜ぶ環境が、遠回りのようでも子どもの自立の土台を育てていくのだなぁと思うことでした。

               つづく



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