左折すると目の前に大芝大橋が見えました。大芝大橋は、進入路の道路橋をのぞき、主径間(2本の主塔の間)210mで、主塔の両側の橋の部分を合わせて全長470m、道路の幅5mの斜張橋です。
(目の前に大芝大橋が)
島旅では、最近、橋を歩いて渡ることが仕来りのようになっていて、今回も歩くことにしました。橋のたもとで下車しました。そこから見える海は、黒地瀬戸といわれると案内板に書かれていました。その内容は、「この地、池ケ原は有数の風光明媚なところです。この黒地瀬戸は、三津湾と三津口湾との通り道でもあり、遺新羅使もここを航行したと思われます。正式な名称はありませんでしたが、昔から良い漁場として知られ、漁業関係者が黒地の瀬戸と呼んでいたので命名されたものです。なお、地元の小松原地区は船舶関係者も多かったので、この地を戸待(とまち)と呼んで、船の出入り、特に帰りを家族が待つ場所としても利用していたようです。したがってここを戸待の瀬戸とも云います。」と書かれていました。
(黒地瀬戸)
その横には、この橋の開通記念碑もありました。
(この橋の開通記念碑)
歩き始めました。
(大芝大橋)
橋の名前が書かれたところは、記念碑と同じ形をしていました。
(橋の名前が書かれたところ)
皆さん、のんびりと橋を歩いて、渡りました。400m程なので、そんなに時間はかかりませんでした。
(のんびりと橋を歩いて、渡る)
(写真撮影:2011.06)
(目の前に大芝大橋が)
島旅では、最近、橋を歩いて渡ることが仕来りのようになっていて、今回も歩くことにしました。橋のたもとで下車しました。そこから見える海は、黒地瀬戸といわれると案内板に書かれていました。その内容は、「この地、池ケ原は有数の風光明媚なところです。この黒地瀬戸は、三津湾と三津口湾との通り道でもあり、遺新羅使もここを航行したと思われます。正式な名称はありませんでしたが、昔から良い漁場として知られ、漁業関係者が黒地の瀬戸と呼んでいたので命名されたものです。なお、地元の小松原地区は船舶関係者も多かったので、この地を戸待(とまち)と呼んで、船の出入り、特に帰りを家族が待つ場所としても利用していたようです。したがってここを戸待の瀬戸とも云います。」と書かれていました。
(黒地瀬戸)
その横には、この橋の開通記念碑もありました。
(この橋の開通記念碑)
歩き始めました。
(大芝大橋)
橋の名前が書かれたところは、記念碑と同じ形をしていました。
(橋の名前が書かれたところ)
皆さん、のんびりと橋を歩いて、渡りました。400m程なので、そんなに時間はかかりませんでした。
(のんびりと橋を歩いて、渡る)
(写真撮影:2011.06)