昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

陸から海からしまなみ・とびしま海道の隠れた秘島探し!瀬戸内海穴埋め16島めぐり 1回目

2011-08-21 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
今回は、2011.6.10~6.13まで「しまなみ海道、とびしま海道どちらも行ったことがある方々でも楽しめる!まだ知らない魅力が詰まった島々をご案内。今回は、4日間でチャーター船を駆使し、なかなか行けない16島を巡ります。」と書かれたパンフレットに魅かれて、参加しました。この中では、6島に渡島したことがありました。最終的には、18島に渡島しました。今日から、これらの島々のことを投稿します。では、いつものように、その島々のことを書いてみます。

大芝島 安芸津町の南西部、海峡400mを隔てて瀬戸内海にある島。標高は109mで、山頂付近は比較的なだらかだが、海岸に近づくにつれて急傾斜となっている。主産業は農業で、ミカン、ビワなどの果樹が栽培されている。近年新農業構造改善事業で造成されたハウス団地では、ハウスビワ・ハウスミカンが栽培され、ハウスビワは全国でも珍しく市場で非常に高い評価を得ている。また、平成9年10月、延長470mのPC傾斜橋「大芝大橋」が開通した。

(大崎上島) 瀬戸内海中央、芸予諸島に浮かぶ島。南は愛媛県大三島、岡村島に海上1kmで面し、北は竹原市、安芸津町に海上10kmで面している。広島県本土側とは、竹原港・安芸津港と高速船・フェリーで結ばれており、大崎下島や大三島・今治との便もある。気候は瀬戸内海独特の温暖少雨な気候で、降雪・降霜日数も少ない。古来、瀬戸内製塩集落として栄え、安芸国大崎荘として諸家の所領となった。また、上方と九州地方を結ぶ航路の潮待ち港として著しい発展を遂げ、海運業のにぎわいとあわせて文禄年間(1592~96)頃から造船業が栄えた。現在の主産業は柑橘栽培を中心とする農業と造船業である。昭和の大合併以降、大崎町・東野町・木江町の3町が存在していたが、広島県の「平成の新設合併第1号」として平成15年4月1日に大崎上島町が誕生した。

長島 大崎上島向山地区の北西約400mに位置し、大崎上島との間は昭和62年完成した長島大橋で結ばれている。横穴式石室をもつ板摺古墳が残っている。もともと長島と女島とに分かれていたが、18世紀半ばに両島間に塩田がつくられ、ひとつの島になった。島の南部に建設が進められていた中国電力の石炭火力発電所が完成し、平成12年11月から営業運転を開始している。橋を渡った所に海釣り公園が整備され、訪れる人が増えている。いまはミカンの栽培を中心とした農業が主産業で、島外からの通勤耕作者も多い。

(大崎下島) 豊町地区 広島県竹原市の南20kmの瀬戸内海中央部に位置する。標高449mの一峰寺山を中心に、地形は急峻だが、その急な斜面を徹底してミカン畑とし、名高い大長ミカンの地位を手にした。御手洗地区は江戸時代から近代にかけて有数の商港として栄え、平成6年7月、歴史的に重要な街並みを保存する伝統的建造物保存地区に選定された2市10町村に及ぶミカン出作地があり、類まれな栽培努力によって全山ミカン畑となった景観を見るとき、“大長ミカン帝国”の繁栄を目の当たりにできるはずだ。

中ノ島 大崎下島・大長の北約0.7kmにある無人島。北西約0.2kmには愛媛県の岡村島がある。面積0.18km2・標高91m。ミカン畑があり、出耕作が営まれている。岡村島との間に岡村大橋が架橋されている。また西隣にある平羅島とも平成10年度に架橋され、広島県大崎下島と岡村島が陸続きとなった。

平羅島 大崎下島・大長の北西約0.9kmにある無人島。面積0.15km2・標高77m。ミカン畑があり、出耕作が営まれている。西約0.2kmにある中ノ島とを結ぶ中ノ瀬戸大橋が平成10年度完成。

(津島) 大島の吉海港から海上4kmにある果実の島。古くは門島と呼ばれていた。元亀・天正年間(1570~92)、河野水軍の武将・田房隼人正の城が築かれていた。以後、大三島や大島などから諸氏が入れかわり来住、開拓が進んだ。明治半ばに栽培が始まったイチジクをはじめ、柑橘類・ビワなど温暖な気候と潮風に育まれた果実が大好評。とくにイチシセクは「津島いちじく」のブランドで市場では高値で取引されている。かつては海運で栄えたこの島も、今治市内に事務所を移す船主が多く、今では瀬戸内の楽園として50人ほどが和やかに生活を営んでいる。そのうち44人は65歳以上だ。古くから殺生を嫌い、水産業に携わらなかった島のひとつでもある。来島海峡の北の入口にあたるため、昭和39年に潮流信号所が建設された。

(豊島) 呉市仁方港から高速船で25分、大崎下島と上蒲刈島の間にある。標高317mの高雄山を中心に、おわんを伏せたような形の島。平成4年11月、豊浜大橋の完成で大崎下島と陸続きになった。島の東側に集落が集まり、西側の比較的なだらかな斜面を中心にミカン畑が広がる。また県下でも屈指の漁業の島として有名で、周辺海域が狭いため、約70%が県外へ出漁していたが、高齢化や後継者などにより現在は近海漁業が主流となっている。近海で捕れるタイの味は格別で、太陽をいっぱいに浴びたミカンの味と香りもこれまた極上もの。

岡村島 愛媛県最北西端、芸予諸島のほぼ中央に位置する島。今治から17km、広島から37kmの距離にある。古くから斎灘の交通の要衝にあたり、古くは平安時代から空海や菅原道真などが立ち寄っている。戦国期には村上水軍の城砦が築かれていた。江戸時代中期には隣島大崎下島の御手洗港とともに潮待ち港として栄え、天文5年(1740)には島南端の観音崎に灯明台が置かれている。明治の中ごろから柑橘栽培が始まり、大正期にはミカンの島として名を知られるようになった。その後も「ミカンと魚の島」として発展をつづけ、ミカン狩り、ハイキングと四季のレクリエーションに最適な瀬戸内海国立公園の景勝地となっている。近年、「蝶の島」として蝶のサンクチュアリをつくろうという動きもある。

小大下島(こおげしま) 関前諸島の中央に位置し、西は岡村島、東は大下島と接する。明治初期に本格的な石灰岩採掘が始まるまでは無人島で、岡村島と大下島の入会地だった。現在でも島の山林の西半分は岡村分、東半分は大下分となっている。島中央にある凹部の沼は採掘の跡地である。第一次大戦を契機に、日本セメント、アサノセメント、住友鉱山など大手企業の鉱業所が立地し、昭和30年ころまではたいへんな活況を呈していた。同年の国勢調査で人口665人を数えている。その後、採掘可能量の減少とともに鉱業所も閉鎖された。山神社は鉱山の安全と繁栄を祈願して建てられたもので、毎年6月3日前後に祭りが催される。土壌がミカン栽培に適しており、小規模ながら柑橘類が栽培されている。

大下島(おげしま) 関前諸島の東端に位置し、西は小大下島、東は越智諸島の大三島と接している。全島花崗岩におおわれ、中央部のわずかな平地に家屋が密集する。主産業は農業で柑橘類を出荷する。浄土真宗のため殺生を嫌い、以前から漁業はしていない。旧暦の1月11日には、早津佐神社境内で弓祈禱神事が催される。島名は、早津佐神社の祭神・大気都比売命に因むという。急流の関前灘を控え、また来島海峡の西の入口にあたることから、明治27年に大下灯台が建設された。来島海峡付近の灯台として歴史が古く、ファンにとっては興味ある灯台のひとつだ。

斎島(いつきしま) 豊島から定期船で25分の海上、愛媛県との県境に位置している。古くから神霊の宿る神の島として、往来する船人や近隣の人々の信仰を集め、斎内親王から幣帛料を賜っていたという故事から斎島と名づけられたという説がある。寛文年間(1661~73)豊島から移住者があり、庄屋も置かれた。江戸時代末期には80石積以下の船を30隻を数えている。明治22年までは斎島村として独立していた。昭和初期には船員を多く輩出し、戦後の昭和25年には人口385人を数えていたこともある。現在は漁業を中心とした静かな島となっている。島の近くには、イカナゴを捕食するアビ鳥の習性を利用した「アビ漁」の好漁場があり、国の天然記念物に指定されている。

三角島(みかどじま) 大崎下島久比地区の北西500mに位置する。西端部の5分の1ほどは豊浜町域になっている。集落は島の南面の豊町域にのみある。宝徳3年(1451)の「小早川文書」によれば、かつては見賀多島と表記されている。周辺海域はタイなどの好漁場だが、漁をするための浦として発展してきたのではなく農耕地として入植したものらしい。15世紀以前の島建てで、もともとは大崎下島立花地区(豊浜町)の人々が土地の多くを所有した。ミカンと造船業の島だが近年は造船不況によってミカンの島にもどりつつある。

生野島 瀬戸内海に浮かぶ島々のほぼ中央、大崎上島の北400mの海上にあり、島全体が自然休養村に指定されている。島内からは、縄文・弥生時代の磨製石斧や土器、横穴式石室などが発見されており、2,000年前にはすでに人が住居していたという。江戸時代には芸州藩の放牧地とされ、馬島とよばれていた。また歌人の種田山頭火もこの島を訪れている。昭和21年に戦後の緊急開拓地の指定を受けて121戸が入植し柑橘栽培が普及した。自然休養村の管理センターには研修設備と食堂があり、町営キャビンビレッジは10棟(5人用8棟、10人用2棟)ある。

契島 竹原市の南約4kmの瀬戸内海にある小島。島全体が東邦亜鉛(株)契島製錬所の所有地となっている。明治32年に銅の製錬所が建設され、昭和10年には硫酸工場も造られた。戦後は昭和25年に東邦亜鉛によって鉛精錬工場として再出発している。製錬所の建設後、南北2つに分かれていた島を、それぞれの山を崩して1つの島につないだといわれている。島名の由来も2島にちぎられたように見えたからという説がある。現在、北部と南部が居住区で中央には工場が建っている。このため、居住できる人は会社関係者のみで、部外者の立ち入りは会社の許可が必要。夜、島を遠くから眺めると軍艦が浮かんでいるように見え、別名「軍艦島」とも呼ばれている。第2次世界大戦には空爆を受けたこともある。現在、この製錬所の鉛の生産量は東洋一を誇っている。

大久野島 広島県瀬戸内沿岸のほぼ中央に位置する忠海町の沖合い2.3kmにある島。多島海景観や瀬戸の展望が優れている。古くから内海航路の要衝であったことから、日清戦争後の明治33年、忠海に芸予要塞司令部が設けられ、同年大久野島に砲台が構築されている。芸予要塞は大正13年に廃止されたが、昭和4年には、旧陸軍の毒ガス製造工場が設置され、現在国際法で禁止されているイリペットガスなどの化学兵器が製造されていたという歴史を持つ。昭和38年に島全体が国民休暇村となって以来、総合レクリエーション施設として生まれ変わり、年間10万人を超える人々が訪れる楽しい島になった。同63年には、世界初の「毒ガス資料館」が建設され、平和学習の場として利用され、国内はもとより国際的にも注目されている。また、環境共生・平和学習・レクリエーション利用が融合したエコアイランドとして整備が進んでおり、その拠点設置として平成15年4月にビジターセンターが完成した。

(細島) 因島の北西約1kmの海上にある島。因島市に属する。全島が30m前後の低い丘陵で、集落は島の南部の因島側に面している。島の産業はもっぱら農業で、ミカン、スイカ、キヌサヤエンドウなどを生産している。島内からは古代の製塩遺跡が発見されている。6世紀頃蘇我氏によって細部(水先案内人)が置かれ、これが島の由来といわれる。中世には三原の小島摂津守祐直の所領だったが、天文23年(1554)沼田川河口の大島城落城後は小早川領となった。永禄10年(1567)に因島村上氏に与えられ、江戸時代は広島藩領だった。

(佐木島) 三原市の南約3kmの瀬戸内海にある島。標高267mの大平山が最高点で、山麓にはミカン畑が広がっている。また、温暖な気候を利用してスイカ、メロンなどが栽培されている。島の周囲は、変化に富み、釣りや潮干狩りに適している。以前は殺生を嫌い、漁師のいない島として知られた。平成2年から始まった「トライアスロンさぎしま大会」は島の人たちがボランティアとなって運営を支える手づくり大会で、島の側から活性化を図ろうとする試みのひとつとして注目されている。

小佐木島
三原市の南3kmに浮かぶ佐木島の北0.3kmに位置する島。標高75.9mが最高点で、山麓にはミカン畑が広がる。島内からは古代の製塩土器が出土している。宝暦7年(1757)山守1戸の記録がある。大正5年、糸崎ドックの造船所が立地し、当時アプト式では東洋一の規模を誇ったという船台などが設けられたが、同10年閉鎖された。また、昭和の初期にかけて数軒の造船所があり、漁船や農船の建造でにぎわいをみせた。昭和19年、島の北岸一帯に陸軍兵器廠の燃料貯蔵庫が置かれ、島に初めて電気が導入された。戦後、昭和30年代には人口140人を数え、海水浴場も開かれていたことがある。天然の海岸など自然が多く残されていることから、自然観察や環境学習の好適地でもある。

(岩子島) 幅100~200mの御幸瀬戸をはさんで向島の西隣にある島で、昭和43年に向島大橋が架けられ向島と陸続きになった。温暖な気候と適度な傾斜地を利用してたいへんおいしい果樹が栽培されていたが、価格の暴落などによって果樹産業は衰退した。しかし、現在では、全国一のワケギ産地として有名で、豊かな自然と農業を守っている小さな暖かみのある島になっている。昭和29年に合併し、御調郡向島町の一部になっている。

(  )付きの島は、以前に渡島していましたので、新しくは、10島の渡島で、無人島が2島でした。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から