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授業でいえない日本史 32話 近代 日清戦争後の内閣~立憲政友会の成立、明治の社会問題

2020-08-26 11:00:00 | 旧日本史4 近代
【日清戦争後の内閣】
【松方正義内閣②】
(1896.9~98.1)
日清戦争後の内閣は、伊藤が長州だった。今度はまた薩摩の松方正義です。ずっと薩摩と長州のたらい回しです。
下関条約の翌年の1896年に、松方正義が内閣総理大臣になる。内閣を組織したら、国会があるから、国会議員に賛成してもらわないといけない。伊藤が自由党と手を組んだら、この松方は立憲改進党あらため進歩党と手を組む。もともと何か、立憲改進党です。こうやって名前が変わっていくんですよ。党首は大隈重信です。佐賀の大隈と手を組む。だから松方と大隈の字を取って松隈(しょうわい)内閣とも言う。大隈はそれまで政府を批判する側だったけれども、政府側に入って外務大臣のポストを得た。

ただこの松方正義は、外交というより、専門は実はお金なんです。以前は、大隈重信が大蔵卿の時代にその大蔵省の官僚として活動していた人です。それが1877年にヨーロッパに金融制度を調査に行ったことをきっかけに急速に出世していきます。1881年の明治十四年の政変で、大隈に代わって大蔵卿の座について以来、この時まで、日本の大蔵大臣のポストにはほぼこの人が独占しています。1882年に大蔵卿として日本銀行を作ります。

そしてこの時も自ら大蔵大臣を兼任し、1897年に西洋流の金本位制を確立します。この資金源になったのは日清戦争の賠償金です。この内閣の目玉は、初めからこれだったような気がします。

この松方がやった日本銀行設立と金本位制度確立は、目立ちませんが、かなりお金のかかることです。アメリカの金本位制度の確立はそれより3年遅い1900年ですし、中央銀行設立はさらに遅い1913年です。しかもこれには賛否両論あり、とくにイギリスを中心とする外国の金融家たちの利害が大きくからんできます。
日清戦争でお金を使い果たして日本政府にはお金がない。それにもかかわらず、松方正義は、1897年に無けなしの金を金本位制のために使ったのです。日清戦争の賠償金が手に入ったのをこれ幸いに、一気にやった感じです。

その結果、次の伊藤博文内閣は、増税しようとして、これがなかなか議会を通らず苦しみます。松方正義がなぜ西欧流の金融制度である中央銀行制度や金本位制にこれほどこだわったのか、不思議な感じがします。日本の財政事情はそれを許す状況にはなかったのです。




【伊藤博文内閣③】(1898.1~98.6)
次に伊藤がまた、オレがやる、という。1898.1月です。第三次伊藤博文内閣です。また長州です。伊藤は、お金が足りない、税金を増やさないといけない、と言う。地租増徴です。日本人の8割以上は農民ですから、地租です。なぜ税金を増やさないといけないか。日清戦争でお金を使い果たして政府にはお金がないからです。

今までイギリスびいきだった伊藤は、このころから微妙に動きが変化します。時代はますますイギリス寄りになって、1902年の日英同盟、1904年の日露戦争へと向かって動き始めますが、伊藤はイギリスとの接近を避け、ロシアとの接近を模索し始めます。そしてロシアとの戦争を回避しようとします。このような伊藤の変化がどこから来るのか、それは分かりませんが、日清戦争後は今までの伊藤博文の動きとは、かなり違ってきます。

税金取ることには民党は反対する。法案はとおさない。税金を取るといっても、法治国家は。8%、10%にするというのは、法律を決めないといけない。今の消費税でもそうです。しかし国会はこれを否決する。そうすると増税法案が通らずに、政府は暗礁に乗り上げる。

すると政府の増税案を否決した二つの民党同士が仲良くなる。二つの政党とは、自由党進歩党です。そこで、政府と対決するためには、二つに分かれているより一つにまとまったほうがいいぞと、この二つの政党が合体します。この合体した政党を憲政党といいます。
政党系図の1898年のところが憲政党です。この代表に大隈重信が就任します。
すると伊藤は大隈に言うんです。大隈さんよ、おまえヤル気か、それならやってもらおうじゃないか、オレは退くよ、と言う。

(政党系図)





【大隈重信内閣】(1898.6~98.11)
これで、憲政党の党首として、大隈重信が総理大臣になります。1898.6月です。この時、大隈重信は、国会の過半数を占める憲政党の党首として、総理大臣になったんです。そしてそれを天皇が認めたのです。
つまり今の政治のスタイルと同じです。いまも自民党が過半数をとる最大政党だから、その自民党の総裁が日本の総理大臣になってます。
これが日本初の政党内閣です。その日本初の政党内閣の総理大臣に大隈重信が就任したということです。今でいえば自民党にあたるのが、この憲政党です。首相に進歩党の大隈重信、内務大臣に自由党の板垣退助がなる。だから隈板(わいはん)内閣ともいいます。

ここで初めて、内閣総理大臣が、長州、薩摩、長州、薩摩と続いていたものが途切れた。肥前の大隈重信が首相になった。薩摩・長州以外の初の総理大臣が、初の政党内閣の総理大臣だということです。そしてナンバーツーの内務大臣には、土佐の板垣退助がなった。見方を変えれば、今までの薩摩・長州政府に対して、土佐・肥前政府が成立したようにも見えます。

ここで政党政治が始まろうとした。しかしこれはうまくいかなかった。伊藤は、やれるもんならやってみろ、やれるものか、と思っている。
もともと仲の悪かった自由党と立憲改進党(ここでは進歩党)という2つの政党が合体したわけです。
ここで尾崎行雄という人が、国会演説でいらないことを言うんです。これは共和演説といいますが、これで揚げ足をとられて、合体した政党がまたすぐ二つに分裂する。それで終わりです。1年もたない。半年ももたずに1898.11月に崩壊する。

二つに分裂した政党はまた名前が変わります。名前は自由党と言わななくなります。自由党は先に憲政党と名乗る。名前は早い者勝ちです。憲政党がつぶれた。それでオレたちは別の政党をつくった。名前は憲政党です。
大隈の進歩党系は、やられた、と思う。そこで、俺たちが本物だと、憲政本党と名乗る。でも本家は本家といわないのです。本家は黙っていても本家なんです。これからは、憲政党が一番、憲政本党が二番の政党になっていく。政党系図では、左が憲政党、右が憲政本党です。そういうふうに半年でつぶれた。




【山県有朋内閣②】(1898.11~1900.10)
次に出てくるのが、こういった時がちょっと恐い。反動が来るんです。軍部が出てくる。もう一人の隠れた人物、もと総理大臣で軍部のドンです。また長州です。山県有朋です。1898.11月第二次山県有朋内閣が成立します。


【中国の状況】 
ここで中国に目を向けると、この人がやったわけではないけれども、日本に負けた中国のその後です。中国は眠れる獅子と言われていたけれども、ぜんぜん強くないぞと、実体をさらしたんです。そしたらヨーロッパ列強は容赦ないです。早い者勝ちで、あっという間に虫食い状態になる。


(列強の中国分割)


イギリスの勢力圏です。イギリスが緑の部分をほぼ勢力圏に納める。長江流域です。その長江の下流に南京があり、河口付近に中国最大の都市上海があります。ここにはイギリスの租界があり、中国の権力が及ばない一画がつくられます。イギリスの中国進出の拠点になります。10数年後の辛亥革命の発端になるのは、ほとんどはこの地域からです。のちの革命指導者になる孫文蒋介石も、この上海の財閥と非常に深い関係にあります。

あと重要なところは香港です。香港は島です。向かいに半島がある。これを九龍半島という。今ここまでふくめて香港だといっている。イギリスは九龍半島をとる。九龍半島は香港です。やっと中国に返したのは100年後、平成になってからの1997年です。
香港の隣にマカオがある。これ昔からポルトガル領です。香港・マカオの旅、とかよく言いますが、今から20年までは植民地だった。東洋最大のマカオ、ここに何があるか。あまり行かないほうがいいけど、カジノです。賭博場です。多分ここは濁った金が、ロンダリングしないと行けないような金が、いっぱい動いているところです。

それから、ロシアは北から北京付近まで降りて来ています。
フランスはこっち、ベトナムの方です。南から来ます。
弱かったら虫食い状態にされる。これが19世紀ですね。このあと2回も世界大戦するまでわからない。2回で終わらないかも知れないという話もあります。

それから、もう一つ。これに出遅れたのが、アメリカです。アメリカもホントは中国が欲しい。欲しいんだけれども、出遅れたから、何と言うか。門戸を開放しましょう、みんなに平等に、という。これを門戸開放宣言といいます。でもこれは、自分が欲しいからです。アメリカは満州も狙っています。それでこのあと、アメリカは日本と戦うようになる。中国をめぐってです。前に言ったように、このためにハワイを取って、グァムを取って、フィリピンを取って、ホントは中国に行きたいのです。ただ出遅れています。
こういう状態になると、中国の民衆は、腹を立てるときにはすごいんですよね。暴動が起こっていく。


【変法自強運動】 政府側も、これはいかんということで、近代化政策に乗り出します。これを変法自強運動という。変法というと、変なことではなく、大まじめで近代化のことです。これをしようとしたのは康有為という人ですが、うまくいかなかった。それは皇帝が悪かったんじゃない。皇帝の側室です。正室の東太后と側室の西太后がいて、そのうち西太后は役人の娘です。しかも美人です。でも政界に入ると、政敵を次々に殺していきます。西太后は、正室の東太合を押さえてのし上がり、皇帝の実母として皇帝を尻に敷いていく。そして自分の甥っ子の皇帝まで廃位する女傑です。この西太后が変法自強運動に反対して、失敗していく。

ただこのとき中国人のなかでちょっと頭がいい人たちは、東洋で近代化に成功しているのは日本だから、日本に行って勉強しないといけない、と思っている人がかなりいます。だから日本に多くの中国人がやって来ます。東京にも。のち清朝を倒すことになる孫文も、東京で活動しています。


【義和団事件】 そこで中国政府がゴタゴタしているウチに、中国民衆は、自分の国が外国の餌食になっている状況に腹を建てて、反乱が起こします。これが1899年義和団事件です。
これには白蓮教という宗教が絡んでいます。白蓮教というのは、中国の伝統宗教の一つですが、義和団が何を唱えたか。清を支えようじゃないか、外国が中国を食い物にしている、そういう悪い西洋を滅ぼそう。これが「扶清滅洋」です。日本でいうと、尊王攘夷みたいな感じです。外国人を打ち払おう、と。
そして実際に、外国公使館を打ち払っていく。日本でも若いころの伊藤博文はこういうことをしていましたね。しかし外国の公使館を襲うことは、立派な戦争理由になります。
中国での暴動は、石投げたり、暴動起こしたり、今でもニュースで流れています。中国人が暴動を起こす時は今も過激です。でもこうなると、公使館保護の名目で出兵できる。

この時代はまだ飛行機がないから、ヨーロッパからは数ヶ月かかる。でも日本からだったら1週間で行ける。さらにイギリスはこの時、南アフリカ戦争で忙しく、兵力が足りません。そこでイギリス首相のソールズベリは日本に出兵を要請します。首相の山県有朋は、これを受けて1900.6月に中国への出兵を決定し、義和団事件の鎮圧に中心的な役割を果たします。その結果、日本は「極東の憲兵」と呼ばれるようになります。この時の山県内閣の陸軍大臣がのちの首相になる桂太郎です。これが1900.6月北清事変です。

◆ 日本政府はイギリス政府からの積極的な要請もあり、各国と打ち合わせて、その賛成もえたので、7月初旬ようやく一個師団の出兵を決定した。(日本の歴史22 大日本帝国の試煉 隅谷三喜男 中公文庫 P228)

◆ ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した。また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている。7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したのであった。 第2次山縣内閣はこの要請を受けて1900年7月6日に増派を決め、7月18日に大沽に上陸し、7月21日は天津に達した。 (ウィキペディア 義和団の乱)

もう1900年代、20世紀になりました。これにまっ先に駆けつけて、暴動を鎮圧する中心になったのが日本ですが、日本と同じく大軍を派遣し、満州を占領したのがロシアです。そしてロシアはこのあとも満州を占領し続けます。イギリスによる日本への出兵要請は、このロシアの動きを押さえ込む意図もあったのです。このことがのちの1904年の日露戦争につながります。

しかし伊藤博文はこれは危険なことだと思っています。今までイギリスびいきの伊藤でしたが、このあたりから急に動きが変わっていきます。伊藤はイギリスとの距離を取り始めます。伊藤の政治活動の中でこの変化は非常に大きなことです。

しかしそれは自分の政治的な力を低下させることにつながります。自分の政治力の源泉であるイギリスに代わって、それを民党の支持に求めていきます。
伊藤はここから急に民党、とくに憲政党に接近していきます。日清戦争の時も、当時首相だった伊藤博文は、憲政党の前身であった自由党と協力しています。

それと同時にロシアに接近して、ロシアとの戦争回避に努めるようになります。イギリスに同調する日英同盟論に対して、伊藤のこの主張は日露協商論と呼ばれます。


【治安警察法】 では山県内閣の内政です。1900年、山県有朋内閣は、治安警察法をつくる。戦争に向かうかも知れないときに、何が給料上げろだ、休みをくれだ、労働運動だ、バカヤローと、そんなものは抑制していく。労働運動の抑制です。
これは不法な運動の取り締まりだからまだ序の口です。これが昭和になると、頭の中で考えたことさえ罪に問われることになる。こうなると最悪です。


【軍部大臣現役武官制】 それから軍政面では軍部大臣現役武官制が制定される。
これは説明が必要です。日本には陸軍大臣、海軍大臣があります。今の防衛大臣です。これには軍人がならないといけない。それでいいじゃないか、思うかも知れない。しかし軍部に対して、内閣総理大臣は命令権がもともとない。これが統帥権の独立だった。


では軍部が内閣と仲が悪い場合、どうなるか。軍人に、陸軍大臣になってくれ、と言っても、イヤだ、という。では他の者に頼もうとすると、おまえたち、分かっているだろうな、と軍部のドンが言う。そうなると誰もなり手がない。軍部にはそういうことができる。そしたら内閣総理大臣は組閣できない能なしになる。内閣さえ作れない。すると能力のない人間は、やめないといけない。内閣総理大臣を辞めることになる。どういうことか。内閣より軍部が上になるのです。そういう危険性をはらむ制度です。
これがズルいのは、本文の下の但し書きに、軍部大臣現役武官制を書くのです。陸海軍大臣は現役の武官に限る、と小さく書いてある。武官というのは軍人のことです。


【立憲政友会の成立】 それに対して政党側はどういう動きをしたかというと、分裂した後の旧自由党、つまり憲政党です。政党系図の左側です。山県内閣批判にだんだんと傾いていく。同じ長州人だけれども、山県に比べたらまだ伊藤がいいぞ、と伊藤博文に接近していきます。自由党党首だった板垣退助は力を失っています。それで伊藤博文に、オレたちのリーダーになってください、と頼む。伊藤は今まで政府の重鎮で、民党とは対立していた側の人です。民党にとっては、伊藤は政府の人間です。その伊藤に、リーダーになってください、と頼む。すると伊藤も、分かった、という。

こうやって伊藤博文が憲政党の総裁になる。総裁になった瞬間にこの政党は、憲政党は名前を変えます。これが1900.9月立憲政友会の成立です。この政党がこのあとの日本の敗戦まで、約45年続きます。立憲政友会は、もとはといえば自由党です。


この伊藤博文と立憲政友会の結びつきが、どういう合意のもとで行われたのかは分かりません。伊藤博文の日露協商論は、4年後におこる日露戦争に反対するものです。民党は、1890年の第一帝国議会の時には、軍事費の増大に対して「民力休養・経費節減」を唱えて反対しています。そういう意味では、この時には、目の前に迫りつつある日露戦争に対して、ともに反対の立場です。
しかしこのことの意味はもっと先を考える必要があります。日露戦争に反対の立場をとることは、将来的にイギリスに対して同調しないことを意味します。
伊藤博文がイギリスの政策に何を感じ取ったのか。今までイギリスびいきだった伊藤博文が、なぜここで急にイギリスから離れようとしたのか、私は寡聞にしてよく知りません。しかしこのことの意味はとても大きなものです。伊藤博文はここで、自分がつくってきたイギリス寄りのルールを、自ら壊す方向に行ったのです。そしてその伊藤の考えに、立憲政友会が同調したのです。

自由党が憲政党となり、憲政党が山県批判に大きく動いて、トップに山県に対抗できる藩閥政治家を持ってこようとした。そのトップが伊藤博文です。そして立憲政友会として生まれ変わった。そこで伊藤博文は、右から左に180度変わるんですよ。政府批判側の政党の党首になる。同時に憲政党は名前を変えて、立憲政友会となる。そしてその総裁に伊藤博文がおさまる。
政党系図の1900年の政党が立憲政友会です。そしてこの立憲政友会を母体にして、山県内閣を打倒していく。


これに対して大隈重信の憲政本党(もと立憲改進党)は、結成当時からずっとイギリス寄りです。大隈がつくった日本初の政党内閣も、イギリスの議院内閣制をまねたものです。伊藤博文はこの大隈の憲政本党とは手を組まなかった。それは伊藤と大隈との個人的な対立というより、大きな政治方針の違いを見て取ることができます。
このイギリスに対する方針の違いは、このあと日本に原爆が落ちるまで、言葉を変え、形を変えながら、ずっと続くことになります。大きな目で見れば、現在の自由民主党内の派閥にまで続いていると見ることができます。




【伊藤博文内閣④】(1900.10~01.5)
山県内閣を立憲政友会の力によって倒したから、その党首が、次の内閣総理大臣になる。これが伊藤博文です。1900.10月第四次伊藤博文内閣の成立です。この時の与党は立憲政友会です。



【北京議定書】 1900.6月の北清事変以降、日本軍が中心になって義和団事件は鎮圧されますが、ロシアの満州占領は続きます。そのなかで清との交渉が進みます。清は、ごめんなさいの協定を結ぶ。これが1901.9月の北京議定書です。日本は、3ヶ月前の1901.6月に桂太郎内閣に交代しています。もう動乱はおさまりました、ではみなさん軍隊を引き上げましょうね、となる。しかしロシアは、満州を占領し続けます。

日本は朝鮮からもっと北の満州まで行きたかったんです。何ということだ、ということに、ならざるを得ない。これをどうするか、約1年半、押し問答が続く。あとは水面下の外交です。日本はイギリスを味方につけないと勝てない。イギリスはシメシメです。日本がロシアと戦ってくれるなら、日本を応援しよう。そこでロシアが弱ったところを叩けばいい、と思う。
それが1902年の日英同盟になり、さらに1904年の日露戦争につながりますが、伊藤博文がこのことを危険なことだと思っているのは、先に言った通りです。長年イギリスの意向を受けてきた伊藤は、イギリスの狙いがすぐに分かったのです。伊藤はここで初めてイギリスとつきあうことのリスクを感じたのではないでしょうか。

イギリスの意向に従って戦った日清戦争も危ない賭けだった。伊藤は首相としてその戦いを行った。しかしロシアとの戦争は、それとは比べものにならないくらい危険が大きい。実際、世界では日本がロシアに勝てるなど誰も思っていません。もし負ければどうなるか。日本はとんでもないことになる。そんなことをイギリスは日本に求めている。本当に今までのようにイギリスに従ったままでいいのか。伊藤博文のイギリス離れは進みます。


【貴族院の反対】 民党はもともと政府を批判する側だった。伊藤博文はもともと批判される側の政府側のリーダーだった。このような伊藤の動きに対して、貴族院が、この内閣はおかしい、敵なのか味方なのか分からないという。だから貴族院はこの伊藤内閣に反対します。当時貴族院と衆議院は対等だったから、貴族院の同意が得られなかったら、伊藤は政権運営ができなくなります。
それで、この内閣は8ヶ月の短命に終わります。これが1901.5月です。政府のリーダーとして4度首相を務めた伊藤ですが、イギリスと距離を取り始めたとたんに伊藤は政府から追い出された形になります。

ここで1800年代の終わり、19世紀の終わりです。ここまでが、一つの区切りです。

この19世紀が終わった段階で、明治政府のドン二人といえば、伊藤博文山県有朋になります。どっちも山口県人、長州の人間です。政府のドン二人が、長州閥で占められたことになります。薩摩の人間はこのあとほとんど出てきません。今まで薩摩と長州が交代交代で政権を担当していましたが、それが肥前の大隈内閣ができたところでそれが終わます。そして残った政府のドン二人は、どちらも長州の人間だったということになります。この二人の対立は何か。イギリスと距離を置くか、近づくか、その違いです。

このあとも長州出身の首相はよく出てきますが、薩摩出身の首相は大正時代の山本権兵衛を最後に出てこなくなります。

しかし伊藤も山県も、60~70歳ぐらいです。いい歳だから、政界を引退する。ここで政治の中心は、彼らの次の世代に変わっていきます。たまたまちょうど1900年を区切りに、そういう世代の交代があります。ただこの二人は、政界を引退はしても、背後から政府に影響を及ぼす力をもちつづけます。



【内閣覚え方】 「イクヤ マイマイ オヤ 伊藤だ
イ   伊藤博文内閣①
ク   黒田清隆内閣①
ヤ   山県有朋内閣①
マ   松方正義内閣①
イ   伊藤博文内閣②
マ   松方正義内閣②
イ   伊藤博文内閣③
オ   大隈重信内閣①
ヤ   山県有朋内閣②
伊藤だ 伊藤博文内閣④







【資本主義の発達】
日露戦争のことは、このあとでやりますが、この明治中期の社会産業面に行きます。日清戦争の頃に、日本で産業革命が本格的におこりだす。1880年代から1890年代にかけてです。すぐに重工業には行かない。まず軽工業です。
産業革命は軽工業の中の何から起こったか。綿ですよ。イギリスと同じです。綿を作る産業が紡績業です。まず糸です。糸を織って世の中が変わる。その糸を織って布になる。これを綿織物業といいます。兄弟のようなものです。この近くにも大きな紡績会社がありました。いまは公園になってますけど。あの公園の東側の南北の通りは紡績通りというんです。今の高校生は知らないかも知らないけど、我々の世代にとっては紡績通りです。その紡績です。県内最大の紡績会社があったところです。これが産業革命の花形です。

技術面では、もともと手で紡いでいたのを、動力を取り入れてたらガラガラ音がしたからガラ紡という。これで非常に効率が良くなる。そして本格的な機械紡績になる。知らないかもしれんけど、化粧品会社のカネボウの正式名称は何か。最近男でも化粧品を買っているんでしょう。君たちも買っているの。男の化粧品とか。カネボウというのは、鐘淵紡績です。鐘淵は東京にある地名です。そこにあった紡績会社です。紡績は、今から40年前ぐらい前に円高でつぶれて、その後、化粧品会社に衣替えしたんです。
この時代の最大の紡績会社は、大阪の大阪紡績会社といって、渋沢栄一が作った。

製糸業は日本の伝統として残ります。これは生糸です。これは繊細すぎて機械生産には向きませんが、輸出品として外貨を稼ぎます。これは輸出の花形です。


【明治の社会問題】
【労働問題】
 政治・経済でやったように、産業革命が起こると同時に、労働問題がおこってくる。お金はお金があるところに集まる習性がある。すると社長だけが儲けて、労働者は貧乏なまま、低賃金・長時間労働を強いられる。こういう実態が日本にも表れてきて、今はないけれども当時東京周辺ではスラム街があった。非常に貧しい人たちが密集して住む。東南アジアの首都近辺では今でもあります。そういう日本の下層社会というものを丹念に調べた本、これが横山源之助の「日本の下層社会」です。これが1899年です。

これに触発されて、その4年後には、政府もこれじゃいかん、本格的に調べようと、農商務省が調査をして本にまとめる。これを「職工事情」という。
工場労働者のことは当時「職工」という。実は工場労働者は、日本は「女工」から始まったんです。それが男に変わった。職工は男の工場労働者です。こういう長時間・低賃金労働をどうにかするための、保護するための法律として、この資料を基にできた法律が工場法です。一方では政府も労働者保護にまわる。
それでもまだ不十分だから、労働運動、労働組合を作りたいという運動になる。戦後は認められたけれども、この当時はまだ認められてないです。弾圧される運命にある。しかしこういう運動がだんだんと起こってくる。


【労働運動】 最初、職工義友会というのが、1897年、日清戦争の3年後にできる。つくった人は高野房太郎といって、アメリカ仕込みです。小泉政権の時、アメリカ帰りの金融大臣で竹中平蔵という人がいました。あの人は逆に派遣労働とかの低賃金を進めたほうですけど。
それが同じ年に労働組合期成会というものに発展する。労働組合の作り方教えますよ、という団体です。こうしたときには、こうしたらいいですよ、妨害うけたらこうしたらいいですよとか。こういう労働運動の走りもできた。これが明治の中期です。


【公害問題】 一方では産業革命の裏側につきものの公害問題が早くも発生する。日本初の大々的な公害です。栃木県の足尾というところに銅山がある。銅は貴重品です。10円玉は銅でしょ。もともと茶色でしょ。錆びると何色になるか。あれ毒を持つんです。緑になって。緑青という。そういうことを知っていながら、どんどんどんどん川に流す。近くの渡良瀬川に。これが1890年の足尾銅山鉱毒事件です。そこは100年以上たっても、今でもペンペン草しかはえない。自然は一度汚染されると、なかなかもとに戻らない。こういうのが垂れ流しされている。これは大変だということで、地元の国会議員の田中正造という人が、議会に訴えるんだけれども、無視される。天皇に直訴までする。それでも取り上げられない。最後は、このために戦って無一文で死んでいった、そういう気骨の人です。


【社会主義運動】 労働運動は次の段階になると、社会主義運動につながっていきます。単純にいうと、政治・経済でもやったからサラッと行くけれども、人間は2種類しかいない。労働者と資本家です。働く人と働かせる人、平社員と社長です。

労働運動とは、労働者は低賃金で生活に困ってるから、保護しようというものです。しかし、これを理論的に考えていった場合、社長、資本家などの大金持ちがいる限り、そこにお金が集中して、労働者には富が回ってこないんだという考えが出てくる。これが資本家の否定になります。こうなると資本主義体制を壊して、社会主義国家をつくろうとなる。これがマルクス主義です。
こういう考え方が日本にも思想として入ってきて、そうだ、そうだ、そうに違いない、という人も増えてくる。結果的に我々は、今から30年前にソ連がつぶれたから、これは失敗したということを知っているけれども、この時にはそういう動きが実現可能だと思われていた。

そのための第一歩として1898年に社会主義研究会ができる。研究会ができると次には政党ができる。3年後の1901年に社会民主党という社会主義政党ができる。日本初の社会主義政党です。日本を社会主義国家にしていこうという政党です。
しかし、できたその日に即刻禁止です。当時の政府はこういうことができる。日本はただ法治国家だからか、即刻禁止できる法律がないといけない。その前年の1900年に、治安警察法という法律を山県有朋がつくっていた。労働運動はこうやって弾圧されます。


【政府の弾圧】 そういう政府の弾圧もある中で、1人の人間が処刑されていく。1910年、このちょっとあとで、日露戦争後ですけれども、大逆事件というのが、第二次桂太郎内閣の時におこる。これは結論をいうと、ホントなのかどうかわからないんだけれども、天皇暗殺を企てた容疑で逮捕され、否認するんだけれど、イヤ間違いないとして、処刑される。これが幸徳秋水です。
幸徳秋水に、あまり支持があつまらなかったのは、この人の結婚観がちょっと異様なんです。嫁さん子供がおりながら、別の女性・・・・・・管野スガというんですけど・・・・・・そういう人と同棲していたりして、その私生活が今から見ても非道徳的なんです。そういうことで彼には支持があつまらなかった。そういう私生活が社会主義思想とどう関連するかというところは、難しくてよくわからないけど、この社会主義思想が当時の日本人の道徳観を壊す恐いものと受け止められたのは確かなようです。
これで終わります。

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