【斎藤実内閣】(1932.5~34.7)
犬養首相が暗殺されたあと、政党内閣は復活せずに、海軍出身の内閣になります。首相は海軍出身の斎藤実(まこと)です。1932年です。
元老松方正義の死後、元老は西園寺公望1人になっていて、後継首相の指名は元老西園寺公望の推薦を経て天皇が決めることになっていましたが、実質的には元老の意向を天皇が受け入れるのが慣例となっています。
西園寺公望は、立憲政友会の総裁をつとめた政党政治家ですが、現在の政党政治では軍部の台頭を抑えることは無理だと判断します。テロやクーデターは違法ですから、そのような違法行為を起こした軍部の力は弱まるかといえば、そうはならずにかえって軍部の力を強めることになります。それは一つには政党政治が国民の支持を失っていたことがあります。その政党政治が国民の支持を失う経緯は今まで述べた通りですが、その根底には1920年代からの長引く不況や恐慌があります。
軍部出身者が内閣総理大臣になったとはいえ、これですぐに戦争に突き進むかというとそうではなく、斎藤は海軍内の穏健派であって、そういう意味では協調外交派です。ここでは軍部をもって、軍部のテロやクーデターを押さえようとしたという、ねじれた関係があります。
これは軍部に二つの派閥があったということです。一つは対米英協調的な穏健派と、もう一つはそれに反対する派閥です。それは、日露戦争前の山県有朋と伊藤博文の対立、つまり日英同盟論と日露協商論の対立にまでさかのぼります。
明治初期には、欧化主義が激しく、井上馨による鹿鳴館での舞踏会などが開かれ、それに対する政府批判もありました。そのとき伊藤博文は井上馨といっしょになって欧化主義を推進しています。まず誰よりも先に、幕末にイギリスに密航して、イギリスを中心とする西洋文化を取り入れようとしてきたのは、この伊藤博文と井上馨でした。幕末の段階で、すでに伊藤博文は、イギリス軍艦で国内を移動できるつながりがありました。
ところが明治後期になると、そのイギリス流を推進してきた伊藤博文は、疑問を持ちはじめます。伊藤博文は山県が主張する日英同盟に反対し、日露協商論を唱えます。日英同盟がロシアとの戦争に結びつくのに対し、日露協商論は戦争を回避するための方策です。日露協商論は戦争を避けるために、どこと組むか、それを考えています。しかし伊藤の日露協商論は敗れ去ります。そして伊藤は1909年に暗殺されます。しかしその後も日英同盟派と日露協商派の対立は続きます。それはたんに長州閥に対する反長州閥の対立ではありません。
大正以降は、イギリス・アメリカに対する協調外交と、それに反対する強硬外交の対立となってあらわれます。協調外交路線をとったのが憲政会から立憲民政党へと続く流れであったのに対し、逆に強硬外交路線をとったのが立憲政友会です。
この立憲政友会の初代総裁が伊藤博文です。この経緯は、立憲政友会の成立のところで、説明した通りです。しかし彼は1909年にハルビンで暗殺されました。
次の2代総裁が桂園時代を担った西園寺公望です。
次の3代総裁は原敬です。しかし彼も東京駅で暗殺されました。
そのあとを受けた4代総裁が高橋是清です。しかしこのあとで言いますが、彼も二・二六事件で暗殺されます。
高橋是清が政友会総裁を辞職したあと5代総裁になったのが犬養毅ですが、彼は前に言ったように、五・一五事件で暗殺されます。
つまり歴代の立憲政友会総裁で暗殺されなかったのは西園寺公望だけなのです。そしてその西園寺公望が、ただ1人の元老となって首相に選んだのが、海軍の穏健派で対米英協調的な斎藤実です。西園寺はこのような形で対米英協調派に譲歩したのです。
しかし明治末、伊藤博文が対米英協調的な日英同盟に疑問を持ったのはなぜだったか。それはこの路線に、戦争に巻き込まれる恐れを感じたからです。戦争に巻き込まれないために、どこと組むか。組むべき相手を間違うと手遅れになる。伊藤のこの予測は当たったのでしょうか。
政党政治はこのような形で幕を閉じます。戦前の日本で政党政治が復活することはありません。
ここからは、政党と軍部の対立ではなく、軍部内の対米英協調派とそれに反対するグループの対立がメインになります。ただうまく説明するのは簡単ではありません。
国際状況は、策略、謀略、騙しあい、フェイント、何でもありの状況になります。そのなかで日本は翻弄されていきます。
【満州国承認】 軍部は不況脱出を求めて、内閣に従わずに、独自に満州経営を始めています。すでに前年の1932年に満州国を建国しています。犬養首相は、その満州国を認めたくなかった。イギリスやアメリカがそれに反対するからです。
しかしこの斎藤内閣は、軍部がつくったこの満州国を承認していく。そして積極的に満州国を日本の経済ブロックのなかに組み込んでいこうとする軍部の動きを追認していきます。そのような経済政策と絡んでいます。
少し目をヨーロッパのドイツに転じれば、この1930年代初め、ヨーロッパで一番復興に成功したのが、ドイツのヒトラー内閣です。アウトバーンをバーンと作る、景気拡大策をバーンとやる。この方法は高橋是清の方法と非常に似ています。
アメリカでは1933年に、世界大恐慌以来の共和党のフーバー大統領が大統領選挙に敗れて、民主党のルーズベルトが新大統領になります。日本はこのルーズベルト政権と太平洋戦争を戦っていくことになります。
【国際連盟脱退】 日本は1933年に国際連盟を脱退します。これは満州事変がきっかけです。イギリスが満州事変の調査団を派遣する。リットンという貴族が中心だったから、これをリットン調査団という。その報告書を提出して、いろいろ日本に融和的なことも書いてあるけど、つまるところは日本による満州国は認めないと言う。
これが満州事変の2年もあとになったのは、1929年に世界大恐慌が起きて、世界は満州事変どころじゃないんですよ。経済が混乱しているから。企業が倒産しないようにするのが精一杯です。世界はこのとき世界恐慌の対応に追われている。そういう混乱の中で、日本は国際連盟を脱退していく。このときの全権代表は松岡洋右(ようすけ)です。松岡は長州出身で、生まれも伊藤博文の出生地に近い。伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えていた政治家です。
ちなみに松岡洋右の親族は戦争を飛び越えて戦後の日本の政治家とつながっています。松岡洋右の妹・藤枝は、のちの首相である岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父にあたる佐藤松介に嫁いでいます。その長女が佐藤寛子で、佐藤栄作の夫人になります。佐藤栄作は寛子を娶って親戚の佐藤家に婿養子に入っています。佐藤栄作の実兄が岸家の養子となった岸信介であり、その岸信介の娘の子が、史上最長政権となった安倍政権の安倍晋三です。
松岡洋右は、少年の頃から約10年ほどアメリカで生活した経験があり、外交官として出発した異色の経歴の持ち主です。彼はこのあと外務大臣になりますが、そこで相手するのは、ドイツのヒトラー、それからアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、こういう海千山千の世界です。特にルーズベルトとチャーチルは世界を股にかけて、とても読みきれない動きをしていきます。
その2ヶ月後の1933.5月に、斎藤内閣は満州事変の事後処理として、塘沽(タンクー)停戦協定を結びますが、満州の日本軍つまり関東軍は、満州に隣接する華北地方を中国政府から分離させる華北分離工作を続けていきます。
この斎藤実内閣は、1934.7月に、帝人事件という官僚の贈収賄事件で総辞職します。
【岡田啓介内閣】(1934.7~36.3)
その次も海軍出身の首相です。海軍穏健派の岡田啓介です。1934.7月です。
すでに日本と中国の戦争状態は、満州事変から始まっています。そのなかで中国がまとまりきれてないのは、国民党と共産党が内乱しているからです。中国人同士が内乱状態で戦っているわけです。1934年から1936.10月にかけて、共産党は国民党に負けてずっと逃げ始めます。長征というのを何千キロもの道のりを、軍隊を率いて逃げ延びていきます。長征という言葉は、この実態を表してはいません。
1935年に、孫文の後継者である国民党のリーダー蒋介石はそれまでの中国通貨の両に代えて、新しい通貨の「元」を発行します。この時にイギリスは中国の新通貨「元」を法定貨幣・・・・・・これを法幣といいますが・・・・・・と認め、イギリス通貨のポンドとの交換を保障します。つまりこれで蒋介石は自分が発行した紙幣の元で、イギリス製品が買えることになります。そのことはイギリスの中国への武器援助、資金援助を意味します。すでに日本は1931年の満州事変以来中国とは半ば戦争状態にあるのですから、その中国にイギリスが援助するということは、イギリスは日本に敵対したということです。ただ軍事面ではなく、金融的な援助はよく見ていないと非常に分かりにくいのです。
その代わりに中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収されます。香港上海銀行は中国の銀行のような名前ですが、れっきとしたイギリスの大銀行です。しかもこの銀行はアヘン戦争後のアヘンの売上代金をイギリスへ送金するためにつくられたいわく付きの銀行です。長崎のグラバー邸の坂を下るとすぐにこの香港上海銀行の長崎支店があります。日本とも無関係ではありません。今もこの銀行は、香港の通貨である香港ドルを発行している香港の中央銀行です。
1935年にはそのように金融面でイギリスと中国が強く結びついたにもかかわらず、日本は国内問題に終始します。同年、日本では軍部の力が強くなって、一つの憲法学説に対する批判が軍部からでてくる。学問に対しても軍部が注文をつけていく。これを天皇機関説といいます。前に言いましたけれども、大正時代までこれは学会の定説だった。へんちくりんな学説ではない。これに軍部が噛みつく。天皇機関説は美濃部達吉という東大の先生が提唱していた学説です。天皇は神聖にして、という明治憲法をどう受け取るか。少なくとも、美濃部の天皇機関説は、天皇は神ではない、と言っている。軍部はこれが気にくわない。天皇をつかまえて機関であるとは何ごとか、と。
日本の国体・・・・・・国体とは国民体育大会ではなくて国家の体制のことです・・・・・・この国体をはっきりと定めて、天皇主権を打ちだそう、ということになっていく。軍部は国体明徴声明を出していく。日本の国体の特徴を明らかにする声明です。ここで天皇主権の再確認を行い、美濃部達吉の本「憲法撮要」は発禁処分つまり発行禁止になります。
【二・二六事件】 軍部が強くなっていく中で、軍部は軍部で意見の隔たりがあります。2つのグループがある。ここで説明するのは二・二六事件です。次の年1936年2月26日の事件です。
この1936にはヨーロッパーでスペイン内戦が起こっています。まだアメリカは奥に引っ込んでいる。このときには、どことどこが戦うかというと、スペイン内戦というのは、ドイツとソ連の戦いです。
だからこの当時は、戦争やるんだったらドイツとソ連だろうと、みんな思っていた。しかし、このあとの戦争はドイツとイギリスの戦争となり、この時とはぜんぜん違っていきます。
まだ日本はアメリカと戦うという発想もない。そのなかで陸軍内部の対立がある。若い人たちを中心とする青年将校たちは、皇道派と呼ばれる。それに対して、40代以上のお偉いさん、中堅幕領は統制派といわれる。
皇道派というのは、今の日本はこのまま行ってもどうにも発展できない、ここはクーデターでも思い切ってやる以外に国家を改造する道はない、非合法的手段に訴えてやるしかない、そこまで日本は追い詰められてるんだ、そう考えている人たちです。そういう意味では昭和初期からの対米英協調外交に不満を持つ人が多い。これは、おもに20代の青年将校たちです。地方出身者がけっこう多い。
1935年に、この相沢三郎という皇道派の人が、統制派の永田鉄山を暗殺するという事件が起こる。これを相沢事件といいます。そこからこの2つの対立がはっきりと現れてきます。階級的に偉いのは、この暗殺された側の統制派です。この統制派は、斎藤実首相、岡田啓介首相と続く対米英協調外交路線に従い、合法的に政権を運用していこうという人たちが多い。
1936年2月26日に、青年将校を中心とする皇道派が決起するという事件が起こります。これが寒い日です。雪が降るなか、東京永田町一帯が皇道派により占拠されます。青年将校たちが独断で何千人という軍隊を動かす。そして、今の日本のトップを殺していきます。
まず狙われたのが首相岡田啓介です。しかしこの人は、首相官邸のなかで、女中部屋に逃げ込んで見つからなかった。どうにか脱出する。
しかし逃げ切れなかった人が大蔵大臣の高橋是清です。暗殺される。そのほかにも、前首相の斎藤実もいます。
この将校たちが信頼を寄せたのが陸軍大将の真崎甚三郎でした。しかしこれは昭和天皇の、絶対認めないという一言で、鎮圧されてしまう。
そのあと兵隊を動かした青年将校たちは、処刑されていく。これで反乱を起こした軍部の力が弱まったかというと、皇道派の力が弱くなっただけで、逆に統制派が強くなっていく。軍部は統制派でまとまり、軍部の力は一気に強くなっていく。いま言ったように、この統制派は皇道派に比べると、イギリス・アメリカに対して日英同盟以来の協調外交路線をとる人たちが多い。
【世界の状況】
【ドイツとソ連】 ではそのころ世界ではというと、まずソ連が、社会主義関係の政党も一枚岩ではなかったけれど、1935年にそれをまとめて一つの組織、コミンテルンという世界組織をつくる。これはソ連側の動きです。これは、二・二六事件の1年前の1935年のことです。
反ファシズムです。ファシズムはドイツのことです、そのファシズム勢力を駆逐して行こうとする。そのソ連側の統一勢力を人民戦線という。ちょっとぶっそうな名前です。
【スペイン内戦】 このソ連側とドイツ側が、国を二つに分けて内乱状態に入るのが、スペインです。スペイン内戦が1936年から始まる。
スペインの選挙では、ソ連側のアサーニャという人物が勝った。内閣もできた。これに軍部や大地主が大反対して、軍部の将軍フランコが反乱を起こした。これがスペイン内戦です。
アサーニャ側にはソ連が付いている。ではフランコには誰がついているか。これにドイツがつく。イタリアもつきます。日本はまだ無関係です。ドイツが中心になって、フランコのスペイン反乱軍を支援していった。
この対立は、ドイツとソ連です。
ではこれに対して、イギリスはどうか。不干渉です。オレには関係ないという。となると、フランスもそうです。アメリカはそうです。アメリカ国民は太平洋戦争直前でも80%以上が戦争反対です。
ドイツが負けたというイメージが強いけど、この戦いでドイツが負ける、ということじゃないです。1939年に、スペインではフランコ軍が勝つ。つまりドイツ側が勝っていく。そういう状況です。ドイツ有利というのがこの1930年代末の情勢なんです。
【ドイツのラインラント進駐】 もうちょっと世界を見ると、第一次世界大戦で負けたドイツは、1936年に、国家として軍備や軍隊を持ったらいけないというのは、国家としてありえない、という。普通の国のように軍隊をもちますと宣言する。そして、もともとドイツの一部であったラインラント・・・・・・フランスとの国境一帯です・・・・・・そこは非常に物騒で、いろんな紛争がおこるから、軍隊をそこに駐屯させるという。
これに対してもイギリスは黙認です。何もしない。いいんじゃないか。イギリスは容認します。イギリスがそうならフランスもそうです。これを宥和政策といいます。
確かに第一次世界大戦のドイツへの仕打ちは厳しすぎた、という雰囲気もある。イギリスもフランスも黙認するんだな、ドイツのこと分かってくれているんだな、とドイツは思う。
それが3年後、突然、宣戦布告する、ということになっていく。
【日独伊三国防共協定】 日本はこの時期、ドイツラインラント進駐の翌年1937年に、二・二六事件で倒れた岡田内閣のあと、日独伊三国防共協定を結びます。防共の共は、ソ連のことです。共産党の共です。防共とはソ連を防ぐということです。まだ敵はアメリカじゃないです。このときにはソ連です。というか、太平洋戦争の直前までずっと日本の敵はソ連なのです。しかし実際に戦うのは、まったく違う相手のアメリカです。これはほとんど突然出てくる。だから何が起こっているのか分かりにくいのです。
【ドイツのオーストリア併合】 その翌年の1938.3月にドイツは、同じドイツ人の国であるオーストリアを併合しますが、これに対してもドイツは、ドイツの都市ミュンヘンで会談を開き、イギリスとフランスの了解を取り付けます。イギリスとフランスは1938年段階でも宥和政策です。仲良くしましょう、文句言いませんよ、これで了解している。これを国際条約の合意として結んでいる。
そして次には、ドイツと隣接するチェコスロバキアです。そのチェコスロバキアのドイツ国境にあるズデーテン地方は、ドイツ系住民が住んでるところなんです。ドイツは、民族自決の原則に則って、ドイツ人はドイツ人で一つの国をつくるという。イギリスはこれも認める。1938.9月、ドイツはそのズデーテン地方を併合します。
【アメリカによる日米通商航海条約破棄通告】 しかし、翌年1939.7月に、アメリカが突然、日本に対して日米通商航海条約を破棄通告をする。日本は、エッという感じです。日本の頭に浮かぶのは石油です。日本はほぼアメリカに石油を頼っている。
この条約の意味は、安心してください、日本に石油を売りますよ、というのが条約です。これは逆に条約破棄です。オレは売らなくてもいいのよ、売らないことだってできるんだよ、とアメリカは言ったということです。
日本は、アッやる気か、と思う。今の日本もこの危機はずっとあります。このままでは原発がちょっと無理だから、日本に石油は出ないでしょ。日本人をつぶすには、石油をストップすればいい。
その前に、これは余談かな、今の日本の食糧自給率は先進国中最低です。自給率は3割もない。食糧をストップすれば、自動的に日本人はつぶれます。これは食糧安全保障上、非常にまずいことです。さらにまずいのは、これを日本人がほとんど意識していないことです。軍事上の安全保障も大事ですけど、食い物がなければどうにもならないでしょう。
【独ソ不可侵条約】 その翌月1939.8月に、対立しているドイツとソ連が突然、独ソ不可侵条約を結びます。突然、ドイツとソ連が仲間になった。ソ連と対立している日本はこれに驚いて、当時の首相の平沼騏一郎は、私は辞めますという。辞める理由は、私には分からない、なぜなのか、複雑怪奇だ、という言葉を残して辞めていく。
【第二次世界大戦の勃発】 そしてその翌月1939.9月に、世界では第二次世界大戦が起こります。でもこれに日本がすぐ参戦するわけではないです。この段階では日本と関係のない戦争です。
これはドイツとイギリスの戦いです。イギリスは今まで、ドイツと宥和政策で仲良くしましょうと言っていた。これが突然の宣戦布告です。
きっかけは、ドイツ軍が1939年9月1日、ポーランドに侵攻する。すると2日後の9月3日に、イギリスがドイツに宣戦布告します。ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。ドイツのヒトラーはビックリです。
1ヶ月前の独ソ不可侵条約のときに秘密協定があった。ドイツは西からポーランドに侵攻するから、ソ連は東からポーランドに侵攻しましょう、そしたらおあいこだ、ポーランドを分けましょう、という密約です。
約2週間遅れて9月17日にソ連もポーランドに侵攻する。ドイツは西から、ソ連は東からポーランドに侵攻します。
しかしイギリスは、ソ連には宣戦布告しないのです。関係ないというか、イギリスは明確な説明しない。とにかくイギリスがドイツにだけ宣戦布告する。そうするとフランスもドイツに宣戦布告する。
このあとソ連はポーランドだけではなく、この北方にあるエストニア・ラトビア・リトアニアというバルト三国にも侵攻していく。そしてソ連に併合していく。それでもイギリスはソ連には宣戦布告しません。この不思議さが第二次世界大戦にはずっとついて回ります。
【広田弘毅内閣】(1936.3~37.2)
先に第二次世界大戦勃発までの世界の流れをみましたが、また日本に戻ります。二・二六事件以降のことです。岡田啓介内閣という軍部内閣も軍部を抑えきれなかった。
そうすると今度は、岡田啓介内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、内閣総理大臣に任命される。この人は軍人ではない。といっても政党政治家でもない。外交官出身つまり官僚出身です。1936.3月です。しかし官僚は、もともと政治家の下で命令を受ける立場であって、力を持たないんです。組閣の時点で、各大臣は誰々だ、と軍部が干渉してくる。それを防ぐことができない。
1936.5月、大正時代に一旦廃止されていた、軍部大臣は現役の武官でないといけない、つまり現役の軍人でないといけないという、軍部大臣現役武官制を復活させます。これで軍部の力がますます強くなる。この制度は、軍部が腹を立てれば内閣総理大臣のクビをどうにでも飛ばすことができる。こういう制度です。これは、前に言ったように、山県有朋が明治時代につくったものですが、これは軍部の暴走のもととなり批判が多かったため、山本権兵衛が廃止したものです。それが広田弘毅内閣でまた復活した。
1936.8月、国策の基準として、中国北部、満州の隣の華北に軍事進出する、ということを正式に決定した。目的は日本のブロック経済を作り、日本の経済を復活させるためです。
1936.11月、日本はドイツと日独防共協定をまず結ぶ。さっき言ったように、防共の共はソ連を仮想敵国だとしている。次の年にまたイタリアが加わる。
これが戦争直前には日独伊三国軍事同盟に発展していく。そのきっかけになっていく。だから、この人は、日本が戦争に負けたあと、A級戦犯に捕らわれて裁判にかけられ、死刑になる。非軍人で処刑された唯一の総理大臣です。
このときドイツはナチス党です。リーダーはドイツはヒトラーです。イタリアはファシスタ党、リーダーはムッソリーニです。ファシズムというのは全体主義と訳されるけれども、言葉のルーツはイタリアのファシスタ党がルーツです。「束ねる」という意味です。
中国では、国民党と共産党が仲間割れしている。それを一枚岩にまとめる事件が、1936.12月の西安事件です。西安は都市の名前です。昔の長安です。北京よりかなり西のほうにある。張学良という軍人、父親は日本軍によって爆殺された張作霖です。その息子の張学良が蒋介石を監禁して、いま戦うべきは日本だ、共産党と内乱を起こしている場合じゃない、イヤだというならこの部屋から一歩も出さないぞ、と言う。蒋介石は、分かったと言う。これがきっかけとなって、翌年1937.9月に第二次国共合作が結ばれます。
これで中国は一致して抗日つまり日本と戦うことになります。でも裏にイギリスありです。アメリカありです。軍事物資はイギリスとアメリカが中国に援助している。
【林銑十郎内閣】(1937.2~37.5)
それで広田弘毅は軍人に押される一方です。次は林銑十郎という陸軍出身の首相ですけれども、3か月しかもたない。1937.2月~5月です。
【近衛文麿内閣①】(1937.6~39.1)
それで誰か首相いないかな、と思っているときに、ここで出てくるのが貴族院出身、近衛家出身の名門、近衛文麿です。1937.6月に第一次近衛文麿内閣が成立します。1000年前は平安貴族の藤原氏です。近衛家はその分家になります。
実はこの人は、二・二六事件のあとも首相候補になっています。前年の1936.3月に元老西園寺の推薦を受けた昭和天皇から首相の大命が下っていますが、この時は「健康が許さない」ことを理由に断っています。しかし本当の理由は、西園寺の考えるイギリス・アメリカとの協調を基本とする政治のなかでは、自分の考える政治はやっていけないと考えたからです。彼は第一次大戦後、世界が大戦の勝者であるイギリス・アメリカの利害を中心につくられていくことに疑問を持っていました。そういう意味では伊藤博文の系譜につながる政治家です。
しかしイギリス・アメリカという強大な力の前に、一国の首相としてどう向き合っていけばいいか「自信がない」と言うのもホンネでした。だから一度は断ったものの、事態がここに至り、首相を受けざるをえなくなったのです。彼は二・二六事件で皇道派が敗れたあと、自分が皇道派の二の舞になることを予想していたようなところがあります。彼は敗戦後、服毒自殺を遂げることになります。
【日中戦争】 この近衛内閣の時に、日本と中国の本格的な戦争が始まる。これが日中戦争です。1937.7月です。
日本の戦争は、まずアメリカとではないです。まず中国とです。次の予測はソ連です。アメリカと戦うべきでもないし、戦っても勝てない、というのが日本の合意なんです。対米英協調外交路線です。
この時にはすでに、中国も日本と戦う体制ができています。第二次国共合作ができつつあります。
この日中戦争は何がきっかけかというと、北京郊外に盧溝橋という橋がある。その橋の右と左で日本軍と中国軍がにらみあっていた。夜中、一発の銃声が響いて、この銃声の原因は今に至るまで不明です。そしてそのまま戦争に流れこんでいく。これが1937.7月の盧溝橋事件です。
何かよく分からない。やらせだ、偶発事故だ、いろんな説があるけど、結局、この一発の銃声が何だったのか、よく分からない。こういう時には、たぶん部外者でしょうね。
盧溝橋事件に対して、近衛内閣は不拡大方針を出しますが、軍部は聞かない。そのまま軍隊を進めていきます。ここからずっと泥沼状態の日中戦争が始まっていきます。
2ヶ月後の1937.9月、中国では第二次国共合作が結ばれます。
ここで対外事件と対内事件、あわせて4つの事件をまとめます。
1931年、32年、36年、37年の事件です。
外側2つが国外事件、31年の満州事変、37年に盧溝橋事件です。
その中に2つが国内事件、32年に五・一五事件、36年に二・二六事件です。
並べると、31年の満州事変、32年の五・一五事件、36年の二・二六事件、37年の盧溝橋事件となります。
【国民精神総動員運動】 日中戦争が起こった3ヶ月後の1937.10月から日本は、国民精神総動員運動を行い、国民の意識変革を求めていきます。服装から変えていく。女性はもんぺをはきなさい。女子高生にももんぺはきなさい。戦争映画で見たことあるでしょう。あの雰囲気ですよ。贅沢は敵だと。男は、仕事着も国民服です。
【日独伊三国防共協定】 1937.11月、日本はそれまでの日独防共協定に、イタリアを加えて日独伊三国防共協定に拡大していく。仮想敵国はソ連だ、ということです。アメリカを敵としているのではありません。
【南京占領】 北京郊外の盧溝橋から始まって、日本軍が中国内をどんどん南下していく。どこまで行くか。途中で、北京郊外の通州や、中国最大の都市の上海で事件が起こったりしますが、1937.12月に中国国民政府のある南京を占領します。このとき南京の住民は日本軍が攻めてくるということで、郊外に避難していて30万人くらいしかいなかった、とも言われる。
しかし日本軍がここに入って50万人の中国人を殺したという話がある。これが南京大虐殺といわれる事件です。なぜ30万人しか残ってないのに50万人も殺せるのか。人によっては、これは殺されたのは2000人という人、イヤ2万人だという、20万人、50万人ともいう。実態が分からない事件になっています。
アイリスチャンという女流歴史家で、10数年前にこれを本にした人がいました。次の年、なぜか死にました。これを触るとどうも死人がでる。
事実がわからないまま虐殺記念館を南京郊外に中国が建てています。そこらへんはよく分からない。どっちが正しいかではなくて、ただ分からないのです。分からないことを、分かったことにするのは、歴史的ではないです。
これで南京を追われた中国国民政府は、さらに内陸の都市に首都を移す。それが重慶です。このことの意味は、首都を奪われても降参しない、徹底して戦うということです。東京が占領されても、日本が降伏しないようなものです。
【近衛声明】 年が明けて翌月1938.1月、日本の近衛首相は、蒋介石政府である「国民政府を相手としない」という第一次近衛声明を出す。ということは、蒋介石政府を認めないということです。
1938.11月、近衛首相は第二次近衛声明を出します。この日本の中国との戦争は何のための戦争か。ここで初めて、東亜という言葉が出てくる。東アジアの新秩序という意味の「東亜新秩序」建設が表明されます。東亜の意味は、東アジアです。東アジアは独立していない。植民地だらけなんです。イギリス、フランド、オランダ、アメリカの。ここに新秩序をもたらす、ということです。
この日中戦争から、国民の意識として、はっきり戦争してるという意識になります。でも相手は中国です。アメリカとの真珠湾攻撃からではないということです。アメリカはまだ関係ありません。
【国家総動員法】 1938.4月には、国家総動員法を出す。今は非常時だという。この法律によって、何が可能になったか。国会を通さずに、人を自由に動かすことができる。高校生に授業しなくていいぞ、爆弾つくりに行け、道路の改修に行きなさい、そういうことが可能になった。
それから物的資源を自由にできる。自動車会社に戦車つくれ。会社が何をつくるかというのを、国家が統制できるようになる。これは戦時体制です。戦時体制にこの1938年から本格的に入っていくということです。
この段階で、帝国議会つまり国会権限が停止された。廃止はされないけれども形だけです。機能してないから無いのと同じです。
この1920年代から1930年代の20年間をまとめてみると、1920年代は第一次世界大戦後は協調外交路線をとってきた。これはどことの協調外交なんですか。対米英ですね。アメリカ・イギリスとの協調路線です。これ中心となった外務大臣が幣原喜重郎です。意外と影に隠れて目立たない人物なんですけれども、動きとしてはに非常に重要です。このあと、戦後最初の総理大臣になっていきますから。
ところがこれが行き詰まって、さらに世界恐慌が起こる。そして日本は金解禁に失敗する。不景気におちいります。昭和枯れすすきの時代です。そこで日本は苦悩します。
不況でもイギリスはどうにかしのげます。大植民地帝国だから。大きなブロック経済つくって、自分たちの経済圏をつくればいい。しかし何も持たない日本とドイツが困る。アメリカはというと、植民地はちょこっとでも、国土自体が広くて石炭も石油もでるし、問題ないわけです。
1年後には第二次世界大戦が起こります。その2年後には日本が太平洋戦争に突入する。そういう流れになっていく。いまは1938年です。内閣は第一次近衛文麿内閣だった。近衛文麿はこのような状況に行き詰まりを感じ、自ら辞意を固めます。1939.1月に近衛内閣は総辞職します。
【内閣覚え方】 「サイフのオカネ ヒロウタ 林の近道」
サイフの 斎藤実内閣
オカネ 岡田啓介内閣
ヒロウタ 広田弘毅内閣
林の 林銑十郎内閣
近道 近衛文麿内閣
これで終わります。
犬養首相が暗殺されたあと、政党内閣は復活せずに、海軍出身の内閣になります。首相は海軍出身の斎藤実(まこと)です。1932年です。
元老松方正義の死後、元老は西園寺公望1人になっていて、後継首相の指名は元老西園寺公望の推薦を経て天皇が決めることになっていましたが、実質的には元老の意向を天皇が受け入れるのが慣例となっています。
西園寺公望は、立憲政友会の総裁をつとめた政党政治家ですが、現在の政党政治では軍部の台頭を抑えることは無理だと判断します。テロやクーデターは違法ですから、そのような違法行為を起こした軍部の力は弱まるかといえば、そうはならずにかえって軍部の力を強めることになります。それは一つには政党政治が国民の支持を失っていたことがあります。その政党政治が国民の支持を失う経緯は今まで述べた通りですが、その根底には1920年代からの長引く不況や恐慌があります。
軍部出身者が内閣総理大臣になったとはいえ、これですぐに戦争に突き進むかというとそうではなく、斎藤は海軍内の穏健派であって、そういう意味では協調外交派です。ここでは軍部をもって、軍部のテロやクーデターを押さえようとしたという、ねじれた関係があります。
これは軍部に二つの派閥があったということです。一つは対米英協調的な穏健派と、もう一つはそれに反対する派閥です。それは、日露戦争前の山県有朋と伊藤博文の対立、つまり日英同盟論と日露協商論の対立にまでさかのぼります。
明治初期には、欧化主義が激しく、井上馨による鹿鳴館での舞踏会などが開かれ、それに対する政府批判もありました。そのとき伊藤博文は井上馨といっしょになって欧化主義を推進しています。まず誰よりも先に、幕末にイギリスに密航して、イギリスを中心とする西洋文化を取り入れようとしてきたのは、この伊藤博文と井上馨でした。幕末の段階で、すでに伊藤博文は、イギリス軍艦で国内を移動できるつながりがありました。
ところが明治後期になると、そのイギリス流を推進してきた伊藤博文は、疑問を持ちはじめます。伊藤博文は山県が主張する日英同盟に反対し、日露協商論を唱えます。日英同盟がロシアとの戦争に結びつくのに対し、日露協商論は戦争を回避するための方策です。日露協商論は戦争を避けるために、どこと組むか、それを考えています。しかし伊藤の日露協商論は敗れ去ります。そして伊藤は1909年に暗殺されます。しかしその後も日英同盟派と日露協商派の対立は続きます。それはたんに長州閥に対する反長州閥の対立ではありません。
大正以降は、イギリス・アメリカに対する協調外交と、それに反対する強硬外交の対立となってあらわれます。協調外交路線をとったのが憲政会から立憲民政党へと続く流れであったのに対し、逆に強硬外交路線をとったのが立憲政友会です。
この立憲政友会の初代総裁が伊藤博文です。この経緯は、立憲政友会の成立のところで、説明した通りです。しかし彼は1909年にハルビンで暗殺されました。
次の2代総裁が桂園時代を担った西園寺公望です。
次の3代総裁は原敬です。しかし彼も東京駅で暗殺されました。
そのあとを受けた4代総裁が高橋是清です。しかしこのあとで言いますが、彼も二・二六事件で暗殺されます。
高橋是清が政友会総裁を辞職したあと5代総裁になったのが犬養毅ですが、彼は前に言ったように、五・一五事件で暗殺されます。
つまり歴代の立憲政友会総裁で暗殺されなかったのは西園寺公望だけなのです。そしてその西園寺公望が、ただ1人の元老となって首相に選んだのが、海軍の穏健派で対米英協調的な斎藤実です。西園寺はこのような形で対米英協調派に譲歩したのです。
しかし明治末、伊藤博文が対米英協調的な日英同盟に疑問を持ったのはなぜだったか。それはこの路線に、戦争に巻き込まれる恐れを感じたからです。戦争に巻き込まれないために、どこと組むか。組むべき相手を間違うと手遅れになる。伊藤のこの予測は当たったのでしょうか。
政党政治はこのような形で幕を閉じます。戦前の日本で政党政治が復活することはありません。
ここからは、政党と軍部の対立ではなく、軍部内の対米英協調派とそれに反対するグループの対立がメインになります。ただうまく説明するのは簡単ではありません。
国際状況は、策略、謀略、騙しあい、フェイント、何でもありの状況になります。そのなかで日本は翻弄されていきます。
【満州国承認】 軍部は不況脱出を求めて、内閣に従わずに、独自に満州経営を始めています。すでに前年の1932年に満州国を建国しています。犬養首相は、その満州国を認めたくなかった。イギリスやアメリカがそれに反対するからです。
しかしこの斎藤内閣は、軍部がつくったこの満州国を承認していく。そして積極的に満州国を日本の経済ブロックのなかに組み込んでいこうとする軍部の動きを追認していきます。そのような経済政策と絡んでいます。
少し目をヨーロッパのドイツに転じれば、この1930年代初め、ヨーロッパで一番復興に成功したのが、ドイツのヒトラー内閣です。アウトバーンをバーンと作る、景気拡大策をバーンとやる。この方法は高橋是清の方法と非常に似ています。
アメリカでは1933年に、世界大恐慌以来の共和党のフーバー大統領が大統領選挙に敗れて、民主党のルーズベルトが新大統領になります。日本はこのルーズベルト政権と太平洋戦争を戦っていくことになります。
【国際連盟脱退】 日本は1933年に国際連盟を脱退します。これは満州事変がきっかけです。イギリスが満州事変の調査団を派遣する。リットンという貴族が中心だったから、これをリットン調査団という。その報告書を提出して、いろいろ日本に融和的なことも書いてあるけど、つまるところは日本による満州国は認めないと言う。
これが満州事変の2年もあとになったのは、1929年に世界大恐慌が起きて、世界は満州事変どころじゃないんですよ。経済が混乱しているから。企業が倒産しないようにするのが精一杯です。世界はこのとき世界恐慌の対応に追われている。そういう混乱の中で、日本は国際連盟を脱退していく。このときの全権代表は松岡洋右(ようすけ)です。松岡は長州出身で、生まれも伊藤博文の出生地に近い。伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えていた政治家です。
ちなみに松岡洋右の親族は戦争を飛び越えて戦後の日本の政治家とつながっています。松岡洋右の妹・藤枝は、のちの首相である岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父にあたる佐藤松介に嫁いでいます。その長女が佐藤寛子で、佐藤栄作の夫人になります。佐藤栄作は寛子を娶って親戚の佐藤家に婿養子に入っています。佐藤栄作の実兄が岸家の養子となった岸信介であり、その岸信介の娘の子が、史上最長政権となった安倍政権の安倍晋三です。
松岡洋右は、少年の頃から約10年ほどアメリカで生活した経験があり、外交官として出発した異色の経歴の持ち主です。彼はこのあと外務大臣になりますが、そこで相手するのは、ドイツのヒトラー、それからアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、こういう海千山千の世界です。特にルーズベルトとチャーチルは世界を股にかけて、とても読みきれない動きをしていきます。
その2ヶ月後の1933.5月に、斎藤内閣は満州事変の事後処理として、塘沽(タンクー)停戦協定を結びますが、満州の日本軍つまり関東軍は、満州に隣接する華北地方を中国政府から分離させる華北分離工作を続けていきます。
この斎藤実内閣は、1934.7月に、帝人事件という官僚の贈収賄事件で総辞職します。
【岡田啓介内閣】(1934.7~36.3)
その次も海軍出身の首相です。海軍穏健派の岡田啓介です。1934.7月です。
すでに日本と中国の戦争状態は、満州事変から始まっています。そのなかで中国がまとまりきれてないのは、国民党と共産党が内乱しているからです。中国人同士が内乱状態で戦っているわけです。1934年から1936.10月にかけて、共産党は国民党に負けてずっと逃げ始めます。長征というのを何千キロもの道のりを、軍隊を率いて逃げ延びていきます。長征という言葉は、この実態を表してはいません。
1935年に、孫文の後継者である国民党のリーダー蒋介石はそれまでの中国通貨の両に代えて、新しい通貨の「元」を発行します。この時にイギリスは中国の新通貨「元」を法定貨幣・・・・・・これを法幣といいますが・・・・・・と認め、イギリス通貨のポンドとの交換を保障します。つまりこれで蒋介石は自分が発行した紙幣の元で、イギリス製品が買えることになります。そのことはイギリスの中国への武器援助、資金援助を意味します。すでに日本は1931年の満州事変以来中国とは半ば戦争状態にあるのですから、その中国にイギリスが援助するということは、イギリスは日本に敵対したということです。ただ軍事面ではなく、金融的な援助はよく見ていないと非常に分かりにくいのです。
その代わりに中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収されます。香港上海銀行は中国の銀行のような名前ですが、れっきとしたイギリスの大銀行です。しかもこの銀行はアヘン戦争後のアヘンの売上代金をイギリスへ送金するためにつくられたいわく付きの銀行です。長崎のグラバー邸の坂を下るとすぐにこの香港上海銀行の長崎支店があります。日本とも無関係ではありません。今もこの銀行は、香港の通貨である香港ドルを発行している香港の中央銀行です。
1935年にはそのように金融面でイギリスと中国が強く結びついたにもかかわらず、日本は国内問題に終始します。同年、日本では軍部の力が強くなって、一つの憲法学説に対する批判が軍部からでてくる。学問に対しても軍部が注文をつけていく。これを天皇機関説といいます。前に言いましたけれども、大正時代までこれは学会の定説だった。へんちくりんな学説ではない。これに軍部が噛みつく。天皇機関説は美濃部達吉という東大の先生が提唱していた学説です。天皇は神聖にして、という明治憲法をどう受け取るか。少なくとも、美濃部の天皇機関説は、天皇は神ではない、と言っている。軍部はこれが気にくわない。天皇をつかまえて機関であるとは何ごとか、と。
日本の国体・・・・・・国体とは国民体育大会ではなくて国家の体制のことです・・・・・・この国体をはっきりと定めて、天皇主権を打ちだそう、ということになっていく。軍部は国体明徴声明を出していく。日本の国体の特徴を明らかにする声明です。ここで天皇主権の再確認を行い、美濃部達吉の本「憲法撮要」は発禁処分つまり発行禁止になります。
【二・二六事件】 軍部が強くなっていく中で、軍部は軍部で意見の隔たりがあります。2つのグループがある。ここで説明するのは二・二六事件です。次の年1936年2月26日の事件です。
この1936にはヨーロッパーでスペイン内戦が起こっています。まだアメリカは奥に引っ込んでいる。このときには、どことどこが戦うかというと、スペイン内戦というのは、ドイツとソ連の戦いです。
だからこの当時は、戦争やるんだったらドイツとソ連だろうと、みんな思っていた。しかし、このあとの戦争はドイツとイギリスの戦争となり、この時とはぜんぜん違っていきます。
まだ日本はアメリカと戦うという発想もない。そのなかで陸軍内部の対立がある。若い人たちを中心とする青年将校たちは、皇道派と呼ばれる。それに対して、40代以上のお偉いさん、中堅幕領は統制派といわれる。
皇道派というのは、今の日本はこのまま行ってもどうにも発展できない、ここはクーデターでも思い切ってやる以外に国家を改造する道はない、非合法的手段に訴えてやるしかない、そこまで日本は追い詰められてるんだ、そう考えている人たちです。そういう意味では昭和初期からの対米英協調外交に不満を持つ人が多い。これは、おもに20代の青年将校たちです。地方出身者がけっこう多い。
1935年に、この相沢三郎という皇道派の人が、統制派の永田鉄山を暗殺するという事件が起こる。これを相沢事件といいます。そこからこの2つの対立がはっきりと現れてきます。階級的に偉いのは、この暗殺された側の統制派です。この統制派は、斎藤実首相、岡田啓介首相と続く対米英協調外交路線に従い、合法的に政権を運用していこうという人たちが多い。
1936年2月26日に、青年将校を中心とする皇道派が決起するという事件が起こります。これが寒い日です。雪が降るなか、東京永田町一帯が皇道派により占拠されます。青年将校たちが独断で何千人という軍隊を動かす。そして、今の日本のトップを殺していきます。
まず狙われたのが首相岡田啓介です。しかしこの人は、首相官邸のなかで、女中部屋に逃げ込んで見つからなかった。どうにか脱出する。
しかし逃げ切れなかった人が大蔵大臣の高橋是清です。暗殺される。そのほかにも、前首相の斎藤実もいます。
この将校たちが信頼を寄せたのが陸軍大将の真崎甚三郎でした。しかしこれは昭和天皇の、絶対認めないという一言で、鎮圧されてしまう。
そのあと兵隊を動かした青年将校たちは、処刑されていく。これで反乱を起こした軍部の力が弱まったかというと、皇道派の力が弱くなっただけで、逆に統制派が強くなっていく。軍部は統制派でまとまり、軍部の力は一気に強くなっていく。いま言ったように、この統制派は皇道派に比べると、イギリス・アメリカに対して日英同盟以来の協調外交路線をとる人たちが多い。
【世界の状況】
【ドイツとソ連】 ではそのころ世界ではというと、まずソ連が、社会主義関係の政党も一枚岩ではなかったけれど、1935年にそれをまとめて一つの組織、コミンテルンという世界組織をつくる。これはソ連側の動きです。これは、二・二六事件の1年前の1935年のことです。
反ファシズムです。ファシズムはドイツのことです、そのファシズム勢力を駆逐して行こうとする。そのソ連側の統一勢力を人民戦線という。ちょっとぶっそうな名前です。
【スペイン内戦】 このソ連側とドイツ側が、国を二つに分けて内乱状態に入るのが、スペインです。スペイン内戦が1936年から始まる。
スペインの選挙では、ソ連側のアサーニャという人物が勝った。内閣もできた。これに軍部や大地主が大反対して、軍部の将軍フランコが反乱を起こした。これがスペイン内戦です。
アサーニャ側にはソ連が付いている。ではフランコには誰がついているか。これにドイツがつく。イタリアもつきます。日本はまだ無関係です。ドイツが中心になって、フランコのスペイン反乱軍を支援していった。
この対立は、ドイツとソ連です。
ではこれに対して、イギリスはどうか。不干渉です。オレには関係ないという。となると、フランスもそうです。アメリカはそうです。アメリカ国民は太平洋戦争直前でも80%以上が戦争反対です。
ドイツが負けたというイメージが強いけど、この戦いでドイツが負ける、ということじゃないです。1939年に、スペインではフランコ軍が勝つ。つまりドイツ側が勝っていく。そういう状況です。ドイツ有利というのがこの1930年代末の情勢なんです。
【ドイツのラインラント進駐】 もうちょっと世界を見ると、第一次世界大戦で負けたドイツは、1936年に、国家として軍備や軍隊を持ったらいけないというのは、国家としてありえない、という。普通の国のように軍隊をもちますと宣言する。そして、もともとドイツの一部であったラインラント・・・・・・フランスとの国境一帯です・・・・・・そこは非常に物騒で、いろんな紛争がおこるから、軍隊をそこに駐屯させるという。
これに対してもイギリスは黙認です。何もしない。いいんじゃないか。イギリスは容認します。イギリスがそうならフランスもそうです。これを宥和政策といいます。
確かに第一次世界大戦のドイツへの仕打ちは厳しすぎた、という雰囲気もある。イギリスもフランスも黙認するんだな、ドイツのこと分かってくれているんだな、とドイツは思う。
それが3年後、突然、宣戦布告する、ということになっていく。
【日独伊三国防共協定】 日本はこの時期、ドイツラインラント進駐の翌年1937年に、二・二六事件で倒れた岡田内閣のあと、日独伊三国防共協定を結びます。防共の共は、ソ連のことです。共産党の共です。防共とはソ連を防ぐということです。まだ敵はアメリカじゃないです。このときにはソ連です。というか、太平洋戦争の直前までずっと日本の敵はソ連なのです。しかし実際に戦うのは、まったく違う相手のアメリカです。これはほとんど突然出てくる。だから何が起こっているのか分かりにくいのです。
【ドイツのオーストリア併合】 その翌年の1938.3月にドイツは、同じドイツ人の国であるオーストリアを併合しますが、これに対してもドイツは、ドイツの都市ミュンヘンで会談を開き、イギリスとフランスの了解を取り付けます。イギリスとフランスは1938年段階でも宥和政策です。仲良くしましょう、文句言いませんよ、これで了解している。これを国際条約の合意として結んでいる。
そして次には、ドイツと隣接するチェコスロバキアです。そのチェコスロバキアのドイツ国境にあるズデーテン地方は、ドイツ系住民が住んでるところなんです。ドイツは、民族自決の原則に則って、ドイツ人はドイツ人で一つの国をつくるという。イギリスはこれも認める。1938.9月、ドイツはそのズデーテン地方を併合します。
【アメリカによる日米通商航海条約破棄通告】 しかし、翌年1939.7月に、アメリカが突然、日本に対して日米通商航海条約を破棄通告をする。日本は、エッという感じです。日本の頭に浮かぶのは石油です。日本はほぼアメリカに石油を頼っている。
この条約の意味は、安心してください、日本に石油を売りますよ、というのが条約です。これは逆に条約破棄です。オレは売らなくてもいいのよ、売らないことだってできるんだよ、とアメリカは言ったということです。
日本は、アッやる気か、と思う。今の日本もこの危機はずっとあります。このままでは原発がちょっと無理だから、日本に石油は出ないでしょ。日本人をつぶすには、石油をストップすればいい。
その前に、これは余談かな、今の日本の食糧自給率は先進国中最低です。自給率は3割もない。食糧をストップすれば、自動的に日本人はつぶれます。これは食糧安全保障上、非常にまずいことです。さらにまずいのは、これを日本人がほとんど意識していないことです。軍事上の安全保障も大事ですけど、食い物がなければどうにもならないでしょう。
【独ソ不可侵条約】 その翌月1939.8月に、対立しているドイツとソ連が突然、独ソ不可侵条約を結びます。突然、ドイツとソ連が仲間になった。ソ連と対立している日本はこれに驚いて、当時の首相の平沼騏一郎は、私は辞めますという。辞める理由は、私には分からない、なぜなのか、複雑怪奇だ、という言葉を残して辞めていく。
【第二次世界大戦の勃発】 そしてその翌月1939.9月に、世界では第二次世界大戦が起こります。でもこれに日本がすぐ参戦するわけではないです。この段階では日本と関係のない戦争です。
これはドイツとイギリスの戦いです。イギリスは今まで、ドイツと宥和政策で仲良くしましょうと言っていた。これが突然の宣戦布告です。
きっかけは、ドイツ軍が1939年9月1日、ポーランドに侵攻する。すると2日後の9月3日に、イギリスがドイツに宣戦布告します。ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。ドイツのヒトラーはビックリです。
1ヶ月前の独ソ不可侵条約のときに秘密協定があった。ドイツは西からポーランドに侵攻するから、ソ連は東からポーランドに侵攻しましょう、そしたらおあいこだ、ポーランドを分けましょう、という密約です。
約2週間遅れて9月17日にソ連もポーランドに侵攻する。ドイツは西から、ソ連は東からポーランドに侵攻します。
しかしイギリスは、ソ連には宣戦布告しないのです。関係ないというか、イギリスは明確な説明しない。とにかくイギリスがドイツにだけ宣戦布告する。そうするとフランスもドイツに宣戦布告する。
このあとソ連はポーランドだけではなく、この北方にあるエストニア・ラトビア・リトアニアというバルト三国にも侵攻していく。そしてソ連に併合していく。それでもイギリスはソ連には宣戦布告しません。この不思議さが第二次世界大戦にはずっとついて回ります。
【広田弘毅内閣】(1936.3~37.2)
先に第二次世界大戦勃発までの世界の流れをみましたが、また日本に戻ります。二・二六事件以降のことです。岡田啓介内閣という軍部内閣も軍部を抑えきれなかった。
そうすると今度は、岡田啓介内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、内閣総理大臣に任命される。この人は軍人ではない。といっても政党政治家でもない。外交官出身つまり官僚出身です。1936.3月です。しかし官僚は、もともと政治家の下で命令を受ける立場であって、力を持たないんです。組閣の時点で、各大臣は誰々だ、と軍部が干渉してくる。それを防ぐことができない。
1936.5月、大正時代に一旦廃止されていた、軍部大臣は現役の武官でないといけない、つまり現役の軍人でないといけないという、軍部大臣現役武官制を復活させます。これで軍部の力がますます強くなる。この制度は、軍部が腹を立てれば内閣総理大臣のクビをどうにでも飛ばすことができる。こういう制度です。これは、前に言ったように、山県有朋が明治時代につくったものですが、これは軍部の暴走のもととなり批判が多かったため、山本権兵衛が廃止したものです。それが広田弘毅内閣でまた復活した。
1936.8月、国策の基準として、中国北部、満州の隣の華北に軍事進出する、ということを正式に決定した。目的は日本のブロック経済を作り、日本の経済を復活させるためです。
1936.11月、日本はドイツと日独防共協定をまず結ぶ。さっき言ったように、防共の共はソ連を仮想敵国だとしている。次の年にまたイタリアが加わる。
これが戦争直前には日独伊三国軍事同盟に発展していく。そのきっかけになっていく。だから、この人は、日本が戦争に負けたあと、A級戦犯に捕らわれて裁判にかけられ、死刑になる。非軍人で処刑された唯一の総理大臣です。
このときドイツはナチス党です。リーダーはドイツはヒトラーです。イタリアはファシスタ党、リーダーはムッソリーニです。ファシズムというのは全体主義と訳されるけれども、言葉のルーツはイタリアのファシスタ党がルーツです。「束ねる」という意味です。
中国では、国民党と共産党が仲間割れしている。それを一枚岩にまとめる事件が、1936.12月の西安事件です。西安は都市の名前です。昔の長安です。北京よりかなり西のほうにある。張学良という軍人、父親は日本軍によって爆殺された張作霖です。その息子の張学良が蒋介石を監禁して、いま戦うべきは日本だ、共産党と内乱を起こしている場合じゃない、イヤだというならこの部屋から一歩も出さないぞ、と言う。蒋介石は、分かったと言う。これがきっかけとなって、翌年1937.9月に第二次国共合作が結ばれます。
これで中国は一致して抗日つまり日本と戦うことになります。でも裏にイギリスありです。アメリカありです。軍事物資はイギリスとアメリカが中国に援助している。
【林銑十郎内閣】(1937.2~37.5)
それで広田弘毅は軍人に押される一方です。次は林銑十郎という陸軍出身の首相ですけれども、3か月しかもたない。1937.2月~5月です。
【近衛文麿内閣①】(1937.6~39.1)
それで誰か首相いないかな、と思っているときに、ここで出てくるのが貴族院出身、近衛家出身の名門、近衛文麿です。1937.6月に第一次近衛文麿内閣が成立します。1000年前は平安貴族の藤原氏です。近衛家はその分家になります。
実はこの人は、二・二六事件のあとも首相候補になっています。前年の1936.3月に元老西園寺の推薦を受けた昭和天皇から首相の大命が下っていますが、この時は「健康が許さない」ことを理由に断っています。しかし本当の理由は、西園寺の考えるイギリス・アメリカとの協調を基本とする政治のなかでは、自分の考える政治はやっていけないと考えたからです。彼は第一次大戦後、世界が大戦の勝者であるイギリス・アメリカの利害を中心につくられていくことに疑問を持っていました。そういう意味では伊藤博文の系譜につながる政治家です。
しかしイギリス・アメリカという強大な力の前に、一国の首相としてどう向き合っていけばいいか「自信がない」と言うのもホンネでした。だから一度は断ったものの、事態がここに至り、首相を受けざるをえなくなったのです。彼は二・二六事件で皇道派が敗れたあと、自分が皇道派の二の舞になることを予想していたようなところがあります。彼は敗戦後、服毒自殺を遂げることになります。
【日中戦争】 この近衛内閣の時に、日本と中国の本格的な戦争が始まる。これが日中戦争です。1937.7月です。
日本の戦争は、まずアメリカとではないです。まず中国とです。次の予測はソ連です。アメリカと戦うべきでもないし、戦っても勝てない、というのが日本の合意なんです。対米英協調外交路線です。
この時にはすでに、中国も日本と戦う体制ができています。第二次国共合作ができつつあります。
この日中戦争は何がきっかけかというと、北京郊外に盧溝橋という橋がある。その橋の右と左で日本軍と中国軍がにらみあっていた。夜中、一発の銃声が響いて、この銃声の原因は今に至るまで不明です。そしてそのまま戦争に流れこんでいく。これが1937.7月の盧溝橋事件です。
何かよく分からない。やらせだ、偶発事故だ、いろんな説があるけど、結局、この一発の銃声が何だったのか、よく分からない。こういう時には、たぶん部外者でしょうね。
盧溝橋事件に対して、近衛内閣は不拡大方針を出しますが、軍部は聞かない。そのまま軍隊を進めていきます。ここからずっと泥沼状態の日中戦争が始まっていきます。
2ヶ月後の1937.9月、中国では第二次国共合作が結ばれます。
ここで対外事件と対内事件、あわせて4つの事件をまとめます。
1931年、32年、36年、37年の事件です。
外側2つが国外事件、31年の満州事変、37年に盧溝橋事件です。
その中に2つが国内事件、32年に五・一五事件、36年に二・二六事件です。
並べると、31年の満州事変、32年の五・一五事件、36年の二・二六事件、37年の盧溝橋事件となります。
【国民精神総動員運動】 日中戦争が起こった3ヶ月後の1937.10月から日本は、国民精神総動員運動を行い、国民の意識変革を求めていきます。服装から変えていく。女性はもんぺをはきなさい。女子高生にももんぺはきなさい。戦争映画で見たことあるでしょう。あの雰囲気ですよ。贅沢は敵だと。男は、仕事着も国民服です。
【日独伊三国防共協定】 1937.11月、日本はそれまでの日独防共協定に、イタリアを加えて日独伊三国防共協定に拡大していく。仮想敵国はソ連だ、ということです。アメリカを敵としているのではありません。
【南京占領】 北京郊外の盧溝橋から始まって、日本軍が中国内をどんどん南下していく。どこまで行くか。途中で、北京郊外の通州や、中国最大の都市の上海で事件が起こったりしますが、1937.12月に中国国民政府のある南京を占領します。このとき南京の住民は日本軍が攻めてくるということで、郊外に避難していて30万人くらいしかいなかった、とも言われる。
しかし日本軍がここに入って50万人の中国人を殺したという話がある。これが南京大虐殺といわれる事件です。なぜ30万人しか残ってないのに50万人も殺せるのか。人によっては、これは殺されたのは2000人という人、イヤ2万人だという、20万人、50万人ともいう。実態が分からない事件になっています。
アイリスチャンという女流歴史家で、10数年前にこれを本にした人がいました。次の年、なぜか死にました。これを触るとどうも死人がでる。
事実がわからないまま虐殺記念館を南京郊外に中国が建てています。そこらへんはよく分からない。どっちが正しいかではなくて、ただ分からないのです。分からないことを、分かったことにするのは、歴史的ではないです。
これで南京を追われた中国国民政府は、さらに内陸の都市に首都を移す。それが重慶です。このことの意味は、首都を奪われても降参しない、徹底して戦うということです。東京が占領されても、日本が降伏しないようなものです。
【近衛声明】 年が明けて翌月1938.1月、日本の近衛首相は、蒋介石政府である「国民政府を相手としない」という第一次近衛声明を出す。ということは、蒋介石政府を認めないということです。
1938.11月、近衛首相は第二次近衛声明を出します。この日本の中国との戦争は何のための戦争か。ここで初めて、東亜という言葉が出てくる。東アジアの新秩序という意味の「東亜新秩序」建設が表明されます。東亜の意味は、東アジアです。東アジアは独立していない。植民地だらけなんです。イギリス、フランド、オランダ、アメリカの。ここに新秩序をもたらす、ということです。
この日中戦争から、国民の意識として、はっきり戦争してるという意識になります。でも相手は中国です。アメリカとの真珠湾攻撃からではないということです。アメリカはまだ関係ありません。
【国家総動員法】 1938.4月には、国家総動員法を出す。今は非常時だという。この法律によって、何が可能になったか。国会を通さずに、人を自由に動かすことができる。高校生に授業しなくていいぞ、爆弾つくりに行け、道路の改修に行きなさい、そういうことが可能になった。
それから物的資源を自由にできる。自動車会社に戦車つくれ。会社が何をつくるかというのを、国家が統制できるようになる。これは戦時体制です。戦時体制にこの1938年から本格的に入っていくということです。
この段階で、帝国議会つまり国会権限が停止された。廃止はされないけれども形だけです。機能してないから無いのと同じです。
この1920年代から1930年代の20年間をまとめてみると、1920年代は第一次世界大戦後は協調外交路線をとってきた。これはどことの協調外交なんですか。対米英ですね。アメリカ・イギリスとの協調路線です。これ中心となった外務大臣が幣原喜重郎です。意外と影に隠れて目立たない人物なんですけれども、動きとしてはに非常に重要です。このあと、戦後最初の総理大臣になっていきますから。
ところがこれが行き詰まって、さらに世界恐慌が起こる。そして日本は金解禁に失敗する。不景気におちいります。昭和枯れすすきの時代です。そこで日本は苦悩します。
不況でもイギリスはどうにかしのげます。大植民地帝国だから。大きなブロック経済つくって、自分たちの経済圏をつくればいい。しかし何も持たない日本とドイツが困る。アメリカはというと、植民地はちょこっとでも、国土自体が広くて石炭も石油もでるし、問題ないわけです。
1年後には第二次世界大戦が起こります。その2年後には日本が太平洋戦争に突入する。そういう流れになっていく。いまは1938年です。内閣は第一次近衛文麿内閣だった。近衛文麿はこのような状況に行き詰まりを感じ、自ら辞意を固めます。1939.1月に近衛内閣は総辞職します。
【内閣覚え方】 「サイフのオカネ ヒロウタ 林の近道」
サイフの 斎藤実内閣
オカネ 岡田啓介内閣
ヒロウタ 広田弘毅内閣
林の 林銑十郎内閣
近道 近衛文麿内閣
これで終わります。