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授業でいえない日本史 40話 現代 斎藤実内閣~日中戦争

2020-08-26 03:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【斎藤実内閣】(1932.5~34.7)
犬養首相が暗殺されたあと、政党内閣は復活せずに、海軍出身の内閣になります。首相は海軍出身の斎藤実(まこと)です。1932年です。
元老松方正義の死後、元老は西園寺公望1人になっていて、後継首相の指名は元老西園寺公望の推薦を経て天皇が決めることになっていましたが、実質的には元老の意向を天皇が受け入れるのが慣例となっています。
西園寺公望は、立憲政友会の総裁をつとめた政党政治家ですが、現在の政党政治では軍部の台頭を抑えることは無理だと判断します。テロやクーデターは違法ですから、そのような違法行為を起こした軍部の力は弱まるかといえば、そうはならずにかえって軍部の力を強めることになります。それは一つには政党政治が国民の支持を失っていたことがあります。その政党政治が国民の支持を失う経緯は今まで述べた通りですが、その根底には1920年代からの長引く不況や恐慌があります。

軍部出身者が内閣総理大臣になったとはいえ、これですぐに戦争に突き進むかというとそうではなく、斎藤は海軍内の穏健派であって、そういう意味では協調外交派です。ここでは軍部をもって、軍部のテロやクーデターを押さえようとしたという、ねじれた関係があります。

これは軍部に二つの派閥があったということです。一つは対米英協調的な穏健派と、もう一つはそれに反対する派閥です。それは、日露戦争前の山県有朋伊藤博文の対立、つまり日英同盟論日露協商論の対立にまでさかのぼります。

明治初期には、欧化主義が激しく、井上馨による鹿鳴館での舞踏会などが開かれ、それに対する政府批判もありました。そのとき伊藤博文は井上馨といっしょになって欧化主義を推進しています。まず誰よりも先に、幕末にイギリスに密航して、イギリスを中心とする西洋文化を取り入れようとしてきたのは、この伊藤博文と井上馨でした。幕末の段階で、すでに伊藤博文は、イギリス軍艦で国内を移動できるつながりがありました。

ところが明治後期になると、そのイギリス流を推進してきた伊藤博文は、疑問を持ちはじめます。伊藤博文は山県が主張する日英同盟に反対し、日露協商論を唱えます。日英同盟がロシアとの戦争に結びつくのに対し、日露協商論は戦争を回避するための方策です。日露協商論は戦争を避けるために、どこと組むか、それを考えています。しかし伊藤の日露協商論は敗れ去ります。そして伊藤は1909年に暗殺されます。しかしその後も日英同盟派と日露協商派の対立は続きます。それはたんに長州閥に対する反長州閥の対立ではありません。


大正以降は、イギリス・アメリカに対する協調外交と、それに反対する強硬外交の対立となってあらわれます。協調外交路線をとったのが憲政会から立憲民政党へと続く流れであったのに対し、逆に強硬外交路線をとったのが立憲政友会です。


この立憲政友会の初代総裁が伊藤博文です。この経緯は、立憲政友会の成立のところで、説明した通りです。しかし彼は1909年にハルビンで暗殺されました。

次の2代総裁が桂園時代を担った西園寺公望です。
次の3代総裁は原敬です。しかし彼も東京駅で暗殺されました。
そのあとを受けた4代総裁が高橋是清です。しかしこのあとで言いますが、彼も二・二六事件で暗殺されます。
高橋是清が政友会総裁を辞職したあと5代総裁になったのが犬養毅ですが、彼は前に言ったように、五・一五事件で暗殺されます。

つまり歴代の立憲政友会総裁で暗殺されなかったのは西園寺公望だけなのです。そしてその西園寺公望が、ただ1人の元老となって首相に選んだのが、海軍の穏健派で対米英協調的な斎藤実です。西園寺はこのような形で対米英協調派に譲歩したのです。

しかし明治末、伊藤博文が対米英協調的な日英同盟に疑問を持ったのはなぜだったか。それはこの路線に、戦争に巻き込まれる恐れを感じたからです。戦争に巻き込まれないために、どこと組むか。組むべき相手を間違うと手遅れになる。伊藤のこの予測は当たったのでしょうか。


政党政治はこのような形で幕を閉じます。戦前の日本で政党政治が復活することはありません。

ここからは、政党と軍部の対立ではなく、軍部内の対米英協調派とそれに反対するグループの対立がメインになります。ただうまく説明するのは簡単ではありません。

国際状況は、策略、謀略、騙しあい、フェイント、何でもありの状況になります。そのなかで日本は翻弄されていきます。


【満州国承認】 軍部は不況脱出を求めて、内閣に従わずに、独自に満州経営を始めています。すでに前年の1932年に満州国を建国しています。犬養首相は、その満州国を認めたくなかった。イギリスやアメリカがそれに反対するからです。
しかしこの斎藤内閣は、軍部がつくったこの満州国を承認していく。そして積極的に満州国を日本の経済ブロックのなかに組み込んでいこうとする軍部の動きを追認していきます。そのような経済政策と絡んでいます。

少し目をヨーロッパのドイツに転じれば、この1930年代初め、ヨーロッパで一番復興に成功したのが、ドイツのヒトラー内閣です。アウトバーンをバーンと作る、景気拡大策をバーンとやる。この方法は高橋是清の方法と非常に似ています。
アメリカでは1933年に、世界大恐慌以来の共和党のフーバー大統領が大統領選挙に敗れて、民主党のルーズベルト新大統領になります。日本はこのルーズベルト政権と太平洋戦争を戦っていくことになります。


【国際連盟脱退】 日本は1933年に国際連盟を脱退します。これは満州事変がきっかけです。イギリスが満州事変の調査団を派遣する。リットンという貴族が中心だったから、これをリットン調査団という。その報告書を提出して、いろいろ日本に融和的なことも書いてあるけど、つまるところは日本による満州国は認めないと言う。
これが満州事変の2年もあとになったのは、1929年に世界大恐慌が起きて、世界は満州事変どころじゃないんですよ。経済が混乱しているから。企業が倒産しないようにするのが精一杯です。世界はこのとき世界恐慌の対応に追われている。そういう混乱の中で、日本は国際連盟を脱退していく。このときの全権代表は松岡洋右(ようすけ)です。松岡は長州出身で、生まれも伊藤博文の出生地に近い。伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えていた政治家です。


ちなみに松岡洋右の親族は戦争を飛び越えて戦後の日本の政治家とつながっています。松岡洋右の妹・藤枝は、のちの首相である岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父にあたる佐藤松介に嫁いでいます。その長女が佐藤寛子で、佐藤栄作の夫人になります。佐藤栄作は寛子を娶って親戚の佐藤家に婿養子に入っています。佐藤栄作の実兄が岸家の養子となった岸信介であり、その岸信介の娘の子が、史上最長政権となった安倍政権の安倍晋三です。

松岡洋右は、少年の頃から約10年ほどアメリカで生活した経験があり、外交官として出発した異色の経歴の持ち主です。彼はこのあと外務大臣になりますが、そこで相手するのは、ドイツのヒトラー、それからアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、こういう海千山千の世界です。特にルーズベルトとチャーチルは世界を股にかけて、とても読みきれない動きをしていきます。

その2ヶ月後の1933.5月に、斎藤内閣は満州事変の事後処理として、塘沽(タンクー)停戦協定を結びますが、満州の日本軍つまり関東軍は、満州に隣接する華北地方を中国政府から分離させる華北分離工作を続けていきます。

この斎藤実内閣は、1934.7月に、帝人事件という官僚の贈収賄事件で総辞職します。




【岡田啓介内閣】(1934.7~36.3)
その次も海軍出身の首相です。海軍穏健派の岡田啓介です。1934.7月です。

すでに日本と中国の戦争状態は、満州事変から始まっています。そのなかで中国がまとまりきれてないのは、国民党と共産党が内乱しているからです。中国人同士が内乱状態で戦っているわけです。1934年から1936.10月にかけて、共産党は国民党に負けてずっと逃げ始めます。長征というのを何千キロもの道のりを、軍隊を率いて逃げ延びていきます。長征という言葉は、この実態を表してはいません。

1935年に、孫文の後継者である国民党のリーダー蒋介石はそれまでの中国通貨の両に代えて、新しい通貨の「元」を発行します。この時にイギリスは中国の新通貨「元」を法定貨幣・・・・・・これを法幣といいますが・・・・・・と認め、イギリス通貨のポンドとの交換を保障します。つまりこれで蒋介石は自分が発行した紙幣の元で、イギリス製品が買えることになります。そのことはイギリスの中国への武器援助、資金援助を意味します。すでに日本は1931年の満州事変以来中国とは半ば戦争状態にあるのですから、その中国にイギリスが援助するということは、イギリスは日本に敵対したということです。ただ軍事面ではなく、金融的な援助はよく見ていないと非常に分かりにくいのです。

その代わりに中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収されます。香港上海銀行は中国の銀行のような名前ですが、れっきとしたイギリスの大銀行です。しかもこの銀行はアヘン戦争後のアヘンの売上代金をイギリスへ送金するためにつくられたいわく付きの銀行です。長崎のグラバー邸の坂を下るとすぐにこの香港上海銀行の長崎支店があります。日本とも無関係ではありません。今もこの銀行は、香港の通貨である香港ドルを発行している香港の中央銀行です。

1935年にはそのように金融面でイギリスと中国が強く結びついたにもかかわらず、日本は国内問題に終始します。同年、日本では軍部の力が強くなって、一つの憲法学説に対する批判が軍部からでてくる。学問に対しても軍部が注文をつけていく。これを天皇機関説といいます。前に言いましたけれども、大正時代までこれは学会の定説だった。へんちくりんな学説ではない。これに軍部が噛みつく。天皇機関説は美濃部達吉という東大の先生が提唱していた学説です。天皇は神聖にして、という明治憲法をどう受け取るか。少なくとも、美濃部の天皇機関説は、天皇は神ではない、と言っている。軍部はこれが気にくわない。天皇をつかまえて機関であるとは何ごとか、と。
日本の国体・・・・・・国体とは国民体育大会ではなくて国家の体制のことです・・・・・・この国体をはっきりと定めて、天皇主権を打ちだそう、ということになっていく。軍部は国体明徴声明を出していく。日本の国体の特徴を明らかにする声明です。ここで天皇主権の再確認を行い、美濃部達吉の本「憲法撮要」は発禁処分つまり発行禁止になります。


【二・二六事件】 軍部が強くなっていく中で、軍部は軍部で意見の隔たりがあります。2つのグループがある。ここで説明するのは二・二六事件です。次の年1936年2月26日の事件です。

この1936にはヨーロッパーでスペイン内戦が起こっています。まだアメリカは奥に引っ込んでいる。このときには、どことどこが戦うかというと、スペイン内戦というのは、ドイツとソ連の戦いです。
だからこの当時は、戦争やるんだったらドイツとソ連だろうと、みんな思っていた。しかし、このあとの戦争はドイツとイギリスの戦争となり、この時とはぜんぜん違っていきます。

まだ日本はアメリカと戦うという発想もない。そのなかで陸軍内部の対立がある。若い人たちを中心とする青年将校たちは、皇道派と呼ばれる。それに対して、40代以上のお偉いさん、中堅幕領は統制派といわれる。
皇道派というのは、今の日本はこのまま行ってもどうにも発展できない、ここはクーデターでも思い切ってやる以外に国家を改造する道はない、非合法的手段に訴えてやるしかない、そこまで日本は追い詰められてるんだ、そう考えている人たちです。そういう意味では昭和初期からの対米英協調外交に不満を持つ人が多い。これは、おもに20代の青年将校たちです。地方出身者がけっこう多い。

1935年に、この相沢三郎という皇道派の人が、統制派の永田鉄山を暗殺するという事件が起こる。これを相沢事件といいます。そこからこの2つの対立がはっきりと現れてきます。階級的に偉いのは、この暗殺された側の統制派です。この統制派は、斎藤実首相、岡田啓介首相と続く対米英協調外交路線に従い、合法的に政権を運用していこうという人たちが多い。

1936年2月26日に、青年将校を中心とする皇道派が決起するという事件が起こります。これが寒い日です。雪が降るなか、東京永田町一帯が皇道派により占拠されます。青年将校たちが独断で何千人という軍隊を動かす。そして、今の日本のトップを殺していきます。
まず狙われたのが首相岡田啓介です。しかしこの人は、首相官邸のなかで、女中部屋に逃げ込んで見つからなかった。どうにか脱出する。
しかし逃げ切れなかった人が大蔵大臣の高橋是清です。暗殺される。そのほかにも、前首相の斎藤実もいます。


この将校たちが信頼を寄せたのが陸軍大将の真崎甚三郎でした。しかしこれは昭和天皇の、絶対認めないという一言で、鎮圧されてしまう。
そのあと兵隊を動かした青年将校たちは、処刑されていく。これで反乱を起こした軍部の力が弱まったかというと、皇道派の力が弱くなっただけで、逆に統制派が強くなっていく。軍部は統制派でまとまり、軍部の力は一気に強くなっていく。いま言ったように、この統制派は皇道派に比べると、イギリス・アメリカに対して日英同盟以来の協調外交路線をとる人たちが多い。






【世界の状況】

【ドイツとソ連】 ではそのころ世界ではというと、まずソ連が、社会主義関係の政党も一枚岩ではなかったけれど、1935年にそれをまとめて一つの組織、コミンテルンという世界組織をつくる。これはソ連側の動きです。これは、二・二六事件の1年前の1935年のことです。
反ファシズムです。ファシズムはドイツのことです、そのファシズム勢力を駆逐して行こうとする。そのソ連側の統一勢力を人民戦線という。ちょっとぶっそうな名前です。


【スペイン内戦】 このソ連側とドイツ側が、国を二つに分けて内乱状態に入るのが、スペインです。スペイン内戦が1936年から始まる。
スペインの選挙では、ソ連側のアサーニャという人物が勝った。内閣もできた。これに軍部や大地主が大反対して、軍部の将軍フランコが反乱を起こした。これがスペイン内戦です。
アサーニャ側にはソ連が付いている。ではフランコには誰がついているか。これにドイツがつく。イタリアもつきます。日本はまだ無関係です。ドイツが中心になって、フランコのスペイン反乱軍を支援していった。
この対立は、ドイツとソ連です。

ではこれに対して、イギリスはどうか。不干渉です。オレには関係ないという。となると、フランスもそうです。アメリカはそうです。アメリカ国民は太平洋戦争直前でも80%以上が戦争反対です。
ドイツが負けたというイメージが強いけど、この戦いでドイツが負ける、ということじゃないです。1939年に、スペインではフランコ軍が勝つ。つまりドイツ側が勝っていく。そういう状況です。ドイツ有利というのがこの1930年代末の情勢なんです。


【ドイツのラインラント進駐】
 もうちょっと世界を見ると、第一次世界大戦で負けたドイツは、1936年に、国家として軍備や軍隊を持ったらいけないというのは、国家としてありえない、という。普通の国のように軍隊をもちますと宣言する。そして、もともとドイツの一部であったラインラント・・・・・・フランスとの国境一帯です・・・・・・そこは非常に物騒で、いろんな紛争がおこるから、軍隊をそこに駐屯させるという。
これに対してもイギリスは黙認です。何もしない。いいんじゃないか。イギリスは容認します。イギリスがそうならフランスもそうです。これを宥和政策といいます。

確かに第一次世界大戦のドイツへの仕打ちは厳しすぎた、という雰囲気もある。イギリスもフランスも黙認するんだな、ドイツのこと分かってくれているんだな、とドイツは思う。
それが3年後、突然、宣戦布告する、ということになっていく。


【日独伊三国防共協定】 日本はこの時期、ドイツラインラント進駐の翌年1937年に、二・二六事件で倒れた岡田内閣のあと、日独伊三国防共協定を結びます。防共の共は、ソ連のことです。共産党の共です。防共とはソ連を防ぐということです。まだ敵はアメリカじゃないです。このときにはソ連です。というか、太平洋戦争の直前までずっと日本の敵はソ連なのです。しかし実際に戦うのは、まったく違う相手のアメリカです。これはほとんど突然出てくる。だから何が起こっているのか分かりにくいのです。


【ドイツのオーストリア併合】 その翌年の1938.3月にドイツは、同じドイツ人の国であるオーストリアを併合しますが、これに対してもドイツは、ドイツの都市ミュンヘンで会談を開き、イギリスとフランスの了解を取り付けます。イギリスとフランスは1938年段階でも宥和政策です。仲良くしましょう、文句言いませんよ、これで了解している。これを国際条約の合意として結んでいる。

そして次には、ドイツと隣接するチェコスロバキアです。そのチェコスロバキアのドイツ国境にあるズデーテン地方は、ドイツ系住民が住んでるところなんです。ドイツは、民族自決の原則に則って、ドイツ人はドイツ人で一つの国をつくるという。イギリスはこれも認める。1938.9月、ドイツはそのズデーテン地方を併合します。


【アメリカによる日米通商航海条約破棄通告】 しかし、翌年1939.7月に、アメリカが突然、日本に対して日米通商航海条約を破棄通告をする。日本は、エッという感じです。日本の頭に浮かぶのは石油です。日本はほぼアメリカに石油を頼っている。
この条約の意味は、安心してください、日本に石油を売りますよ、というのが条約です。これは逆に条約破棄です。オレは売らなくてもいいのよ、売らないことだってできるんだよ、とアメリカは言ったということです。
日本は、アッやる気か、と思う。今の日本もこの危機はずっとあります。このままでは原発がちょっと無理だから、日本に石油は出ないでしょ。日本人をつぶすには、石油をストップすればいい。


その前に、これは余談かな、今の日本の食糧自給率は先進国中最低です。自給率は3割もない。食糧をストップすれば、自動的に日本人はつぶれます。これは食糧安全保障上、非常にまずいことです。さらにまずいのは、これを日本人がほとんど意識していないことです。軍事上の安全保障も大事ですけど、食い物がなければどうにもならないでしょう。


【独ソ不可侵条約】 その翌月1939.8月に、対立しているドイツとソ連が突然、独ソ不可侵条約を結びます。突然、ドイツとソ連が仲間になった。ソ連と対立している日本はこれに驚いて、当時の首相の平沼騏一郎は、私は辞めますという。辞める理由は、私には分からない、なぜなのか、複雑怪奇だ、という言葉を残して辞めていく。


【第二次世界大戦の勃発】 そしてその翌月1939.9月に、世界では第二次世界大戦が起こります。でもこれに日本がすぐ参戦するわけではないです。この段階では日本と関係のない戦争です。
これはドイツとイギリスの戦いです。イギリスは今まで、ドイツと宥和政策で仲良くしましょうと言っていた。これが突然の宣戦布告です。

きっかけは、ドイツ軍が1939年9月1日ポーランドに侵攻する。すると2日後の9月3日に、イギリスがドイツに宣戦布告します。ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。ドイツのヒトラーはビックリです。
1ヶ月前の独ソ不可侵条約のときに秘密協定があった。ドイツは西からポーランドに侵攻するから、ソ連は東からポーランドに侵攻しましょう、そしたらおあいこだ、ポーランドを分けましょう、という密約です。
約2週間遅れて9月17日ソ連もポーランドに侵攻する。ドイツは西から、ソ連は東からポーランドに侵攻します。
しかしイギリスは、ソ連には宣戦布告しないのです。関係ないというか、イギリスは明確な説明しない。とにかくイギリスがドイツにだけ宣戦布告する。そうするとフランスもドイツに宣戦布告する。
このあとソ連はポーランドだけではなく、この北方にあるエストニア・ラトビア・リトアニアというバルト三国にも侵攻していく。そしてソ連に併合していく。それでもイギリスはソ連には宣戦布告しません。この不思議さが第二次世界大戦にはずっとついて回ります。






【広田弘毅内閣】(1936.3~37.2)
先に第二次世界大戦勃発までの世界の流れをみましたが、また日本に戻ります。二・二六事件以降のことです。岡田啓介内閣という軍部内閣も軍部を抑えきれなかった。
そうすると今度は、岡田啓介内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、内閣総理大臣に任命される。この人は軍人ではない。といっても政党政治家でもない。外交官出身つまり官僚出身です。1936.3月です。しかし官僚は、もともと政治家の下で命令を受ける立場であって、力を持たないんです。組閣の時点で、各大臣は誰々だ、と軍部が干渉してくる。それを防ぐことができない。

1936.5月、大正時代に一旦廃止されていた、軍部大臣は現役の武官でないといけない、つまり現役の軍人でないといけないという、軍部大臣現役武官制を復活させます。これで軍部の力がますます強くなる。この制度は、軍部が腹を立てれば内閣総理大臣のクビをどうにでも飛ばすことができる。こういう制度です。これは、前に言ったように、山県有朋が明治時代につくったものですが、これは軍部の暴走のもととなり批判が多かったため、山本権兵衛が廃止したものです。それが広田弘毅内閣でまた復活した。

1936.8月、国策の基準として、中国北部、満州の隣の華北に軍事進出する、ということを正式に決定した。目的は日本のブロック経済を作り、日本の経済を復活させるためです。

1936.11月、日本はドイツと日独防共協定をまず結ぶ。さっき言ったように、防共の共はソ連を仮想敵国だとしている。次の年にまたイタリアが加わる。
これが戦争直前には日独伊三国軍事同盟に発展していく。そのきっかけになっていく。だから、この人は、日本が戦争に負けたあと、A級戦犯に捕らわれて裁判にかけられ、死刑になる。非軍人で処刑された唯一の総理大臣です。
このときドイツはナチス党です。リーダーはドイツはヒトラーです。イタリアはファシスタ党、リーダーはムッソリーニです。ファシズムというのは全体主義と訳されるけれども、言葉のルーツはイタリアのファシスタ党がルーツです。「束ねる」という意味です。

中国では、国民党と共産党が仲間割れしている。それを一枚岩にまとめる事件が、1936.12月西安事件です。西安は都市の名前です。昔の長安です。北京よりかなり西のほうにある。張学良という軍人、父親は日本軍によって爆殺された張作霖です。その息子の張学良が蒋介石を監禁して、いま戦うべきは日本だ、共産党と内乱を起こしている場合じゃない、イヤだというならこの部屋から一歩も出さないぞ、と言う。蒋介石は、分かったと言う。これがきっかけとなって、翌年1937.9月に第二次国共合作が結ばれます。
これで中国は一致して抗日つまり日本と戦うことになります。でも裏にイギリスありです。アメリカありです。軍事物資はイギリスとアメリカが中国に援助している。



【林銑十郎内閣】(1937.2~37.5)
それで広田弘毅は軍人に押される一方です。次は林銑十郎という陸軍出身の首相ですけれども、3か月しかもたない。1937.2月~5月です。



【近衛文麿内閣①】(1937.6~39.1)
それで誰か首相いないかな、と思っているときに、ここで出てくるのが貴族院出身、近衛家出身の名門、近衛文麿です。1937.6月第一次近衛文麿内閣が成立します。1000年前は平安貴族の藤原氏です。近衛家はその分家になります。


実はこの人は、二・二六事件のあとも首相候補になっています。前年の1936.3月に元老西園寺の推薦を受けた昭和天皇から首相の大命が下っていますが、この時は「健康が許さない」ことを理由に断っています。しかし本当の理由は、西園寺の考えるイギリス・アメリカとの協調を基本とする政治のなかでは、自分の考える政治はやっていけないと考えたからです。彼は第一次大戦後、世界が大戦の勝者であるイギリス・アメリカの利害を中心につくられていくことに疑問を持っていました。そういう意味では伊藤博文の系譜につながる政治家です。
しかしイギリス・アメリカという強大な力の前に、一国の首相としてどう向き合っていけばいいか「自信がない」と言うのもホンネでした。だから一度は断ったものの、事態がここに至り、首相を受けざるをえなくなったのです。彼は二・二六事件で皇道派が敗れたあと、自分が皇道派の二の舞になることを予想していたようなところがあります。彼は敗戦後、服毒自殺を遂げることになります。


【日中戦争】 この近衛内閣の時に、日本と中国の本格的な戦争が始まる。これが日中戦争です。1937.7月です。
日本の戦争は、まずアメリカとではないです。まず中国とです。次の予測はソ連です。アメリカと戦うべきでもないし、戦っても勝てない、というのが日本の合意なんです。対米英協調外交路線です。

この時にはすでに、中国も日本と戦う体制ができています。第二次国共合作ができつつあります。
この日中戦争は何がきっかけかというと、北京郊外に盧溝橋という橋がある。その橋の右と左で日本軍と中国軍がにらみあっていた。夜中、一発の銃声が響いて、この銃声の原因は今に至るまで不明です。そしてそのまま戦争に流れこんでいく。これが1937.7月の盧溝橋事件です。
何かよく分からない。やらせだ、偶発事故だ、いろんな説があるけど、結局、この一発の銃声が何だったのか、よく分からない。こういう時には、たぶん部外者でしょうね。
盧溝橋事件に対して、近衛内閣は不拡大方針を出しますが、軍部は聞かない。そのまま軍隊を進めていきます。ここからずっと泥沼状態の日中戦争が始まっていきます。
2ヶ月後の1937.9月、中国では第二次国共合作が結ばれます。

ここで対外事件と対内事件、あわせて4つの事件をまとめます。
1931年、32年、36年、37年の事件です。
外側2つが国外事件、31年の満州事変、37年に盧溝橋事件です。
その中に2つが国内事件、32年に五・一五事件、36年に二・二六事件です。
並べると、31年の満州事変、32年の五・一五事件、36年の二・二六事件、37年の盧溝橋事件となります。


【国民精神総動員運動】 日中戦争が起こった3ヶ月後の1937.10月から日本は、国民精神総動員運動を行い、国民の意識変革を求めていきます。服装から変えていく。女性はもんぺをはきなさい。女子高生にももんぺはきなさい。戦争映画で見たことあるでしょう。あの雰囲気ですよ。贅沢は敵だと。男は、仕事着も国民服です。


【日独伊三国防共協定】 1937.11月、日本はそれまでの日独防共協定に、イタリアを加えて日独伊三国防共協定に拡大していく。仮想敵国はソ連だ、ということです。アメリカを敵としているのではありません。


【南京占領】 北京郊外の盧溝橋から始まって、日本軍が中国内をどんどん南下していく。どこまで行くか。途中で、北京郊外の通州や、中国最大の都市の上海で事件が起こったりしますが、1937.12月に中国国民政府のある南京を占領します。このとき南京の住民は日本軍が攻めてくるということで、郊外に避難していて30万人くらいしかいなかった、とも言われる。

しかし日本軍がここに入って50万人の中国人を殺したという話がある。これが南京大虐殺といわれる事件です。なぜ30万人しか残ってないのに50万人も殺せるのか。人によっては、これは殺されたのは2000人という人、イヤ2万人だという、20万人、50万人ともいう。実態が分からない事件になっています。
アイリスチャンという女流歴史家で、10数年前にこれを本にした人がいました。次の年、なぜか死にました。これを触るとどうも死人がでる。

事実がわからないまま虐殺記念館を南京郊外に中国が建てています。そこらへんはよく分からない。どっちが正しいかではなくて、ただ分からないのです。分からないことを、分かったことにするのは、歴史的ではないです。

これで南京を追われた中国国民政府は、さらに内陸の都市に首都を移す。それが重慶です。このことの意味は、首都を奪われても降参しない、徹底して戦うということです。東京が占領されても、日本が降伏しないようなものです。


【近衛声明】 年が明けて翌月1938.1月、日本の近衛首相は、蒋介石政府である「国民政府を相手としない」という第一次近衛声明を出す。ということは、蒋介石政府を認めないということです。

1938.11月、近衛首相は第二次近衛声明を出します。この日本の中国との戦争は何のための戦争か。ここで初めて、東亜という言葉が出てくる。東アジアの新秩序という意味の「東亜新秩序」建設が表明されます。東亜の意味は、東アジアです。東アジアは独立していない。植民地だらけなんです。イギリス、フランド、オランダ、アメリカの。ここに新秩序をもたらす、ということです。

この日中戦争から、国民の意識として、はっきり戦争してるという意識になります。でも相手は中国です。アメリカとの真珠湾攻撃からではないということです。アメリカはまだ関係ありません。


【国家総動員法】 1938.4月には、国家総動員法を出す。今は非常時だという。この法律によって、何が可能になったか。国会を通さずに、人を自由に動かすことができる。高校生に授業しなくていいぞ、爆弾つくりに行け、道路の改修に行きなさい、そういうことが可能になった。
それから物的資源を自由にできる。自動車会社に戦車つくれ。会社が何をつくるかというのを、国家が統制できるようになる。これは戦時体制です。戦時体制にこの1938年から本格的に入っていくということです。
この段階で、帝国議会つまり国会権限が停止された。廃止はされないけれども形だけです。機能してないから無いのと同じです。

この1920年代から1930年代の20年間をまとめてみると、1920年代は第一次世界大戦後は協調外交路線をとってきた。これはどことの協調外交なんですか。対米英ですね。アメリカ・イギリスとの協調路線です。これ中心となった外務大臣が幣原喜重郎です。意外と影に隠れて目立たない人物なんですけれども、動きとしてはに非常に重要です。このあと、戦後最初の総理大臣になっていきますから。
ところがこれが行き詰まって、さらに世界恐慌が起こる。そして日本は金解禁に失敗する。不景気におちいります。昭和枯れすすきの時代です。そこで日本は苦悩します。
不況でもイギリスはどうにかしのげます。大植民地帝国だから。大きなブロック経済つくって、自分たちの経済圏をつくればいい。しかし何も持たない日本とドイツが困る。アメリカはというと、植民地はちょこっとでも、国土自体が広くて石炭も石油もでるし、問題ないわけです。

1年後には第二次世界大戦が起こります。その2年後には日本が太平洋戦争に突入する。そういう流れになっていく。いまは1938年です。内閣は第一次近衛文麿内閣だった。近衛文麿はこのような状況に行き詰まりを感じ、自ら辞意を固めます。1939.1月に近衛内閣は総辞職します。



【内閣覚え方】 「サイフのオカネ ヒロウタ 林の近道
サイフの  斎藤実内閣
オカネ   岡田啓介内閣
ヒロウタ  広田弘毅内閣
林の    林銑十郎内閣
近道    近衛文麿内閣




これで終わります。

授業でいえない日本史 41話 現代 日米通商航海条約破棄通告~真珠湾攻撃

2020-08-26 02:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【平沼騏一郎内閣】(1939.1~39.8)
近衛文麿が辞意を固めて退陣したあとは、枢密院議長の平沼騏一郎が首相になります。政党政治家ではありません。もともとは司法官僚です。1939.1月の成立です。

日本はすでに中国と戦ってる。敵はアメリカではなくて、ソ連です。さっき言った通り。ソ連が気にかかっている。


【ノモンハン事件】 対ソ紛争が起こる。北朝鮮の北方の満州です。今でいう中国とソ連の国境沿い、そこで日ソ両軍が衝突する。場所はノモンハンです。ノモンハン事件という。1939.5月です。これは何ヶ月も続くんだけれども、結論いうと日本は負ける。北に行くのは阻まれる。これはソ連との戦いで、まだアメリカはぜんぜん関係ありません。
この1939年の7月には、国民徴用令が出される。軍事産業への人的資源、これの国家管理です。本格的に、高校生は授業なんかせんでよかぞ、軍事動員に行け、といって。そういう人を勝手に動かせる。戦時体制です。


【アメリカの日米通商航海条約破棄通告】 今までの流れで、中国は出てくる、ソ連も出てくるけれども、ほとんどアメリカは出てこない。しかし、このアメリカが突然、1939年7月に、日本に対して、日米通商航海条約の破棄を日本に通告する。ここで初めてアメリカが出てきます。日本は、エッ何で、と思う。

それまでアメリカは、日本が欲しいものは何でも貿易取引で供給しますよ、と言っていた。メインは石油です。前に言ったように、日本は必要な石油をほぼアメリカに頼っている。それを破棄したということは、どういうことか。おれはあんたに石油を売らいことだってできるんだよ、ということです。エッ脅されてるのか、という感じです。アメリカからの輸入が困難になっていくということです。そして2年後には、アメリカは一滴も石油を売らないことを通告します。

なぜこんなことになるのか。ある教科書には、前年の1938年に近衛首相が出した東亜新秩序声明に対して、「アメリカは自国の東アジア政策への本格的な挑戦だとみなした」と書いてあります。でも東亜とは東アジアのことであって、アメリカの領土とは関係ありません。なぜアメリカは、自分の領土でもない東アジアのことについて、日本が発言したことに腹を立てるのか。日本はアメリカ領土のことをとやかく言っているわけではないのに。日本が、東アジアのことに発言した途端に、アジアから遠く離れているアメリカが腹を立てるのです。

世界大恐慌以来、世界ではブロック経済の形成が進んでいます。イギリス通貨のポンドが流通するイギリスブロック(スターリング=ブロック)、フランス通貨のフランが流通するフランスブロック(フラン=ブロック)、アメリカドルが流通するアメリカブロック(ドル=ブロック)、ドイツのマルクを中心とする為替管理地域も形成されています。そういうなかで、日本は円を中心とする円ブロックをつくれるかどうか、それが日本の死活問題になります。その表明が近衛の東亜新秩序なのです。それに対してアメリカは腹を立てます。

東アジアはすでにアメリカのものになっているかと言えば、インド・ミャンマー・マレーシア・シンガポールはイギリス領、インドシナはフランス領、インドネシアはオランダ領、フィリピンだけがアメリカ領で、アメリカの利害とはほとんど関係ありません。それにもかかわらずなぜアメリカが腹を立てるのか。

実はアメリカはこの前年の1938年から、ルーズベルト恐慌に陥っています。1933年からルーズベルトが実施したニューディール政策はうまくいっていないのです。公共事業の成果が出ず、逆に財政難に陥り、財政支出を削減した結果、恐慌におちいります。アメリカはその打開策を求めています。アメリカが経済回復するのは戦争に参入してからです。
アメリカの日米通商航海条約の破棄通告の意図がどこにあるのか、日本は翻弄されます。日本は、日本にあるアメリカ大使館を通じて、国交改善の要請を行いますが、アメリカ政府は冷淡です。

このことは日本にとってたいへん重要な意味をもちますが、ほとんどの教科書にはたった1行サラリと書いてあるだけです。逆に言うと日本の教科書にはこれ以上書けない部分なのです。


【独ソ不可侵条約】 ここでまた変なことが起こります。日本はソ連が敵だと思っていた。ドイツもソ連が敵だと思っていた。だからソ連を対象に日独防共協定という共産主義を防ぐ協定を結んだ。
そのドイツが、突如として独ソ不可侵条約を結ぶ。1939.8.23日です。ドイツとソ連が手を組んだということです。首相の平沼騏一郎は、これを理解できない。「複雑怪奇」という有名で無責任な言葉を残して総辞職する。ここに日本の実力とホンネが表れています。一国の首相さえ世界情勢がよく分からない。君たち高校生が分からないというのも無理はない。8ヶ月間の短命内閣でした。

ではドイツがソ連と結んだのは何のためか。あと1ヶ月もしない1939.9月に第二次世界大戦が起こります。ドイツとソ連が挟み撃ちして、どこに攻めていくか。これはポーランド侵攻の準備のためです。この瞬間に、ドイツにとって思いもよらぬ第二次世界大戦が始まる。
しかしこれはドイツとソ連のフェイントです。ドイツもソ連もこれを本気で守る気がなかった。しかし、日本はそこまで見抜けないまま翻弄されていきます。ドイツがソ連と手を組んだら、日本もソ連と手を組もうということになっていく。

ドイツとソ連は、この直前までスペイン内戦で敵と味方に分かれて戦っています。ドイツのファシズムとソ連の共産主義は敵対関係にあります。
さかのぼれば、第一次世界大戦の時も、ドイツのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラブ主義は対立していました。ドイツとソ連の不可侵条約は見かけ上のものだったのです。

このあとのことを言うと、2年後の1941年に日本は日ソ中立条約を結びます。独ソ不可侵条約を見て、日本はドイツと同様に、ソ連と手を組みますが、結果的にみるとこれもソ連のフェイントです。終戦間際、ソ連が裏切っていく。日本は翻弄され続けます。





【この先の概略】
【日独防共協定】 太平洋戦争を説明する前に、あらかじめここから先の動きをポイントだけ説明していきます。広田弘毅内閣時の1936年に日本は日独防共協定を結びます。敵は共産党のソ連なんです。日独 VS ソ、です。アメリカは出てきません。


【ノモンハン事件】 平沼騏一郎内閣時の1939年にノモンハン事件が起きる。これは、日 VS ソ、です。アメリカは出てきません。


【日米通商航海条約破棄通告】 平沼騏一郎内閣時の1939.7月に、突然アメリカが日本に対して日米通商航海条約を破棄を通告する。日本にとっては寝耳に水です。


【独ソ不可侵条約】 平沼騏一郎内閣時の1939.8.23日に、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結ぶ。これで日本は、あれっと、理解できない。ドイツとソ連が手を組んだ。しかしこれはフェイントです。


【第二次世界大戦勃発】 日本の首相が平沼騏一郎から次の阿部信行に変わった直後の1939.9.1日、ドイツがポーランドに侵攻します。
すると2日後の1939.9.3日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。フランスも宣戦布告します。独 VS 英仏、です。
この理由は、イギリスがポーランド相互援助条約を結んでいたからだ、とされます。しかしこの条約は、以前からあったものではなく、独ソ不可侵条約が締結された2日後の1939.8.25日に慌てて結ばれたものです。このことによって宣戦布告への布石が打たれます。

こうやって1939.9.3日第二次世界大戦が始まった。ドイツに対して宥和策をとっていたイギリスが突然ドイツに宣戦布告します。アメリカは、まだ出てきません。
しかしイギリスは、約10日遅れてソ連が独ソ不可侵条約にしたがって同じポーランドに侵攻しても、ソ連には宣戦布告をしません。ポーランドと相互援助条約を結んでいたことが宣戦布告の理由なら、同じ行動をとったソ連にも宣戦布告をすべきなのですが、そうはなりません。理屈が合わないのです。


【日独伊三国軍事同盟】 当初はドイツが快進撃、ヨーロッパで強かった。日本は、ドイツにつこう、ということで、1940.9月日独伊三国軍事同盟を結びます。今、さきの流れだけを言っています。詳細はあとで言います。ここで日独伊が手を組んだ。


【日ソ中立条約】 すると、独ソ不可侵条約に倣おうということで、ノモンハン事件で敵であった日本とソ連が手を組んだ。これが1941.4月日ソ中立条約です。でもこれもフェイントです。


【独ソ戦】 しかし手を組んだはずのドイツとソ連が突然、戦いだす。1941.6月独ソ戦です。これがドイツとソ連のホンネです。日本は戸惑います。日本が、ソ連と1941.4月の日ソ中立条約で手を組んだとたん、その2ヶ月後の1941.6月に同盟国のドイツがソ連と戦う。独 VS ソ、です。また日本は翻弄されます。まだアメリカは出てきません。日本ともドイツとも、まだアメリカは敵になっていません。アメリカには参戦する理由がないからです。


【太平洋戦争】 しかし、この1941.12月太平洋戦争が始まる。これが日 VS 米です。これで日本は決定ですね。これが突然だということです。ほとんど流れの中心ではない。この動きは、最後に突然出てくる。だから非常に理解しにくいんです。


【ソ連の対日参戦】 最後までいうと、日本とソ連の、日ソ中立条約がありながら、1945年、終戦まぎわにはソ連が対日参戦する。日 VS ソ、です。日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦してくる、ということです。
こういう流れを、次に内閣を追って説明します。





【阿部信行内閣】(1939.8~40.1)
平沼騏一郎内閣が、1939.8月の独ソ不可侵条約の成立により「複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したあと、総理大臣になったのが陸軍出身の阿部信行です。陸軍大将です。1939年8月28日に組閣を命じられ、2日後の8月30日に阿部信行内閣が成立します。
このとき昭和天皇からは、「英米との協調方針」を取ることとの異例の指示があります。外務大臣には、新米英派の海軍大将野村吉三郎が就任します。 


【第二次世界大戦勃発】 今言ったように、1939年8月30日の阿部内閣成立から2日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻します。

するとその2日後の9月3日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。1939年9月3日、海の向こうのヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発します。
この時には、まだ日本はドイツと軍事同盟を結んでいませんし、ヨーロッパの戦争と日本は関係ありません。日本は大戦不介入を表明します。日本は戦争に加わりません。

さっきも言ったように、第二次世界大戦の直接のきっかけは、ドイツとソ連のポーランドへの侵攻です。ドイツとソ連が、それぞれ東と西からポーランドに侵攻したことに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したのであって、ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。
ドイツがイギリス領土に攻め込んだわけでもないのに、なぜイギリスがドイツに対して宣戦布告をするのか。イギリスとポーランドとの相互援助条約が理由とされますが、イギリスはそれまでドイツに対して宥和政策をとっていたのです。そのイギリスはドイツと外交交渉するでもなく、突然ドイツに宣戦布告をするのです。
しかもイギリスは、同じポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をせずに、ドイツにだけ宣戦布告をします。理屈が合いません。しかしここから第二次世界大戦が始まります。

これにはヒトラー自身が驚きます。ヒトラーはこれで宣戦布告されるとは予想もしていないのです。だからヒトラーは、アメリカのルーズベルトに密かに、この宣戦布告を取り消すよう調停してくれることを頼みます。しかし、アメリカのルーズヴェルトは、素知らぬ顔で、一蹴りします。

実はこの1939年にドイツは「帝国銀行法」によりドイツの中央銀行を国営化しています。イギリス・アメリカの中央銀行は国営ではなく民間銀行です。しかしドイツは国営銀行になりました。これによりドイツの通貨発行権はヒトラーが握ります。これにいちばん腹を立てたのは、イギリスやアメリカの国際金融資本家だったと言われます。

同月1939.9月、ソ連とのノモンハン事件は、日本が劣勢です。日本は、これは撤退だ、中止だ、と撤退させます。実質的には日本の関東軍が敗北しています。
1939.10月、価格等統制令を出します。中国とはすでに戦っていて、戦時経済に入っていきます。
国民の間には、戦時経済と物価高騰に対する不満が高まり、それに乗っかる形で、政党勢力が阿部内閣に対する批判を高めます。こういう中で阿部信行内閣は1940.1月に総辞職します。わずか5ヶ月の短命内閣です。





【世界の状況】
【1940年】
 目をヨーロッパと世界に転じて見ると、1939年第二次世界大戦が始まって約1年間はドイツが優勢です。ドイツの西隣にあるオランダをまずドイツが占領する。そのドイツの勢いに、イギリスは見る影もない。とっとと大陸から退散していく。フランスもそうです。

イギリス軍は、ヨーロッパから去って、本国ブリテン島に帰っていく。
そのままドイツ軍は、フランスに入って首都パリを落とす。フランスは、あっという間ににドイツに負けます。ドイツがフランスの大半を占領する。フランスは早々と降伏です。
フランスの中にも、フランスよりもドイツにつく人たちも出てくる。親ドイツ政権のヴィシー政府がフランスに成立する。

翌年の1940.9月に、日本は北部仏印進駐を行う。ドイツの快進撃を見て、日本が北部フランス領インドシナ・・・・・・ここは今のベトナムです・・・・・・そこに日本は進出する。
こういうドイツ優勢の動きの中でその同月1940.9月に、日独伊三国軍事同盟が結ばれます。

ドイツに降伏したフランスは、イギリスに逃げたフランス将軍が、フランス国民よ戦え、と呼びかけている。自分は逃げていてこう言うのも変なものですが、これがド・ゴールです。これをフランスの亡命政府という。
しかしド・ゴールはイギリス・フランスが勝ったあと、戦後のフランスを代表する大統領になっていく。ド・ゴール大統領です。しかしこの時はイギリスに逃げているんです。
それに対して、フランス人のなかには、ドゴール将軍の呼びかけに、ドイツと戦おう、という人たちが出てくる。この運動をレジスタンスという。抵抗という意味です。

ちょうどこの頃イギリスは、前の首将のチェンバレンは、戦争反対だったけれども、戦争好きの首相が登場する。これがチャーチルです。これがアメリカのルーズベルト大統領と仲がいい。イギリスはドイツ軍に空爆されながらも、どうにか持ちこたえる。


【1941年】 ここから1941年です。日本はドイツにあわせて、ソ連と手を組む。これが1941.4月日ソ中立条約です。
しかしそのインクもかわかない2ヶ月後の1941.6月に、仲間になったはずのドイツとソ連が戦い始める。これが独ソ戦です。

どうなっているのか、日本は理屈が立ってないんですよ。日本はこうやって翻弄されてきます。ドイツがソ連に宣戦布告する。この理由は私も分からない。ヒトラーがソ連ぎらいであったとしか書いてない。なぜヒトラーがソ連が嫌いだったのか。政治家はそんなに好き嫌いでは動かない。今はヒトラーは極悪人になってるけれど、良い悪いは別にして、一応、名の通った一国の首相です。そんな好き嫌いでは動かないです。

戦況はこれで変わる。今までドイツとソ連は仲間でした。それまでイギリスもソ連とはあまり仲が良くなかったんです。そのソ連がイギリスと手を組みます。これが1941.7月英ソ軍事同盟です。
これで実は半分はドイツの負けです。あとの半分が、イギリスがアメリカのルーズベルトを引っ張ってくる。これで決まりです。

こののち、真珠湾攻撃の直後の9月8日にアメリカが参戦する。第一次世界大戦でアメリカがイギリス側に立って参戦したパターンと同じです。イギリスとアメリカは常にこうです。政治家が違うだけで、ストーリーは変わりません。
ソ連は、ロシアの民衆の抵抗も手伝って、ドイツ軍の進出を阻む。ソ連はドイツの東にあり、これでドイツの東部戦線は長期化していくわけです。

独ソ戦に戻ります。独ソ戦の開始が1941.6月です。その1ヶ月後1941年7月28日に、日本は南部ベトナムに進出する。これを南部仏印進駐といいます。南部仏印とは南部ベトナムのことです。このときベトナムはフランスの植民地です。南部フランス領インドシナ進駐です。狙いは、インドネシアのスマトラ島に石油がある。アメリカは1939年に日本に、石油を売らなくてもいいんだよ、と言った。だから日本ははやく石油を確保しないといけない。

するとその3日後の1941年8月1日に、アメリカは対日石油輸出禁止を発表します。石油を一滴も売らない、と決定したんです。これを日本は予想してたかというと、ア然とします。エッ何でだ、と。オレたちはアメリカに何かしたの、という感じです。とにかくこれで石油が入ってこなくなった。石油備蓄は長くてあと1年です。日本は焦ります。

このときの首相は近衛文麿です。近衛文麿は、ヒトラーが取った行動とほとんど同じです。ルーズベルトさん、これはどうにかならないでしょうか、二人で話し合いましょう、と日米のトップ会談を申し込む。しかしルーズベルトは、知らん顔で、また一蹴りする。

一蹴りしてすぐ、その約10日後にイギリスのチャーチルと会うんです。このへんは日付を追わないと分かりません。3日で情勢が変わる。ルーズベルトはチャーチルと会って1941年8月12日太平洋憲章を発表する。
イギリスはこのときまだ負けてるんです。負けているのに、この大西洋憲章は勝ったあとの予定を話し合っているんです。アメリカ大統領と。
しかもアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していません。戦ってもいないアメリカと、第二次世界大戦でイギリスが勝ったあとのことを話し合います。これは不自然です。
そしてそこで、この戦いはドイツという悪のファシズムとの戦いだ、と戦争の意味づけと正当化を行います。このドイツのファシズムを懲らしめるために、俺たちアメリカとイギリスは、民主国家として立ち向かうんだ、とアメリカ・イギリスは言います。

さらに、勝てば新しい国際組織である国際連合をつくろうということまで決めます。今までの国際連盟はヨーロッパのスイスにあります。今度はアメリカのニューヨークにつくろうという。ニューヨークにはそれだけの空き地がない。それは心配しなくてもいい、大金持ちが寄付しますから、という。これがロックフェラー財閥です。ロックフェラーの私有地がボーンと寄付される。世界平和のためだという。でもお金持ちほど、儲からないことはしないんです。

つまりここで三大国家、米英ソが手を組んでいるんです。これでほぼ決まりです。蒋介石の中国も米英側につきます。そのあとは、どうやってアメリカが参戦するか。その理由作りです。

ソ連のスターリンは、イギリスが嫌う世界革命路線、これを放棄する。イギリスとアメリカは、よしよし、それでいいんだ、仲良くしましょう、とロシアにいう。

日本が太平洋戦争に突入する前に、こういう状況がすでにでき上がっています。






【米内光政内閣】(1940.1~40.7)
1941.8月までの世界の状況を先に言いましたが、ここから阿部信行内閣が総辞職した1940.1月の日本に戻ります。
次は海軍出身の首相です。軍人であることには変わりはないです。1940.1月、米内光政内閣が成立します。さっき言ったように、この時はドイツがまだ快進撃を続けている最中です。日本はまだ太平洋戦争に突入していません。

日本はアメリカとではなく中国と戦っています。その中国のなかにも、蒋介石の中国はどうもおかしいと思う人がいる。それで蒋介石の重慶政府を脱出する。そして日本と協力する。これが汪兆銘です。日本の支援のもとで蒋介石政府とは別の南京新政府をつくります。

この米内光政内閣は陸軍との対立で半年しか持たない。1940.7月に総辞職します。



【近衛文麿内閣②③】(1940.7~41.10)
たった1年半の間に3つの内閣が次々に倒れたあと、残るは近衛文麿しかいない。1940.7月第二次近衛文麿内閣ができます。ここから1年3ヶ月、真珠湾攻撃の2ヶ月前の1941.10月まで首相を務めます。この1年3ヶ月の在任期間は、この時代では長いほうです。この時代の内閣は短命内閣続きで、半年持てばいいほうですから。
彼は外務大臣に松岡洋右を起用します。基本的な外交方針は、ソ連と組んで、アメリカ・イギリスとの戦争を避ける方針です。


【北部仏印進駐】 世界の動きを先に言いましたが、再度それを日本を中心にして見ていきます。
近衛内閣成立から2ヶ月後の1940.9月、日本は北部仏印進駐を行います。仏印というのはフランス領インドシナのことです。フランスの植民地です。北部仏印とは今の北ベトナムです。


この動きの背景にあるのは、前年の1939.7月に突如としてアメリカが日本に対して、石油を売らなくてもいいんだよ、と言ったことです。それが日米通商航海条約の破棄通告です。それで日本は、急いで石油を確保しようとする。石油はインドネシアのスマトラ島にあります。
もう一つは、日本軍は満州から北に行こうとしてソ連と戦ったノモンハン事件で負けた。これが1939.9月です。北がダメなら南しかない、という南進策への方針転換です。この二つが合体して北部仏印進駐になります。

さらにもう一つあります。日本は中国と戦ってます。戦局は日本に有利です。しかし中国に勝っても勝っても、中国の物が尽きない。武器、弾薬、鉄砲が尽きない。それはなぜか。イギリスアメリカが中国を応援して補給しているからです。ベトナムやビルマの南の密林に道を通している。これを援蒋ルートといいます。援蒋ルートとは、蒋介石援助ルートのことです。米英は半ば公然と中国を支援しています。日本はこれを断ち切りたい。
ちなみに、蒋介石の嫁さんは中国随一の浙江財閥の娘の宋美麗です。浙江財閥とは上海の隣の浙江省を拠点にした、イギリスと関係の深い財閥です。上海はイギリスの拠点です。宋美麗はさらにアメリカとも接近し広告塔として活動していきます。


【日独伊三国軍事同盟】 北部仏印進駐と同月の1940.9月、外相の松岡洋右はドイツ駐在の来栖三郎大使に指示して、ドイツと同盟を組む。イタリアもふくめて。これが日独伊三国軍事同盟です。このときはドイツの快進撃の最中で、日本には「バスに乗り遅れるな」という雰囲気がある。松岡洋右は、日本がドイツ・イタリアと組んで集団安全保障体制を強化すれば、アメリカはこれ以上日本と対決することはないだろうと考えます。
しかしアメリカの構想はそれを上回る規模で、世界全体を見ていることが翌年1941.8月の大西洋憲章で明らかになります。逆にアメリカは日本と戦うチャンスをうかがっていたのです。

この日独伊三国軍事同盟によってアメリカのルーズベルトとの関係は悪化します。しかしアメリカの国論は、国民の85%が戦争反対です。ルーズベルトは日本に宣戦布告できない。
ルーズベルトはイギリスのチャーチルと接近しています。しかしイギリスとアメリカとの間に同盟関係はありません。その前にアメリカはまず国際連盟にさえ加盟していない。これでどうやって戦争したらいいのか。

ドイツはアメリカを攻撃しているわけではないから、アメリカはドイツと戦う理由がない。
しかし日本と戦うことができれば、ドイツとも戦うことができる。日本とドイツの日独伊三国軍事同盟はアメリカがドイツと戦う絶好の理由を与えたのです。日本とドイツは、このあと軍事的な共同作戦をとることはありませんし、実質的には機能しません。しかしアメリカ側からすれば攻める理由になるのです。日本が先に手を出せば、アメリカはいつでも日本・ドイツと戦うことができる状況が生まれたのです。


【新体制運動】 近衛首相は、戦争体制固めとして新体制運動を始めていく。
もう政党はいったん活動を停止しましょう、挙国一致でやりましょう、一つの政党があればいいじゃないか、という。それでこの政党を大政翼賛会という。1940.10月です。ここで政党は解散しました。政党がすべて解散して、一つの政党になった。そして一つの政党のもとに、県、市、町、村、町内会、部落会、隣組、そこまで徹底して組織していく。しかしこうなると滅多なことは言えなくなります。この戦争勝てるのとか言うと「非国民」と言われて、しょっぴかれていく。滅多なことがことが言えない世の中です。

それから労働組合も活動を停止しましょう、となる。翌月1940.11月です。これが産業報国会の成立です。報国というのは、先生に報告するんではなくて国に報いる会です。労働組合の消滅です。今はそれどころじゃない、ということで。

これが日本のファシズム体制だ、というふうに、ヨーロッパでは言われるけれども、これはこの時点で、日本がどれだけ危機感を持っていたかという証しでもある。これは楽に勝てるとかまったく思ってない。しかし国民に負けるかもしれないと言うと、戦争反対になるからそうは言えない。これは本当に危機感をもってないと、やれないことなんです。
実際、この戦争で勝てるといった人もいないんです。でもやらざるをえない状況が生まれつつある。

1941.4月からは、小学校も小学校じゃなくなる。国民学校という。このころ小学校を卒業した人は、小学校卒業じゃない。国民学校卒業です。
物資も、切符制・配給制になる。切符制というのは、お金のほかに切符がないとモノを買えない制度です。自由に物が買えなくなる。物が足らないから。


【日ソ中立条約】 さきの1939.8.23日にドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。でもこれはドイツとソ連のフェイントであることが、このあとすぐに分かります。しかし日本はこれを信じて、ドイツに歩調をあわせてソ連と手を組みます。
それが1941.4月日ソ中立条約です。これも外相の松岡洋右が結びます。松岡は日独伊にソ連を加えて、日独伊ソの四カ国で軍事同盟を組もうとします。つまり日独伊三国の集団安全保障体制にソ連を加え、それをさらに強固なものにしようとしたのです。この時点では、独ソ不可侵条約日ソ中立条約日独伊三国軍事同盟、この三つの条約に矛盾はありません。このことは、伊藤博文の日露協商論以来の流れと関係しています。


軍部はこれで北方のソ連とは戦わないことになったから、北方にいた軍隊をみんな南に集中し、南進させようとします。


(太平洋戦争前の日本の国際関係)



ここで注意すべきは、アメリカは日本の国際条約の枠のどこにも入っていないことです。日本が戦っているのは中国であり、日本軍が進駐したのはフランス領インドシナです。そしてねらっているのはオランダ領インドネシアの石油です。アメリカはこの関係の中で枠外にいて、日本と直接対立する立場にはありません。それがなぜ、日本がアメリカの真珠湾を攻撃することになるのか。そこの疑問点にだんだん近づいていきます。


【独ソ戦】 しかしその2ヶ月後の1941.6月に、ドイツはソ連と独ソ戦を開始します。これがドイツとソ連のホンネです。ここで日本の集団保障体制の三本柱の一つである独ソ不可侵条約が破綻したのです。これで日ソ中立条約が宙に浮く形になる。実効性を持たなくなる。ドイツとソ連が戦っているのに、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、ドイツとは日独伊三国軍事同盟を結んでいるという矛盾です。この状態ではお互いが疑心暗鬼になり、日独伊三国軍事同盟も日ソ中立条約も機能しなくなります。

ドイツにとってもこの独ソ戦は、戦力を西と東の二つに分けることになり、戦力の低下につながっていきます。この独ソ戦は第二次世界大戦の一つの謎です。表面上の理由はドイツとソ連が石油利権で対立したことになっています。


【日本の在米資産凍結】 アメリカにも日本移民がいっぱいいます。かなりお金持ちになっている日本人もいる。まだアメリカとは戦ってないです。戦ってないけれども、おまえたちは敵国民だといって、アメリカの在米日本人の資産を凍結し、強制収容所に送るんです。これが1941.7月の在米日本資産凍結です。ドイツがユダヤ人を強制収容所に入れたことは有名ですけど、アメリカが日本人を強制収容所に送って財産を没収したことは、あまり知られてないです。


【南部仏印進駐】 1941年7月28日、日本はさらにベトナム南部へ軍を進める。これが南部仏印進駐です。1年前は北部仏印だった。時は近衛内閣です。


【アメリカの対日石油輸出禁止】 その3日後の1941年8月1日に、アメリカが日本に石油一滴も売らない、と通告してきた。アメリカによる対日石油輸出禁止です。日本にとっては寝耳に水です。この間たった3日です。

そこで、にわかに開戦論が出てきます。日本はそれまでずっと日米戦争を避ける方針でした。ただ、ここで石油が手に入らなくなると、このままではどうしようもないというジリ貧論が出てきます。このままでは座して死を待つだけだと。しかし勝てるとは一人も言えない。日本はそういう窮地に追い込まれたのです。「窮鼠、猫を噛む」状態です。追い込まれたネズミは猫を噛みに行く、という意味です。

陸軍は開戦論です。海軍は消極論です。この海軍では、勝てるとしても1年以内の短期決戦しかないという。勝ち目は薄い。だから戦わないほうがいい、という。
しかし陸軍はちがう。1年以内の短期決戦しか勝算がないのなら、即座に戦うべきだと言う。軍部内での海軍の消極論は分が悪い。しかし国力差は、日本対アメリカで、1対77です。これは勝てないです。

このあとすぐ、近衛首相は打開策を求めて、アメリカのルーズベルトに日米の首脳会談を申し出ます。しかしルーズベルトはそれを拒否します。

そしてルーズベルトは10日後にチャーチルと会う。ルーズベルトとチャーチルで、二国間で話し合いが行われている。そして1941年8月12日大西洋憲章を発表します。憲章という難しい名前になっていますが、これはアメリカとイギリスの二国間の取り決めにすぎません。

その間も日本はこの戦争の回避交渉はずっと続けます。それが野村吉三郎という駐米大使です。この人は有能な人なんですが、4ヶ月後の宣戦布告の暗号電文だけ、30分遅れて届けことになっています。この間の事情は、誰も口を割らないです。


【ABCD包囲網】 そういったなかで、アメリカが石油を輸出しなければ、オレも、オレも、オレもと、他の国もそれに倣っていく。1941年には、日本に対してABCD包囲網があっという間にできる。
Aはアメリカ、Bはブリテンのイギリス、Cがチャイナの中国、Dはダッチというのはオランダです。この4ヶ国が日本に経済制限をかける。この戦いは、最初から非常に厳しいですね。これではちょっと戦えないです。
しかし猫に追い詰められたネズミは死ぬとわかっていても、最後は猫に飛びかかっていく。「窮鼠、猫を噛む」です。出てくるのはそういう言葉です。




【東条英機内閣】(1941.10~44.7)
近衛文麿の次が東条英機です。東条英機内閣が組閣される。1941.10月です。近衛内閣の陸軍大臣です。


【ハル・ノート】 3か月間の交渉もむなしく、3か月後の1941.11月に、アメリカの国務長官・・・・・・大統領に次ぐナンバーツーの地位です・・・・・・のハルが日本に要求を伝えます。これをハル・ノートという。軽いメモ書きみたいな呼び方ですけれども、国家のナンバーツーが、他国の政府に文書を届けるということは、正式文書と同じです。
そこに何が書いてあったか。日本は出て行けという。まずフランス領インドシナから出て行け、それだけではなく、中国大陸から出て行け、さらに満州から出て行け、という。これは日本としては、ありえないことです。
ここまで言われると、日本は、これはやる気だな、と思う。あっちはやるつもりですよ、と。しかもこのハル・ノートは、アメリカ人にも知らされていない。あとで聞くと、マッカーサーさえ知らないものです。つまりこれはアメリカでさえ同意を得られていないものです。これは日本に戦争をけしかける動きです。
事実その通り日本は、ハル・ノートを事実上の宣戦布告だと、捉える。しかし、アメリカはイヤイヤそんなことはない、と言っている。でもこれは少なくとも最後通牒です。


【太平洋戦争】 翌月12月1日に、御前会議つまり天皇の臨席のもとでの会議が開かれ、これだけのことを言われたらもうやるしかないでしょう、となる。誰一人勝てるとは言わないままです。それでもやるしかない、というのが太平洋戦争です。そんなことまで言われたらやるしかない、という感じです。
この太平洋戦争という名前も戦後、日本が負けてからアメリカがつけた名称で、日本は大東亜戦争といってました。大きな東アジアの戦争だという意味です。アメリカは、それまでどこにも出てきてなかったのですから。

日本の戦争目的もここで、はっきり打ち出します。大東亜共栄圏の樹立を掲げます。大東亜とは東アジアです。東アジアはほぼヨーロッパの植民地になっている。ここは共栄してない。共栄させようじゃないか、ということです。
まずヨーロッパを追い払わないといけない。植民地をやめさせないといけない。
結果として、日本は負けたけれども、この最後の目的だけは達成する。戦後、アジアの国々は全部独立していきます。


【真珠湾攻撃】 開戦が1941年12月8日です。相手の軍港、ハワイの真珠湾を攻撃する。
結果的に30分の通告の遅れで、奇襲だ、騙し討ちだ、と言われることになります。その結果、アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、これが合言葉になる。「真珠湾を忘れるな」という意味です。オレたちは奇襲攻撃されたんだ、あの黄色いジャップは許せない、という。あれだけ戦争に反対していた国民が、一気にこれで戦争支持に変わる。奇襲とされたことの意味は大きいです。

これには裏話があります。アメリカは、日本の暗号解読に、1年以上前から成功しているんです。だから、日本の情報は筒抜けだった。ルーズベルトも、真珠湾攻撃のことを本当は数日前から知っていたんじゃないかという話もある。攻撃目標のメインとされたアメリカ空母はすべて湾外に出払っていて、真珠湾内には一隻もいませんでした。こういう形で真珠湾攻撃は成功し、「トラトラトラ」の暗号電文が日本に打たれます。

しかし日本は、ハワイを攻撃したいわけではありません。本当に目指しているのは、東南アジアです。このあとアメリカ本土に進軍したわけでもない。だからアメリカ本土には、爆弾は一発も落ちてないです。

日本の作戦の中心は、このあと、まずイギリス植民地のシンガポール、これを同時に占領します。イギリス兵は追い出される。
次にはフィリピンに行く。ここはアメリカが植民地であった。アメリカ兵が追い出される。この時追い出されたフィリピン総督が、日本の敗戦後に占領軍の司令官になるマッカーサーです。
インドネシアはオランダの植民地であった。オランダ兵は追い出される。
そういう姿を現地の人ははじめて目の当たりにするわけです。



【内閣覚え方】 「平沼に アベック ヨーナイ ココハ ヒデー
平沼に  平沼騏一郎内閣
アベック 阿部信行内閣
ヨーナイ 米内光政内閣
コ    近衛文麿内閣②
コハ   近衛文麿内閣③
ヒデー  東条英機内閣



これで終わります。

授業でいえない日本史 42話 現代 ミッドウェー海戦~敗戦

2020-08-26 01:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【東条英機内閣】続き
太平洋戦争という名前ですけど、もともとは大東亜戦争なんですけれども、戦後は太平洋戦争というんです。しかしこれまで説明してきたように、もともとはアメリカとの戦いではなかったから、最近ではアジア太平洋戦争ともいいます。いま太平洋戦争は、アジア太平洋戦争という言い方がだんだん多くなってきている。
もともとは日中戦争だから、アジアをつけないとどこかおかしい。アメリカとばかりやっていたんじゃない。真珠湾、真珠湾というけれども、真珠湾攻撃の時も、同時にシンガポールとか、インドネシアとか、フィリピンとか東南アジアに軍を進めています。真珠湾攻撃は日本海軍だけの動きです。東南アジアには、オランダの植民地、、イギリス植民地、アメリカの植民地、フランスの植民地、いっぱいある。そこで戦っているわけです。


【ミッドウェー海戦】 当初半年はよかったけれども、逆転される。これは、予想されたことです。短期決戦しか勝つ道がないだけでも、その短期決戦が無理になったのが、6ヶ月後です。
開戦は1941年12月です。次の年1942年6月に、ミッドウェー海戦がある。太平洋上でやって、ものの見事に敗北した。この裏には日本の暗号がすべて読まれていた、という事情がある。だから何時何分に、日本はこうする、とアメリカは全部知ってる。
大敗北なんだけれども、ここから日本では報道統制がかかる。マスコミ統制が効いていますから、負けは伝えない。伝えないのは、ウソ言ったことにはならない。伝えなければ分からない。たまに勝ったことだけ伝えるから、ほとんどの人は敗戦直前になるまで、日本が負けることを知らないです。ニュースをみて日本が負けると思った人は、日本人に100人に1人もいないですね。あとの99人は、日本ずっと直前まで、私の母も、このとき二十歳前ですが、知らない。ほとんどの人間はそれを知らない。

そのなかで国内体制は、政党がない翼賛選挙ということをやって、自由に立候補できない。政府が推薦した候補者しか立候補できない。そういう状態になる。


【スターリングラードの戦い】 海の向こうのヨーロッパでは、ドイツとイギリスが戦っています。ドイツはソ連とも戦っています。ドイツの快進撃がストップされた戦いが、やはり1942.8月スターリングラードの戦いです。今は名前を変えてボルゴグラードという都市になっています。

次の1943年になると、アメリカ優勢の中で、アメリカは頭いいから、日本がずっと南に前戦を伸ばしてる。そういう時に、日本の戦艦と戦うよりも、日本と戦うためには、兵站といって、軍需物資を輸送する必要があるんですね。その輸送経路をプツッと切るだけでいい。これが潜水艦作戦です。
だから日本の南洋諸島にいた兵隊さんは、君たちと同じ年齢ぐらいの人たち、鉄砲があっても、弾がない。その上にだんだん食い物が、届かなくなる。非常に悲惨な状態で負けていくことになる。こういったことも、何時何分、どこの海峡を通るという、暗号が読めないとなかなかできない。アメリカは暗号を読むんです。


【劣勢】 日本の劣勢は明らかになり、1943.2月、日本軍はガダルカナル島という南方の島を撤退します。これが日本が勝てない、ということがはっきりした。日本の勝算の見込みが消滅したんだけど、このときも敗退と言わずに、転進とかいう不思議な言葉を使う。
そうすると庶民は、忙しいから新聞の見出しだけ読んで、中身を読まない。転進して進んでいるんだから、勝っているんだと思う。

例えば、敵機3機撃墜と見出しで書いて、ずっと読んでいくと、一番最後に我が方の損害は10機であった、これは負けている。でもみんな気づかない。某新聞などは、そういうことをやっていくんです。

一番、人気が高かった海軍の山本五十六元帥、
「してみせて いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
これけっこう有名な歌です。
1943.4月、南方ニューギニア島の東あたり、島から島へと飛行機で飛ぶ予定のところを、敵機に発見され、撃墜されて死亡です。こんなところでめったに敵機と遭遇しないです。国のトップが。暗号がすべて読まれてる。狙いうちです。こんな広い大空のしたで、小型飛行機が飛んでいるのを、アメリカがなぜ分かるのか。動きが読まれているわけです。


【学徒出陣】 だんだんと働き手がいなくなって、学生は、もう授業はいい、軍需工場に手伝いに行け、これが学徒動員です。これが1943.6月です。
さらに、だんだんと戦う兵隊が少なくなって、ついには学生に、戦争に行け、ということになっていく。それまで学生は兵役を免除されていたけれども。半年後の1943.12月には、学徒出陣です。戦争に行け。学生にも赤紙が来る。赤紙というのは分かりますか。召集令状です。赤い紙に書かれていたから。


【大東亜会議】 ただ日本の仲間もある。それはイギリスやオランダに植民地にされてる地域とか。こういったタイ、フィリピン、ビルマ、インドなどの地域の代表を集めて、大東亜会議という国際会議を開きます。1943.9月です。そこで共存共栄、独立を目指すぞ、と宣言するんだけれども、同じ月には同盟国のイタリアは降伏している。

日本はこのあとまだまだ2年戦う。今まで無条件降伏などなかったです。しかし、負けたからには何でも言うことを聞け、と無条件降伏を要求された。何をされるかわからんから、降伏できない。最終的にはも原爆を落とされて、相手の要求を飲まざるをえない、ということになっていく。


【疎開命令】 そういう悲惨な状況の中で、空襲が来るのは、田舎よりも都会です。都会に住む人たちの命にも危険が迫る。東京大空襲、大阪大空襲、博多もやられてます。山笠がある中心地とか。それで地方に引っ越そうとする。これを疎開という。でも事情があってなかなか引っ越せないと、子供たちだけは、安全な田舎に引っ越させようとする。親元を離れて学童疎開をさせる。


【インパール作戦】 日本の方は、次、中国軍ともずっと戦ってます。アメリカだけじゃなくて。その中国軍の武器弾薬は、全く不足にならない。豊富にもっている。これが援蒋ルートです。イギリス、アメリカが、中国を援助している。密林の中を。
それを断ち切るためにもビルマ方面に日本軍が侵攻する。
しかしこの作戦が1944.3月からのインパール作戦といいます。しかし、ものの無残に負けます。ひどい戦いです。ここでの、戦いというのは、食い物がないどころか、水がない。水がないときに、密林の中でもう、不衛生な中で、たまに小川が流れていると、兵隊は、上官の命令を無視して、走っていって水をガブガブと飲む。どうなるとおもいますか。頭を川に突っ込んだまま死ぬんですよ。急に水をガブ飲みすると。何日も水分が欠乏状態で、ゴクゴク飲んで、そのまま動かなくなる。

それが、1ヶ月後に別の部隊がまた来て、川に青々と海藻がただよっている、といって近づいてみると、白骨化した1ヶ月前の兵隊の髪の毛が、川の水面に漂って海藻のごとく揺られている。そんな戦いです。
腹が減ったときには、だんだん頭やられてきて、腕に傷があると、意識朦朧となって、メシ食いたい、腹減ったとか、わけ分からないことをいいながら、おいしいおいしいといって、米粒を食べている。腕からとって。ウジ虫です。傷口にウジ虫がわいて、それを米粒と思って、おいしいおいしいと食べ出す。そして死ぬ。戦争映画で見る勇ましい世界と違うんです。ぜんぜん悲惨さが違う。


【サイパン陥落】 東京空襲が可能になるきっかけとなったのが、南のサイパン島の陥落です。1944.7月です。いくらなんでも、B29戦闘爆撃機が爆弾を積んで、ニューヨークから東京まで太平洋を横断して爆弾を落として帰る、なんてことはできないです。
フィリピンからだいぶ東のサイパン島を米軍が占領して、まず滑走路を作る。
そこは往復可能だから、そこからB29戦闘機を東京に向けて出撃させる。往復可能な射程距離になると空爆ができる。空爆は無差別です。ここから本土爆撃が始まる。
無差別爆撃の始まりです。兵隊で死んだ人よりも、日本は非戦闘員つまり普通の庶民のほうが多い。何十万も死んでいく。
サイパン島が陥落したこの1944.7月に、東条英機内閣は総辞職していく。


【ブレトンウッズ会議】 まだ戦争が終わってない。ここからあと1年戦争は続きますが、戦争が終わらないうちから、勝ったあとのことをアメリカは相談し始める。手回しが良すぎるほどいい。このことは3年前の大西洋憲章の時からそうです。大西洋憲章では戦う前から計画を練っている。ここでは、戦争が終わる前から、戦後の世界の通貨体制の計画を練っています。そして戦争が終わったときには、すべて決まっています。それほど手回しが良いのです。こういうところにアメリカの意図を見ることができます。通貨政策と金融政策は相通じるものですが、アメリカの動きにはアメリカ金融界の動きが見え隠れします。


この会議をブレトン=ウッズ会議といいます。ブレトン=ウッズというのはアメリカの地名です。ここで1944.7月に会議が開かれました。これは、日本に原爆が落ちるよりも1年以上前です。戦後の通貨体制は、ここですでに決まります。

もともと戦争前の世界の通貨体制は金本位制で、ドルであろうが円であろうが、本物のお金である金と交換できました。しかしアメリカは第二次世界大戦中に、金を一人占めするほど集めています。世界の半分以上の金がアメリカに集まってきて、それにともないアメリカ通貨のドルが一躍、主要通貨になります。

ここでドルはほかの通貨のワンランク上の通貨になる。金はドルでしか買えないことになる。金はドル以外の通貨では買えなくなる。これを金ドル本位制というんですけれども、日本にとって、円では金を直接買えなくなる。
日本人が本物のお金である金を手に入れるためには、円をドルに交換して、このとき手数料が発生して、その手数料はアメリカの銀行に入る。そのドルでもって金と交換する。そういう二度手間をしないと、買えない。イギリスのポンドでも同じです。こうやってドルが世界の基軸通貨になる。アメリカの狙いはこれだったのです。戦後、ヨーロッパは植民地を失って没落していきますが、そのなかでアメリカだけが繁栄を極めていくようになります。そこにはアメリカの軍事力もさることながら、世界の基軸通貨の地位を手に入れたドルの威力が大きくかかわっています。


のちのことを言うと、ちなみにこのドル基軸体制は約30年続いたあと、1971年にストップします。これがドル・ショックです。ドル・ショックで壊れた。ドルと金は交換できなくなります。
こうなればドルももとの地位に落ちないといけないはずです。金とドルのリンクが切れたら、ドルが基軸通貨の位置から落ちなければならないはずですが、不思議なことにドルはそのままです。そういう理屈にあわないことが起こる。これは今も続いています。
戦後、ドルが世界の基軸通貨になった理由は、ドルでしか金は交換できないというのが理由でした。それが交換できなくなったら、ドルが他の通貨の上にいる理由はない。
それにもかかわらずドルが主要通貨の地位にとどまっているのは、アメリカの軍事力があるからです。軍事力を基盤にした政治力があるからです。その影響をいちばん強く受けている国はどこでしょうか。戦争終結時には、そういう体制が、すでに決まっていたということです。




【小磯国昭内閣】
東条英機内閣が総辞職して、陸軍大将であった小磯国昭内閣1944.7月に成立します。


【フィリピン戦】 1944.7月です。いよいよ戦争末期、あとは日本はなす術もなく、フィリピンを奪われます。もとフィリピン総督がマッカーサーです。彼が日本が負けたあと総司令官となって日本を占領する。今の日本国憲法の原案もマッカーサー草案という。


【神風特攻隊】 日本は、1944年10月から、神風特攻隊の出撃が始まる。自由志願とは言っても、生き残った人たちによると、とても断れる雰囲気ではなかったという。手を上げたい人、と言われて、そういうけどあれは手をあげさせられた、とみんな言う。断られない。体当たり攻撃です。100%死ぬ作戦です。これだけは人間の歴史上ないです。
いくら戦争でも、勝ち負け五分五分の作戦をやるんです。負けても4分6ぐらいです。100%死ぬ作戦は作戦としてありえない。これを誰が発案したかは、よく分からない。


彼らは戦争中、「軍神」とまで崇められる。ところが戦争が終わると一転して「この特攻崩れが」と罵られるようになる。この戦後の日本人の変わり身の早さを、ある特攻隊員は「18才のあの屈辱を一生忘れない」と言っています。その屈辱は、自分が特攻隊員であったことへの屈辱ではありません。戦後の日本で味わった屈辱のほうが彼の心の中に消えがたく残るのです。


【東京大空襲】 1944.11月から東京にも空襲が始まる。4ヶ月後の1945.3月、東京大空襲です。一夜で死者10万。東日本大震災が約3万だったから、あの規模を3倍越える。


【沖縄戦】 それで日本に攻めてくるときに、まずは近い所、アメリカはすでにフィリピンを持ってますからね。フィリピンから、アメリカ艦隊は南のほうから来て、まずは沖縄を攻める、ということです。1945.4月沖縄戦です。

余談ですが、そのころ私の父は兵隊として鹿児島にいました。高校を卒業したばかりで、そこで「穴掘り」ばかりしていたと言ってました。帰ってきたのはその年の9月の終わり。1ヶ月も何していたのか、と私が聞くと、オレたちは戦争が終わったと知らされていなかった、それどころか沖縄が取られたら次は鹿児島の志布志湾だといわれていたから上陸すると信じていた、と言ってました。「穴掘り」とは何のことか分からなかったのですが、最後の決戦用の地下壕を掘っていたのです。そして1ヶ月ぐらいずっと、臨戦態勢で戦う準備をしていた。本当に11月1日に決戦が予定されていたことを、つい最近NHKのテレビ放送で知って驚きました。父はその予定された決戦の日にちまでは知らなかったようです。
1ヶ月ぐらい経つと、ホントに日本は負けていて鹿児島には上陸しないことが分かった。マッカーサーは東京に行ったから、これはホントに負けたということがやっと分かった。帰還命令が出て、列車に長い時間ゆられて地元の駅に降り立つと、周りの家が空襲で焼けていた。その焼け跡を見ながら家にたどりついたことを、まるで昨日のことのように話していました。それから1年間、何もする気が起きなかったと言ってました。
私が子供のころの父は、誰に言うともなく「日本は敗戦国だ、敗戦国だ」と言ってました。それは子供心に妙に私の耳に残っていますが、私が中学のころからピタリと言わなくなりました。そのことは私が大人になってから、それもだいぶ後になって気づいたことです。

また農業をしていた私の叔父は海軍兵でしたが、戦後、海軍の短刀を家のタンスの奥に隠していました。私は子供のころ、それを従兄弟から「誰にも言うなよ」と言われながら見せてもらったことがあります。朝の光が差し込む部屋で、その短刀のサヤを抜いたときのキラリとした輝きを今でも忘れることができません。

叔父が亡くなって叔母が遺品を整理しているとき、タンスから海軍の短刀が出てきたといって、ちょっとした騒動になりました。叔父は叔母にもそのことを話していなかったのです。
戦争中、その叔父の戦死通知が届いたことがありました。乳飲み子を抱えた叔母が途方に暮れていると、そこに叔父が帰った来たそうです。あとで事情を聞くと、叔父は軍艦に乗って出航する予定だったのが、急に休暇命令が出て帰ってきたそうです。乗るはずだった軍艦は出航するとすぐ攻撃され、沈没したそうです。叔父の代わりには他の人が乗り組みました。それが何かの手違いで叔父の戦死通知となったのです。マジメで無口な叔父でしたが、戦後しばらくは酒を飲むと手がつけられなかったといいます。




【鈴木貫太郎内閣】
1945.4月、海軍大将から枢密院議長になった鈴木貫太郎が首相になります。この内閣が終戦を決定する内閣になります。しかし陸軍は本土決戦論です。とことんやろうとする。無条件降伏だぞ、何されるか分からんぞ、それぐらいだったら1億玉砕だ、と。玉砕とは死ぬということです。当時1億が日本の人口ですから。
しかしこの首相は、それはあんまりだろう、軍人以外の民間人まで全員玉砕したら日本はどうなるか、生きていたら可能性はゼロじゃないじゃないか、と言う。日本の可能性は、ホントにかすかな可能性です。



【日本の敗戦】
【カイロ会談】 日本の敗戦の1年以上前から、アメリカは着々と戦後世界の準備を行ってます。

1943.11月エジプトでカイロ会談が行われます。敗戦の2年も前のことです。アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、中国は蒋介石の3人の会談です。
日本が負けたあと、どうやって分割しようか、ということです。いま問題の北方領土は入ってないということにも注意してください。ここにはソ連は入ってないから。


【ヤルタ会談】 次はソ連の南方の避寒地・・・・・・冬場に温いところです・・・・・・ヤルタというところで1945.2月ヤルタ会談が行われる。アメリカのルーズベルト、イギリスはチャーチル、ここで初めてソ連のスターリンが入ってくる。ルーズベルトはスターリンと手を組みます。


何が決められたか。公表されたことは当てにならないです。公表されない約束がある。こういうことは今でも結構あります。戦後になってから分かった秘密協定です。ソ連の対日参戦が決定される。
これ聞いて、アレッと思う人、いませんか。これは何がおかしいか。日ソには何があったか。中立条約があったでしょ。日ソ中立条約が。矛盾してる。つまりあんな条約は無視だ、ということです。
この3ヶ月後の1945.5月には、ドイツのヒトラーも無条件降伏をしていく。


【ポツダム宣言】 日本はまだ無条件降伏は飲めない。1945.7月、連合国がドイツのポツダムを占領し、そこで出した宣言がポツダム宣言です。
この時にルーズヴェルトは死にます。ガンだったということです。こんな肝心なところで死ぬかなあとも思います。自動的に副大統領のトルーマンが次の大統領になっています。トルーマンチャーチルスターリンの話し合いです。
大統領が変わり、ここで方針が変わる。ルーズベルトはソ連のスターリンを仲間として呼び込んだ大統領です。トルーマンは、逆にスターリンが大嫌いです。ソ連が大嫌いです。これが戦後の米ソ冷戦につながっていきます。

理屈からいうとトルーマンのほうが分かりやすいです。資本主義と社会主義をうまくやれるわけがない。では、ルーズベルトがなぜスターリンと手を組もうとしたのかが、よく分からない。経済体制が違って、あとで対立するのは目に見えてるようなものなのに。
ただソ連には日ソ中立条約があるから、ソ連は表に出られない。だから発表したときにはソ連を隠して米英中の名前で出す。
だから日本はここにソ連が入ってるなんてことは知らない。ソ連がこのあと対日参戦し、満州に攻め込むことなど、日本では誰も知らない。

それどころか、日本の軍部はどうにかアメリカと停戦するための仲介役をソ連に頼んでいる。ますます情報筒抜けです。
日本は、日ソ中立条約は、オレも守るから、ソ連も守るはずだ、と思っている。そこがこの第二次世界大戦では通用しない。ちょっと悲しくなる世界です。


【敗戦】 相変わらず軍部は本土決戦論です。一億玉砕論です。
しかし1945年8月6日、まず一発目、アメリカが原子爆弾を広島に投下します。
これを見てソ連は、はやく終わってもらったら困る、オレが戦争に参加したあとに降伏してくれ、というのがソ連の対日参戦です。
その2日後の8月8日に、突然、ソ連が対日参戦して満州に侵入してくる。
そしてその翌日の8月9日に、2発目の原子爆弾を長崎に投下する。
こういうふうに日付がほぼ連続しているのは、たまたまじゃない。アメリカとソ連との戦後の日本利権に対する分捕り合戦が始まってるのです。アメリカも、ソ連が日本に侵攻する前に早く戦争を終わらせたいのです。

鈴木貫太郎は8月15日に、ポツダム宣言を受諾した。「耐え難きを耐え」という玉音放送がラジオで流されます。玉音の玉とは何なのか。玉というのは何ですか。天皇です。天皇の肉声が流れる。日本人はこのとき天皇の声を始めて聞いた。
鈴木内閣にとっては、陸軍と対立する中で、これも一種の作戦であって、天皇の声を録音して、東京渋谷のNHK放送局に持ち込むまでは、妨害する軍人がわんさかいる。だから本当に流れるかどうか半信半疑です。隠し持って12時直前にNHKにサッと飛び込んで、流してくれ、流れた、これで作戦成功です。無条件降伏とか、そんな降伏条件はありえない、という軍人がけっこういるんです。
こういう手段でないと、なかなかまとまらないです。これで日本は無条件降伏で負けました。無条件降伏は、ポツダム宣言には「日本軍の無条件降伏」となっていて、「日本の無条件降伏」とはなっていません。たった一文字の違いですが、この違いは絶大です。しかし占領軍はこの一文字の違いを完全に無視していきます。




【東久邇宮稔彦内閣】
負けたあとの内閣は、総理大臣を誰にしていいか分からないから、皇族内閣です。東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣という。敗戦処理の手続きのための内閣です。1945.8月から1945.10月までの2ヶ月間の内閣です。


【マッカーサー】 そして勝った国はアメリカ、イギリスなどの連合国です。本当は、アメリカだけものではないんだけれども、もうあとは早い者勝ちです。1945年8月30日に、マッカーサーが神奈川の厚木飛行場に降り立つ。サングラスかけ、コーンパイプを加えて。

新聞をみていると、この日から3日ぐらい新聞は発行されてない。国民に情報がシャットアウトされます。明らかに8月30日までの日本の新聞と、それ以降の新聞は書いている内容が違う。
何が起こったのか。まず報道を押さえている。新聞社です。報道で伝えていい報道を全部、検閲していく。情報は、これほど変わるものなのか、というほど。
今までは鬼畜米英と言っていた。鬼畜米英は分かりますか。犬畜生の畜、鬼畜というのは鬼の畜生です。米英はアメリカとイギリスです。それがマッカーサーが降りたって、3日たったら、マッカーサー元帥さまと変わっていく。ものすごい変わりようです。戦争に負けということはこういうことなんだ、と思います。それほど一気に変わります。

だからこの頃のことは、私が小学校のときには戦前から戦後にかけて学校の先生を続けられいた先生がいっぱいおられましたが、なかなかその頃のことをしゃべられなかったです。変わり方が、あんまり早くて。
というのは、1945年8月まで言ってたことと、翌月の9月から言うことは、まったく違うんです。その当時のことは、しゃべりたくないだろうと思う。


【降伏文書調印】 そして、その3日後の1945年9月2日に、降伏文書を調印したのが、重光葵です。
この降伏文書調印で法的には日本という国はありません。日本列島はあっても、日本には主権がなくなるからです。主権がない国家というのはありません。このあと7年間、1952年に独立を回復するまで。この7年間はどこの歴史か。たぶんアメリカ史の一部でしょうね。日本という主権国家がないのですから。でもその7年間の間に、大事なことのほとんど、憲法から法律、経済体制が決まっていく。


【東南アジア諸国の独立】 では日本が占領した東南アジアの地域はどうなったか。日本が占領する前は、欧米の植民地だった。しかし次々に独立していく。日本は一度彼らを追い出す。しかし日本が負けたら、欧米はまた植民地に戻ってくる。
しかし、欧米の軍隊が日本軍に負けて逃げていくのを現地の人は見ているから、抵抗運動を始めていく。ここから本格的な独立運動が始まる。

インドネシアは、どこの植民地だったか。オランダから独立する。独立戦争をここから始める。指導者はスカルノです。大統領になります。第三婦人が、茶の間でおなじみのデビ婦人です。

フィリピンは、アメリカから独立した。
インドは、イギリスから独立した。
マレーシアも、イギリスから独立した。
ビルマつまり今のミャンマーも、イギリスから独立した。
ラオスは、フランスから独立した。
カンボジアも、フランスから独立した。ほとんどが独立した。

ベトナムの独立だけが長引く。フランスと戦って勝つ。そこにアメリカがフランスを応援する。これがベトナム戦争です。この段階でみんな、ベトナムは終わりだ、と思った。しかし、ベトナムがアメリカに勝つんです。独立を勝ちとる。約30年かかります。1976年です。まじまじと覚えています。
私は子供ながら、ベトナム戦争は遠い東南アジアのことと思っていました。枯れ葉剤をまいたのは米軍だ、日本とは関係がない、と。ところがその米軍機がどこから飛び立ったか。沖縄の米軍基地です。当時は、ほとんどそういう報道もないです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 18話 近世 ヨーロッパの来航~豊臣秀吉

2020-08-17 07:00:00 | 旧日本史3 近世
【安土・桃山時代】
【ヨーロッパ人の来航】

戦国時代の終わりに、外国船がやってくる。ヨーロッパでは、1500年代は大航海時代、コロンブス後の時代です。アメリカ大陸が発見された。ヨーロッパ人が世界に乗り出していく中で日本にもやってくる。
ヨーロッパでは、宗教改革があって大変な時代です。戦争ばかりやってるんです。300年も戦争をやって、何が発達するか。ヨーロッパではまず軍事力が発達するんです。ただしこの時は戦争し始めたばかりだから、まだ日本の軍事力と変わらない。だから征服はされません。
300年後に、ペリーがやって来た時には、圧倒的な軍事力の差がついています。文化の差でもない。経済力の差でもない。軍事力の差です。ただこの軍事力はバカにできない。
ヨーロッパは、宗教面で2つに割れています。一つはカトリック、漢字で書くと旧教という。もう一つはプロテスタント、漢字で書くと新教という。
旧教国はポルトガルスペインです。新教国はオランダイギリスです。それまでヨーロッパでは、神聖ローマ帝国としてドイツが大事だったけれども、ドイツはイタリア政策に忙しくて日本には来ません。だから乗り遅れるんです。

ヨーロッパでどんどん勢力を失ってるカトリックが、ヨーロッパがだめだったら、アジア人をキリスト教徒にしていこうとして布教にやってくる。日本人もいっぱいキリスト教徒になります。
それに対して、プロテスタントは、キリスト教を外国に広めよう、という野心はない。ヨーロッパの動向としては、日本にまずやってくる国としては、旧教国のポルトガルがやってくる。


ポルトガルは、下の地図でいくと、東回りで来る。拠点になるのは、インドのゴア、それから中国のマカオ。次に日本へと、やってくる。




それに対して、西周りでやってくる。これがスペインですよ。スペインは、フィリピンのマニラ、ここを拠点にしていた。
ポルトガルは、インドのゴアと中国のマカオを拠点にする。だからマカオは、長いことこの後400年間、ポルトガル植民地だった。これが返還されたのは、1997年で、最近のことです。マカオはポルトガル領だった。つい最近まで。20年ぐらいは歴史の中では最近です。その感覚でやってください。君たち高校生は、5年前は遠い昔と思っているかも知れないけれども、私の年になると20年前はホンの最近です。



【南蛮貿易】
世界史的な大事件は、コロンブスが新大陸を発見したことで、これは1492年です。ここからヨーロッパ人の国外大進出が始まる。これを大航海時代と言う。
南蛮人とは南から来る野蛮人という意味ですが、別にこの時代の日本人は、ヨーロッパ人を先進文明人とは思っていない。


【鉄砲伝来】 ヨーロッパでは武器が発達するといいましたが、その新しい武器として鉄砲が日本に伝わります。それまで武士といえば、弓と刀であった。
これが鉄砲に変わる。1543年に、ポルトガル人を乗せた船が、九州のある島に着きます。鹿児島の南の島、これ何と読むか。まず書けないんです。種子島ですよ。たねこじま、と書く。
日本とヨーロッパ人の貿易のことを南蛮貿易というんです。南の野蛮人との貿易という意味です。日本人から見て、ヨーロッパ人は野蛮人だった。ペリーが来るまでは。確かに文化水準では、日本は負けてない。
種子島に鉄砲が伝わって、日本の技術力も、島の領主レベルで技術を習得できるレベルなんです。種子島の領主、種子島時尭(ときたか)が、鉄砲を一つ買う。何だこれ、これすごいぞ、と言って、手下に、おまえこれをつくれ、と言ったらすぐつくれるんです。
この後は鉄砲は輸入品じゃないです。日本は鉄砲をつくれます。

結論いうと、この武器をいち早く何千丁と買い入れたのが、織田信長です。ここで強さのランキングが変わります。今までは馬に乗った騎馬隊だった。しかし鉄砲の数で決まるようになる。結果的には、これが戦国時代を終わらせて、織田信長の天下統一ということになっていくわけです。


【南蛮貿易】 このポルトガルの南蛮貿易は、貿易の利益の他に、キリスト教の布教を認めろという。キリスト教の布教が条件であった。これを認めないと取引しません、という。すると大名としては、宗教のことは片目つぶっても、貿易の利益が大事になる。
それ以外に、東南アジア産の物も運んで来たりして、中継貿易も抱き合わせです。
その港としては、経路からいうと、一番ヨーロッパに近いところは東京ではない。京都でもない。九州なんです。それで九州の港は、すぐ長崎といいたいけど、確かに長崎もぼちぼちなんだけれども、ナンバーワンじゃない。ナンバーワンは平戸です。
平戸の隠れキリシタンが世界遺産になりました。なぜ隠れキリシタンなんですか。平戸の田舎の島が。今は橋ができて、車が通れるけど、われわれの若いころは島だったから不便だった。なぜそういうところが世界遺産になるのか。ここが窓口になったからです。平戸って知ってる。福岡から西へ、唐津を抜けてずっと西に行くと平戸です。
あと、いまの大分は府内といっていた。
その次が長崎です。長崎の出島は、江戸時代になるまでありません。
長崎の地図は、うまく書けないけれども、崎が長いんですよ。長い崎です。長崎です。出島は今の長崎市のほぼ中心部にある。昔は海だった。


そういう南蛮船との取り引きで、日本は何で外国のものを買うかというと、日本はこの時代、世界の半分ぐらいのが中国山地で採れるんです。だから銀で買う。銀には不自由してない。
何を買うか。一番欲しいのは、日本はまだ平和だから、鉄砲じゃない。欲しいものは中国のものです。南蛮船の中継貿易で入ってくる生糸です。
二番手が鉄砲です。鉄砲を跳ばす火薬が実は日本にはないんですね。火薬は硫黄を加工しないといけない。


【キリスト教の伝来】 このヨーロッパ人の日本への来航は、キリスト教の布教と表裏一体だった。それは1500年代、ヨーロッパではルターに始まる宗教改革が起こって、それまでの旧教、カトリックは押されている。だからヨーロッパでダメたから国外、アジアに乗りだそう、ということで、日本にも布教しにやってきている。
これをイエズス会といいます。ヨーロッパから見て東方伝導です。東方伝道という意味は、東の方にアジアの方面に布教することです。その中心人物としてやってきたのは、フランシスコ・ザビエルという。
この人はまずどこに上陸するか。鹿児島なんです。南蛮人がくるルートを、地図で思い描いたら、東京に上陸するよりも、九州から上陸したほうが近いわけです。そのあと九州の北部の平戸に行って、そして天皇がいる日本の首都の京都に行く。
そしてその京都で布教の許可をもらって、今度はまた西の方の山口に行って、府内という大分に行って、いったん次はインドだということで、日本を離れてインドのゴアに行って、そこで道半ばで死んでしまうのがザビエルです。


彼は、日本での布教の悩みを打ち明けている。なぜかというと、キリスト教は基本的に、信仰してない人は全部地獄に落ちるんです。自分たちは信仰したら天国に行けるからいいけれどもといいながら、だんだんと親しくなっていくと、日本人の農民がこんな質問する。こんな質問できる民族は、日本人が初めてだと言ってる。
ではご先祖様は、どうなるんだ、キリスト教を信仰していなかったら、地獄に落ちる。そしたら日本人の農夫がいうことには、オレはご先祖さまを地獄に落としてまで、それで自分だけ救われて、それがいったい何になるのか、と聞くという。オレは、そんなまでして、救われなくていい、という。
これには参った、どう答えましょうか、と聞いている。だから、非常に一時的に増えるんだけれども、ある程度のところで信者数は止まる。そのうちに日本の為政者も、キリスト教の異質性に気づいてくるわけです。

しかし、彼に続いて、この後もキリスト教布教のために西洋人がいっぱいやってくる。有名なのがルイス・フロイス。この人は長期にわたって活動して、このあとの織田信長が天下を取った後に、織田信長に面談を申し込んで、布教の許可をもらう。そのかわり、貿易いっぱいさせてくれ、儲けさせてくれ、と言われて、信長に協力する。こういうキリスト教の布教者たちがやって来て、ある程度は日本人にもキリスト教徒が増えていきます。
大名たちはこの段階では、貿易の利を求めて、キリスト教を保護します。一番めには貿易の利益です。

キリスト教を保護した理由はもう一つある。この時代の大名にとって、宗教で頭を悩ましているのは何かというと、仏教勢力が力をもって、そのなかで織田信長に決定的に歯向かっていったのは一向宗だった。目には目を、歯には歯を、宗教には宗教を、ということで、キリスト教を保護する。

日本人の宣教師を養成する学校もつくられます。これをコレジオという。英語でいうとカレッジです。大学です。それから神学校もオーケーです。これをセミナリオという。英語でいうとゼミナール、またはセミナーです。勉強するところです。


これは乗り遅れたらいかんということで、一番布教のさかんな九州の大名は、ぞろぞろとキリスト教徒になります。キリシタン大名が出てくる。
その中でも長崎ですね。長崎は島原地区と、大村地区に分かれています。今の県庁所在地の長崎市は港町で、お城はありません。島原地区のの有馬晴信。大村湾の大村地区、そこの大村純忠。それから大分の戦国大名が元気ですね、豊後は大分です。大友義鎮(よししげ)、別名は大友宗麟(そうりん)です。

彼らは合同して、キリスト教大名になったんだから、キリスト教世界で一番偉いローマ法王に使いを出そう、という。少年を使って。そっちが喜ぶぞ、人気も上がるぞ、という事で派遣するんです。君たちぐらいの15~16歳の少年を。これを年号を取って、天正遣欧使節という。天正は年号です。むかし遣隋使、遣唐使というのがあったけど、それと同じで遣欧使です。欧はヨーロッパのこと。使というのは使節です。今と違って半年以上、片道でかかる。約8年にわたって。1582年に出発して1590年に帰国する。
名前もわかっている、教皇名もわかってる。グレゴリオ13世です。少年は、伊東マンショ、千々岩ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名です。本名は分からない。洗礼名です。

彼らが不幸なのは、1582年の出発段階では、キリスト教は保護されていたけれども、8年後1590年に戻ってきたときには、キリスト教は禁止になっていた。それで弾圧されて、どうなったのか分からない。こういうのを歴史の犠牲と言うんでしょうね。
これに尽力した人物が、もう一人バリニャーニという宣教師です。

異教になったのは、1587年のバテレン追放令。バテレンは宣教師のこと。パードレというのがなまってバテレンです。ヨーロッパ人は多くの国で奴隷貿易をしています。長崎でも、日本人を奴隷として、ヨーロッパ人が奴隷貿易をしている、そのことを豊臣秀吉が聞きつけたからです。日本人だって有色人種だから、奴隷で持って行かれている。何と言うことをしてるのか、こいつらは、と言うわけです。



【織田信長の統一事業】
1500年代後半、いよいよ尾張の暴れ者、織田信長が出てきます。若い時は、うつけ者と言われた。アホんだら、と言うことです。とんでもない奴だ。出身は、今の名古屋だけれども、西半分の尾張です。
この国の戦国大名になる前は、守護大名で三管領の1つである斯波氏の家来だった。守護代という。ナンバーワンじゃない。尾張はいまの愛知県です。下馬評として、日本ランキングのナンバー1は、武田信玄か上杉謙信だった。

なぜ、うつけ者の織田信長が天下を取れたか。まず京都に近い。京都をおさめるというのが、天下取りの象徴的な意味合いがあります。
それからさっき言った、鉄砲の利用です。武田信玄は武田の騎馬隊、騎馬武者ですよ。騎馬武者には騎馬武者を、というのが、みんなが一生懸命している富国強兵策なんです。発想が違う。騎馬隊では勝てない。何か新しいことはないか。ここらへんが、おおうつけ者の発想です。常識にとらわれない。自分がいいようにやる。当たれば大きいけど失敗も大きい。だからこういう人は、突然暗殺される。一晩で天下が変わる。これが本能寺です。これからだ、仕上げだ、というときに、突然死ぬ。しかも敵からじゃない、味方からです。これが明智光秀だった、ということになる。

ここでちょっと先を言うと、愛知県は西の尾張と、東の三河です。隣の三河の戦国大名が徳川家康です。これはえらくなったあとに徳川と名前を変える。この時には松平竹千代です。竹千代さんとしてはこの人は、小さい頃からずっと人質です。苦労人の人生です。だから我慢強い。
豊臣秀吉は、前回いったように、織田信長の家来で、もともと農民だから、草履取りからはじまった、という有名な話がある。
草履取りの話が本当かどうかは知らないけれども、織田信長の家来であった。足軽から出世していった、というのは本当です。
その織田信長も、最初は優勝候補でも何でもなかった。ダークホースです。誰もマークしてないけど、突然ひょいひょいと出てきて、優勝をかっさらっていった。そんなスポーツ選手、時々いるでしょう。


【経過】 その織田信長のデビュー戦は大番狂わせだった。じつは隣の静岡県にもう一人、ナンバースリーの人間がいて、武田信玄より京都に近い地の利を生かして、京都に行こうとする。これが今川義元です。静岡県と愛知県は隣どうし、静岡県から京都に行く時にはかならず愛知県を通らないといけない。しかし織田信長にとって、敵の軍事に自分の国を横断させるというのは、屈辱以外のなんでもない。

この感覚、わからない人がいて、何もイタズラしないんだからと言って、人の庭先を勝手に横切っていく高校生がいますね。あれ不法侵入ですよ。20数年前に北朝鮮からテポドンといって、ミサイルが初めて日本上空を飛んで、へー飛んだなあ、最初の反応はそうだった。陸上じゃないから、いいんじゃない、これは完璧に領空侵犯なんです。


【桶狭間の戦い】 男の沽券にかかわることです。戦って勝てるか、いや勝てないな、どうするか、思案どころです、そして打って出る。そして勝つんです。これが大番狂わせです。
これが1560年です。桶狭間の戦いです。狭間というから山と山の間に挟まれた、低くて狭いところなんでしょうね。私は、桶狭間を見ようと、関ヶ原とともに、愛知県ツアーをしたことがあります。
こんな有名な戦いにも関わらず、場所が分からないのです。候補地が2つある。桶狭間は町名に残ってないから、桶狭間の戦いはここだという人と、イヤここだという人がいて、隣町同士で喧嘩しているんですよ。そういう場所、実は時々あります。
相手は今川義元です。実は徳川家康が幼い頃から、人質にとられていたのは、この今川氏なんです。今川氏が負けて、徳川家康はやっと独立できた。この今川家はここで滅んだのではなく、子孫はこの後も生き延びて、東京の杉並に土地を領有していたようです。杉並に住んでいる私の友人が教えてくれました。その地はいまも今川というそうです。
だから徳川家康は、織田信長に頭が上がらないんです。だからじっと待つんですよ。チャンスが来るまで。
私は誰が能力あったかは、よく分からないけれども、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康というこの3人の覇権争いは何かというと、長生きしたものの勝ちです。一番長生きしたのは、徳川家康です。それに男の子をよけいつくった者の勝ちです。跡継ぎがいるから。
織田信長は早くに死んでしまう。豊臣秀吉は子がない。嫁さんを変えて、若い淀君をもらって秀頼を産むんだけれども、秀吉が死んだときわずか6才です。
家康も負けず劣らず女好きです。我慢強いけど女好きという。徳川家康は子供いっぱいです。徳川家康の子孫は、名乗らないだけで、いっぱいいるはずです。家康の子孫の将軍様、11代将軍家斉は、約200年後ですけど、子供の数は息子の数だけで50人というから、誰が誰か分からないほどの子だくさんです。そこまでくるとあきれます。側室もっていいから、嫁さんが10人以上いる。


【京都入京】 桶狭間から8年後の1568年、信長は京都に入る。
このときの京都で権力者は松永久秀という人だったけれども、やっぱり仕えるのであれば足利将軍じゃないといけない。ここらへんが信長の頭のいいところで、足利義昭を将軍に立てて、ちゃんと将軍の血筋を守れと言って京都に入ります。うつけ者が一転して、室町将軍の守護者になります。
自分が戦って勝って京都に入って、すぐ俺が将軍だといったら、たぶん潰されていたかもしれません。従来の室町将軍を立てて、自分は足利将軍を補佐している、と見せるところがミソなんです。これによって信長による支配の正統性が発生するわけです。
そして実権は自分がもつ。将軍が反対しようものなら、誰のおかげで将軍になれたのか、と言うと、わかりました、となる。名より実をとります。

政治を執る力もない将軍になぜ正統性があるのか、というのはけっこう難しい問題です。それは征夷大将軍という職が、天皇の任命に基づいており、天皇の権威がうしろに控えていることとも関係しています。


【石山戦争】 1570年には、近江の浅井長政、越前の朝倉義景を姉川の戦いで破り、この戦いで浅井・朝倉軍を応援した石山本願寺の一向宗門徒との戦いを起こします。これを石山戦争といいますが、この戦いはこのあと約10年間も続きます。この戦いに織田信長はホトホト手を焼き、宗教一揆の手強さを自覚した信長は、徹底した弾圧に乗り出していきます。信奈がキリスト教の布教を認めたのは、一向宗の拡大を押さえる目的もありました。
また姉川の戦いで滅亡した浅井長政の居城が一乗谷でこの時滅びますが、いまは貴重な遺跡になっています。その浅井長政の妻が信長の妹のお市の方で、そのお市の方の娘がのち豊臣秀吉の側室となる淀君です。そしてこの淀君が秀吉の唯一の息子の豊臣秀頼を産むことになります。


【三方ヶ原の戦い】 1572年には、甲斐の武田信玄が攻めてきます。これが三方ヶ原の戦いです。信長は配下の徳川家康に防がせようとします。ところが決戦がつく前に武田信玄が陣中で死んでしまい、武田軍は引き返します。信長は九死に一生を得たわけです。武田信玄の死は隠され続け、その後は武田信玄の影武者が立てられたようです。


【足利義昭追放】 そのうちに、将軍もオレは飾りじゃないかと気づいて、喧嘩別れすると、それなら出ていけ、という。
将軍が出ていったら、家来は将軍につくかと言ったら、みんな飾りとわかっているから、誰もつかない。1573年、足利義昭追放です。これが実質的な室町幕府の滅亡です。
昔から日本の政治は、かなり高度な事をやってますよ。政治というのはもともと、新聞だけ読んでもなかなかわからない。


【長篠の戦い】 1575年、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が攻めてきます。これが長篠の戦いです。当時最強だといわれた武田の騎馬隊に対して、信長は鉄砲を足軽に持たせ、武田軍を撃破します。騎馬隊が足軽兵に負けたことは当時の衝撃的な事件でした。ここで従来のイクサの方法が変わります。


【本能寺の変】 それから本当に、全国統一の組織をつくるぞ、と言った時に、西日本征服に行こうとした。1582年、京都を出て、京都の本能寺というところに泊まった。これは当時のトップシークレットです。なんで分かったか。家来だから。一の家来の明智光秀です。謀反です。だから闇討ちです。これが本能寺の変です。
この時の信長の居城は、琵琶湖のほとりの安土城です。今は天守閣も滅んでないんですけど、石垣だけは残っています。登ってみると、これは壮大なお城です。度肝を抜くようなお城です。いつ石垣だけになったか。この時の3日で燃やされてしまう。再建することはなかった。
それから長男はいたけれども織田幕府はできなかった。長男の織田信忠もこの時に死んでしまう。親戚筋のあまり有能じゃない人物しか、残っていない。
このあと、5人飛びぐらいで、サルと言われていた豊臣秀吉が、後継者になります。これは孫をつかう。3歳の孫を。織田信長様のお孫さまだぞ、とかかえて皆の前に出てくる。ほら、頭が高いじゃないか、と。すると、みんな秀吉に頭を下げたことになる。


【経済】 それでその間、織田信長がやったことは、家来たちから税金をとるため、これはイクサの時の軍隊を課税するためですけど、持ってる土地の大きさを知るため土地台帳を指し出させます。おまえどのくらい土地を持っているんだ、と自己申告させるわけです。これが指出検地です。
それからさっき言った安土城は二番目の城で、本当は最初に岐阜城をつくります。今でも岐阜県にあります。岐阜は人工名称です。岐阜は信長がつけた名前です。それまでは美濃と言っていた。それを信長が岐阜とした。
安土城は、琵琶湖のすぐ南にある。上に登れば、すぐ北に琵琶湖が見える。なんで琵琶湖のほとりか。船で逃げるためです。

城下町は軍事都市です。だから城下町は軍事的に鉄壁です。わざと直線道路を避けて、ギザギザの道をつくったり、四ツ角をわざとずらしたりしてT字路を2つ造ったりします。敵に攻められたとき、待ち伏せするためです。それから見ると平安京が碁盤目状の道になっていることは、やっぱり軍事的な心配をしなくてもよかったんですね。その点は唐の都長安もそうでしょう。

それから武士が生活すると、食わないといけない。それを売る商人たちを呼ばないといけない。楽市楽座をとる。今でもこういう名前の店もある。楽市楽座とは、楽しいじゃない。タダと言うことです。税金とらないから、誰でも来ていいよ、ということです。座の商人じゃなくてもうちに来ていいぞ、と。そうやって新興商人を歓迎する。

それから、通貨に対しても、撰銭令を出す。粗悪な銭がある。今でいうニセ銭をつくっていいから。それで経済が混乱しているから、これを交換比率を定めて、これ1枚に対して、これ2枚を交換するとか、そういう経済統制をやります。

それから商売重視。武器弾薬でも、商人から買わないといけない。この当時、商業力があった、大坂です。これも堺市といって、今でもあります。ただ堺というのは、戦国大名を廃除して、俺たち町人の力で自治会をつくっていた。それが特徴だったけれども、これを武力で屈服させる。信長の命令を聞かないといけないようになる。
こうやってヨーロッパで自治都市が発達していくと違って、大名によって都市は押さえ込まれてしまう。


【宗教】 宗教政策に行きます。さっきも言ったけど、仏教は弾圧する。特に一向宗を。では一向宗の総本山は何だったか。この時代。今の場所でいうと大坂城にあった。それを石山本願寺という。
もう一つあった。京都の伝統的なお寺、京都の裏山の比叡山。そこにあった比叡山延暦寺。これを焼き討ちする。京都の人間は、これにはたいそう驚いた。ふつうこの時代の人間、信心深いから、お寺さんとか神社を、焼き討ちしたら呪いがかかったり、祟りがくる。それを恐れるけど、信長は関係ないという。オレに反対した奴は、平等に処罰する。それで公平でしょ、という。
それに対して、新しいキリスト教、これはオレに歯向かわないみたいだと、この時は信長は思った。ルイス・フロイスにも布教の許可を与えた。信長がこの時に警戒していたのは、キリスト教ではなく、仏教の宗教エネルギーです。



【豊臣秀吉の統一事業】
信長は1582年の本能寺の変で死んだ、次は豊臣秀吉です。順番は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この順番に天下をとっていく。
秀吉は百姓の出です。でもよく見ると、下層百姓ではなくて、村中ではまあまあのところの百姓だったみたい。しかし身分的には誰が見ても百姓です。
だから、この時代は百姓が武士になれるんです。兵農未分離です。身分が分かれてない。
秀吉がやることは、ある意味で自分の否定です。それが兵農分離です。武士は武士のまま、農民は農民のまま、武士になれない、ということをやっていく。


【経過】 まだこの時には5番手ぐらいですよ。それが一気にトップに踊り出たのは、主君を殺した明智光秀を討ち取った手柄です。これが豊臣秀吉だった。



【山崎の戦い】 本能寺の変の時、秀吉は毛利攻めの最中で、備中高松城を攻撃中であったが、本能寺の変のことをいち早く聞きつけると、ただちに毛利と和を講じ、真っ先に京都に引き返した。そして京都の山崎で、明智光秀を討ち取る。これが1582年の山崎の戦いです。
秀吉はなぜこんなに早く本能寺の変を知ったのか。彼は独自の情報網を持っていたともいわれます。甲賀者や伊賀者などの、いわゆる忍者が活躍するのもこの時代です。

先輩格にまず徳川家康がいます。柴田勝家という北陸の大名もいます。それらをすっ飛ばして信長の後継者になる。
徳川家康は、タイミングが悪い。だから秀吉が死ぬまで待たないといけない。でもたぶん分かっていたと思う。豊臣秀吉の弱点は、子がいないことだと。死ねば、後継者で必ずもめる、と。でもオレには子がいる。だからじっと待つんですね。


【小牧長久手の戦い】 ただこの時には、家康も完全にイエスマンじゃない。ある程度、徳川家康はモノを言う。
それでいったんは豊臣秀吉と戦う。1584年、小牧長久手の戦いです。場所はやはり愛知県です。小牧と長久手、隣接した地域です。
豊臣秀吉と徳川家康との戦いです。でも決着はつかない。これだけで家康にとっては十分です。家康はつぶせないということが分かったから。戦って、血を流して分からせたら、あとは黙っていていい。オレを怒らせたら、またやるぞと。豊臣秀吉は、家康が強いことが分かる。家康が動くと天下統一ができない。それを家康は分からせたんです。家康はあとはじっと秀吉の出方を待ちます。



【四国平定】 1585年には、四国の長宗我部元親を平定します。


【九州平定】 1587年、秀吉は九州を平定する。目玉は鹿児島の島津です。島津氏は大事です。この時に多くの大名は自ら従います。戦国大名というと、いつも戦っていたようなイメージを持っている人がいますが、敵がいたからといっていつも戦っていたら、命がいくつあっても足りません。彼らは勝てない相手とは戦わないのです。そうでないと戦国時代は生き残れません。
しかし中には、出迎えに遅れた大名もいます。これはどんな意味をもつか。遅刻してすみません、で終わるか。今の感覚で歴史を考えると間違うんです。お取りつぶしです。


これに出遅れて、滅んだ大名に唐津の波多氏があります。400年以上経った今でも、その伝承は言い伝えられていて、波多氏の居城であった岸岳城には、その子孫たちの祟りの伝説が残されていて、それは今も地域に根づいています。日本の死霊思想にはかなり根深いものがあります。今は唐津くんちの町として有名ですが、そのひとつ前の時代にはこのようなことがあります。

このようなことを見ると、人間にとって死者の問題は切り離すことができないことを感じます。死霊や悪霊を信じる、信じないのは人の自由で、私がとやかく言うことではないのですが、そういう人が心の中に満たされないものを感じたときが恐いのです。古代ギリシアのオリンポス12神は、そのうちに誰も信じなくなって喜劇の題材にされていきますが、日本ではこの死霊や悪霊の問題は古代から連綿と続いて、うち捨てられることがありません。私は死霊を信じなさいとかいっているわけではありません。他の国の歴史を見ると、人が宗教を信じなくなったからといって、宗教がなくなることはないのです。必ず他の宗教が入ってきます。キリスト教ももともとはそのような新しい宗教の1つです。
日本人にとって死者の問題は非常に大事で、外来宗教である仏教が入ってきても、ここで新しいキリスト教が入ってきても、消えることなく必ず人々の心のなかにある問題です。お盆に里帰りして祖先の霊を祀ることは、今もほとんどの日本人がやっていることです。

秀吉は、この九州平定の際に、長崎で日本人が奴隷として売り飛ばされていることを知ります。とんでもないことだと、九州平定の帰り際に博多で、バテレン追放令をだします。1587年です。これがキリスト教禁止の第一歩です。ヨーロッパ人の奴隷貿易は、世界史で言ったようにかなりひどいことをしています。アフリカの貧困や紛争の原因はここにあります。我々は白人とも黒人とも違うと思っていますが、白人から見ると我々日本人は一絡げに有色人種です。


【関東平定】 その後、1590年に関東の北条氏の拠点小田原城を攻め、これを滅ぼします。この北条氏は鎌倉時代の執権北条氏とは別の一族です。北条早雲の北条氏です。この時の城主は北条氏政です。北条氏は、戦うか戦わないかを決められないまま滅んでいきます。こういう会議のことを、いまも小田原評定といって、結論の出ない会議の代名詞とされています。


【東北平定】 そして同年1590年に東北に行く。この東北が、伊達氏、ダテです。イダチさんとか読む人がいるけど、伊達政宗(ダテマサムネ)です。独眼竜政宗とかいう。戦さで片目を失って、眼帯をつけていたから。
さっきも言ったように、これも戦国大名のルールとして、勝てない相手とは戦さをしないです。勝てない相手と戦っていたら、命がいくらあっても足らないから。伊達政宗も自らしたがいます。
これで九州から東北まで、全国統一の完成です。北海道はまだ蝦夷ヶ島といって外国だと思ってください。




【家康の江戸入り】 
家康も愛知県の人間です。秀吉にとっては目の上のたんこぶです。だから、いい領地がありますよ、家康さん、江戸がありますよ、ぜんぶ、あなたのものでいいです、という。これは体のいい、何ですか。左遷です。日本の中心である京都から遠ざけようとする。1590年、徳川家康は江戸に入ります。

ふつうだったら、京都からはずれたら、へこむけど、家康はここから着々と江戸城を築く。江戸城はそのとき関東管領上杉氏の家臣太田道灌が築いた小さなお城でした。その時の名残として、江戸城のまん中あたりに皇居の建物を取りまくように道灌堀があります。

その後は着々と工事して拡張していきます。大まかにいうと、江戸城から東の隅田川方面には町人が、西の山の手には武士が住んだようです。今の山手線の西側には、広大な武蔵野台地が広がっています。今ほとんど残っていない武蔵野の風景がありました。
家康は、オレは田舎に飛ばされたんじゃない、オレが居るこの江戸という田舎を日本の中心にすればいい、という考えです。実際、そうなっていきます。


この間、家康は江戸にいて、江戸城の城下を形成しています。
家康の領地の石高は250万石。豊臣秀吉は200万石です。どっちが多いですか。家康ですね。破格の扱いというのがわかります。家康は領国経営に専念します。
これで終わります。

授業でいえない日本史 19話 近世 豊臣秀吉~桃山文化

2020-08-17 06:00:00 | 旧日本史3 近世
豊臣秀吉の天下統一のところをやってます。
年表ではすでに天下統一をしてしまった。1590年です。ポイントになるところは、数字を覚えていたほうがかえって早いと思う。私はそんなに数字にはこだわらず、何世紀の後半とか前半とかをおおまかに押さえておけばいいと思うけど、細かい順番やるときに、ポイントとなる数字は知っていたほうが、かえって簡単なような気がします。


1590年、東北を平定しました。これが最後です。大名は伊達政宗です。仙台です。この間、誰かと話していたら、九州の人間は、仙台はけっこう知ってるけれども、仙台が何県にあるかとなると知らない者が多い。仙台は宮城県です。その仙台の伊達政宗が、自らしたがって全国統一を達成した、というところまで行きました。
その時の石高は・・・・・・領地は広さではなくて石高という米の取れ高で表しますが・・・・・・徳川家康が江戸にはいって250万石。対する天下人の豊臣秀吉は200万石です。石高では、徳川家康の方が上だった。豊臣秀吉にとっては、石高をオレ以上にやっていても、とにかく目の上のたんこぶを大坂から遠くにやりたいんです。
東京が日本の中心だと考えたらダメです。この時代の中心はまだ京都です。発達していってるのは大坂です。関西が中心で、関東はむかし板東といって、九州よりも田舎のイメージです。
もともと古代では、九州は先進地帯だった。日本は西から東にいくほど田舎です。江戸はまだ田舎です。江戸の町はなく、江戸城がこの時から始まったばっかりだということです。
東京の地形は三浦半島と房総半島の間に東京湾があって、東京はここです。江戸城はここです。今の東京は、東京駅の目の前に江戸城があって、その周囲に山手線があって、そのまん中を突っ切って中央線が西に延びている。そこは山の手といって武蔵野台地の上です。昔の武蔵野のイメージです。もともとの江戸の町はその反対の東側です。
渋谷や新宿の西側に人が住みだしたのは関東大震災以降です。東の人が家を焼かれたから西に住み出す。西の方が伸びていく。いまはそういう東京になる以前の話です。


【天皇権威の利用】 では天下統一をしている間、豊臣秀吉は同時に何をしていたかというと、秀吉は、織田信長が足利義昭という将軍の権威を利用したように、天皇の権威を利用する。オレが偉いんだと言っても、おまえは百姓じゃないか、これが一番痛い。
ここで天皇が久々に出てくる。後陽成天皇です。あれっ、鎌倉時代に天皇は滅亡したのじゃないですか、とか言わんでくださいね。天皇はいますよ。


【天正大判】 それで、もう一つ。お金をつくりはじめたんです。天正大判という。大判小判の大判。日本の政府がお金を作り始めたのは、何年ぶりか。958年の乾元大宝の発行以来、約600年ぶりです。平安時代の中期に消滅していた。
ではそのあと日本にお金がなかったかというと、あったんです。なぜ日本にお金があったのか。どこから手に入れたのか。中国銭です。輸入銭です。これは自前じゃない。

天正大判に小判はなく、この大判は贈答用に使われただけで、広く流通はしません。ただお金を自前で造り始めたということが大事です。江戸幕府がこれを受け継いでいくからです。



【検地と刀狩り】
【太閤検地】
 1582年の山崎の戦いの年で、秀吉は織田信長の後継者になるとすぐ太閤検地に乗り出しています。家来たちの土地が気になる、どのくらい土地を持ってるのかということを実際に計っていく。1582年から始めます。

太閤とは豊臣秀吉を指すのですが、太閤とは何か。豊臣秀吉は将軍にはなりません。だから豊臣政権を豊臣幕府とは言いません。では将軍にならなかった代わりに何になったのかというと、天皇の権威を利用して、その天皇のナンバーワンの家来になるんです。これが平安時代にも出てきた関白です。摂政・関白の関白です。
これを中国風に言うんです。なんで中国風に言うか。日本語でも漢字で言えばいいものをわざわざ、英語で言ったりするでしょ。関白の中国名が太閤です。

以前の検地と違うのは、自己申告制であった。自分の土地台帳を指し出した指出検地でした。今度は自分で実測していく。自己申告制度じゃなくて。これを全国やっていく。1582年から1598年まで、16年かけて。これ豊臣秀吉がもう死ぬまで全国で続けていく。

これを竿入れといって、メーター尺はないから、縦横はかって面積を出して、それぞれにこの土地は1段あたり、どれくらいの収穫量があるか、というのをおおよそ検討つけていく。これを石盛という。土地の善し悪しを検査していくんですよ。土地の広さと質を調べる。上田、中田、下田、下々田、の4つに区分して、それぞれその石盛に面積をかければ、その土地の米の取れ高、つまり生産高がわかる。これを石高という。
これを全国足していけば、日本全体の収穫高がわかる。これ壮大な作業というのはわかるでしょ。一日でパッとできるようなもんじゃない。あの派手好きな豊臣秀吉は、実はこんな地味な作業をずっとやっていく。彼が一番力を入れたのはこれなんです。


【一地一作人の原則】 では太閤検地の社会的意味は何か。日本全国には、地主の土地があって、その地主は誰かというと、何も仕事してない京都の貴族たちの土地というのが全国ある。地方にもあっちこっちにあるわけですよ。
秀吉はそういう土地を没収していきます。そしてその土地を誰の土地にするかというと、そこに一地一作人の原則というのを適用していく。
今であれば、土地があれば、この土地は誰のものかと聞くと、一言で変えるんです。この土地がある、誰が耕しているのか、と聞くんです。土地を調べた検地帳に、それまでの所有者ではなく、実際の耕作者を記入する。たったこれだけですけれども、これが何の消滅を狙ったのか。地主の消滅です。耕してない地主の所有権は認められない。
この耕作者が所有者だよ、という。その所有者が年貢を払うことにする。それで京都にいるお公家さんは、ここですべて土地を失う。
これが、それまで約800年続いてきた日本の荘園制・・・・・・貴族の土地です・・・・・・これが消滅したということです。貴族の荘園制度800年は、太閤検地でとどめをさされた、ということです。
家臣団へは、その収穫高に応じて、戦さの時の軍隊派遣の馬の数とか、兵隊の数とかを割り当てていく。


【刀狩り】 そして、太閤検地と同時にやったことが、刀狩りです。1588年に刀狩り令を出します。太閤検地は経済的なものですが、刀狩りは政治的なものです。政治と経済が結びついていきます。この刀狩りは、刀は武士がもってるというイメージではわからない。戦さがあれば刀で戦う武士は、暇な時には草深い田舎で農作業していました。だからパッと見ると、武士なのか農民なのか分からない。そういう武士や百姓がいっぱいいる。つまり兵農未分離の状態なのです。そういう中で農民に刀は不用だから、刀はオレがもらう、という。
一揆の防止とは言わない。ありがたいお寺を建てるから、お寺には、釘がいる。かすがいもいる。その鉄にするから、役に立っているから、極楽いけるぞ、という。そのお寺を方広寺という。京都に建てたお寺です。
しかし本当のねらいは何かというと、戦国時代から時の権力者が一番恐れていたのは、武士と農民が団結した一揆なんです。これを起こさせないようにする。

武士と農民は、境が不明確なんですね。農民は田舎に住んで、田んぼを耕す。武士は今までは農村に住んでいたけど、しかし戦国時代からどうなったか。武士はどこに住んだのですか。殿様を守らないといけないから、城下町に引っ越したわけです。
だからおまえは武士として引っ越してこっち来い。その隣のおまえたち二人は農民として元のままやれ。こうやって分けるんです。これが兵農分離です。こうやって太閤検地と兵農分離というのが結びついていく。社会変革の度合いが大きいですね。グランドデザインが大きい。とても一介の百姓とは思えない。
一昔前まで、江戸時代は士農工商の身分社会だといっていた。今あまり言わないのは、本当に大事なことは、「士農」を分けたことだからです。「工商」はおまけじゃないけど、メインではない。ポイントは武士と農民を分けたことです。この誰もできなかったことを、ここで完成したということです。

太閤検地は、全国的な小農自立政策として、近世社会を通じての大きな柱になっていきます。農民たちに土地を与え、彼らの生活を保障し、農村の自治を認めます。農民たちの生活の向上という点からは、非常に優れた政策です。
その一方で家臣を城下町に主従させ、領地の農民たちとの結びつきを断ち切る。そして農民に対して刀狩りを行う。

確かに農民たちは、刀狩りに対して反対しますが、決して土地をもらうことに対して一揆を起こしたのではありません。
農民たちの心配は、「土地をもらうのは良いが、もらった以上それを守るのは自分たちだ、刀がなくては守れない」ということにありました。
秀吉にしてみれば、「そんな人の土地を奪うような行為はオレが許さない」と言おうとしたのですが、それまで日本の社会の中で、自分の土地を人が守ってくれる社会など存在しなかったから、農民たちはそれを信用しなかったんです。
しかし日本の近世は本当に秀吉が言ったとおりの社会になります。江戸時代300年はまれに見る平和な時代になります。しかもそのことによって農民たちの勤労意欲は向上しました。
江戸時代の安定した社会はこのようにしてつくられたのです。

さっきも言ったように、太閤というのは、関白の別名です。秀吉は朝廷の家来になって、関白になり、公的な権威を授かります。関白になった後も、秀吉は時の後陽成天皇を新築したばかりの聚楽第に迎え、盛んに接待し、朝廷のなかに入り込んでいきます。ちなみにこの聚楽第は今はありません。実は豊臣という姓も天皇からもらったものです。秀吉はもともと木下藤吉郎でした。
秀吉の太閤検地は、そういう意味では、古代律令国家が目指そうとして成しえなかった公地公民制の実現ともいうべきものであり、結果としては農民への口分田班給以上の効果をもたらしたものです。口分田は耕作者の死後国家に没収されましたが、太閤検地で得た土地は耕作者の死後もその子孫のものになります。土地の世襲が完成したのです。

土地を持つこと、これこそが地方の農民たちが、何百年間も待ち望んだことでした。豊臣秀吉はそのような農民たちが何百年間も待ち望んだことを実現したのです。彼が農民出身であることの意味はここにあると思います。

秀吉は一揆のような私的ルールの否定と同時に、日本全体の農民の生活保障を行ったのです。立身出世の権化のように言われる秀吉ですが、彼が競争型の社会よりも安定型の社会を選んだのは、単なる思いつきではなく、農民の子として生まれてから天下人になるまでの彼の半生をとおして形作られた理念であったように思えます。このことによって日本の農民は、ヨーロッパの農奴とは明らかに違った自立した農民になったのです。
天下さまと言われた秀吉は、農民まで含めた全国に対する政治責任を、「天下」という包括概念で捉えた初めての武家政治家です。秀吉の「天下」はそれ以前のどの武家政権よりも階層的に広く、そして思想的に大きい概念です。私はそういう意味で、秀吉は「国民」という概念にたどり着いた日本で最初の政治家ではなかったかと思います。

彼は農民を下には見ていません。農民の目線で日本を見ています。太閤検地にあるのはそういう思想です。そしてこのことが江戸時代に受け継がれるのです。
従来の幕府は武士に対してだけその政治責任を引き受けるものであり、農民への政治責任という政治概念は従来の幕府にはありませんでした。それは鎌倉幕府の発した永仁の徳政令が、武士への土地保障だけを念頭に置き、農民の土地保障は対象外であったことと比較してみても明らかです。

よく豊臣秀吉は農民出身でありながら、農民が武士になる道を絶ったと批判されることがありますが、兵農分離は太閤検地の結果として、必然的かつ副次的に生み出されたものです。農民が土地を持ち、その土地を誰からも脅かされることなく土地の耕作に専念できる社会、それこそが長らく農民が待ち望んだものだったからです。


しかしこれは事の半分です。


【バテレン追放令】 ではキリスト教にはどういうふうに対応するか。その前の信長は保護政策だった。これはキリスト教が好きというよりも、憎いのは仏教だったからです。仏教の中の一向宗と対立していました。あいつらは徹底的に歯向かう、死んだら極楽にいけると思っているから、どんどん向かってくる。こういう人間は恐い。権力者にとっては、死を恐れない人間は本当に怖いです。

秀吉はあることがきっかけで、これを禁止していきます。前回も言ったけれども、1587年にバテレン追放令を出す。太閤検地は1582年からですから、もう1580年代後半です。バテレンというのは、宣教師のことです。英語ではパードレという。何でも日本は訛るんです。

外国語は、何が本当の発音か、というのはけっこう難しい。オードリー・ヘップバーンという昔の美人女優を知ってますか。また日本の考古学をはじめた人に、ヘボンさんというのがいる。見た感じでは、ぜんぜん違う名前です。ところがヘボンとヘップバーンは同じ綴りなんです。「ヘバーン」と言うと、日本人はどっちに聞こえるか、ヘップバーンと聞こえない。ヘップバーン、ヘッバーン、ヘバーン、ヘバン、ヘボンと聞こえる。このくらい、外国人がいった発音と、日本人が聞きとった発音は違う。
パードレとバテレン、違うじゃないか、と思うかも知れないけど、それくらいの発音の差は、同じと思ってください。
これは九州平定しに来た時に、博多である情報をキャッチした。ヨーロッパ人が、アフリカ人をどんどん奴隷に売り飛ばしたという話は、世界史でやりました。アメリカ人の黒人は、ネイティブのアメリカ人じゃなくて、アフリカの奴隷の子孫です。日本人も有色人種だから、奴隷として売り飛ばされている。何ということだ、と秀吉は怒る。宣教師は出て行け、と言う。
大名には、キリスト教にはいったらいけないと言う。ただこれは何と結びついていたか。貿易と結びついていた。だから貿易はそのまま続けたい。ここが難しいところです。


【朱印船貿易】 だから来るなです。来たらいけないけれども、貿易はやる、と言えば、どうすればいいか。残るのは一つしかない。日本人が出て行ったらいい。どんどんやるぞ、日本人が国外へ出て行けはいい。だから貿易やるぞ、と言う。これで矛盾してない。結構スケールでかいですね。
これを朱印船貿易といいます。まだ鎖国の前です。江戸時代になっても、最初の40年間はどんどん貿易やっていきます。日本人が海の外へ出ていく。東南アジアぐらい軽く行くようになります。

それまで中国との貿易には、室町時代から、日本人の海賊がいた。日本は倭です。その悪者は倭寇です。逆に元の悪者が元寇です。それを禁止する。
1588年に、海賊取締り令をだす。これで300年取り締まれなかった倭寇が根絶する。
オレが許可したものしか出て行ったらいけない。そしてすかさず、俺が許可した者はどんどん東南アジアでも、中国でも出ていっていいぞ、という。この船を朱印船という。
いま我々は何でも印鑑を押します。出勤しては押し、物を買っては押し、お金を借りては押すし、何かを契約するたびに押す。あれ赤い印鑑でしょ。つまり朱印です。証明書に押すんです。行っていいぞと。それで許可制です。
その秀吉の許可をもらった許可証を朱印状といいます。渡航先は、中国でもいいけど、この時代は南方です。東南アジアです。そこに日本人が出ていっている。鎖国のイメージが日本人には強いから、えっ、と思うかもしれないけど、日本人はもともと海洋民族です。海にはどんどん出ていく。

しかし、ここらへんから、日本はちょっとおかしくなる。
中国に比べたら日本は小さい島国なんだけれども、中国は外国の王様に、オレを王様と思って、オレに挨拶に来い、ということをずっと伝統的に1000年も前からやっている。
秀吉は、オレもそれしようかな、と思う。朝鮮とかインド、フィリピンのルソンです。そこに、オレに挨拶に来いと言う。これを朝貢といいます。日本が朝貢貿易を要求する。でも、これはうまくいかない。



【朝鮮出兵】

日本は貿易を中国ともしたい。室町時代の中国との貿易は何貿易だったか。日明貿易です。別名、勘合貿易です。札を合わせて、オレは海賊じゃないというのを証明する。
しかし明の貿易は非常に厳しかった。鎖国をしていた国は、日本ばかりじゃない。明も厳しい許可制です。ほとんど鎖国に近い。これを海禁政策といいます。明の海禁政策は、貿易が自由にならないんですよ。これに秀吉は頭にくるんです。なぜ今どき国を閉ざそうとしているのか。オレはもっと貿易やりたいんだ、文句いいにいくぞ、という。中国に行く時には、たいがい東シナ海を突っ切ると難破の危険があるから、対馬を通って、朝鮮半島の釜山から、と行ったルートを取る方が安全です。だからどうせ通る朝鮮に中国との仲介を求める。オレを案内しろと、でも朝鮮はどっちの味方か。朝鮮の親分は中国です。了解するわけがないです。それで、オレたちの申し出を断るんだったら、攻めるぞ、と言って秀吉は朝鮮に攻めに行く。


【文禄の役】 これが朝鮮出兵です。1592年です。年号をとって、文禄の役という。これはもう国家の大プロジェクトです。拠点として、何もないところに突然15万人の巨大都市をつくる。この当時で15万人の都市といったら、当時のロンドンでも10万人ちょっとぐらいです。その拠点が佐賀県の肥前名護屋城です。名護屋城の石垣は見事に残っているけれども、建物はありません。この周辺が公園化される前に、近くの山を分け入って行ったら、あるわ、あるわ大名の陣地が、建物の跡が、石垣がボコボコ山の中にあるんです。これ陣地跡です。これだけの陣地跡は、これは壮大な土地だったろう。今かなり整備されてますが。
ここにはいろんな人が来ています。徳川家康も来ているんです。徳川家康の陣跡というのは、いま幼稚園の敷地になっている。幼稚園も大したものです。その徳川家康の石垣を、幼稚園の運動場の仕切り線にしている。
しかし家康はここに来て、どうぞいってらっしゃい、と出兵はしていないらしい。秀吉も家康には何もいえなかったみたいです。ここらへんは家康も役者ですね。ヘタな人間は、オレは行かないと、断って角を立てる。わかりましたー、とやって来て、一番バタバタしたところ、いってらっしゃい、という。これで処罰をうけない。そういうことができるということは、家康にはそれだけの力があったということです。

不意を突かれた朝鮮半島では、最初は北まで行くんだけれども、そこで抵抗にあう。向こうも頭いいです。日本が攻めてきたところで戦って、そこから押し戻そうなど、そんなことはしない。もともとこの作戦には無理がある。ではどうするか。

昔、ある建物を掃除していたらツタが建物に絡みついていて、建物が葉っぱで覆われている。みんな2階や3階にのぼって絡みついたツタを取ろうとしていると、1時間遅れてある男の人が来て、プチッと根っこの茎を切って、もうこれでいいから、みんな帰ろうと言って帰っていきました。1週間後に行ったら、ぜんぶキレイに葉っぱは落ちている。プチッと3秒で、根本を切るだけで葉っぱ取り完了です。葉っぱに養分を行き渡らせている根本の茎を切れば、建物を覆う葉っぱはすべて枯れるんです。

それと同じことをやる。戦争でも上陸させたあとは、補給路をプチッと切るんです。李舜臣という朝鮮の武将がそれをやる。朝鮮で戦うはずの日本軍は、補給路を絶たれたら、これで終わりです。日本軍が70年前の太平洋戦争でやられたのも、同じ方法です。まず銃があっても、弾がない。次に食い物がない。それでどうやって戦うんだ、となる。それでも一億玉砕だ、といって、多くの犠牲者を生んだ。
日本のイクサは、歴史を見ると、勝ち負けを早く読んで、勝てないと分かったら退却するという戦いを、戦国時代からやってきたんですけれども、その例外が、戦前の日本陸軍だと私は思う。負けても負けても、最後の1人まで戦う。そんな戦いはふつうはないです。さらに飛行機を飛ばして片道燃料だけ積んで行ってこい、という。神風特攻隊です。これは100%死ぬ作戦です。イクサというのは、負けイクサほど早く気づかないといけないし、やめないといけないけど、それができなかった。なぜそんなことになったのか、よく考えてみなければならないことです。


【慶長の役】 秀吉は、ここらへんからどうもおかしくなる。もう一回朝鮮出兵をやるんですね。1597年から。これを慶長の役といいます。これも日本の状況見て、無理だとみんな思っているけど、無理ですよという人間がいないんですよ、徳川家康だけは、いってらっしゃいという。誰も言わない。諫めない。
今度は朝鮮側も戦争準備しているから、北にさえ進めない。一番の負け戦です。悲惨です。ではどうやって終わったか、秀吉が死ぬのを待って、やっと自然消滅した。
こういう政権になると、やっぱりまずいですね。

しかも跡継ぎは秀頼、まだ生まれたばかりの6才、母親は淀君といって、年が20も30も離れている。若いけれども。いろいろ噂はある。秀吉は女好きです。ねねさんという正室もいる。女好きだから、側室やその他の女性との関係もあったと思う。淀君というのは、織田信長の妹お市の方の娘です。その淀君とだけ子供ができる。本当かな、そういう噂もあります。
しかし秀吉は大喜びです。とにかく天下人になると、後継者をどうするか。やっとできた。しかし6才。そして自分は死んでしまう。
実権は、徳川家康です。今度は江戸から京都です。京都の伏見城にいる。大坂に近い。日本の中心地に近いところで、じっと座っている、という状況です。


【影響】 こういう朝鮮出兵、そのおつりとして、日本へ新しい文化が伝わった。一番、影響を受けたのは、名護屋城がある今の佐賀県です。何が伝わったか。まず有田焼です。唐津焼もあるけど、やっぱり有田焼かなという感じです。唐津焼も人気です。でも製法が違うし、またも使用する泥が違う。有田焼は白です。磁器です。唐津焼は茶色です。湯飲みのような陶器です。それからちょっと遠いけど鹿児島の薩摩焼というのもある。
有田焼を伝えたのは李参平という。李は朝鮮名ですが、三平は日本流に改名したんでしょう。その技法を受け継ぐ者として、代表的なのが有田の酒井田柿右衛門です。今15代目です。
その点、薩摩焼は日本流には名前を変えない。朝鮮の名前そのままで受け継がれています。これもずっと続いて、いま15代目です。沈寿官(ちんじゅかん)といって、薩摩焼を代表する窯元です。
それから、もう一つ、まだ日本には麻しかなかった。いま着ているような木綿は朝鮮が本場だった。日本では栽培技術かなかった。この技術もまた伝わってくる。



【桃山文化】
この時代の文化。この時代の文化を、桃山文化という。時代は安土桃山時代という。
安土は織田信長のお城が安土城だった。桃山というのは、徳川家康がいた伏見城のことです。これは豊臣がつくった。ここに桃の花がいっぱい咲いたから、別名が桃山城といわれた。つまりあの織田信長、豊臣秀吉のころの文化という意味です。これを桃山文化という。


【港町】 この時代で、栄えたもの、貿易するための港町。京都に近い、これが一番外国との貿易で栄えた。
2番手が九州の博多。博多は古い町です。江戸の町がない。熊本の町がない。でも博多の町はある。博多の町は城下町、というふうには言ってないよね。博多の町は港町です。イヤ福岡城があるじゃないか。今の福岡はもともと二つの町です。博多湾の東側が博多の町です。その西のお城がある地域、これが福岡です。だから明治になって地名で喧嘩するんです。福岡だ、博多だと。だから福岡市にあるJR駅は博多駅という。東京の人は、福岡と博多がどう違うんだろうと思っている。何で福岡じゃないのか。もともと別々の町だったからです。性格の違う二つの町が、いま合体して福岡市になっている。博多は港町。福岡は城下町です。この時代、福岡はまだない、博多はある。


【佗茶】 文化としては、お茶を芸術にする。佗茶です。前回、武野紹鴎まで行ったと思いますが、次にこれを大成する人が、堺の豪商千利休です。最後は秀吉に殺される。


【浄瑠璃】 それから浄瑠璃、これはもともと歌なんだけれども、これに踊りを加える。人間の踊りじゃなくて、人形の踊りを。人の体の半分ぐらいの人形を、結構大きいから、大人2人で操る。上担当と下担当で。君たちは見たことないかもしれないけれども、日本の伝統芸能で、人形浄瑠璃というんです。名前は聞いたことあるかな。
この音曲として普及してくるのが、ギターじゃなくて、三味線です。三味線は南方から、琉球から伝わってきます。琉球から奄美地方までの三味線は、蛇皮ですね。琉球のものは、三味線にヘビをつかっているから蛇皮線です。蛇皮線が本家です。
このヘビがいなかったから、猫皮で代用しました。犬皮もあるみたいです。


【歌舞伎】 これは今も人気の伝わる歌舞伎です。こっちが人気ですね。歌舞伎がうまれて来る。歌舞伎。今のようなストーリー仕立てじゃない。最初は踊りです。
しかも、あるお姉さんの一人踊りです。美人が一人踊る。この美人のお姉さんを、出雲阿国と書いて、いずものおくに、という。正体不明です。出雲出身だともいわれるけれども、よく分からない。巫女さんじゃないか。巫女さん崩れじゃないか。巫女さんをクビになって、食うに困って、踊りだしたんじゃないかとか、いろんな話あるんだけども、これが流行る。
最初は念仏踊りをアレンジしたものだった。この流行と念仏との絡みは、盆踊りもこういう念仏がらみだった。この念仏踊りが、ストーリーをもって演劇化していくと、今の歌舞伎になっていきます。
この歌舞伎の歴史を江戸時代まで言うと、最初は1人踊りです。これが阿国歌舞伎です。
そうするときれいなお姉さんは、1人見るよりも、2~3人見るほうが、男は楽しい。だから、次に女歌舞伎になる。
そうするとの踊るだけよりも、物語性があったほうがいいから、男女入り乱れて、ストーリー化していくんですよ。これを若衆歌舞伎といいます。

そのうちに男女が、みんなの前の壇上で、いちゃいちゃするのは、けしからん、と江戸時代にお触れができて、男だけでやれ、女はダメ、となる。それが今の野郎歌舞伎です。でも最初は気持ち悪いばかりです。男が女役になって、あなたー、と言うのを見たいかな。私が女役になって、あなたー、とか言うのを、君たちはお金まで払って、見に来ますか。
これが人気を得るためには、これが芸です。芸の力です。男が本気で化粧したら、女よりも色気があるというのを発見したのは、これです。男は自分の理想の女性像を頭のなかでイメージして、それを表現しようとするから、男から見てものすごい色気を出せる。


【木綿】 それから、この時代に普及していくのが、今では当たり前の木綿です。コットンです。それまでは日本人は麻しか持ってなかった。
ちなみにヨーロッパもこれが欲しくて欲しくて、それまでは何しか持ってなかったか。毛糸です。ウールです。ヨーロッパは。これに比べたらこの木綿の肌心地、着心地のよさ。もう爆発的な人気で、庶民衣料になっていく。
これを国産化することに成功していったのが三河です。三河の戦国大名は、これが徳川家康です。だからここはお金持ちなんです。


【小袖】 それから、日本の服のルーツ。ズボン式ではなくて、小袖という。和服のルーツですよ。今みたいに長いんじゃなくて、膝下くらいまでのものを着る。浴衣みたいに。
和服というのは、足を出すのは恥ずかしいので、もうちょっと、上流階級になるにしたがって、だんだん長くなる。
男の着流しというのは分かるかな。これだけで粋に男は、サーッと歩いていくんですが、それにズボンというか、袴をはく。袴の下には、この着流し。
この和服を着る文化は、300年前に終わったんじゃなくて、私が中学ぐらいまでは続いていました。そのころ各家のお父さんは家に帰ってまで、パジャマなんか着ないんです。だいたい和服に着替えていた、地方でも東京でも、昭和40年代まではそうだったです。
実は私も20歳になった記念にということで、正月用にお袋が買ってくれたのが羽織だった。若い頃20代には、正月にはよくそれを着てから友だちと遊んでいた。下駄履いて。しかし30代から、だんだんめんどくさくなって着なくなった。そしてみんな着なくなった。それで見なくなった。昔のドラマとか見てたら、そういう和服の風景はよくみます。それが普通だった。その代わり、成人式での女性の晴れ着が当たり前になった。昔はあれほどみんな晴れ着を着ていなかったですね。
これで終わります。

授業でいえない日本史 20話 近世 江戸幕府~貨幣

2020-08-17 05:00:00 | 旧日本史3 近世
【江戸時代】
【江戸幕府の成立】

ここから江戸時代です。
豊臣秀吉は死んだ。跡継ぎは豊臣秀頼、わずか6才。それを桃山城でじっくりと見ている。これが徳川家康です。豊臣方と徳川方が天下分け目の戦いをする。1600年、覚えやすい。これが関ヶ原の戦いです。
この有名な関ヶ原は、行ってみたら本当に何もない。山間部の小さな村です。タヌキだけがいるみたいなところです。岐阜県、美濃です。ここで徳川が勝つ。その幕府を江戸幕府、徳川幕府ともいうけど、通常は江戸幕府ですね。

でもここで豊臣氏が滅亡したわけではありません。大坂城に引き返して大名として存続します。豊臣方についた大名も多くは存続します。家康は負けた大名の土地を没収して自分が直接支配するという形を取りません。そのまま大名たちを存続させます。つまり幕府と藩が並存するわけです。これを幕藩体制といいます。
だから古代国家のような、中央から役人が地方に赴き、地方を支配するという形にはなりません。地方の政治は地方の大名に任せます。これは非常に緩やかな全国支配の方法です。だから江戸時代は地方に特色ある文化が栄えます。
しかし明治維新が起こると、藩が潰され、中央の役人が地方に赴いて県知事となり、中央政府の指示に従って地方行政を行います。その結果、非常に中央集権色の強い国家が生まれます。それと対比すると、江戸時代は地方の独自色の強い地方分権的な政治体制です。
しかしこのような地方分権色の強い幕藩体制の中で、どうやって日本を1つの国として維持するかは非常に難しい問題です。幕府はそのことに取り組まなければ成りません。

ここで日本の首都が江戸になったと勘違いしている人がいます。首都はどこですか。天皇がいるところですね。天皇がいたんですかと、まだ聞く人いますか。ちゃんといるんですよ。だから江戸時代の首都は京都です。これが公式見解です。この構造は一貫して日本の武家政権に共通しています。
この三角形のここにいる人、これは天皇です。その下の三角形、ここにいる人が天皇の家来の将軍です。正式には何というか。征夷大将軍という。1603年、これに徳川家康が任命されたんです。天皇からです。だから日本のナンバーワンは、やはり任命される人間より、任命する人間のほうがえらいでしょ。これが後陽成天皇です。徳川家康を征夷大将軍に任命した天皇です。




しかし300年後、この天皇の三角形、どんどん小さくなって、アメリカから見たら、天皇がどこにいるかわからなくなる。だからペリーは京都には来なかった。江戸に来たんです。この下の三角形しか見えないから。
これ図は3回目です。鎌倉時代にも同じ三角形、上の三角形と下の三角形は、同じ大きさだったです。室町時代になると、ちょこっと小さくなって、江戸時代になるとこんなに小さくなって、ペリーが来るころになると、アメリカからは分からない。望遠鏡を使わないと。そのくらい上の三角形は小さくなる。下の三角形が江戸幕府です。こういう構造はずっと続いています。



【江戸幕府の組織】
では、地図から行こう。江戸時代の大名と将軍の関係は一体どうなっているのか。
江戸時代の藩と、今の県はかなり違う。大名の藩というのは、一つの国に近いんです。県よりも。完全独立国家じゃないけど。行政組織も藩によって違う。独自性がある。バラバラでいい。また、いくら年貢をとろうか、各大名が決めていい。
いま私は日本人としては日本政府に税金を払ってます。江戸時代の農民は江戸幕府に年貢を払わないといけないかというと、払わなくていい。藩と幕府の財政はそれぞれ独立しているからです。


【大名家】 徳川本家が、江戸の徳川です。でも昔はよく子供が死ぬんですよ。一番大事なことは、徳川本家で跡継ぎがない場合に、どこから将軍を出すかです。将軍家に続く三家がある。御三家というけれども、御を取れという学者が多くて、三家になった。
君たちはどうですか。御三家と三家は、どっちが耳になじんでますか。やっぱり御三家ですよね。10年ばかり前に、学者たちが御を取ろうといって、歴史用語に御という丁寧語は不要だという話になって、三家になった。
でも御三家と伝統的にずっと言ってきたんです。御がつくのが伝統なのに、伝統を勉強する歴史からその伝統的な御をとる。私は、この発想は非常に自分をかいかぶっていると思う。やっぱり御三家と言い続けてきたら、御三家だと思う。
三家では、歯が1本抜けたような、なにかスースーして落ち着かない。三家とは、まず紀州です。紀州はどこか。和歌山です。このあと8代将軍がここから出ます。徳川吉宗です。暴れん坊将軍という時代劇になった。君たちは知らないかな。
次が、天下の副将軍といえば、水戸です。テレビでは水戸黄門さんを勝手に天下の副将軍とか言ってますが、組織図を見たら副将軍とかない。ただ距離的に近い水戸です。
次が、尾張、愛知県です。徳川の出身地です。この3つが三家です。これが徳川将軍家に次ぐ家柄です。



では、関ヶ原の戦いで言い忘れたけど、薩摩、長州、土佐、肥前、これらはどちらについたか。豊臣方なんです。徳川方につかなかった。だから江戸時代、300年間はずれ者です。これが明治維新の伏線になります。
強い藩というのは、たいがいはずれ者になります。関ヶ原の戦いというのは、十把一絡げに言うと、愛知県あたりで西日本と東日本が分かれるとすると、東日本の勝ちです。
300年後の明治維新というのは、逆に西日本の勝ちです。明治維新を成し遂げた藩というのは、薩摩、長州、土佐、肥前、ぜんぶ西日本勢で外様大名です。薩摩の島津氏、長州の毛利氏、土佐の山内氏、肥前の鍋島氏、これが300年後の明治維新の原動力になっていきます。

では、また前に戻って、これがそれぞれ別の組織で運営されていってるんだ、ということです。それぞれ言い始めれば歴史があって面白いですけど、それをいうとキリがありません。徳川は300万石です。ではナンバーツーの大名は加賀100万石です。加賀は石川県です。加賀百万石の大名は、前田利家です。
行政組織がいろいろあるなかで、ここでいうのは徳川の組織だけです。あと全部の藩をいっていたら、それだけで1年が終わってしまう。300諸侯といって、300藩ぐらいあるから。

大名というのは、その石高が1万石以上です。これがすべて大名です。これはだいたい300諸侯ある。この10万石越えたら大きいほうです。加賀100万石はバカでかい。福岡の黒田藩でも50万石くらいです。

まず徳川本家があって、三家に代表される徳川の親戚を、親藩という。えらい者順に言います。
次が、天下分け目の関ヶ原で徳川に味方した大名を譜代という。
その次が、反徳川だったところは、外様(とざま)という。反徳川だったけれども、徳川に敵対できるような藩と考えれば、外様が大きい。まず加賀100万石は前田家です。それからの薩摩(鹿児島)の島津、それから長州(山口)は毛利です。これは外様です。
薩摩とか肥前とかは、石高が大きすぎて、引っ越せといわれてもできなかったけれども、基本的に関ヶ原の戦いで敵に回った人間は、飛ばされて辺境地帯に引っ越しさせられることが多い。
彼らが悪いことをしないように、お目付役的に、全国に親藩と譜代が、あちこちに配置される。
財政は独立採算で、幕府に税金を払わなくてよかったんだけれども、将軍の命令は聞かないといけない。その第一は、戦さがあったときに軍隊を派遣するということです。


【直参】 それから江戸にいる徳川の家来、直参(じきさん)というんですが、その中に2つのランクがあるんですよ。
一つは、将軍と話せる家来。もう一つは将軍と話せるどころか顔を見たらいけない家来。話せる人は、お目見え以上で、これが上級武士です。これを旗本という。話せない人は、お目見え以下で、御家人という。
では地方の武士は何というか。御家人というのは徳川の家来だけです。薩摩の武士は薩摩藩士という。
全国的に見れば、幕府の体制とそれぞれ藩の体制は違うけど、総称して幕藩体制という。
ここでみる組織は徳川だけです。ただ徳川がこうすると、藩によって多少は違うんだけれども、だいたい似たりよったりになる。


【幕府組織】 将軍が一番えらい。
将軍直属でまず大老です。普通はいない。緊急事態のときだけです。一番有名なのはペリーがやってきた時、大変だ、ということで、大老が置かれた。
通常の最高格は老中という。会社で言えば重役です。
その重役の下に三つの部長。まず大目付です。目付だから、目をつける監視役です。誰が悪いことをしそうなのか、地方の大名です。大名はこれに目をつけられることを恐れる。
次、勘定奉行です。金(カネ)勘定と今でもいう。税金です。税金を取る部署です。徳川の領地から。基本は関東にある。しかし天領というのが、大分とか地方にあったりする。大分は金が出る。鯛生(たいおう)金山とか。そういったところは幕府直轄です。そういう江戸から地方に飛ばされてくる下っ端役人が代官です。
君たちは時代劇を見ないかも知れないけれども、農民たちが、おダイカン様、おねげーでございますだ、大官と書く人がいる。こんなに偉くないです。代わりの官、代官です。ただ木っ端役人ほど、上司がいない地方に下れば下るほど、いばる、というのは世のなかによくあることです。
それから中心は江戸の町、これを治めるのが町奉行です。町といったら、徳川にとっては江戸しかない。江戸町奉行の江戸と、あえてつけなくても、町奉行といえば江戸の町奉行です。その手下、一番下にいるのが、与力・同心という、事件の時に御用だという、下役人がいるわけです。

次に、将来の重役候補、老中見習い、これを若年寄という。変な名前です。若いのか、年寄りなのか、どっちか分からない。年寄りを老人と考えたら意味がわからなくなる、と言いました。年寄りというのは老人ではない。リーダーという意味だったんです。だから今で言うと若頭ですよ。若いリーダーです、若年寄というのは。
徳川はこういう組織です。だいたい藩もこれに似る。藩の場合には、だいたいお殿様の次の家来を家老という。これが藩のナンバーツーです。


【幕領】 徳川はどこから税金をとるかというと、自分の領地を持ってる。これを幕領という。幕府の領地のことです。これが400万石。以前は天領という言い方もしていました。とくに時代劇なんかでは。
旗本は旗本で、これとは別に自分の領地をもっています。それを合計すると300万石ぐらいの領地を持って、幕領の400万石と合わせて700万石になる。
江戸時代の日本全国の総石高が3000万石というから、だいたい4分の1です。日本の4分の1の土地は徳川のものです。
あとの4分の3を約300の大名で分け合う。それは、日本の四分の一を徳川家で持っているから、他の藩から税金を取るなどは必要ない。他の藩からは徴税しない。こういう独立の組織です。
こういうのを中央集権というか、地方分権というか。今から比べれば江戸時代は中央集権なんですか、地方分権なんですか。地方分権です。ここを間違ったらダメですよ。地方の独立性が強いんです。これは将軍の権威が絶対的であったという言葉に引っかけられると、江戸幕府は中央集権だったと、よくだまされます。幕府の地方支配は緩やかです。


【大坂の陣】 幕府の成立当初は、この幕府が300年も続くと考えた者は少なく、まだ動乱の世が続くと考えられていました。当然、徳川に対する不満の声もありました。その反徳川のシンボル的な役割を担ったのが、大坂城の豊臣氏です。徳川への不満が高まるに従って、豊臣氏への人気が高まるという形になります。
一旦は豊臣氏の存続を認めた家康でしたが、このような状況を背景に、豊臣を滅ぼします。それが1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣です。そしてその翌年の1616年に徳川家康は死にます。


【参勤交代】 1635年の武家諸法度寛永令で、それまで任意で行われていた参勤交代が制度化されます。制度化というのは強制されるということです。これにより各地の大名は1年交代で、江戸と地方を行き来することになります。その行列がいわゆる大名行列です。
しかも大名の妻子はずっと江戸にいたままです。これには地方に帰った大名たちが謀反を起こさないようにという、人質的な意味合いがあります。
これにより大名たちは、地方にお城を持ち、江戸には妻子と家来たちが住む江戸藩邸を持つという二重生活をするようになります。単純に計算すると、大名の半分がいつも江戸にいることになりますから、その家臣団まで含めて、江戸の町の人口はふくれあがります。
ということは大名の子供は江戸で育つことになります。つまり大名はみんな江戸育ちなのです。地方では、大名の子でありながら、自分の領地に行ったことのない人物が次の大名になります。そして大名になって初めて自分の領地に入ることを国入りといいます。
幕府はこのような形で、江戸と地方との関係を維持します。

もう一つ、この徳川幕府の組織は、室町幕府を受け継いでいるか。受け継いでいないです。これ見ただけで分かります。鎌倉幕府の組織と室町幕府の組織は、侍所があったり、非常に似ていたの覚えていますか。これはぜんぜん似てない。自分がいいようにつくった。徳川家康が必要に応じてつくった。しかし非常に実務的でこれでうまくいきます。


【農村統制】 では農村統制をどうするか。幕府組織は、室町幕府を受け継いでなかった。では室町時代にできた日本の農村はどうするか。また壊すのか。これはそのまま受け継ぐんです。いままでの農民をつぶさない。
そして農民を生かしたまま、農村の村の組織を生かしたまま、村から取る年貢を負担させる。何月何日にまでに、もってこいよといって。自治会組織みたいなものです。
まかせていて、日本の農民は頭いいから、年貢の計算ぐらいはお手のものです。農村に4~5人は、字が書ける人間がいて、村おさがいて、村でとりまとめて、年貢も何月何日までに持ってくるわけです。だからそれを壊したら、逆に行政が成り立たない。農民の共同組織を(ゆい)または、もやい、という。これを維持する。九州の方言に、もやいもの、という言葉がある。共同で使うこと。例えば、えんぴつ1本、オレとおまえでもやいもんするといったら、共有するということです。
年貢は村全体でまとめて納入する。侍の役人が、一軒一軒まわって徴収したりしない。これを村請制という。室町時代と一緒です。家ごとに収めたのではないと、いうことです。
これは、村の農民の中に読み書きができる者がいるということが前提になっている。ヨーロッパはこれはできません。農民は読み書きできないから。

それから村の中の百姓で一人前と認められているのは、本百姓のみです。
農民の中には、自分の土地を持たずに、人の土地を借りて耕している農民もいる。彼らは一人前ではない。本百姓というのは、自分の土地を自分で耕している。これが本物の農民です。そうであって初めて、村の自治に参加することができる。それが寄合です。家の人間で全員かというと、そうではではない。家から1人、家の代表者がでる。たいがい親父です。
しかし変なことをしないように、村の中でお互いに見張らせる。これを五人組制度という。だいたい5件で1つのグループをつくる。何か悪い事があると連帯責任です。
だからこういうのがあるから、今の我々の感覚でも、村の中は車では行けるけど、歩いて隣の村のはなかなか行けないですね。ジロジロ人の家を見ているようで。文句言われそうで。だから村の中には、見知らぬ人間はなかなか入れない。
だから鍵もいらない。泥棒も来ない。不審者が来ると、不審者が歩くよりも早く、隣のおばさんたちが、ササーと伝書鳩のように、誰か来ているよ、と次々に伝える。早く戸を閉めなさい、と。そういう不審者対策にもなっている。


【新田開発】 江戸時代に盛んに行われたことが新田開発です。新村とかいう名前も地方にはよくある。新町っていうのもある。
村人たちが共同で開発するのが村請新田です。農作業が終わって、暇なときは、寝ていたんじゃない。暇があれば開墾して、少しでも農地を広げようという努力を少しずつ続けていく。
この時代によく広がったところが、有明海の干拓です。昔は北から海に向かって、江戸時代の堤防、明治時代の堤防、大正時代の堤防、と何重にも堤防跡がありました。今の佐賀空港の場所も40年前までは海だった。それくらい、時代ごとに広がっています。

こういう村請以外に、町のお金持ちの町人が、土地の開墾に乗り出す場合もあります。

こうやって約100年で、江戸時代の初め160万町歩であった水田面積が100年後の18世紀前半、つまり1700年代前半には、約2倍の300万町歩になる。今も300万町歩です。それからはなぜ大きくならないのか。開墾し尽くしてしまったからです。ここで限界に達したんです。300万町歩です。
室町時代の開墾はこれほどじゃなかった。一坪からいかに収穫力を上げるか、そのために肥料をまいたり、いろいろしたんだけれども、江戸時代の生産力の向上はちがう。土地そのものを開いて、広げる。これが新田開発です。


日本の農民は、土地を持ち、その土地を誰からも脅かされることなく土地の耕作に専念できる社会、それをずっと待ち望んでいました。これを実現したのが太閤検地です。そして本当に自分の土地を誰からも脅かされることなく耕すことができる社会になったのです。そして、その平和で争いのない時代が300年続きます。すると農民は、誰からも脅かされることなく土地の耕作に専念するだけではなく、土地を開墾する努力を続けるようになったのです。
平和で食っていけるときは、人間は働かないものです。他の国を見ていたら、そういう所も多い。しかし日本人は、余ったエネルギーを新田開発に向けた。こういうことは、あまり当たり前だと考えないほうがいい。そこには日本人特有の勤勉性が発生しています。
他の地域では、衣食足りているときに、なぜそれ以上の苦労をしないといけないか、という考えがある。あながちそれが間違っていると全否定はしないけど、日本の場合は衣食足りても暇があったら、もっと何か生産力が上がる方法はないか、それを一生懸命考えてきた。これを国民的にやっていく。この江戸時代300年間に。

そのことは武士と農民の分業体制がうまくいったということです。もともと太閤検地には、農民が安心して自分の土地を耕すために、武士がそのための治安を守るという考えがありました。ところが、江戸時代はまれに見る平和な時代になって、戦いらしい戦いも起こりません。だからといって武士が不要なわけではありません。泥棒がいないからといって、警察がいなくなれば、そんな社会はもたないでしょう。そんな社会になれば泥棒が跋扈するに決まっています。

しかしそんな天下泰平の中で、武士自らが自分の存在意義を考え始めます。天下泰平の世の中で、武士が存在する意義は何かと。そのことはたんに社会の治安を維持するだけではなく、もっと高い次元での政治のあり方を模索する態度に繋がります。
もともと武士は草深い田舎から出てきた草莽の武士でしたが、たんにイクサで戦う武士ではなく、高い政治理念を追求する武士の姿へと変わっていきます。のち武士の考えの中に天皇を重視する「尊王論」が出てくることは、そのことと関係しています。


【農民】 では農民はというと、さっきいったように、一人前は本百姓という。これが一人前の独立農です。条件は、耕す自分の土地を持っている。しかも家は当然持っている。
半人前の百姓は、水呑百姓という。なにか差別用語みたいですけれども、ちゃんとした歴史用語です。自分で耕す土地がない。家はあっても。この違いです。土地を持たないと一人前じゃない。


【町人】 では続いて、町人です。町人の税金には地子銭というものがありますが、基本はタダです。
江戸時代の8割以上は農民です。幕府は、こんなのはおまけだから気にしない、農民からさえしっかり、年貢を取れればそれでいい、という考えです。ということは、儲ける町人は、税金がなかったらどんどん肥え太ります。
これが積もり積もって、100年で町人が上に行くんです。商業が発達していく。一般に町人の負担は、農民の負担よりも軽いです。それは、幕府の財政基盤があくまでも農民にあったからです。


【都市】 では江戸時代の三大都市、ここで江戸が出てくる。当たり前じゃないよね。室町時代までは三都はどこだったか。京都奈良鎌倉だったんです。江戸はなかったんです。
江戸は誰がつくったか。この直前に、徳川家康がつくったばかりなんです。江戸城は確かにあった。ちょっと前から。でも小さな田舎城です。太田道灌というのがつくった。江戸城の中に道灌堀というのがある。それぐらいしか堀はなかった。それを家康が、その何十倍も、大々的に堀を掘って、江戸城をつくって、城下町をつくって、町割をした。そこから江戸の町が急発展していくわけです。

それから経済的には大坂です。天下の台所。町人の町です。
京都には天皇がいる。ここが公式には首都です。中世の三都と大きく違うんだということに気づいてください。近世の三都は、江戸大阪京都です。ここで大きく変わるということです。
今までのトップは京都だった。そのその上に江戸と大坂ができるということは、今に例えると、東京よりも大きい都市が、日本のどこかに1つできて、さらにもっと大きい都市がもう1つどこかにできるということです。社会が一気に変わるほどの変化です。


【貨幣】 この江戸幕府で、今までになかったことは、お金をつくったことです。当たり前と思ったらいけない、といいました。
約800年ぶりぐらいに、初めてお金をつくったのが、豊臣秀吉だった。天正大判をつくった。それまで日本はお金をつくってなかった。でもお金はあった。どこから持ってきたか。中国だった。鎌倉時代は宋銭です。室町時代は明銭です。


そういうお金を日本が自前で作りだす。そのための特権的な座、これが金座です。幕府はお前に任せるぞといって、後藤家に任せる。
関ヶ原の次の年の1601年には、幕府は慶長小判をつくる。1万円札と思っていい。大判は10万円札です。10万円札はないけど。10万円札だと高価すぎて我々大人でも、ポケットには入れない。だから大判というのは、贈答用の飾りだったんです。本当に有用なのは小判です。
ただ、その他に銀貨もつくる。これを銀座という。この銀座のあったところが、今の銀座です。東京駅のすぐ裏が銀座です。
江戸幕府は、金銀銅、三種類、種類をわけてつくった。

実は複雑なことに、日本にはまだ統一貨幣がなくて、西日本と東日本で通貨の、お金の種類が違うんです。具体的にいうと、江戸と大坂でお金の種類が違う。政治都市は江戸です。では経済都市はどっちか。大坂なんです。天下の台所といわれる。お金がこの二大都市で違うんです。江戸は金遣い、大阪は銀遣いです。

1つの国に2つの通貨があるというのは、面倒くさくてたまらない。
例えば、大坂から西は円を使っている。大坂から東はドルを使っている。これだと取り引きが非常に煩雑になります。しかしなかなか江戸時代には通貨統合できない。やろうとする人は、100年後に出てくるけれども、明治にならないとこれはできません。
銀を作るのが銀座です。ふつうお金といった場合に、この時代には八割方は銀を指します。日本の貨幣の中心は銀貨です。金を持っている人間というのは、よほど金持ちなんです。経済は大坂中心で、ここは銀遣いです。
金貨は見ただけで値段がわかります。一両と書いてあるからです。これを表示貨幣といいます。当たり前と思うかも知れないけれども、銀貨というのは、銀の塊自体がお金です。銀の塊、豆粒のようにしている銀です。それを財布の中から取り出して払おうとしても、この銀がいくらなのか、よくわからない。1回1回、何グラムなのか秤にかけて計らないといけない。こういうのを秤量貨幣といいます。秤は秤(はかり)という意味です。秤にかけて重さを計らないといけない貨幣です。面倒くさいです。でも江戸時代の町人は頑張りました。これで商取引をどうにかこなしました。

金のほうでは、それまで豊臣秀吉の10万円ぐらいの天正大判しか発行していなかった。それを1万円ぐらいに細かくした小判を発行する。年号をとって慶長小判といいます。1601年、江戸時代の初期です。それで小判が江戸では金が流通する。
しかし、天下の台所、経済の中心地大坂では、豆粒のような銀貨が流通していた。銀貨は豆板銀といって、ホントに豆粒のような形です。これはいくらなのか、見ただけではわからない。これは大坂が中心です。
東京駅の裏手にある、それを作るところが今の銀座です。もともとは、夜のきれいなお姉さんが着飾っていくようなところじゃないです。今の銀座は夜の蝶が舞うようなところですけれども、もともとはこういうビジネス街です。
これら金も銀も、我々庶民はもたない。我々庶民がお金を持っているのは銅です。
これをつくるところは、銭座という。この銅銭の寛永通宝とか、いっぱい種類が出てくる。

大商人は、大坂と江戸にいます。それぞれ取り引きする時に、今でいうと円とドルを交換しながら取引するようなものだから、金と銀の交換比率は、今の円とドルの交換比率と同じように変動するんです。変動相場制なんです。
ということは、この会計処理をできるだけの能力が、江戸時代の商人にはすでにあったということです。江戸時代の商人をバカにしたらいけない。変動相場制を、300年も前から日本人は行っていた、ということです。

こういうお金を発行する権利は、莫大な利益を生む。今も昔もそうです。この時代には、どこが持ってるか。つくるのは民間に委託していても、発行権は徳川家が独占している。地方の大名はもってない。
しかし、藩がお金をつくっていたと、知ってる人がいるかもしれません。実はあったんです。これが藩札という紙幣です。これは藩が発行した紙のお金です。
お金とは何かを、以前、政治経済でやったけれども、結局よく分からなかった。これは私が分からないだけではなくて、よく分からないのです。
金銀銅だけがお金かというと、貧しい藩は借金をしていました。借金したら、その証拠に証文を書く。何月何日、1万円借りましたと書いて、印鑑押して借りた相手に渡すんです。そういうふうに、私がお金を借りたとして、それぞれに1万円の借用証書をいっぱい切ったら、それがお金になって勝手に流通しだすんです。物と交換されながら。すると市場でその紙幣が流通しだす。こうやってお金になります。藩の借用書がお金になるということです。
財政難により後期に、藩札を多発する藩が増えます。だいたい300藩のうち240藩あった。バカな人が、うちの藩は藩札を出していたんだぞ、自慢した人がいたんですが、アホなことです。貧乏藩といっているようなものです。藩札は、不健全な藩である証しです。

この借金証書がお金になって流通するというのは、お金の裏技に近いものですが、これが裏技だとバカにできないのは、現在の紙幣がこの形に非常に近いものだからです。この問題は根深い問題なので後で考えます。お金にはあといくつかの裏技があります。
ここでは金貨、銀貨、銅貨の発行は、幕府が握っていたということです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 21話 近世 江戸初期の外交~寺請制度

2020-08-17 04:00:00 | 旧日本史3 近世
【江戸初期の外交】
次、貿易にいきます。戦国時代の終わりに、まず来たのはポルトガル人だった。ヨーロッパ人が。そこから、つきあいはある。織田信長の時代から。
ポルトガル人というのは、世界史でやったように、ヨーロッパ本国ではキリスト教で勝てるほうなんですか、負けてるほうなんですか。もともとあったのはカトリックで、それに対抗したのがプロテスタントだった。これには日本名があって、カトリックは昔からあるから旧教といって、プロテスタントは新しくできたから新教という。
でもそれぞれ目的がちがう。プロテスタントはヨーロッパ本国で流行ってるから、日本にキリスト教を広めなくていい。しかしカトリックはヨーロッパ本国で負けてるから広めたい。初めはカトリックが来ていたんだけれども、また江戸時代になって新しくプロテスタントが来る。来たのは新教国です。
すでに豊臣秀吉はカトリック教徒が、長崎で日本人を奴隷に売り飛ばしていることを知っていた。これはヨーロッパ人の得意技です。アフリカの黒人は、ボコボコ奴隷にさせられた歴史がある。豊臣秀吉は、これは受け入れならない、と、バテレン追放令を出している。
そういったところに新教国が来た。神教国はキリスト教を日本に広めようという気持ちはないんですよ。


具体的にいうと、まず1600年にオランダ船がやって来ます。結論を言うと、日本がヨーロッパと江戸時代300年間、唯一付き合う国になるのがこのオランダです。どこで。長崎です。何という島で。出島でする。これは人工の島ですよ。今から十数年前に復活された。私が若い頃にはなかった。今は出島はきれいに復元されています。
1600年にオランダ船のリーフデ号が、豊後大分の臼杵湾というところにやって来た。これに乗っていた乗組員2人が有名です。
まずオランダ人はヤン・ヨーステンという。イギリス人はウィリアム・アダムスという。
徳川家康がまだ生きている時代です。いたく気に入る。なぜか。カトリックは受け入れたくない。オランダ人は新教国で布教の野心を持たない。
これは、引き留めて置かないといけない。帰らなくていいじゃないか。おまえには豪邸を造ってやるぞ。江戸城の裏手のほう、南の方です。今までいうと東京駅の真裏です。
表のほうは丸の内なんです。裏の方は何というか。八重洲口という。漢字は違うけれども、八重洲口とは何か。この人の屋敷があったところです。ヤン・ヨーステンは、日本名で耶揚子(やようす)と名乗った。八重洲口とは、このヤヨウス口です。この人の屋敷があったところです。それが八重洲という名前になる。八重洲口になる。
ウィリアムアダムスも三浦按針と名のる。三浦半島ところ、鎌倉辺りに広大な土地をもらって、幕府で抱えて、ぜひ顧問になってくれ、と頼んで採用する。ぜひ新教国とつきあいたいから、そのマネージャーをしてくれ、ということです。こうやって新教国とのつきあいが始まっていく。これは受け側です。

でも貿易の利益というのは、日本人が国から出てもいいですね。出向いてもいい。鎖国のイメージが強いけど、まだ日本は鎖国はしてないから、日本から日本人が積極的に外に出て行く。これを朱印船貿易といいます。
今のような自由貿易じゃない。貿易は自由にするものじゃないです。許可制です。許可をもらった船が、許可証に赤い印鑑をぺたんと押してもらって、何かの時にはちゃんと証明書がありますよ、許可を受けてます、と見せて、外国に出ていくわけです。だからこの船を朱印船という。この許可証が、将軍が発行した朱印状です。朱印とは何ですか。朱は赤です。赤い印鑑です。ここから始まるんだ、という話はすでにしました。

そして、東南アジア方面で、おもに中国人やヨーロッパ人も来ている。中国も鎖国に近い海禁政策をとっています。そこの港で出会って、直接に取引をする。これが出会貿易です。難破もあるし、死にもするけれども、生きて帰れればリターンは大きい。
何でそんなことをするのか。倭寇という海賊がいっぱい日本にもいるから。室町時代から何百年と、日本には海賊の伝統があります。

出向く貿易家は、中心はやっぱり関西商人です。京都、大阪。京都の角倉了以(すみのくらりょうい)、あとは読み方、茶屋四郎二郎(ちゃやしろうじろう)、名前が三つあるんじゃないかと思うけど、こういう名乗り方をする。大阪の末吉孫左衛門、江戸にも貿易家はいるけれども、メインはやっぱ大阪、京都です。
どこに行くか、シャムつまり今のタイ、ルソンつまり今のフィリピン、カンボジアなど、そういう東南アジアに出向いていく。
たいそう多くの日本人がそこに行って、そこに2~3日泊まっていたら、おまえも来たか、オレはもう3ヶ月もいる。オレは1年もおる。どんどん日本人が増えていって、日本人の町ができる。
このパターンの逆パターンで、中国人が日本に住み着いた人が今の長崎中華街です。横浜の中華街もそうです。そういうふうに逆もある。こうやって日本にいる取引しにきた中国人もいる。その日本バージョンが東南アジアの日本町です。
特に、この中から、オレはもう日本に帰らないと言って、そこで出世した日本人もいる。名前は山田長政という。タイにできた国で、アユタヤ王国という。


【貿易品】 何を取引したか。今は出ないけれど、昔はたいそう出た。今はなぜ出ないか。掘り尽くしてしまったんです。当時は豊富に日本に出たのがです。
金山、銀山というのは、今でも50年ももたない。すぐ人間が掘り尽くしてしまって。江戸時代でも、100年もたない。一つの鉱脈、金山、大分に鯛生(たいおう)金山というのがある。あれも掘り尽くしてしまった。
当時は日本、たいそう銀がでた。これで何を買うか。これはまだ日本では作りきれない。伝統的に中国がつくっている生糸です。英語で言うとシルクです。あのシルクロードのシルクです。ヨーロッパに持っていけば金と同じ値段で売れる。こういうものを取引しました。



【鎖国】
ではそのキリスト教関係でいくと、豊臣秀吉の時代から日本は、キリスト教の禁止をしはじめてるんです。
それは、ヨーロッパ人は日本人を奴隷にして、売り飛ばしている。他の国ではもっとひどいことをやっている。植民地にもっていって売り飛ばしていた。日本はそれを見抜くんです。同時にヨーロッパ人が植民地を狙っていることも。
それを教えたのは、ライバルの新教国です。実際その通りでヨーロッパ各国は植民地を築いていく。アジアなどは、このあと300年後に生き残ったのはタイだけです。あとはぜんぶヨーロッパの植民地になっていく。

鎖国のもう一つの狙いは何かというと、貿易統制です。日本ではこれを鎖国というけれど、鎖国の意味は貿易をしないことじゃなかった。オランダと長崎で貿易はしてた。中国とも国交はないけれど、中国人は勝手にやって来ていた。それが長崎中華街になっている。貿易はあったんです。その貿易を幕府が統制しようとする。他の大名はできないようにする。今のような自由貿易ではないです。国家管理です。これがアジアでは普通です。
ヨーロッパでも、ずっとスペインの貿易は国家独占だった。民間に開放して、海賊に請け負わせようとやりはじめたのは、ちょうどこの頃のイギリスです。イギリスが、海賊を呼んで、おまえたちしていいぞという。その代わり儲けの半分、10億円儲けたら、5億円オレによこせよ。これをやったのがエリザベス女王なんです。
しかし貿易を制限したら、今まで入ってきた輸入品が足らなくなる。まず輸入品が足らなくなる。足らなくなれば、それで我慢しろ、じゃない。作りたかったら自分でつくれという。これが生糸です。それまで中国人しかつくれなかった。さらに木綿です。朝鮮と中国人しかつくれなかった。これをこのあと300年間で日本は自分で作れるようになる。
そしてペリーが来たときには、日本の生糸は飛ぶように売れる。こういう国内生産が発達していきます。


【経過】 では貿易制限をしていく経過です。1600年代のはじめです。豊臣秀吉はバテレン追放令というのをすでに出していた。
それに続いて江戸幕府は1613年に、キリスト教禁止令を出す。これをたんに禁教令という。そうすると、日本にもかなりキリスト教の信者がいる。これをキリシタンというんです。そうすると信仰を捨てなかったらクビになるから、隠れるんです。隠れキリシタンが密かに発生したんです。隠れてるんだから、隠れキリシタンです。こういうことを聞いた生徒がいる。江戸時代、隠れキリシタンが発生したんだったら、江戸幕府はなぜ隠れキリシタンを処罰しなかったのか、と聞くんですね。見つけられたら、隠れキリシタンじゃない。隠れているから隠れキリシタンです。分からなかったんです。なぜ隠れキリシタンがわかったか。これは明治になってからです。
そして最近、何になったか。世界遺産になった。隠れキリシタンは、教会があったり、信仰のいろいろな跡が見れる。こうやって、世界遺産になった。


さっきいったように貿易を国家管理の下で、平戸と長崎が港です。実は長崎の前に平戸がメインだった。しかしこのあと平戸を封鎖する。この時、関係国はこれだけ来ている。旧教国は、ポルトガル、イスパニア。イスパニアはスペイン。新教国がオランダとイギリス。
幕府が来てもらいたいのは、新教国側なんです。旧教国はキリスト教を植えつけていくから、来て欲しくない。
そんななかで、オランダとイギリスという新教国同士が仲間割れして、これ言ってないけど、もうオランダ植民地ののインドネシアで仲間割れして、このときにイギリスが勝つかというと負けるんです。このときにはまだオランダが強いんです。イギリスが負けて、どこに行くかというと、インドネシアからインドに行ったんです。それで理屈が合う。イギリス最大の植民地はインドです。世界史で言いましたね。イギリス最大の植民地はインドです。イギリスはこうやって日本から撤退する。イギリスがインドネシアで負けた事件を、1623年のアンボイナ事件といいます。1623年、イギリスは日本の商館を閉鎖し、撤退します。
このあとのイギリスの世界での動きは世界史をよく見てください。200年後の19世紀には、大英帝国として世界ナンバーワンの植民地帝国を築きます。次に日本の政治に影響を及ぼすイギリス人としてやってくるのは、ペリー来航後の1859年に長崎にやって来た武器商人トーマス・グラバーです。

次に日本は旧教国に来なくていいと言う。まずイスパニアつまりスペインです。1624年、来航禁止です。目的は、国内でのキリスト教拡大を防ぐためです。


【渡航帰国の禁止】 すでに日本人は、日本人町ができるほど、東南アジアにいっぱい出向いています。5年~10年、ひと山あててから、日本に帰ろうかというのが、わんさかいる。
しかし幕府は、今年いっぱいに帰って来なかったら、帰って来たらダメだという。日本人が外国に行くのも当然ダメです。1635年、日本人の海外渡航と帰国の全面禁止です。ここで多くの悲劇が生まれる。
平戸に残っているジャガタラ文というのがある。ジャガタラとはジャカルタの訛りです。お春さんという女性がオランダ人と結婚してインドネシアのジャカルタに住んでいる。いずれ10年後には日本にまた帰る予定だったのが、帰国禁止令が出る。そっと、トト様、カカ様に、手紙を出した。布きれに託して。そういうのが残ってる。もう二度と帰れなった人の望郷の思いです。

今でも、日本なんかイヤだといって日本を飛び出していった人はいっぱいいるけど、そういいながらやっぱり日本がいいと言って帰ってきた人もいっぱいいます。当たり前に日本に住んでいる我々は気づかないけど、外国を知れば知るほど、日本は住みやすい国らしい。
自分の住んでいる国がイヤだと思うのは、どこの国にもあることで、天国と比べたらこの世はイヤなことだらけです。でも人間の歴史を学ぶときに、比べるのは天国ではありません。日本がいい国かどうか、天国と比べたらダメですよ。これは他の国との比較の問題です。または他の時代との比較の問題です。天国は誰も見たことがないから比べようがないのです。天国があるかどうかは私は知りませんが、誰も見たことがないというのは本当です。


【島原の乱】 こういう禁教令を出したあと、キリスト教徒が多かった長崎で、最大の宗教反乱が起こります。そしてこれが最後の日本での宗教反乱になります。それが1637年の長崎の島原の乱です。島原半島です。雲仙普賢岳が爆発したところです。君たちはまだ生まれてないかな。
ここはかつて有馬氏というキリシタン大名がいた土地なんです。しかし、おまえはキリスト教徒だから、気にくわない、と言って、国替えです。転勤させられる。引っ越しさせられると、殿様だけじゃなくて、民族移動のように家来全部引っ越ししていく。なかには、ついてこなくていいとか、自分からオレはついていかんという者が出てきて、どうなるかというと、失業していく。失業した武士を、浪人という。そこに新しい殿様が来る。新しい殿様を松倉氏という。その松倉氏が島原を領有する。

もう一つ、この乱は、そのちょっと南の、いまは熊本県だけれども天草地方、島がいっぱいあるところです。ここにも広がっている。ここのお殿様は誰かというと、寺沢広高といって、佐賀の唐津藩の殿様です。藩には飛び地というのがあって、唐津藩もちょっと離れたところの天草に、ポーンと飛び地を持っている。ここで反乱が起こる。この責任をとらされて、唐津のお殿様は1回目の左遷されて、殿様が変わる。こういう歴史とも関係します。

そういう浪人たちと農民たちが、それからキリスト教徒が渾然一体となって乱を起こす。なぜかそのリーダーは、君たちぐらいの17~18才の少年です。彼を天草四郎時貞という。
名前が2つあるような、天草四郎と時貞と、面倒くさくなるので、ふつう天草四郎というたりもする。この現象はよく分からないけれども、ヨーロッパでも似たような現象がある、それは女だった。17~18才の。誰ですか、ジャンヌ・ダルクです。宗教がらみで、こういったことが、なぜかよくおこるんです。

それでお城はというと、島原半島の南部の草深いところにあって、そこに立てこもる。私が行った時は、まだ公園化される前で、お城周辺はボウボウたる草むらで、しかも夕暮れだったので、何かに取り憑かれるんじゃないかと恐かったです。背中がゾクゾクしました。
そこで激戦地になって、そのお城は取り囲まれ、死者累々です。血がいっぱい浸みている。お城の奥にはポツンと天草四郎が海を見ている。白い像でゾクゾクしました。一度行ってください、夕方に。効果抜群です。グーグルで探せばいい。島原半島のちょっと南のほうです。もう公園化されていると思いますけど。私が最初に行ったのは30年前だったから、草ボウボウとしたなかを見てきました。ウワーここで何万人死んだのだろうかと思いながら行くと、夕暮れのなかで寒くなってきた。近くまで来たから寄っていこうと思ったけど、すこし恐くなって帰ってきました。これを原城といいます。

長崎と唐津の殿様は、なかなか鎮圧できなかったんです。それでいよいよ幕府が応援に来た。応援に来て、すぐ終わるんじゃないです。幕府軍を率いた板倉重昌も戦死します。ここまで幕府をてこずらせ、幕府は老中の松平信綱に指揮を執らせてやっとの事で鎮圧に成功した。そういう甚大な被害をもって、2年がかりでどうにか収束した。


【ポルトガル船の来航禁止】 そうなるとキリスト教徒は弾圧しようということで、1639年に最後にあと一つ残っていた旧教国ポルトガル船も来るな、という。これが実質的な鎖国の完成です。これであとはオランダだけになる。イギリスも来ない。スペインも来ない。ポルトガルも来ない。
そうするとふつうは物不足になくなるんだけれども、輸入品が途絶えると。日本はちゃんとつくれる。これが日本の強さだと思う。日本が為替で負けて、貿易が不振になっても、作る力はある。モノづくりの力は、農業でも工業でも日本にはある。これを失なったときが危険です。金融的な、利子で食うとか、株で儲けるとかになると、何か危ない。でもそれに巻き込まれないためには、金融の知識が必要です。
でも最終的に残る力は、モノづくりの力かなぁと、私は感じるんですね。だから物不足にはならなかったし、この後も発展していく。


【出島】 唯一残ったオランダ人を、ここにわざわざ島までつくって収容したのが、出島です。そしてここで取引を行う。これが名実ともに鎖国の完成です。
ではこの日本唯一の貿易港である長崎を警備する義務がある藩はどこか。これが佐賀藩です。これを押さえておかないと、なぜ明治維新の時に、日本で一本しかなかったアームストロング砲を佐賀藩がもっていたのか分からなくなるんですよ。佐賀藩はこの軍事力が認められて、薩長土肥という明治維新の雄藩の1つになっていきます。幕末といっても、あと2~3時間で行くから、覚えていてください。

その他に中国人、中国とは国交は開かないけれども中国船は勝手に来るんです。海上保安隊にないから。船もっていたら、勝手にやってくる。そしたらお互い儲かるから、長崎の商人も取引をしていく。
そのうちに彼らのために居住地まで用意して、ここの一画を使っていいよ、という。その一画が唐人屋敷です。唐人町という地名は、この近くにもあります。名前からすると、中国人町があったところです。唐人町という名前は、あっちこっちあって、そんなに珍しいではないけど、長崎が珍しいのはその屋敷の隣が今は長崎中華街となって繁栄していることです。一に長崎中華街、二に横浜中華街です。これは公貿易ではなくて、私貿易です。鎖国とは貿易があることなんです。
そこで何を取引していたか。日本にはまだ銀が出る。その銀で、生糸を輸入していました。
では銀が出なくなったらどうなるか。100年で出なくなる。そのときにどうするかというと、輸入できなかったら、自分でつくろうということになってきます。


【オランダ風説書】 戦争する時に一番重要なのは、お金と情報なんです。情報はどう取り入れるか。これはオランダが持ってくる。物の取引以外に、情報を伝えること、これが条件です。これを幕府の重臣たちが把握する。
だからこの200年後、イギリスが麻薬のアヘンを売りつけるために中国を攻めて勝ったと言うことを、日本はペリーが来たときにすでに知っている。だから戦わないんです。
これをオランダ風説書という。300年間、ずっと持ってこいという。これが貿易の条件です。
これをちゃんと国家管理しておかないと、こういう情報はタダでは手に入らない。



【寺請制度】
その後は、ヨーロッパ文化の影響の少ない日本独自の文化が生まれてきます。この日本の特色が何に現れるかというと、キリスト教が禁止された結果としてまず宗教面で、仏教が日本全体の宗教として庶民階級にまで広がります。
仏教は、古代から中世まで、まだ一部の人々の宗教にすぎないものでした。京都のお寺さんは、貴族と同じぐらいお金持ちで、土地もちです。幕府はそれを統制するために、寺社奉行を設置する。これは目立たないけど、身分の高い武士が任命された重要なものです。

そして全国に向けて、1640年に一つの制度を作る。これを寺請制度といいます。1640年といえば、3年前に何があったか。これが島原の乱です。
この乱によってキリスト教徒が腹を立てるとすごいことになる知った幕府は、二度とこういう反乱が起こらないように・・・・・・キリスト教徒のことをキリシタンといいますが・・・・・・キリシタン弾圧を徹底する。寺請制度は、この流れの中で生まれてきます。

具体的にどういったことをするか。おまえはキリスト教徒か、と聞いても口では何とでも言える。処罰されると知っているから、誰も本当のことは言いません。そこで何をさせるか。踏み絵、または絵踏という。とくに九州北部で。マリア様、キリスト様の像を掘った鉄の板に足をのせて踏ませる。信仰があるとできないことです。それをじっと見て、顔色が変わったり、油汗とかが出てきたら、おまえ、こっち来い、と連れて行かれて二度と出られない、ということになっていく。そういうキリシタン弾圧です。
そして、キリシタンじゃなかったら、その証拠に、お寺の檀家になってちゃんと仏教徒になれ、ということなんです。こうやって、ほとんどの日本人がどこかのお寺の檀家になっていきます。ただこの時も日本伝統の神社つまり神道との神仏習合はオーケーです。

これでキリシタンがいなくなるんだけれども、キリシタンもちゃんと表は仏教徒のフリをして、祈りはキリストさんを拝む。仏様を仏壇においてそれを拝みながら、その仏様の背中には何が掘られているかというと、キリスト様の十字架が彫られている、というようなこともある。これが隠れキリシタンです。

これで日本全国の農民・庶民がほぼ仏教徒になっていく。仏教は、奈良時代は一部のお金持ち貴族だけのものだった。貴族仏教だった。これがだんだんと下に広がっていって、ほぼ100%になっていくのが、この江戸時代の寺請制度です。
それまで日本人のお墓は、家の近くの空き地とか、村はずれの共同墓地にありました。今でも地方ではこのようなお墓は時々見かけます。もともとはこれが一般的な形でした。
それが寺請制度によって、庶民の多くがお寺の檀家になると、お墓がお寺の敷地の中につくられるようになります。お寺=お墓、というイメージはこのようにしてできあがります。しかしもともとお寺とお墓は違うものです。奈良の東大寺や法隆寺に行っても、そこに大仏様や五重塔はあっても、墓地はありません。お寺はもともと仏教を学ぶところであり、お墓は村はずれの共同墓地にありました。

そういうお墓がお寺の敷地内にできることにより、庶民の信仰が仏教の信仰と結びついていきます。日本の仏教信仰と日本伝統の祖先崇拝とがより明確に結びついていくんです。
ふつう仏壇は三段ぐらいあって、上の段の真ん中の奥に仏様が置かれています。そしてその手前には、位牌があります。その位牌に亡くなったお爺さんやお婆さんの戒名が書かれています。爺さんの位牌、婆さんの位牌、そこに〇〇居士とか、〇〇院とか戒名が書かれている。
一昔前までは、地震とか雷とか火事とかあった場合には、まずまっ先に何をもっていくのは、この御先祖の位牌だった。まずこれを手に持って避難していた。今は預金通帳と印鑑というふうに変わっていますが。価値観が変わって、それはそれで大事なんですけどね。仏壇と位牌という全然別種の信仰が一つの棚におさまっているのは、こういうことなんです。

さっきも言ったように、お寺とお墓というのは、もともと別ですよね。お墓というのはお寺の中にあるお墓ばかりじゃないというのは、君たちも日ごろ見てるね。田んぼのまん中に、共同墓地があったりします。あれがお墓の原型です。あれが原型ですが、そのなかの与作がうちのお寺の信者になって檀家になったから、与作の代からお寺の余ってる敷地にお墓を作ってやろうとなる。そういうふうに、お寺とお墓が結びついていくんです。
でももともとはぜんぜん別です。仏教にはそもそも祖先崇拝はありません。悟りを開くこと、それだけが目的で、完全に「無」になることを目指していました。しかしそれが日本の場合には祖先の霊魂を敬うことと結びついていきます。そうなるまでには、神仏習合以来の、日本の宗教者たちの長い努力が必要でした。彼らは死んだ人の霊魂の存在を決して否定しなかったのです。人は死んで無になるのではなく、死んでもこの世に生きつづけるのです。そのような日本仏教であってこそ、祖先崇拝の信仰と無理なく結びつくことができたのです。

私が家の仏壇を拝む時には、仏様を拝んでいるのか、死んだ爺さんや婆さんの位牌を拝んでいるのか、よく分からない感覚があります。私はどうも仏壇に手を合わせるとき、私をかわいがってくれた爺さんや婆さんを拝んでいるような気がしています。こうやって祖先崇拝と仏教がすんなり結びついていきます。
地方では今でも座敷には、亡くなったご先祖さんの遺影が掛けてあって、これがずらっとあればあるほど長く続いている家という、なんか誇らしい気持ちがあるんです。

タイの東南アジアのような個人救済を主体とする南伝仏教の人たちから見ると、この仏教は非常に変わった仏教だと思うらしい。でもそれは私たち日本人によくなじんだ感覚です。

このことによって日本人が恐れてきた死霊の問題はだいぶ軽減されていきます。この問題はけっこう大事で、自分の土地を持って田畑を耕して自立し、死霊に祟られることもない人間は、そこで初めて幸福を求めることができるのです。経済的にも精神的にも自立することができるのです。

1649年に出された慶安の触書にはこう書いてあります。「年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど心配のないものは他にないから、十分にこの意味を心にとめて、子や孫にまで申し伝えて、しっかり働いて財産をつくらねばならない」
これはよく農民蔑視だと誤解されることがありますが、それは言い回しの問題であって、ここで述べてある事実だけを取り出すと、幕府は年貢の他に百姓の財産に手をださいないことをはっきりと述べているのです。つまり年貢さえ納めてしまえば、あとは自分の努力で貯めたものは財産として認めることを宣言しているわけです。そしてそこには、農民がすでに自立した存在であることが前提になっています。

それと同時にこの祖先崇拝は、家の意識を高めていきます。夫婦別姓はいつの間にかなくなっています。自分が祖先の霊を祀り、自分もまた子孫によって祀られるという順番は、死後への安心感とともに、家の意識を高めていきます。
日本人の家意識、家の永続性が同時に育ってくる。御先祖様への意識がないと、家という意識は発生しないんです。死後への安心感が家意識と強く結びついていきます。
このような意識があって、人々は、平和の中で余裕のできたエネルギーを新田開発のエネルギーへと変えていくことができるのです。みんなが極楽浄土に行ける条件が整ったのです。

日本は山国で山には木がありますが、そのことも当たり前にあることではありません。植林されたところも多くあります。しかし木を育てるためには、何十年もかかります。自分の寿命が尽きるほうが早いのです。それにもかかわらず、日本人は木を切ったあとには必ず植林をしてきました。それはなぜなのか。自分の子孫の永続を信じたからです。山に木を植えるという作業はそういう信仰がないとできないのです。他の国に行くと、むかし木があったところが切り倒されて、禿げ山になっているところもあります。そのことを見ると、山に当たり前に木があるということが当たり前のことではないことが分かります。

これで日本人の生活の中に、お寺さんが入ってくるようになるわけです。実は言ってないけれども、江戸幕府というのは、戸籍をもってないです。
日本は変な国で、奈良時代には戸籍があった。しかし、あれから1000年経って、戸籍をもってない。しかし、分かるんです。檀家の名前をお寺さんが書いていく。どこどこの与作がうちの檀家であるとか。
そういう宗門改帳というのを作成する。幕府がじゃないです。お寺さんがです。それをもとに、この与作はうちのお寺の檀家である、ことを証明する。別名、宗旨人別帳ともいう。

江戸時代の庶民にとっては、住民票も戸籍もないわけだから、村を離れて遠くに行くとき、知らない人間が道を歩いていたら、不審者と間違われる。そういう時に、ちゃんと証明書を持って来ました、と言って、その証明書を見せるわけです。それを発行するのがお寺さんです。
だからお寺さんには、頭が上がらなくなる。死んでからもお世話になるだけでなくて、生きている間、商売一つ、隣村まで行くのでも、証文を発行してもらうようになる。この証文を寺請証文という。こういう形で、日本人の生活のなかに仏教が入り込んでいきます。


私も死ねばたぶん仏教徒として、お坊さんに「なまんだ」と拝んでもらって、墓の中に入るだろうけど、おまえも仏教徒なら、ちゃんと仏の教えを言ってみろ、といわれると困るんですね。本当に自分が仏の教えを知っているか、というとあまり自覚がない。でもずっとそうやってきたんですよ。仏教の後ろには、もう一つ祖先崇拝があります。自分をかわいがってくれたご先祖さんを供養する。これを菩提を弔うといいますが、そういうふうに死んだ人間を粗末にしない。

さらに幕府は、1665年に諸宗寺院法度を出します。法度というのは法律です。お寺の法律をつくった。
それによって、地方にある田舎寺と中央の京都とか奈良にある本山を結びつけ、それをピラミッド型に組織していく。これを本山末寺制といいます。だから地方のお寺さんはたいがい京都とか、奈良に本山があります。
これで終わります。

授業でいえない日本史 22話 近世 朝鮮・琉球・蝦夷地~産業の発達

2020-08-17 03:00:00 | 旧日本史3 近世
【朝鮮・琉球・蝦夷地】
まだ貿易の続きがあります。鎖国日本で鎖国は貿易をしないことではなかった。ちゃんとオランダが長崎に貿易しに来ている。それ以外に中国人は勝手に貿易しに来てる。
ではオランダと中国だけかというと、それだけではない。
朝鮮と、それから琉球です。琉球は王国で、日本とは別の国です。さらに蝦夷地つまり北海道です。北海道にまだ日本人は多くは住んでない。アイヌ人の住むところで、感覚的には外国です。オランダと中国に、この3つを含めて、合わせて5ヵ所と貿易をしているというのが江戸時代の実体です。


【朝鮮】 朝鮮半島とは、ちょっと前、豊臣秀吉が朝鮮出兵をして非常に関係が悪くなった。しかし江戸幕府は、約10年ぐらいで、これを素早く復活させた。1607年に、また仲良くしましょう、ということで、朝鮮側から日本への使者が来るようになった。これを通信使という。将軍が変わるごとに朝鮮から将軍にご挨拶が来る。


貿易をするときには、朝鮮半島に一番近い藩、島です。対馬です。対馬を書けないですね。どうしても島と書こうとする。対馬です。そこの大名は氏です。これ一度出てきたけど、その宋氏を介して貿易をやる。宋氏は、1609年に己酉約条(きゆうやくじょう)を結びます。己酉(きゆう)は年の数え方です。そして一手に引き受ける。つまり貿易独占です。これで対馬はもつんです。
その宋氏が朝鮮の一番南端に貿易をする館を設けた。場所は、韓国第2の都市、釜山、カマヤマじゃない、プサンです。朝鮮最大の貿易港です。ここに朝鮮と貿易する建物を置いた。これを倭館といいます。
こうやって、朝鮮との貿易を、幕府は、対馬に任せます。


【琉球】 1609年、薩摩の島津氏は勝手に軍隊を派遣して、琉球を征服する。幕府は、よかたい、と片目つぶる。琉球は台風も来るし、土地もそんなに肥えてない。なんで儲けているかというと、貿易です。貿易というのは日本とだけ貿易していても、あまり儲からない。日本のものを10万で買ったら、それを20~30万ドルで売れるところに持っていかないといけない。
これで希少価値が高まる。それが中国です。薩摩は琉球に独立した王国の姿をとらせて、中国との朝貢貿易を続けさせた。だから江戸時代の琉球は、日本の支配下にもあり、中国の支配下にもある。この関係を日清両属といいます。
だからどこの国かわからない。はっきり決着がつくのは、江戸幕府がつぶれた後、明治の初め、明治6年です。それはまたあとで言います。

では琉球使節は、日本にどういうふうに来ていたか。日本の将軍が変わるたびに、ご挨拶に来る。おめでとうございますと言いに。これを慶賀使という。
琉球の王が変わった時には、父親がなくなりまして、今までいろいろお世話になりましたと、これを謝恩使という。こういう使節がやってきた。


【蝦夷地】 それから北海道も外国の一部と思ってください。北海道は蝦夷地と呼ばれる。
これで蝦夷地(エゾチ)です。日本の古代ではこの同じ字を書いて、エミシと読んでいた。そして東北を指していた。江戸時代になると、同じ字を書いて発音が変わる。エゾ、と読む。そして東北ではなくて、北海道を指すようになる。

室町時代には日本人が南の函館あたりからどんどん北上することに対して、腹を立てたアイヌの親分がいた。コシャマインという。彼が1457年に反乱を起こした。コシャマインの乱です。しかし負ける。打ち破ったのが、日本の蠣崎(かきざき)氏です。
打ち負かしたのをきっかけに、函館に居城をつくって名前を変え、松前氏を名乗り、松前藩となります。これが江戸時代に北海道唯一の藩です。北海道の面積は、実は九州の倍あります。かなり大きいです。しかし藩は一つだけです。今もそうですけど。

でも米がつくれない。いま北海道米があるのは、品種改良の結果です。米は、もともと中国南方の南方産です。品種改良しない限りは、北海道ではつくれない。だから農地をもっていても、あまり意味がない。
そこでお殿様は自分の家臣たちに、交易権を与える。アイヌと物を交換する権利を与えます。アイヌが珍しい鮭の塩漬けとかを持ってくると、それを内地で高く売る。そういう交易の対象地を、大名の家来たちに分け与えていくんです。これを何というか。商い場、または単に場所といいます。松前藩独特の形態です。耕作地を持たない藩です。
しかしこれは、日本人の方が強くて、アイヌの人たちはかなり不満を抱いていく。100年ばかり経つと、室町時代に続いて1669年に2回目の反乱が起こる、その中心がシャクシャインという酋長です。これをシャクシャインの乱という。でも負ける。それで日本人がアイヌを服属させていく。



【江戸初期の文化】
この江戸初期の文化にいきます。中心になる年号は寛永期です。
桃山文化でも言いましたが、庶民芸能の一番人気は、人形浄瑠璃です。今あまり見ないけど。ただあります。伝統芸能として。大人の半分ぐらいの大型の人形を、大人2人で操りながら、かなり表情豊かに人形劇をしていく。

では人間そのものの劇はというと、あるんですよ。これが歌舞伎です。歌舞伎はわかるでしょう。人形よりも人間の方が人気が出そうなものだけれども、このころ最初は、若衆歌舞伎で人気あったんです。若い男女が舞台で、いろいろ演技をしていく。しかし風紀上よろしくないと言って幕府から禁止された。
だから歌舞伎は、舞台に上がるのは男だけになった。この歌舞伎が今の歌舞伎です。今の歌舞伎は野郎歌舞伎といいます。男が女役をする。気色悪いから最初は人気が出ない。ただ歌舞伎役者が偉いのは、前もいったように、男が女に本気でなろうと思えば、女以上の色気を出すことができるという演技をあみ出していく。
今は気色悪さなんかない。私たちが高校生のときは板東玉三郎といって、今はもう60過ぎのいいお爺ちゃんですけど、彼が若い時に、口紅塗って、女形・・・・・・女役を女形(オヤマ)といいますが・・・・・・女形をやったときには、ホントに色気があった。男の色気というのはすごいです。

絵画では、京都の俵屋宗達が「風神雷神図屏風」という屏風絵を描きます。仏教が行き渡っても、風の神、雷の神もいます。これは仏教の神様ではありません。これを見ただけで、日本が単純な仏教国ではないことが分かります。我々が子供のころは、夏に雷が鳴ると、「早くカヤに入ってヘソを隠して寝ろ」と言われてました。雷様はヘソを取りに来るんですよ。日本は自然現象まで神格化して神様にしています。こういう神様が仏教と並存しています。







【文治政治への転換】
では次、ガラッと変わって政治です。江戸城の中の政治です。初代家康、2代、3代とばして、4代もとばして5代将軍です。5代将軍の時代の1700年代に移ります。
5代将軍徳川綱吉です。1680年から約30年間将軍を務めます。この時代が江戸時代の代表文化である元禄文化の時期です。元禄時代という。元禄という年号です。



【貨幣改悪】 1つの変化は、今まで戦国大名が日本に銀山を発見して、だいたい50年から100年はもつんですよ。しかしこれが掘り尽くされてしまう。銀の産出量が激減して、お金が足らなくなっていく。
戦国時代の100年が終わって、世の中は天下泰平です。経済は発展している。経済が発展して、物が豊かな時に、お金が足らないというアンバランスが出てくる。
ではどうするかというと、勘定吟味役・・・・・・今の財務大臣みたいなもので財政と経済を担当する役人・・・・・・この人を荻原重秀という。
この人のお金の考え方は今までと違うんです。金1グラムは5000円、そういう固定観念がある。金の値段は変わらない。これを中心に世の中の値段がつく。しかしそれは違うという。お金というのは何でもいいんだという。1グラムが5000円でも、0.5グラムが5000円でも、何でもいいんだ。紙だっていいんだ、という。
お金が足りなかったら、金の量を半分にして、小判に鉛やその他の合金をまぜて同じ重さにして、これを2枚にして、どっちも1両、1両と書けば、1両から2両が生まれて、世の中もお金が増えて喜ぶし、幕府にとっても1両が2両になって、増えた分は幕府の財政が増えて、目出度し、目出度しじゃないか、という。理屈はあってるんです。ウソみたいですけど。
今の日本政府がやっていることとあまり変わらないです。ツケがどこで来るかということが非常に難しいところですが。こうやって貨幣を改悪するんです。質を落とすんです。質を落とした分、お金の量が増える。こうやって質を落とした小判を作っていく。これを元禄小判という。変なことに、これで景気が良くなる。経済が発展していく。幕府の税収も潤う。ここ数年日本の政府がやっているアベノミクスもこれと似た発想です。
通行量が増大すると、景気はよくなる。ただお金の量が増えて景気が良くなると、政治経済でいったように、物の値段は上がるんです。その一方で、景気は上昇していく。
こうやって江戸時代というのは、徳川家康の頭の中にあったのは、国の基本は農業であったんですが、しかし100年経った5代綱吉の時代からどんどん、商業が発達していくようになります。


【生類憐れみの令】 この5代綱吉は、若い頃は有能だったんです。経済政策にも明るかった。しかし年取ると、少々おかしいことをやりだして、1687年に生類憐みの令というのを出す。言葉通りだったら、動物愛護で非常に良いです。生きとし生けるものに憐みの情を持って、犬でも何でも生かしなさい、と。
でもこの人の悩みは何かというと、なかなか男の子が生まれないことです。将軍にとって一番大事なことは世継ぎをつくること、つまり自分の後継者の男の子をつくることです。これがないと、幕府が割れる。せっかくまとめた日本が、また分裂する。これだけは防ぎたい。なぜ男が生まれないのか。種なしじゃなかった。女の子は生まれるから。男の子がどうしても生まれない。
そこで悪い坊さんが、あなたの前世がひっかかっている、とか何とか言うんです。生まれはなに年ですか、イヌ年です、アッそれだそれだ、という。何の関係ないのに、それにコロッといく。ポイントは犬なんだ、犬は絶対殺したらいけない、何の関係があるのか、と今では笑うけれども、本人は大まじめです。
犬が子供に噛みつくと、ふつうは犬が殺されるんだけれども、犬を棒でたたいた男が、牢に入れられたりする。だから江戸の町が野犬だらけになる。
ただ、こういった政治のいけないところは、これを、将軍さん、ちょっとそれおかしくないですか、といったら、クビが飛ぶから、誰も言わない。そこなんです。だから将軍が死ぬまでは誰も言わない。だから約20年も続くんです。
権力者も、いい時はいい事をやるんです。でも人間誰だって間違ったことをする。権力者になるとなおさらです。その時にそれをどうストップするか。権力にはこの仕掛けがあるかどうか、がとても大事です。誰か「権力は必ず腐敗する」と言いました。これは歴史の一定の真実です。権力には人間を腐敗させる何かがあることは確かです。

ただこういう浮かれた江戸を、冷ややかに見てる藩もある。なんだ、あの江戸のらんちき騒ぎは、と言って「葉隠れ」というのをコッソリ書いた。佐賀藩の山本常朝という人です。ちょうどこの頃です。華やかなこの元禄時代に、「武士道とは死ぬことみつけたり」という言葉で始まるこの本は、誤解も多いけれども、根強い人気もある。
これ実は、本にしようと思って書いたわけでもなんでもなく、弟子の若い侍が、山本常朝が話したことを書き留めていたら、それがいつの間にか隠し本のように回し読みされいくうちに有名になって、本になったものです。君たちが授業中に隠れてマンガを回し読みするようなものです。それくらいスリルのある本だったんです。


【赤穂事件】 1702年、世間をゆるがす赤穂事件というのがおこります。兵庫県にある赤穂藩という小さな藩があった。これは、君たちは知らないかな。ドラマでは何になるか。鬼平犯科帳じゃない。忠臣蔵という。
時代は下剋上から「忠」の観念へと代わり始めたころです。戦国時代には寄親寄子制といって、親子関係が家臣団のモデルになりました。そこで重視されたのは「」の観念です。親孝行の孝です。それが親に対する「孝」から、主君に対する「」へと変わり始めたのです。この考え方は、もともと儒教にある考え方で、幕府も儒学を重視して儒学者を登用し、家臣団の教育に当たらせていました。
敵は吉良上野介、お殿様が赤穂藩の浅野内匠頭です。口論してカッとなった赤穂藩殿様の浅野内匠頭が、吉良上野介を切りつけた。しかも江戸城内で。その結果、切りつけた浅野内匠頭は切腹を命じられた。それを赤穂藩の家来たちが浪人となった後に吉良上野介の首を取って、仇討ちを果たした。別名、赤穂浪士の事件です。
本来武士たるもの、自分の直接の上司が不覚の死を遂げたら、仇討ちをしないといけない。その中心になったのが赤穂藩家老の大石内蔵助(くらのすけ)です。だから、武士の誉れ、忠臣である。これは褒め言葉ですよ。忠臣である内蔵助です。だから忠臣蔵です。仇討ちの物語です。これに江戸の庶民は拍手喝采を送ったと言います。しかし彼らは切腹を命じられて死んでいきます。彼ら四十七士の墓は、いまも東京都港区高輪の泉岳寺にあります。
この時代、仇討ちは、自力救済に当たるから禁止です。どちらが悪いか決めるのは、家臣じゃない、将軍が決めるんです。



【産業の発達】
いま100年ぐらいたったところ、1700年ぐらいです。この間に、日本の産業はどんどん発展していって、今まで戦さに費やしていたエネルギーを全部、生産に費やす。


【新田開発】 暇な時に農民は昼寝していない。新田開発していく。土地を切り開いていく。そういう土地がまだ残ってたんだってということです。地方にはいっぱい、藪のような所、雑木林のようなところがあった。
だいたい今の半分ぐらいは未開の土地だった。関ヶ原の戦いのときには日本の水田面積160万町歩、これが100年経つと、1700年代には約倍の300万町歩になっている。
その間、人知れず、農民たちが暇があれば開墾していた、ということです。では今の日本の耕地面積は、やはり300万町歩です。これは限界ということです。開き尽くしてしまった。それ以上は広がらない。

水田というのは土地だけあってもできない。そこに水をどうやって運ぶか。関東平野は台地上で水が得にくいですね、箱根用水とか、見沼代用水とか、玉川上水なんかは、けっこう有名です。玉川というのは、いま多摩川です。東京を流れる川、多摩川、字が違うだけです。土地を広げた上で、生産量を上げる。


【金肥】 さらにお金を使ってでも、生産量をあげる。そのために肥料を買う。これを金肥(きんぴ)という。
今までは刈敷、草を腐らせたものとか、自分でつくった自給肥料であったのが、干鰯(ほしか)という。右の字の鰯は何と読みますか。いわし、です。鰯はうまいけど、腐らせて肥料にしたものです。肥料としては、高い。それから、油粕。油は石油じゃないです。菜種油です。
それからもともと自給肥料だったけれども、ここまでやるというのは人糞尿です。下肥です。幕府もそのことを慶安の触書で勧めています。ウンコのことにまで口を出す政府というのは他に聞いたことがありません。でも世界史で言ったように、このころのヨーロッパの都市は想像を絶する汚さです。トイレなしでオマルの生活。そしてそれを、「オーイどけどけ」といって二階の窓から投げ捨てます。貴族社会でも、ベルサイユ宮殿にトイレがないのは有名な話ですね。貴婦人たちも庭のあちこちで、大も小も用を足しているんです。ヨーロッパはオシャレで、日本は汚い、そういう先入観はいったん捨てたほうがいいです。

私が中学校のころまでは、汲み取り屋さんから逆に300円ぐらいもらっていたという話をしました。なぜ買うのか。それをまた農家が買うからです。私から300円で買って、農家に600円で売る。そして農家がそれを肥料として畑に撒く。屎尿処理としては完璧ですね。


【特産物】 あと特産物。こうやって生産量が上がる。生産量が上がるから、特産物ができるんです。余裕ができて。特産物として、京都では絹ができるようになる。絹というのは布のことなんです。糸は生糸なんです。生糸は戦国時代までは、日本人は作れなかった。中国からの輸入品だった。
これがいつの間にか、江戸時代に絹織物ができるというのは、生糸の自家栽培、国内栽培に成功したということです。これを織るところ、これが京都の西陣です。西陣というのは、戦争の時の東西両軍の陣があったところです。応仁の乱の陣です。
この技術を本当は京都は独占したいんです。独占したいんだけど、あっちこっちに生糸が出てくると、この技術さえ盗めば、誰だって絹をつくれる。つくることに成功すれば、莫大な利益が生まれる。だから技術が欲しいわけです。それで盗まれていくんです。京都は関西です。桐生は群馬県です。次、足利は栃木県です。そんな何百キロも離れたところに広がっていきます。この絹を織る技術というのは本当はトップシークレットであった。これを高織といいますが、これが盗まれていき、絹織物の産地が広がっていきます。

佐賀の有田焼だって、そうです。有田焼の技法と、北陸の九谷焼は同じです。本家は有田です。伝説があって、藩命を受けて、石川県加賀百万石の武士の伝説が盗みに来たんです。盗んでこいと言われ、武士の身分を隠して佐賀に入り、窯元に弟子入りしようとしたが、独身者には教えないといわれたので、嫁さんをもらい子供も生まれたけど、やはり藩命に従って、嫁さん子供を捨てて加賀に帰った、という伝説です。そこまでして徹底してやった。そのくらいじゃないと技術は盗めない。(「秘要雑集」)
こうなると、産業スパイです。忍者の術とかはありません。しかし忍者は活躍しています。忍者というのは隠れてナンボの世界ですから、優れた忍者ほど歴史に跡を残しません。だから、この世界を扱うのは非常に難しいです。忍者というのはスパイです。手裏剣を100枚ぐらい、パパパパッと投げるだけが忍者だとは思わないでください。スパイというのは情報をとるのが仕事です。そういう仕事の人は今もいっぱいいるでしょう。それと同じです。

あとで出てくる薩摩の西郷隆盛などは、本当の役目からいうと忍者です。スパイです。佐賀の江藤新平も忍者みたいな動きをしています。西郷隆盛はあんな図体でかかったら、忍者はムリだろうという人もいますが、上野の西郷隆盛の銅像は嘘だという話もある。あの銅像ができたときに、その除幕式に出席していた西郷隆盛の二番目の嫁さんが、「誰ですか、この人」と言ったという話があります。あんたのダンナでしょう、というと、ウソでしょう、ウチの人はこんな人じゃなかった、と言ったというんです。もっと痩せてたはずです。西郷隆盛は。


【衣料】 この絹の原料はもともとは、中国からの輸入生糸だったんだけれども、それが100年の間に、国産生糸に変わっているということです。だからこの近くにも、我々が子供の頃までは、桑の木がいっぱいあったんですよ。蚕さんは桑がエサですからね。

次が、綿です。これは日本では当たり前です。戦国時代以降は。しかしヨーロッパ人は、1年中、毛糸を着ているから、欲しくて欲しくてたまらないという製品です。今でも毛糸と比べたら、ウールとか、カシミアとか、高いのもあるけれども、ふつう綿を着るでしょう。綿が圧倒的に人気です。

これは朝鮮からの輸入だったのが、輸入木綿だったのが、国内生産に成功する。国産木綿に変わる。
これはもう戦国時代からその兆しがあった。それがどこかというと、徳川家康の愛知県、三河です。だからお金持ちなんだ。財力があるんだ。戦さができるんだ。ということも言ったと思います。
それが全国に広まって、もう江戸の中期以降は全国的に地機といって農家の女性の副業にもなっていく。これ300年も前のことと言わずに、私の祖母の時代には、仕事道具として小屋にあった。祖母は私が幼いときに亡くなったけど、それがまだ小屋にあったということは、つい私が生まれるちょっと前までは農家の副業として糸を紡いでいたということです。こんな感じで糸を紡いで回していく糸紡ぎです。さらにそれを縦糸、横糸で織っていく。そういう国内生産が始まります。
イギリスは、これが欲しくて欲しくてたまらなくて、産業革命まで起こしていきます。イギリスでは綿織物工業は近代産業の出発点になるほど、重要なものです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 23話 近世 商業の発達~アヘン戦争

2020-08-17 02:00:00 | 旧日本史3 近世
【商業の発達】
【金融】
 次は商業です。商業では、一つの国の中で通貨圏が違った。江戸は金遣い、大坂は銀遣い。金と銀で取引をしている。
本来の両替というのは、1000円札を100円玉に換えるんじゃなくて、今の円・ドル相場のような金銀相場を両替する仕事です。これが本物の両替商です。だから本両替という。
これでガバッと儲けていくのが、今の三大財閥の一つである三井です。三大財閥は三井、三菱、住友。一番古いのは三井です。次に住友がでてきて、三菱は明治維新のときに出てくる。日本にぴしっとした境界がないなかで通貨圏が2つある。ちょっと複雑な経済のもとでやっている。こういったことができる経済水準に達している。

庶民が使うのは銅貨です。ふつう我々庶民は、金はもたない、銀ももたないです。金と銀は金持ちのお金なんです。庶民はたまに銀が手に入るぐらいです。するとこの金銀を銭と交換する。銭は銅銭です。その業務を行うのが銭両替といいます。
こういう金融の発達が商業の発達も助けていく。


【商人】 昔の農家は貧乏人の子沢山で、跡取りとして農業を継げるのは長男だけ、次男、三男がいても、田んぼを分けていたら、全員が食っていけない。一説によるとたわけ者のたわけとは、田んぼを分ける愚か者の意味だという話がある。だから田んぼは分けないんです。だから農村の人口はそれほど増えません。
では次男、三男はどうするかというと、町に出て丁稚奉公するんです。農村で余った人口は都市部に出て行くようになります。商売人のところで、子供のときから住み込みで働くようになります。そして順番に偉くなっていく。丁稚から、つぎに手代、番頭となり、最終的に認められたら、のれん分けまでしてもらう。
だから、金勘定、通帳勘定ができないといけない。これは字が読めないとできない。読み・書き・そろばんはできないといけない。その丁稚さんは、農家の次男・三男です。
丁稚に奉公に出るというのは、それだけの能力はあるということです。日本は変な国で、勉強しろといわなくても、勉強する場所ができてくる。またそれを大根一本のタダ同然で教える人もででくる。これが寺子屋です。


【三井】 大商人としては三井です。三井高利という人です。この人は、もともとは、江戸の人間ではないんだけれども、商人の中心はやっぱり大坂近辺であって、この人は琵琶湖周辺の近江商人です。
彼らは地元でちょっと儲けたら、よし江戸に行って勝負するぞ、と思い始めます。そして江戸に出店していく。三井も、もともとはこれです。それで、三井は呉服屋を営んだ。いま三井財閥ですけれども、この呉服屋のことを、何というか。越後屋です。三井の越後屋だから今もある。もともと東京の銀座だったけれども、10数年前に福岡にも進出しました。今は三越です。三越デパートって、聞いたことないですか。三越は、東京の銀座の一等地にドカンと本店がある。1階に指輪とかネックレスとか貴金属類があって、東京に行ったついでに見物がてら行くと、ネックレスが3万円か、それなら買えるかな、と思ってよく見ると、〇が一つ違って30万円だった。

そのもととなる三井の越後屋から発展して、やがて両替商に進出し、明治期に三井財閥になるということです。

彼らがヨーロッパの商人とちょっと違うのは、儲けたものは自分のものというのが私有財産制の基本ですが、これはヨーロッパの発想です。彼らは、儲けたお金を私的に使うのは、たいした商人じゃないぞ、という。いくらお金を儲けても、自分の生活は質素倹約をむねとする。そこからある種の商人道のような倫理観をつくっていく。いくら金を儲けても、家の中では、一汁一菜、一皿の野菜と一杯の味噌汁を食する。

この時代のその三井の大番頭でも、キンキン、ジャラジャラのネックレスしているような人物ではなくて、ヨレヨレの羽織を着て、風采の上がらない格好をしている。客と思ってぞんざいに扱っていたら、おまえ、あの人を知らないのか、バカたれが、と怒られたりする。みかけは普通のおっさんなんです。そのおっさんが豪邸というか、バリッとした家にはいっていく。そして日常は非常につつましい生活を送っている。


【住友】 それから、次に出てくるのが住友家です。これは、もともと山師ですよ。四国の愛媛県伊予、そこで一山当てた。銅山です。これを別子銅山という。住友の本家は、今も残ってる。今は新日本製鉄と合体して新日鉄住友金属になっている。現在の住友財閥になっていきます。
こういうふうに商人たちが、お金を持つようになると、幕府の税金の取り方も、幕府は商人は、考え方として、士農工商の一番下だった。そんな奴らは、いなくてもいいけど、いないとちょっと困るので認めた程度です。彼らから税金を取ろうとは思っていなかった。税金を取るのは、あくまで農民からです。しかし商人が羽振りが良くなると、彼らからも税金を取りたくなる。でも取り方が分からない。年貢と違っていくら儲けているのか分からない。それで大商人たちから運上・冥加という営業税を取り出す。小さな小売店なんかは、どれだけ儲けているか分からない。
ただ大商人たちがグループを組む、そういう仲間を株仲間というんですが、そういうのを通じて税金を取るようになる。
しかしこれは武士にとってはあくまでオマケです。ここがヨーロッパと違うところです。ヨーロッパの王様は、ハナから金持ちの商人と組んでいく。日本はそうじゃない。



【元禄文化】
次は、文化です。江戸時代を代表する文化が元禄文化です。時代は1700年前後。将軍は5代将軍綱吉のころ。綱吉といえば、あの生類哀れみの令を出し、犬公方と言われた将軍です。お金もいっぱい発行して景気が良くなった。
景気がよくなると文化もさかんになって行く。ここで流行ったのは庶民文化です。武士文化じゃない。


【浮世草子】 まず浮世草子という。読み物です。誰が読むか。お侍じゃない。貴族でもない。庶民ですよ。これにまず驚かないといけない。庶民が、字が読めるんです。これはマンガじゃない、内容は少しエッチだったりしますが、庶民が字を読めたんです。農家の次男・三男だって、そろばん勘定できるぐらいだから、字が読めるんです。だから読み物が流行るんです。
この書き手の名手が井原西鶴です。大坂の人です。文化的にはまだ東京中心じゃない。やっぱり大坂です。上方です。上方というのは大坂ですよ。モノの流れも大坂から江戸に下ります。「下らないもの」という言い方は変だと思いませんか。「下らない」のだったら「上る」んだからいいじゃないか、と思うかもしれませんが、当時は大坂が上方で、大坂から来たものが質が良いものなんです。逆に江戸から大坂に行くモノは質がよくない。だから大坂から「下るもの」は質がよくて、逆に江戸から大坂に行くものは「下らないもの」なのです。
江戸というのは、まだ新しい町です。男が多くて荒っぽい町です。出稼ぎに来た独身男が多い。さらに女が足らない。だから伝統ある上方が文化の中心です。

この井原西鶴は、武士でも農民でもなく商人です。しかし武士は、商業を非常に卑しい職業だと蔑んでいた。彼はこの商人の生き様を生き生きと描いて、商人というのは卑しいもんじゃないんだ、ということを書いていく。
すると、それまで商売を軽視していた武士は、そういう商人の生き方をちょっと見直すようになっていく。こういうのがあって武士道と同じように、商人道というのも発展していくわけです。
代表作は好色物です。女好きの若旦那さんです。「好色一代男」という。どら息子なんですけど、女性遍歴を若い頃から重ねていく、ちょっとエッチな本です。
町人物では、町人が一生懸命働く姿を描いた、日本永代蔵というのも書かれていく。


【俳諧】 この時代に完成した文学が俳諧です。国語の時間ではこれを俳句といいます。俳句は何文字ですか。57577、とまだ言いますか。それは短歌です。57577は奈良時代からすでにあったものです。
話は、短い方がいい。短くて美しく簡潔にできるんだったら、それが一番です。だから77を削っていく。いや57577でも、他の国に比べれば驚くほど短いんですよ。それをさらに77を削って、575だけにする世界最短の文学です。こんなことは不可能だ、と他の国だったら思うことです。

これをやっていく人が松尾芭蕉です。この人は江戸に住居はあるんだけれども、この時代の文化人でよく現れるのは、よく引っ越しするということです。だから家はあるけれども、どこにいるのかわからない人が出てくる。一生のうちに30回ぐらい引っ越しする人も出てくる。松尾芭蕉もそうです。よく引っ越しする。そしてよく旅に行く。姿をくらます。どこに行ったかというと、東北地方です。
その旅の道中記に、俳句を散りばめて完成されたのが「奥の細道」です。東北地方は陸奥という。陸奥の陸を取って、奥の細道です。
ここで出てくるのが、わび、さび、という言葉です。これ英語翻訳が不可能な言葉ですね。これは小学生に言っても、わからない。でも高校生ぐらいになると分かる人が出てくる。
「古池や かわず飛び込む 水の音」と言う有名な句も、松尾芭蕉です。かわずというのは、かえるです。これは本当にどこかの小学校の入試問題に出たみたいですけど、古い池にかえるが飛び込んでいる。さて何匹でしょうかという問題です。何匹とはどこにも書いてないから、小学生に答えさせたら平均して30匹ぐらいになるようです。古いお寺の池にたたずんで、一人ものを思っているときに、チャポン、チャポン、チャポンと30匹もカエルがとびこんだら、これは、わび、さび、にはならない。
これ何匹ですか。1匹じゃないとダメでしょう。静かに小さくチャポンと1回だけ音がするところがいいんです。その情景が浮かんで、ああいいなぁ、と思うのは、理屈で説明しようと思っても、なかなかできない。それが分からないなら、それはそれでいいよ、という感じです。そういう言外の言というのを伝えていく。わびとか、さびとか、一言も書いてないけれども。

この松尾芭蕉、本業は何だったか。今でも謎です。実はこの人、ある疑いがかかってる。松尾芭蕉の本業は、幕府の隠密ではなかったか。なぜ引っ越しばかりするのか。なぜ旅にばかり暮らしたのか。スパイの生活とぴったりなんです。もしスパイということが分かると、捕らえらえた瞬間に、闇から闇に消されていくから、身分を絶対に明かせない。
ものすごく厳しい生活の中であみ出した境地が、わび、さびなんじゃないかな。それが我々の心を打つんです。一歩間違えばいつ死んでもおかしくないような、そういう厳しい人生を背中にしょってないと、この境地はどうも出てこないような気がします。


【人形浄瑠璃】 次は演劇です。前にも寛永期の文化でも言いました。人形浄瑠璃です。これは表情豊かな人形で、ちゃんとしたドラマづくりができます。その脚本の名手が近松門左衛門、やはり大坂です。
出身がどこなのかよく分かりませんが、なぜかこの人の墓らしいものが佐賀県の唐津にあるんです。近松寺と書いて、きんしょうじ、という。唐津の人という話もある。そこから大坂に出て行ったのかもしれません。唐津藩も殿様の国替えの多い藩ですから、浪人になったもと武士かもしれません。

時代物と世話物、二通りの作品があります。時代物では、「国性爺合戦」(こくせんやがっせん)という。これは壮大な世界史レベルの話です。世界史でも言いましたが、中国の明が滅び、満州族が侵入して清ができたとき、オレは明を復活するぞと頑張った人、鄭成功(ていせいこう)という人がいました。その人の話です。国性爺というのはその人の別名です。彼の本拠地は長崎の平戸です。中国人の父が平戸に来て、平戸のかわいい娘さんを嫁さんにして、そこで生まれたのが鄭成功です。母親は九州平戸の人です。だから半分日本人です。
もう一つ、世話物としては、「曽根崎心中」といいます。曽根崎は大坂の地名です。心中とは、わからない人いますか。心中というのは、男と女が好いた惚れたのすえ、添い遂げられなくてあの世で結ばれよう、というのが心中です。そこに描かれているのは、義理と人情、という世界を歌い上げていく。


【歌舞伎】 それから、徐々に人気を盛り返していくのが、いったんは女の演技が禁止されたことで人気がすたれた野郎歌舞伎です。これが徐々に人気を復活していく。
今の歌舞伎は、歴史的には野郎歌舞伎といいます。男だけでやる。だから男が女役をやっていく。そのレベルにまで芸を高めないといけない。それに成功していく。
役者の芸風が江戸と大坂で違います。今は歌舞伎は江戸にしかないけど、昔は大坂にもあった。江戸の名役者が市川団十郎です。今もいますね。いま何代目かな。13代目ですね。ずっとこの名前を一家系で襲名していく。これは男役です。顔つきは角張った男っぽい顔つきです。荒事といいます。江戸は荒々しい男の世界だから荒事がうける。
それから大坂は和事といって、どっちかというとやさ男ふうです。もう一つ、女役の芸をどうするかというのが、女形(おやま)です。


【浮世絵】 それから絵です。浮世絵です。ここでやるのは、ぜんぶ庶民が見るんです。武士とか貴族が見るんじゃない。浮世絵もそうです。
浮世絵は何かというと、君たちは今でもやってるんじゃないかな、大きなポスターで、それも男のポスターじゃなくて、おっぱいが出たようなかわいい女の子のポスターを、壁とか天井にガバッと貼り付けていたりしませんか。だいたいそれです。庶民が買うんです。基本は美人画です。江戸は男が多いから。
当たりをとった絵、これを「見返り美人図」という。美女が振り向いた瞬間をとらえた。これも経験ないかな。君たちの前を、後ろ姿のきれいなお嬢さんが歩いていると、きれいな娘さんじゃないかな、どんな顔かなと思いながら期待がふくらんでくる。そういう覚えないかな。顔を見せてくれないかな、そういう時ドキドキするね。
振り向いた瞬間、アリャー見なけりゃよかった、ということもあるけど。その振り向いた瞬間の美しさです。これを画いたんです。
これは一枚しかない。しかしこれで当たりを取れるんだったら、版画にしたら儲かるぞ。それで多色刷りの版画にしていく。多色刷り版画は、色を使った分、何回も刷らないといけない。赤の版木、青の版木とかある。5色あったら、5回刷る。1ミリでもずれたらダメ。ぴたっと合わせる。そういう職人技が必要です。だからこのあとの版画浮世絵というのは、1枚じゃなくて何百枚もある。だから安く手に入って、そこらへんのお兄さんたちが気軽に買って帰る。そして壁や天井にペタッと貼ってながめる。

これはそういう庶民が楽しむ版画だったんですが、明治になって外国人がこれ見て、こんなにすばらしいものがあったのかと驚く。そしてヨーロッパに影響を与える。ヨーロッパで一世を風靡する印象派というのがあるけど、それは浮世絵のマネです。そのくらい近代絵画に影響を与える。非常に高い芸術水準らしい。江戸の後期にかけてさらに発展していきます。


【生活】 次に教育です。さっき言ったように、日本には命令もされないのに、字を習いに行く農民がいっぱいいる。頼まれもしないのに教える人がいる。だから全国あっちこっちに寺子屋ができる。寺子屋は小屋じゃない。子屋です。

それから高かった庶民衣料にも、木綿が普及する。イギリス人が欲しくて欲しくて、まだ毛糸の毛織物を着ているイギリス人が見たら、さぞかしいい物を着ているように見えた。



【国際情勢】
では次、1700年代半ばぐらいまで行って、もう1800年代に行きます。
この17~18世紀に、外国では何が起こっていたか。世界史では、ここらへんがヨーロッパで一番戦争が起こって、グジャグジャするところだった。この200年の間にヨーロッパで起こったことは、まず17世紀にイギリスで清教徒革命が起こる。これは政治革命です。
次に18世紀にアメリカで1775年、独立戦争が起こる。その10年後、1789年、フランス革命がおこる。どれも政治革命です。
こういうの流れの中で、ヨーロッパの力が強まって、やがて中国を侵略し、アメリカのペリーが大砲向けて日本にやってくる、という時代がひたひたと近付いてくる。
ヨーロッパで起こったのは一足早く産業革命です。政治革命のすぐ後に、産業革命が起こっている。まずイギリスで。そして作った製品をとにかく売る場所をアジアに求めてくる。
アジアの中でも最大の人口は、やはり中国です。
だから日本の前に中国を侵略する。これが1840年のアヘン戦争になっていく。それから見ると、日本はおまけみたいなものなんだけれども、それでもちょっと日本人にとっては、おまけでは済まされない。
いずれ飲み込まれていって、日本もヨーロッパ風の国家になる。ネクタイもズボンもスカートもすべてヨーロッパのものです。



【列強の接近】
【ラックスマン】
 まず日本に近づいてきた人、1792年です。もうすぐ1800年代にいきます。まず日本に一番近い国というのは、韓国でも中国でもなくて、北海道を忘れている。北海道の目と鼻の先がロシアです。北から来たらロシアが一番近い。
ロシアのラックスマンが、北海道の根室にやってくる。何を求めてか。貿易しよう、と。日本は拒否です。
このときには、日本の漁民が船が難破して、死ぬかとおもったところを助けられて、ロシアに助けられた船頭の大黒屋光太夫というのを連れてくる。大黒屋光太夫もロシアの文化に驚いて、そのときに日本のことを詳しく教えている。これを保護民としてつれてきたから、通商と貿易をしましょう。しかし日本はヨーロッパの国とはオランダとだけつきあっている。だから断る。この断るときに、うちは貿易するところは長崎に決まってるから、長崎に行ってくれ、と言うんです。


【レザノフ】 それで1804年に長崎に来たのが、同じロシアのレザノフです。長崎に来て、やっぱり通商を拒否です。日本は、貿易しない、という。
貿易しましょう、というのも勝手なら、貿易しません、というのも勝手です。これ別に悪いことじゃないんです。ただそれだけで腹を立てて、乱暴して帰るんです。


【フェートン号事件】 4年後の1808年に今度はイギリスが来た。なぜイギリスが来るかといえば、ちょっと面倒くさいけど、ヨーロッパはナポレオン戦争中です。1789年からフランス革命が始まってるから、長崎に来たのはオランダなんだけれども、このオランダという国はこの時ないんですよ。なぜかというと、ナポレオンがオランダを占領してしまって独立を失っているからです。
でも日本との通商だけはあって、オランダの国旗を掲げてくる。だから、イギリスとオランダは敵同士だから、オランダ船を追いかけてイギリスのフェートン号が長崎に入ってきた。そして長崎湾内で、大砲、鉄砲をどんどんぶっ放して、サーと帰っていった。さー大変です、佐賀藩は。なぜ佐賀藩が大変なのか。江戸時代のはじめから、幕府から命令されてるのは佐賀藩です。
こんなことが起こったら、責任を問われて藩主はどうかすると切腹です。藩主が切腹すれば、藩は取りつぶしです。そしたら佐賀の城下町、そこに住んでる侍はぜんぶ失業する。どうなるかと、固唾を呑んでこの処罰を待って、佐賀城下は一時シーンと火が消えたようになった。
第1の責任者は、長崎奉行です。殺される前に切腹します。それくらい衝撃がある。ただ佐賀藩は結果的にはお取りつぶしにはならなかった。
しかし、オランダ風説書で、ヨーロッパの情勢見ると、これが1回で済むとはとても思えない。これが2回、同じようなことがあったら、今度は間違いなく佐賀藩はお取りつぶしになる。2回目は許してもらえない。では何をしないといけないか。
今まで1キロ飛ぶ大砲を持っていたら、2キロ飛ぶ大砲をつくる。大砲の飛距離が船まで届かなかったんです。2キロ飛ぶ大砲をつくれと言われても、どうやって作れはいいか分からない。それを自分で考えるしかない。
では、どこがつくれるのか。オランダの本にはつくる方法が書いてある。ではオランダの本を勉強しろ。おまえオランダ語を読めるか、読めない、それならオランダ語を自分で勉強しろ、という。そこで初めて、飛距離のある大砲を作ろうと、本気でやりだした。
このあと50年ぐらいかけて、ペリーが来るまでずっとお金をかけて研究をやっていく。50才、60才になって勉強しても、死ぬから間に合わない。しないといけないのは、君たちの年代です。目標は2キロ飛ぶ大砲をつくれ、という。
そんなことをしないといけない。これ遊びじゃないというのは分かるね。必要に迫られてやっています。命がけでやってる。この時の佐賀藩の藩校では、勉強のさせ過ぎでキチガイが出る。それでも作らないと藩がつぶれる。

のちに佐賀藩が薩長土肥として明治維新の一画をしめるのは、これをきっかけとして培われた藩の軍事力にその理由があります。


【ゴローニン事件】 ロシアがまた来た。ゴローニン事件という。1811年です。これは北海道の国後島に入ってきて、勝手に入って来ているから、ロシアのゴローニンが逮捕された。


【異国船打払令】 1825年に、フェートン号事件の記憶がまだまだ新しいから、外国船が無断で近づいたら、打ち払え、という命令を出す。これが異国船打払令です。幕府が出す。別名、無二念打払令という。迷うことなく、ということです。


【シーボルト事件】 それから、3年後、1828年には、長崎の出島にきていたオランダの医者シーボルトが、できたばかりの完璧に正確な日本地図を持ち出そうとする。これはあとでいうけど、伊能地図です。これは幕府の機密事項です。
この時代は敵は海軍で攻めてくる。地図が分かるということは、海岸線がどうなっているかという極秘資料を、敵に渡すのと同じことです。
シーボルトが帰るときに、手荷物調べのなかから出てきた。これが大ごとになる。誰が渡したのか。知り合いの高橋景保が処罰される。シーボルト自体は殺されない。怖いから。外国人を殺したら。相手が強いと知っているからです。


【モリソン号事件】 その異国船打払令が出たあとに、日本に近づいて打ち払われたのが、アメリカ船なんです。1837年、モリソン号事件です。



【蛮社の獄】 幕府は、打ち払えでよかったんだけれども、日本は鎖国をしながらも、海外情報はちゃんと取り入れていた。オランダ商館長が必ず貿易品以外で持ってこないといけない報告書、それがオランダ風説書です。こういうオランダ語で書かれた海外情報を、オランダ語を勉強しながら、読み解いていく。これをオランダのランをとって蘭学という。まだ英語じゃない。この時はオランダ語です。

そういう人たちは海外通です。海の外、ヨーロッパで何が起こっているかということを知っている人たちがいるんですよ。蘭学者です。蘭はオランダです。そのグループを尚歯会といいます。この尚歯会のメンバー2人、高野長英渡辺崋山が、それぞれ本を書く。こんな打ち払いをしていたら、どんなことになるか、とても勝てないぞと、一言でいうと、そういうことです。
これが幕府の怒りに触れて、幕府に追われる。やがて捕まる。これを蛮社の獄という。1839年です。こういう頭の良い人たちもいた。蛮社の蛮とは南蛮人の蛮で、外国のことです。蛮社とは、この尚歯会のことです。頭のいいグループなんだけれども、幕府にとっては野蛮な結社とした。そんな結社に加わる人間は獄につなぐ。
高野長英は、こんなところで捕まってたまるものか、といって、日本全国を逃げ回って、その逃げ方たるや凄まじい。写真はないけどあちこち似顔絵があるから、顔の形相を変えるため、半田ゴテで顔を焼いて、人相を変えて逃げていく。死を恐れたというより、こんなところでのたれ死んでたまるかということです。
もう一人の渡辺崋山はエリートです。愛知県にある藩の家老です。家老といえば、殿様の次ぐナンバー2です。県で言えば副知事クラスの人ですね。オランダ語も読める。絵を描かせても1流です。そういう非常に有能な人たちがいたんです。


【アヘン戦争】 その翌年に中国で何が起こるかというと、世界史でやったけれども、1840年アヘン戦争です。
イギリスから、麻薬のアヘンを売りつけられようとして、そんなもの要らないと断った中国。ある教科書には、中国が断ったから戦争になったと書かれているものがありますが、麻薬の輸入を断るのは国として当たり前のことです。しかし逆にイギリスから戦争ふっかけられて、負ける。そして支配される。そこに犯罪性があるわけです。日本の蘭学者は、そのことの危険をすでに感じ取っていたわけです。


このときイギリスは世界のナンバーワン国家として、大植民地帝国を形成しています。このあと幕末の動乱から明治国家の建設と向かう中で、日本に一番大きな影響を与えていくのはこのイギリスです。ペリーのアメリカではありません。幕末史に深く入り込んでくるのはイギリスです。それは江戸から入ってくるのではなく長崎から入ってきます。

【参照】
「授業でいえない世界史」2 32話の2 19C前半 イギリスとアメリカ
「授業でいえない世界史」2 33話 19C前半 ヨーロッパの混乱とイギリス金融の拡大
「授業でいえない世界史」2 33話の2 19C前半 イギリスのアジア侵略

授業でいえない日本史 24話 近世 蝦夷地探検~化政文化

2020-08-17 01:00:00 | 旧日本史3 近世
【蝦夷地探検】 
その一方で、日本の外地、これが北海道です。北海道は蝦夷地という。北海道という名前はこのあと明治になって、明治政府がつけた名前です。
北海道の探検というと、北海道ぐらいと思うかも知れないけれども、探検というのはどういうことかというと、この時代の北海道は南部たげしか分からない。
もしかしたら大陸と地続きかもしれない。どこまで行けというのか。果てまで行け、ということです。帰ってこれる保障がない。北海道が島だったからよかったものの。
だからこの人は下級武士です。最上徳内という。
まず東の千島探検です。この探検でだいたい東のほうがわかってから、今度はちょっと偉い近藤重蔵という人が加わって、本当の主力は最上徳内ですが、名前は偉い人の名前がつくから、近藤重蔵の功績になる。
国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島と続く。エトロフ島、これが一番大きい。ここまで日本領だというのが、現在に至るまで日本の主張です。日本人がこのあと住んでいくから。ここは今、誰が住んでいるか。ロシア人ですね。だから返せ、といっている。これが北方領土問題です。
この時代は、早く行ってオレのものだと印をつけた者の勝ちなんです。アメリカ大陸でもそうです。だからレンガを、そこにペンダントとか、腐れないようなものを置いて、これはオレのペンダントだと言えば、自分のものになるわけです。そこで大日本エトロフという標識、柱を立てた。


【伊能忠敬】 この北海道探検から始まって、地図をつくれと言われたのが、伊能忠敬(いのうただたか)です。地図をつくれと言われて、ふつうだったら、北海道の地図をつくるだけでも大変なんだけれども、ついでだといって全国を測量していく。この時代の平均寿命は50才なんですが、始めた時には、すでに50才を超えている。もともと測量技術を知らない武士なんですけれども、50才すぎて引退してから地理の世界に入っていく。
そしてこういう功績を残していく。この70年後、明治政府が、なんだ伊能図なんか、滑車引いて、適当につくったものだ。日本陸軍の総力あげて、きちっとした日本の地図をつくってみせるぞぞ、と言ってつくってみた。そしたら、伊能図とほとんど変わらなかったという。
まぁ、そういうすごい地図を作る。シーボルトがもちだそうとしたのは、この地図です。大日本沿海輿地全図という。敵が攻めてきたら大変なんです。海岸線の地形がどうなってるかを相手に知られたら。極秘中の極秘、トップシークレットです。


【間宮林蔵】 それから今度は北海道のさらに北に行った人、間宮林蔵という。最上徳内が北海道はここまで、ということをつきとめた。最上徳内はこのルートです。赤が、最上徳内です。このルートで、東に行って択捉までたどりついた。東はここで終わってるんだ。その東に島が、エトロフがある。
北の方に行けと言われたのが、間宮林蔵という人です。この間宮林蔵が、函館から、えっちらほっちら、北海道の北はここまでだとつきとめた。そこで役割を終えて、帰ればいいのに、ついでにさらに北の樺太まで行く。樺太は北海道よりさらに大きい。この樺太は日本領地だった時代がある。しかし今はロシア領で、サハリンという別の名前になっている。サハリンと樺太、同じことです。こういったことはよくある。
だからここの樺太の北の海峡は、間宮海峡という。間宮林蔵の間宮海峡です。
これで北海道が何なのか。島だというのがわかった。
これは、こういう未知の土地は、今のような人工衛星が飛ぶ時代にはないけれども、分からない土地に探検に行けといわれると、恐かろうと思う。最初にエベレストにのぼった人というのはえらい。
どんな高さで、どんな地形なのか分からないのに、頂上に登っていけと言われると、一寸先は闇なのに、これはある程度キモが座ってないと、腹が座ってないとできない。ヘビ一匹出てきて、キャーとか言ってたらとてもできない。北極探検とかもそうです。



【改革】
今まで言ってないけど、4つの改革がある。
1716年からの享保の改革。8代将軍徳川吉宗です。
1767年からの田沼時代。側用人から老中となる田沼意次の改革です。
1787年からの寛政の改革。老中松平定信です。
そして4つ目が、1841年からの天保の改革です。
これらの改革はいろいろなことをやるけれども割愛します。
ちょっとうまくいかなかったけれども。ただ幕府は、だいたい100年ぐらいで経済的に没落すると、すぐつぶれるけれども、江戸幕府のすごいところは、そのあと200年近くもつところです。だいたい100年もてばちょっとしたものです。それが200年もつ。まだつぶれない。これがすごいところです。
さっきいったように、その前年の1840年には、中国でアヘン戦争が起こっている。イギリスに攻められた、という事件も起こっている。日本は当然、この情報はキャッチしてます。



【西南雄藩の改革】
もうすぐペリーが来るんだけれども、その前に幕末の藩の動きを言います。薩摩、長州、土佐、肥前という4つ藩に限って。この4つの藩は、実は明治維新で活躍する藩です。共通点は、全部西日本勢力です。だから明治維新、日本が東と西の勢力があるとすれば、関ヶ原の戦いは東の勝ちです。明治維新は西の勝ちです。


【薩摩】 まず薩摩です。下級武士を登用する。身分制では身分が高くてもバカな奴というのはいっぱいいる。逆に身分が低くても、頭が良いいというのもいっぱいってる。身分ではなく、能力の高さでいこうということです。
調所広郷が登用される。500万両、今で言えば、500億円の借金をしていたのを、人の命は何者にも変えがたいよな、と言う。人の命は金よりも重たいよな。借金の代わりにオレの命をとれ。その代わり、借金を帳消しにしてくれ、という。さあ殺せ。しかし商人が、殺せといわれて、ブスッと殺せるかと言うと、殺せないわけです。事実上の踏み倒しです。これで薩摩は復活する。
ただ返さないとはいわない。250年間で払うという。250年。この時から、まだ200年経ってない。では薩摩藩は、今もずっと返済してるのか。もうどうなったのか分からない。事実上の踏み倒しです。
これで身軽になって、あとは金もうけです。砂糖は貴重品です。南の奄美大島からの黒砂糖、これもおいしいんだけれども今は白砂糖でしょう。我々が子供の頃には白砂糖なんか、もったいない。黄色の煮砂糖、君たちは知らないかな、煮砂糖、黄色い砂糖、あれのほうが体にいい。今は高いけど。
私は今でも、嫁さんに買ってきてもらって、コーヒーにそれを入れる、白砂糖じゃなくて。もっと健康にいいのは黒砂糖という。砂糖は貴重品なんです。高く売れる。
それから、ここの金づるは、琉球つまり沖縄ですよ。琉球は日清両属だったですね。薩摩と貿易する。中国とも貿易する。これは琉球密貿易です。これ密が付いたり、付かなかったりするんですよ。幕府は知っているけれども、いちおう片目つぶっている。密貿易の存在を知らないことにしている。ただこいつ嫌だなと思ったときに、なにか処罰する理由が必要でしょ。200年も前から知ってるのに、おまえは密貿易している。そんなこと200年も前から知っているでしょうというと、いや知らない、初めて聞いたという。だから密貿易をしていると言われて、この人は捕まえられる。
罪の作り方というのは、政治では今でも結構こんなことがあります。2000年代の日本とかアメリカでも、こんなことは今もあっている。

藩校がある。頭のいい若手を育てる。これは造士館という。
それで殿様は、島津斉彬(しまずなりあきら)という。これが蘭癖で、オランダの学問が大好きなんです。世界がどう動いているかが気になっている。西洋の科学がすごいと知っている。
そのために、近代化しないといけない。西洋科学を取り入れないといけない。おまえたち勉強しろと言って、大枚をはたく。こういう新しい事業に取り組むことは、基礎研究だから、金は生まないのに、お金はおそろしくかかる。これ普通の人間は辛抱しきれない。辛抱した人間だけが大成するんですよ。お金も必要です。そういう科学的な面の知識がある人です。


さらにこの人が政治を分かっているのは、下級武士でも能力があるというのは本当だけれども、頭のよさだけではなく、政治を支配するのは情報なんだと言っていることです。忍者の分身の術はないと言ったけど、忍者はいるんですよ。スッパ、ワッパと言って。鎌倉時代から。
江戸時代には、幕府の隠密という。そういうことを藩の下級武士にやらせる。それが西郷隆盛です。この人、藩校の造士館のエリートではない。下級武士だったんです。青年団長みたいなことをやっている。何で偉くなるのか。わからないのは、ここなんですね。その弟分格が、大久保利通です。
彼が、島津斉彬が西郷隆盛を登用した。それは確かです。何に登用したか。お庭番です。庭掃除です。これが表の役目です。庭掃除というのは、いつも殿様の庭に入ることができる。ヒマなときはそこで掃除していればいい。しかしそんなことは表向きです。西郷隆盛は、殿様がオーイといったら、パーッと縁側に駆けつける。座敷に上がってお茶飲みながら密談するような暇はないです。
誰々を探ってこいと言われたら、ハイといって、パッと行く。こういう情報密偵です。庭番というのはこれです。庭掃除なんか本当はどうでもいい。忍者だと思ったら分かりやすい。あんな図体の大きい忍者がおるのか、と言うかも知れない。上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に、二番目の嫁さんが出席して、序幕式で、誰ですか、と言ったという話はしました。こんなに太ってなかった、と言ったという。あの銅像はデフォルメされている。実像がわからない。30~40年ぐらいに、西郷隆盛と裏に書いた写真が見つかった、と言って、その話は一発で消されたんですけれども、新聞に載った写真を見たら、げっそりやせていた。西郷隆盛というのは。よくわからない。ここらへんは。お庭番は表の名前です。しかし本当の仕事は、そういうものじゃない。
佐賀の江藤新平だって、家跡は今でもあるんだけれども、武家屋敷の一番はずれの、下級武士が住むところです。一番身分の低い下級武士が、なぜ司法卿にまで、法務大臣にまでなれる力があったか、というと、動きを見ていたら、やっぱり忍者ですね。何しているか分からないところで、ずっと動いている。
だから忍者が、何をしていたかということほど、歴史的にわからないものはないです。歴史的に分かるような動きをした忍者というのは、下手な忍者でしょ。下手な忍者が、大きな仕事ができるわけないじゃないですか。大きな仕事をできる忍者というのは、優秀な忍者だから、歴史家の追求技術を遥かにしのぐ動きをしている。だからなかなか分からないんですよ。歴史の闇です。ここらへんは。でもそれが歴史を動かすこともある。そのことは非常に大事なことです。


【長州】 次が長州、いまの山口県です。毛利藩です。殿様が、村田清風を登用する。
これも似たようなことをやる。薩摩藩に比べたらみじかいけれども、借金を37年で分割返済する。37年の間には、明治維新になって長州藩はつぶれてしまうから、事実上の踏み倒しです。
それから、下関海峡というドル箱があるんです。あそこは今も昔も交通の要衝ですよ。陸で考えたらわからないけれども、船で考えてください。高速のメカリSAに停まると、関門海峡が見渡せるんですよ。1時間で何百隻通るか分からない。いろんなアルファベットつかった船とか、アラビア文字とか、キリル文字もロシア船籍とか、船がひっきりなしです。昔からそうです。いろんな藩の船が通って、そこで物を荷揚げして保管したりする、いわゆる倉庫業です。これでガッポリ儲ける。これを越荷方(こしにがた)といいます。


【土佐】 それから土佐藩、藩主は山内豊信(とよしげ)という。吉田東洋を起用します。この藩の開明派をおこぜ組といいます。身分差別が、武士の間で激しい藩で、上級武士と下級武士が対立している。その下級武士が、こんな藩にいられるかと言って、飛び出していったその代表格が坂本龍馬です。坂本龍馬はここから出てきます。のちに三菱財閥を作る岩崎弥太郎も、土佐の下級武士です。


【肥前】 肥前の佐賀藩です。藩主は鍋島直正(なおまさ)という。この人、佐賀では神様になっていて、佐嘉神社に祀られています。この人も薩摩の島津斉彬におとらないぐらい蘭癖大名と言われる。蘭癖というのはオランダのランです。オランダの勉強ばかりしてる。金もかかるし、何になるのか。カネ勘定したら、こんなことやれないです。これには前にいったように、フェートン号以来のやむにやまれぬ事情があります。

やったことは、農民に土地を分配するという均田制です。豊かな上に、こういう農民重視をやる。だから佐賀藩には一揆は起こってないです。少なくともそういう記録は今まで見つかってない。有田焼も藩の専売にします。

それから鉄を作る。反射炉。鉄を溶かすための技術です。1850年、これは日本で最初ですね。このあと佐賀藩から教えてもらった伊豆半島の伊豆韮山の反射炉の方が、教科書的にも有名なんだけれど、あれは作り方が分からんから教えて、まあよかたい、といって佐賀藩が教えたんですよ。技術的には佐賀藩です。何でこんなものが、つくれるか。これは西洋技術です。オランダ語を読めるから、オランダ語の先生もいないのに、辞書を片手に読む。
それから、そういう反射炉とか大砲をつくる精錬方という組織を作っていく。歩いてみると、この跡地はまだ少し残っています。

のちに総理大臣になる佐賀の大隈重信はアヘン戦争の2年前の1838年生まれです。藩校弘道館のエリートで、学年トップクラスなんだけれども、校風があわずに反対運動を起こす。この学校、気に入らん、と。そしてクビになる。クビになって仕方がないから、オランダ語を学び出す。オランド語を学びだして、それでも飽き足らずに、オランダ語はもう古い、これからはイギリス流だと言って、英語を学びだす。それが認められて、佐賀藩が長崎に設置した英語塾致遠館の先生になる。

しかしここにはもう一つの動きがあって、佐賀には若者が夜な夜な集まる夜の先生がいるんです。これは義祭同盟といって、1850年に結成された秘密のグループです。天皇中心とした国を作ろうという秘密結社です。この中心が枝吉神陽(えだよししんよう)です。大隈重信は弘道館時代からこれに参加しています。
枝吉神陽は、表の顔は藩校弘道館の先生です。この人も変わった人で、おまえは佐賀にくすぶってる器じゃないから、江戸に来い、江戸の昌平坂学問所という徳川の学校で教えろ、と言われて江戸に行くんだけれども、面白くない、考え方がオレと違う、という。それで佐賀に帰ってきて藩校の弘道館で教える。それでもやっぱりおもしろくない。でも頭のいい生徒は分かる。先生、教えてくださいと言って、夜に集まる。ペリーが来る3年前の1850年に義祭同盟をつくる。佐賀に龍造寺八幡という神社があって、そこに今でも義祭同盟の碑が建っています。
しかし枝吉神陽は、1862年にコレラで若死にする。明治維新の前に死んでいる。それで名前が残ってないけれども、知る人ぞ知る人物です。


(龍造寺八幡宮内の義祭同盟の碑)


のちに佐賀の乱を起こした江藤新平もこの義祭同盟に参加しています。佐賀の乱はよく分からない乱です。この人も頭がよくて、藩校の弘道館でもトップクラスだったけど、家が貧乏で学費が続かず弘道館を辞めた。とても学校どころじゃない。ただ頭のキレはすごかったから、いろんな情報を察知していく。どうも藩主鍋島直正に認められて、密かに情報収集のための忍者的役割をしているようなところがあります。

佐賀の乱で江藤新平とともに殺される人に島義勇がいます。この人も義祭同盟に参加しています。明治になると、おまえ蝦夷地を開発しに行け、と言われて、何もないヒグマが出る札幌に、ここに都会をつくるぞといって、町割をしていく。札幌に修学旅行に行ったら、道が京都のように五番目状になっているんです。札幌は計画都市です。あの町割りは、この人がやるんです。札幌をつくった男です。

それから、副島種臣。この人は明治維新で外務大臣や内務大臣を務めた人です。この人も義祭同盟に加わっています。枝吉神陽と副島種臣は、名前が違って他人のようだけれども、実の兄弟です。枝吉神陽は枝吉一郎です。長男です。副島種臣は、前は枝吉二郎といわれていた。次男です。息子がいない副島家に、跡取りとして養子にはいる。養子というのは、江戸時代にはよくあることです。名前は、枝吉から副島に変わる。でも実の兄弟です。

つまり佐賀藩出身者で明治政府で活躍する人のほとんどは義祭同盟出身者です。長州藩でこの枝吉神陽に当たるのが、吉田松陰です。ペリーの船に密航しようとして捉えられ、地元の萩にもどって1857年から松下村塾で若手を教え始めます。その弟子にあたるのが、伊藤博文とか、井上馨とか、高杉晋作とか、木戸孝允とかそうそうたる顔ぶれです。これと同じ構図です。
時代が動く時には、やっぱり裏から動く。時代が大きく変わるときは、裏から動いていく。でも簡単にオレも裏に行くというと、十中八九は殺される。ドラマで見ると面白いんだけれども、けっこう恐い世界に入っていきます。



【化政文化】
次、江戸末期の文化です。これを化政文化という。意味は、文化文政期の文化という意味です。これは年号です。文化文政期の文化というと、ブンブンブンブン聞こえて、何なのか分からないから、慣例的に短縮して化政文化という。日本語は何でも縮めるんですよ。だいたい4文字越える熟語は失格です。四文字以内におさめる。


【蘭学】 一番目には、ヨーロッパの学、西洋の洋学ともいうけれども、より具体的には日本がヨーロッパとつきあってる国はどこか。一カ国しかなかった。オランダです。そのオランダのランをとって、蘭学という言い方をする。まずオランダ語です。でもオランダ語の教科書がない。その前に辞書がない。辞書がなかったら、おまえが、辞書を作れ。辞書から作るんです。まだ辞書がない。

お医者さんで、オランダ語の「ターヘル・アナトミア」、これは解剖書です。オランダの医学書です。これをわかりたいから、理解したいから、翻訳する必要がある。わからなかったら、翻訳する人いないんだから、知りたかったら、自分で翻訳するしかない。辞書もないのに。そうやって翻訳した本が「解体新書」です。これをやったのが杉田玄白、前野良沢です。
この翻訳作業を読むと、辞書がないのに、何でオランダ語がわかるか。翻訳というよりも、これは解読ですね。語尾の変化とか、きれいに覚えて、これがこうだから、これはこうなるはずだ、と言って、文をつなげて、日本語になれば、多分あっているだろう。気の遠くなるような作業をしていきます。

それから、大坂では緒方洪庵です。この人も、有名なんだけれども、この弟子にいた人が1万円札の福沢諭吉です。大分県人ですが、勉強のためなら、東京だって大坂だって、どこだって行くんです。

それからオランダ人のシーボルト、出島だけでは物足りないから、出島から出してくれ、悪いことはしない、といいながら帰国するときには、こそっと地図を、ご禁制の地図を持ち出そうとして、あまり信用したらいけないけど。ただ、郊外に出ること許されて、そこで鳴滝塾、鳴滝という地名です。長崎にある。そこで医学を教えた。この長崎には開港後も多くのイギリスを中心とする外国人が集まります。

それから、天文学では志筑忠男の暦象新書がある。この名前はまあいいけれども、何を紹介していたかというと、万有引力、ニュートンです。リンゴが木から落ちたんじゃない。引力によって引っ張られたんだ。
何を言いたいかというと、これをほほう、といって、理解する能力がすでに日本人にはあったということです。私は子供のころ、先生からそのことを聞いた時、引っ張られたんじゃなくて落ちただけだろう、と思ってよく分からなかった。なるほどと思ったのは、中学に入ったあとです。この時代に、引力を理解する能力がすでにあった、ということです。


【国学】 それ以外に、日本のいいところは、ではヨーロッパ流一辺倒かというと、いや違うと、新しいものだけじゃなかろう。外国だけじゃなかろう。ヨーロッパだけじゃなかろう。日本はぜんぶ悪いのか。そんなことはなかろう。日本のことも考えていきます。ヨーロッパだけがよくて、日本はだめなのか、そういう短絡的な発想はしないんですね。日本の学問だっていいところはあるはずだ。こういう国学というのが同時に栄ていく。これは外国文化の影響を、日本はこれまでいろいろ受けている。
中国からの儒教、インドの仏教など。それ以前の日本の姿、これが原型じゃないか。その原型をきっと理解しないで、枝葉ばかり見てもダメだと。日本の古代精神にむかう。未来ではなくて。過去にすすぐれた姿がある。こういうのが国学です。

学者としては、だいたい時代順ですけれども、荷田春満(かだのあずままろ)という。神主さんです。日本古来の宗教というのは、仏教ではなくて神社です。神道です。
2人目が、賀茂真淵(かものまぶち)という。静岡県の浜松の人です。古代精神が文字に残っている。万葉集の研究をする。万葉考という。
3人目が、、本居宣長(もとおりのりなが)という。伊勢松坂の人です。伊勢神宮があるところ、日本の神社の総本山みたいなところです。本業はそこのお医者さんなんだけれども、この精神研究に没頭していく。奈良時代に成立した古事記の研究をする。これを「古事記伝」という。一応、この3人目の本居宣長をもって国学は完成された、といわれる。
次にこれが全国的に広がる時には、宗教の形をとる。これが古代精神だから、未来じゃなくて復古なんです。復古神道というものを唱える。これが平田篤胤です。日本の文化は否定されていくんじゃないんだ、ということです。

この国学は、日本の伝統的な権威である天皇を尊重する「尊王論」に結びついていきます。


【教育】 次に、教育としては、幕府も、外国を別に、ヨーロッパを別に、上の文化とは思ってないんです。ただ、いろいろ海外情勢見ていたら、文化はそんなたいしたことないけど、やっぱり勉強しないといけないと。
蛮書、これは野蛮の蛮です。これはヨーロッパの本です。これを、和解というのは、和文解釈です。和解とは日本語に翻訳すること。その御用、これは役所です。蛮書和解御用、変な名前ですが。名前を2回ぐらい変えながら、これは今の東京大学になる。東京大学の本当の原点というのは、江戸幕府がつくった。
では庶民教育はというと、これ頼みもしない、つくれと命令もされないのに、寺子屋ができる。そこで読み書きそろばん。識字率は非常に高い。ヨーロッパ諸国と比べても。


【文芸】 だから小説が流行るんだ。庶民が字が読めるんだ、ということで、この時代、売れっ子小説家という商売が成立する。これも珍しいですね。これも字が読める人が多いから成り立つ職業です。

南総里見八犬伝」という伝説にまつわる話です。南総は千葉です。そこの戦国武将を里見氏という。その滅亡にまつわる伝説のお話です。佐賀の化け猫騒動みたいなものです。これは佐賀の殿様が、龍造寺氏から鍋島氏へと変わるときのお家騒動です。佐賀は猫です。こちらは犬ですね。作者は滝沢馬琴という。

二つ目は、こんどは笑わせるほうです。おもしろおかしいものです。「東海道中膝栗毛」です。ふつうは弥次喜多道中という、ヤジさんとキタさんが、江戸から珍道中をして、向かうところは神社の総本山、さっきいった伊勢神宮です。お伊勢参りというのが流行っている。よく江戸時代は藩の外に出るのが厳しく押さえられていたというイメージがあるけれども、こういうのを見ると、人々はかなり自由に藩の外に出て遠方への旅を楽しんでいます。統制は意外と緩やかだったのかもしれません。やがてこのお伊勢参りは、幕府が滅亡する年に爆発的な流行となって、御陰参りと呼ばれ、さらに「ええじゃないか」の大乱舞となって、幕府の滅亡を早めます。

作者は十返舎一九です。どこで切るか。十返舎ですよ。本名じゃない。滝沢馬琴も、本名じゃない。小説家はほとんど、本名は使いません。ペンネームです。本名を出していると、今のネットといっしょです。ハンドルネイムでしないと、何を言われるかわからない。それと同じです。自分の考えをいう時に、なぜペンネームを使うか。身元を明かさないほうが良いからです。いまでも作家とか芸能人とか、ほとんど本名を明かしませんよね。


【浮世絵】 それから美術、庶民が喜ぶ浮世絵です。これはもともとは絵であった。これが版画だった一色であったのが、多色刷りになる。カラー版です。
版画だから、何枚も安く刷れる。今でいう女性のブロマイドですよね。ただそういうちょっとエッチな、綺麗どころの女性画から始まって、これがそういうエッチなものとは全然関係ない、風景の素晴らしさとか、美術的に非常に高いものになっていく。

これが葛飾北斎です。「富嶽三十六景」という。富嶽というのは富士山です。富士山をバックに、いろんな人たちの躍動感あふれる、これは構図が素晴らしい。フランス印象派にこのあと影響を与え、一派をなす。モネ、ルノアールとか、あそこらへんはこれを手本としていく。非常にいいらしいです。漫画もこの人が描き始めたらしい。

ただこの人も引っ越し魔で、しょっちゅう引っ越ししています。どこにいるかなかなか分からない人です。その点、松尾芭蕉と非常に似ています。富士山周辺をウロウロしています。

素人受けするのは、緻密に庶民の日常とか、何ともない風景なんかを、きれいに描いていく。歌川広重の絵が人気です。これ東海道の風景です。「東海道五十三次」という。宿場ごとにその風景を画いていく。非常にすぐれていると言われる。こういうのは好きですね。よくわからないけど、いいものはいい。
近世はここまでです。これで終わります。

意味を伝えること

2020-08-14 08:13:22 | 歴史
意味が分からなくなることは、崩壊の第一歩です。
意味が分からないと、人はそれに従わなくなります。
なぜなら人間は無意味なことはしない動物だからです。
それが人間のいいところです。

人間にとって恐いことは、意味を失うことです。
意味を求めることも大事なら、意味を伝えることも大事です。

コロナ感染者数最多でも、何も手を打たない政府

2020-08-07 21:59:31 | 自民党政策
コロナ感染者数は本日最多。
でも政府見解は、レベル2なのだそうだ。
緊急事態宣言を出すのは、レベル4になってからだという。
ということはレベル2の次のレベル3になっても、政府は何もしないと言うことなのだろう。
「GO TO キャンペーン」もそのままなのだろう。

でもこれ、コロナ感染者数最多でしょ。これでレベル2というの、おかしくない?
感染者数が最多になって、何も手を打たない政府っておかしくない?

どうするつもりなんだよ。
西村担当大臣なんか、何も本当のこと言ってないよ。
この人ダメだな。これで次期首相を狙ってるんだってよ。
アホか。

中学生にボランティアをさせて、それで授業の代わりだと

2020-08-07 21:08:25 | 教育もろもろ
今日のニュースで、
ある中学校では、今回の豪雨被害で、その後片付けに生徒を手伝わせて、それを授業としたそうだ。
ボランティアの一環だそうだ。
これでよければ、昔の軍需動員だって、良いことになる。

学校だって、コロナで、授業時間数が足らないはずだ。自分の授業ができずに、ボランティア活動に使われた先生は、反対しなかったのだろうか。

むかしはボランティアは、課外活動だったはずだ。または休日を利用しての活動とか、部活動の部員たちが、部活動の延長として行っていたはずだ。

それが授業として行われたら、もうボランティアではないではないか。
それとも、自分は授業を受けたいという生徒にはその自由を認めたのだろうか。
このような強制的なボランティアがだんだんと幅をきかせるようになれば、ボランティアがボランティアでなくなる。

先生たちは、授業をする義務があり、それと同時に授業をする権利がある。
ましてコロナで、授業時数がままならないときに、どうやって生徒たちの学力保障をする気だろうか。自分たちの授業をする権利が奪われて、誰も反対の声を上げなかったのだろうか。

政府が声高に叫ぶ、ボランティアとはいったい何なのだろうか。
本来なら、災害救援は、政府の仕事だろうに。
それを一般ボランティアに頼り、さらにコロナで授業を奪われている中学生にまで頼る。

校長はよほど行政寄りなのではないか。
誰をむいて学校運営を行っているのか。
本当に生徒のことを考えているのか。
たんに行政サイドの意向を気にしているだけなのではないか。
それとも次の自分の行き先を考えているのか。

こんなにコロナで授業時数が不足しているときに、授業をボランティアに使って、それで一体どうやって、子供たちの学力を確保できるのか。

たとえ夏休み中だとしても、ボランティアを授業だとすれば、授業をボランティアにするのはもう目の前だ。
戦前の学徒動員の発送も、こういう大人たちがあたかも良いことのように、やったんではないか。

私の親父は、学徒動員は、泥運び、砂運びばかりで、きつくてイヤだったと言っていた。
こういうことをやる中学校の先生が、それに賛成しているとすれば、よほど自分の授業に自信のある有能な先生に違いない。

金の上昇は不安の高まり

2020-08-07 09:39:31 | 自民党政策
ところで金が猛烈に上がってます。
それだけ経済見通しが悪いということなのでしょう。
コロナを甘く見るなということなのでしょう。
政府が見誤っているから、ますます不安は高まります。
金の上昇はその不安の裏返しです。

この状態で「GO TO キャンペーン」を中止しないというのは、おかしくないでしょうか。

資本主義は拡大再生産を前提としているから、今のような経済縮小期には、非常に都合が悪くなる。
紙幣増刷による拡大再生産、銀行による信用創造、そういうものの土台が崩れていきます。

もともとそれは矛盾に満ちたものだから、ここで一気に化けの皮が剥がれるような不安が、世の中に充満しているのです。
その不安の大きさを、金の上昇が証明しているかのようです。
不安は不安を呼んでいきます。それをさらに増長させるように、政府の失策が重なります。
アベノマスク、「GO TO キャンペーン」。
コロナ対策をしているのは地方行政で、政府はそれを台無しにするようなことばかり。
だかり、ますます不安は不安を呼ぶ。

ここ2週間の金の上昇は異常です。
それはコロナの拡大と歩調を合わせています。

政府がいくら、重傷者が少ないからなどと言い逃れをしても、すぐに医療事情は逼迫します。
そんなことに誰も騙されはしないのです。
金の上昇は不安の高まり、ウソをいっているのは政府だけ。
そんな政府のウソは、みんな知ってる。
不安が拡大すればするほど、金は高まる。

政府は、余計なことはせずに、要らないアベノマスクでも配っていればいいんだ。