ひょうきちの疑問

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授業でいえない日本史 25話 近代 ペリーの来航~金の流出

2020-08-26 18:00:00 | 旧日本史4 近代
【ペリーの来航】
まだ、江戸時代は終わってないけれども、1853年、アメリカのペリーが軍艦率いて浦賀にやってくる。実質ここから「近代」になります。近代のきっかけは外からやってきたということです。
このときのペリーが見た日本の政治構造は、こんなになっている。この三角形を書くのは、これでこれで3回目です。三角形が二重になっている。ここにあるのは、天皇です。ここは将軍です。天皇と将軍の関係です。




鎌倉時代から室町時代は、天皇の三角形は大きかったから、誰にも分かったけれども、太平洋の向こうから日本を見たら、上の三角形は見えずに、将軍が日本語の王のように見える。だからそこを目指してしてくる。だから江戸に来るんです。天皇は京都にいます。でも京都には行かない。見間違いなんです。
ただ日本は、この13年前にはあの中国が、あの島国の小さいイギリスに、こてんぱんにやられているという情報を、すでにキャッチしている。1840年のアヘン戦争です。
だから、来たぞ、というときには、戦えないことを知っている。これを卑怯というと、日本は1500年代の戦国時代に何を学んだか。武将たちがどういう戦いをしたか。勝てない相手とは戦わないです。勝てる相手かどうかを判断する。これがイクサで一番大事だということを学んだんです。
勝てない相手でも当たって砕けろ、そんなことをすれば命がいくらあっても足りない。ではどうやって生き延びていくか、家臣団を食わしていくために、それを懸命に考えてきたのです。勝てない相手と戦ったらダメなんです。


それでも戦わざるをえなかった唯一の戦いが、太平洋戦争だと私は思うんですけどね。いろいろやらせもあって、逃れられなくなるんだけれども、あそこまで戦うというのは、私にもちょっと謎なんです。日本の伝統には、ああいう戦い方はないです。あれが日本の伝統的な戦い方じゃないです。勝てない相手と戦って、どうするんだということなんですよ。

そういうペリーがやってきた。大砲向けてね。4艘の軍艦で、大砲を向けてやってくるということは非常に失礼なことです。失礼なことを承知でやってきている。よくペリーの来航を喜ぶ人がいますが、当時の人にとっては、これは平和的な開国要求でも、友好的な開国要求でもありません。武力的な開国要求です。もう断れないわけです。非常に屈辱的なものです。だからこのあと、天皇(王)を中心にして、外国人(夷)を追い払っていこうという「尊王攘夷運動」が起こるのです。
アメリカの目的は150年たった今でも変わらない。アメリカの本当に友好国として、仲間として欲しいのは、日本じゃなくて中国です。

この時の幕府の中心、将軍もあとで出てくるけど、将軍は、この時代は天下泰平で、よきにはからえ、なんです。
実権は老中首座にある。阿部正弘という。まだ若い。30代の異例の若さで老中になる有用な人です。でもこの時代、タイミングよく人が死ぬんです。暗殺と分かっていればまだしも、とにかく死んだとしか記録は残ってない。何でこのタイミングで死ぬの、というのがよくある。
この後、明治維新の1年前に、将軍が死んで、天皇が死ぬんです。こんなことあるのか。ナンバーワンとナンバーツー、ふつう同じ年に相次いで死ぬか。ここらへんが明治維新なんです。

ペリーから開国を要求されて、私は答えられない、という。こんな大事なことは天皇じゃないと分からないと。将軍そこにいるから聞いてこい、と言われても、これで交わすんです。
将軍は王じゃない。王はずっとむこうの京都にいる。行くのに1ヶ月ぐらいかかる、往復するのに2ヶ月かかる。これで逃げたんです。1年間待ってくれと。それでペリーは、1年後にまた来るからと言って、いったん帰る。
ただこの回答によって、江戸時代300年間ほとんど目立たなかった天皇が表舞台に出てくるきっかけになる。


【諸藩の動き】 この間、そのしもじもの下級武士は、どうしていたかというと、参勤交代で江戸に行く人はいっぱいいる。
佐賀藩の副島種臣は、京都に遊学というか、半分学び、半分仕事、京都の情勢をおまえ見てこいといわれる。ペリー来航の前年、1852年、24才です。いったん帰ったあと、1855年から再度京都に上っています。

この1853年、土佐の坂本龍馬、これも高知県から江戸に出ている。このとき17才です。まだ剣術修行していただけで、政治的活動はまだしてない。こういうふうにして、地方武士と京都や江戸とのつながりがある。


【幕府の対応】 ついでに言うと、ペリーがやってきた航路は、ほとんどの人は太平洋を渡ってきたイメージを想定しますが、太平洋航路はまだないです。
アメリカは、やっとこの5年前に、西海岸にたどりついたばかりです。世界史でやったように、アメリカ合衆国というのは、東のこんな小さいところから始まって、それがどんどん西に開拓して、やっと西までたどりついたのであって、新しい西海岸に軍港なんかない。軍港なんかないから、今までどおり東海岸から出発するしかない。これが世界標準地図です。日本は一番東にある遠い国です。アメリカから東へ東へと、こうやってくる。よっぽどアジアが欲しかったんです。

このあと、1年後にまた来る。困ったぞ。今まで幕府のことは、300年間、幕府で決めていた。こんなことはなかった。どうしましょうかと、天皇にお伺い立てたんです。こんなことは、はじめてです。ついでに大名からも意見を聞いてみた。
このとき困ったことには、海外情勢を一番知っているのは幕府です。天皇も大名も、海外情勢を知らない。アヘン戦争がどうなっているのかも知らない。無礼なヤツとは戦え、勝てるのか、勝てるに決まっている、と思っている。現状認識がまったくともなってないわけです。現状認識が伴っていない相手に、いくら相談しても、解決はしません。逆に現状認識が誤っている相手には、相談しないほうが良い。相談すればいいというものではない。知恵がない人に相談しても、判断を誤るだけだから。
彼らは圧倒的に、開国反対だという。ということは、ペリーと戦わないといけないということです。勝てるのか、勝てないんですよ。
このこと自体が、まず従来の慣例を破っている。幕府自体で決めてない。今まで300年間は、幕府独裁、というよりも幕府のことは幕府で決めていた。
それが外様大名まで含めて発言しだした。薩摩藩も外様です。身分は一番低いけれども力がある。長州もそうです。土佐も肥前もそうです。彼らが、言っていいんだと思って、発言力を持ち出します。




【日米和親条約】 
そういう結論が出ていない間に1年過ぎ去った。あっという間に決ます。約束通り1年待て、ペリーが来ました。1854年です。ノーといえないです。条約を結びます。日本は開国します。でも貿易はまだです。これが日米和親条約です。和親だから親しくするだけです。


【諸藩の動き】 このとき、ペリーの日記に、何もない一介の若い武士が出てくるんです。それが吉田松陰という長州の武士です。神奈川沖に停泊しているペリーの艦隊に向かって、家来と2人で、小さな小舟で、夜の闇に紛れて舟をこぎ出して、オーイ、俺をアメリカに連れて行け、という。帰れ、帰れ、オレたちは大事な交渉の前だ、おまえなんか相手にできるものか、と言ったら、それでも引かずに、大声で叫んでいる。ペリーは政治判断から、いや帰れ、という。ここで変なことすると、結べる条約も結べずにアメリカに帰ることになる。オレも子供の使いじゃないから、仕事を果たしたい、だから帰れ、と言って追い返す。
吉田松陰は、何年かあとに打ち首になりますが、その時は、おまえ長州にもどれ、と言われて、謹慎です。ただ家から出なければ、活動していい、という。塾で教えるんです。これが松下村塾です。ここに集まった下級武士たちが、この後、名だたる政治家になる。伊藤博文、井上馨、桂小五郎、山県有朋、ほとんど総理大臣クラスの人間ばかりです。このあとの4~5年、この松下村塾で学ぶんです。多数の下級武士が集まってくる。
昔、見に行ったことがあるけど、本当にお世辞にも、豪邸とはいえない。今は公園化されて神社になり、周囲はお金をかけているけど、建物自体は小さな小屋みたいなところです。こんなところでどうやって講義するんだろう、と思うようなところです。

実は松下村塾は吉田松陰が開いたものではなく、松陰の叔父が開いている塾で、松陰はいわばそこの居候です。だから松陰がそこで授業をしたというよりも、そこが若手下級武士たちの溜まり場のようになり、彼らはそこでいろいろな不満を語り合っていたようです。そこがたまたま塾の一室だったということです。そのリーダーが吉田松陰なのです。


【条約の内容】 1854年、和親条約が結ばれる。それまでは鎖国で、長崎の出島しか、外国船の入る港はなかった。追加して、下田です。伊豆半島です。それから、なぜか函館です。北海道の。供給するのは、薪水、これは水と薪の供給です。
水は水兵さんのお飲み水です。海水は飲めないから。冷蔵庫がない時代に、長期の船のなかで水は貴重です。塩水は飲めないでしょ。水は貴重です。


これは戦争の時に海軍の本当の話なんですが、あの戦友と2人で、戦闘で軍艦から投げ出されて、ボートで海を漂っていた。それから1週間ぐらいで、救助されたから、戦死せずにすんだけれども。その間どうやって咽の乾きをしのいだか。食い物よりもまずは水なんです。何したか。靴をコップ代わりにして、お互いのオシッコを飲みあうんです。これは理にかなったことです。海水飲んだら死ぬんだから。死ぬよりもオシッコ飲んだ方がいい。お互いに飲み合うんです。オレのオシッコ、少し残しとけ、とか言いながら。想像を絶する世界ですね。戦争のサバイバルゲームは。
その水と薪です。薪は蒸気船の薪です。あと食い物も供給する。つまりまだ貿易はしてないです。でも貿易しろというのは、時間の問題です。

後々問題になるのが、最恵国待遇といって、不平等条約のはしりです。アメリカが押しつけてくる。最恵国とは何かというと、このあと、いろんな国と条約を結ばせられる、その結んだ条約の中で、アメリカは一番恵まれた条件になっていないといけない。自動的に条件をスライドさせないといけない、というものです。
本来条約とは、一対一で、どういう内容で結ぶか、お互いの自由です。でもこうなるとその自由がない。これが最恵国待遇です。ひとつの国にこういうことを認めると、アメリカがいいならオレもだ、となる。イギリスは大英帝国です。オランダも、さらにロシアも、それを要求します。なんでアメリカと結んで、オレとは結べないのか、と詰め寄る。理屈が立たないようになる。こうやって次々に不利な条約を結ばされていく。イギリスとは日英和親条約、オランダとは日蘭和親条約、ロシアとは日露和親条約、ずっと結ばせられる。
日露和親条約では、ロシアとの国境も決められた、日本領はこのまえ言ったように、エトロフまでが日本領。その東のウルップ島からはロシア領です。北海道の北にある今のサハリン、つまり昔の樺太は雑居の地です。これが今でも生きていて、日本の主張です。北方領土問題です。これが根拠になっています。でも今はそこにはロシア人が住んでいます。70年間前から。


【諸藩の動き】 この1854年、西郷隆盛は27歳です。藩主島津斉彬のお庭番になります。本当は情報担当です。


1854年、佐賀の大隈重信江藤新平が、藩校の弘道館を退学しています。大隈重信は中級武士です。江藤新平は下級の下級です。大隈は16才。江藤は20才。大隈重信は成績は1番だったらしい。藩校の弘道館で。しかし、藩校の授業内容が気に食わない。今からはオランダでしょうが、という。藩校では儒学ばっかりやっている。儒教ばっかりでオランダ語がないじゃないか。ヨーロッパのことがわからないじゃないか、と言って、こんなところで勉強できるか、と飛び出す。退学です。成績トップでこういうことを言ってみたいですね。これ2番じゃ、ひがみっぽくなる。
でも江藤新平は単純に学費がないからです。彼も切れ者で頭がよかったけど、貧乏で学費が払えないのです。


【国内改革】 幕府は和親条約を結ぶと、まず、これからは海外とのつきあいだ、海軍だ、と言って、1855年に長崎の出島の近くに海軍伝習所をつくる。長崎の防備は、もともとどこが管理していたか。佐賀藩です。ここで学ぶ人を、佐賀藩は48名だします。全国で90人ぐらいだから、半分以上は佐賀藩です。ここで佐賀藩の有能な人物が長崎に行く。長崎は海外情報の宝庫です。


【諸藩の動き】 同じ1855年、大隈重信は、お前がいうことが正しかった、中国の儒教ばかりしている場合じゃない。佐賀藩は、藩校弘道館に、蘭学の専門のコースを設けます。おまえ、そこにはいれ、と言われる。大隈は、1年前には、なぜ蘭学がないか、と言って退学していた。藩が動いたということです。

2年後の1857年には、アメリカで株の暴落が起きて、景気がガタッと落ちる世界恐慌が起こっています。資本主義が乱れ始めています。


【幕府の動き】 このあと4年後に貿易条約をむすぶんですよ。その前に、その4年間の幕府内の動きです。
1857年、まだ30代で元気いっぱいだった老中阿部正弘、この条約を結んだ人が、ぽっこり死ぬ。よくわからない。こういう死に方が流行る。恐いですね。ここらへんは。流行るというか、こういう死に方をする人もいっぱいでてくる。大半は謎です。


平成になってからも、もと財務大臣の中川昭一、大臣クラスで次期首相と目されていた人が、自宅の二階で死んでいた。約10年前です。ある日突然、奥さんが行ったら、冷たくなってた。これは新聞に出ていることです。こういう不審死は今でもあります。

次に座ったのは、老中首座になったのが、堀田正睦です。
この時に徳川一族では、一つのお家問題を抱えてるんです。13代将軍の徳川家定、この人に子供が生まれないんですね。将軍にとって1番大事な仕事は、男の跡継ぎをつくることです。皆な、近くの家来たちは知っているんです。この人は、もともと女性に興味を持てない人だったんですよ。ということは、われわれは、性の自由でいいんだけれども、将軍になると、それじゃあ困る。世継ぎができないのが確定した。できないでしょ、女性に興味がない男だったら。子供できない。これが確定したということは、次の14代将軍を決めないといけない。でもこうなると政治が割れるんです。

それで対立したのが、1人目は、一橋慶喜です。結論いうと、この人が15代将軍になる。14代ではない。一橋家は、徳川の分家で三卿といって三家よりも身分が一ランク下です。
もう一人、徳川慶福(よしとみ)という。この人は三家です。紀州藩、和歌山です。家柄はバッチリです。家柄で決定です。徳川慶福が次の14代将軍になります。一橋慶喜は15代将軍になります。ここで一橋慶喜が将軍になっていたら、徳川幕府はつぶれてなかったんじゃないかという話もある。
この徳川慶福を推したのが、譜代大名の井伊直弼(いいなおすけ)です。彦根藩の殿様です。彦根ってどこですか。正月にマラソンがあるところという人がいますが、あれは箱根です。彦根は琵琶湖のほとりです。滋賀県です。




【日米修好通商条約】
このときには、まだ決着つかないまま、世継ぎ争いが続いてる。そうこうしているうちに、イギリスが中国にまたちょっかい出している。1856年に、第2次アヘン戦争ともいう戦争をまたふっかける。アロー戦争です。中国は、またけちょんけちょんに負ける。粉々になって、虫食い状態にされていく。
それをちらつかせる訳です。どうしましょうか。丁寧な言葉で。中国やられましたね、いやぁ、独り言ですよ、と。恐喝はしないけど、事実を念押しする。やっぱり脅しですね。
こういうのは、交渉に当たった本人が一番困る。攻められたら勝てない。一歩譲って、ここは結ぶしかない。しかし結んだら、周りはそんなこと気にせず大反対でしょ。開国反対です。
老中の堀田正睦は身が危ない、と思う。この時代、よく殺されるから。オレの責任じゃないように、天皇の責任にしないといけない。天皇さま、よろしいでしょうか。天皇の許し、これを勅許という。勅は天皇です。教育勅語の勅とか、この字は明治によく出てくる。天皇を指す言葉です。
しかし天皇も海外情勢を知らない。天皇も開国反対です。即座に拒絶です。
その間に、14代を押していた彦根藩主の井伊直弼は、そんな悠長なことしている場合じゃない、早く次の手を打ったほうがいい、と思う。
堀田正睦が京都に行っている間に、幕府内でクーデターを起こすんです。オレが幕府を仕切る、と。非常の時にしか、めったにならない大老になる。クーデター成功です。井伊直弼が大老に就任する。


そして1858年、大老の井伊直弼が、日米修好通商条約を結ぶ。通商とは貿易です。
これで物騒になってきた。ここからですよ、本格的に幕末の騒乱状態にはいるのは。
堀田と違うのは、いやオレの責任でいい、と無勅許でやる。つまり天皇の許可なしでやる。しかし殺されはしないぞ。徹底して反対派と戦うつもりなんです。
しかしこの2年後、やはり殺されます。無勅許でやって、自分の責任でやって、こんなことやったのは誰だ、と非難が高まる。

それで貿易がはじまるのが、神奈川長崎、新潟、兵庫、と四つでできるようになった。
ただ最大の貿易港なっていくのは、神奈川といったけど、神奈川の中心地からはずれた、ひなびた漁村で、横浜村というのがあったんですよ。実際には、横浜に変わる。
横浜は今は大都会だけれども、この時はひなびた漁村です。福岡市から西のほうに行った今宿の近くに、横浜という地名がある。横浜というのは、横の浜でしょ。浜はどこにだってあるし、よくある地名です。この時までどこにでもあるような小さな漁村なんです。

これも不平等条約です。同時に不平等条約を押し付けられる。まず関税自主権がない。貿易する時に、外国製品に関税をかけるのは、国として当然の権利なんです。でもそれがない。自由にかけられない。関税自主権がない不平等条約です。
もう一つある。まず考え違いをいうと、例えば他の国に唾はいたら罰金10万円だとする法律があれば、オレは日本人だから関係ない、と思っている人がいる。その国で、唾はいたら10万円の罰金という決まりがあったら、当然そこに行った日本人は、その国の法律に従わないといけない。これが当然なんです。裁かれなかったら、どうなるか。人を殺したって日本人だから帰っていいことになる。日本でこれができるのは沖縄の在日米軍だけで、だから問題になっているでしょ。そんなことがあっていいわけないじゃないですか。日本でリンゴを盗んだアメリカ人は、当然、日本の裁判で裁かれないといけない。でもそうじゃないんです。
日本にいるアメリカ人の領事が裁く。といっても、実際には裁かない。はやく逃げろという。実質的に無罪なんです。こういう不平等条約を、別名で治外法権ともいう。外国人を裁くことができないということです。
この条約も次々に、アメリカと結んで、なんでオレと結ばないか、オランダと結んで、イギリスと結んで、フランスと結ぶ。ここでフランスが来たました。これで世界の二大国家、イギリスとフランスが日本にやって来ました。右に行けばイギリス、左に行けばフランス。ヘビ二匹からにらまれたカエルみたいなものです。イギリスとフランスではさまれて、タダですんだ国はないです。そして貿易が始まった。


【五品江戸廻送令】 アメリカとイギリスが欲しかったのは、実は日本製品の生糸です。江戸時代の300年間で日本は作れるようになった。これが良質だった。そしたら外国人商人が、横浜で買い占める。
江戸に近い横浜で買い占めると、本来は江戸に入っていた生糸が、江戸にはいらなくなる。それで、生糸に4品目を加えて、1860年にまず江戸から回せ、それが余ったら横浜だ、と幕府が命令した。これを五品江戸廻送令といいます。しかしこれ何がおかしいか。江戸の商人は従来通り100円で買うとする、でも横浜のイギリス人が120円で買うとする、すると売る方はどっちに売るか。
経済ルールと政治ルールと違うんです。モノを売りたい時に、100円で買う人と、120円で買う人がいたら、どっちに売るか。120円に決まっている。これは政治は、こんなことまで変えられない。
それで生糸を売る在郷商人が反対する。だから失敗する。幕府の統制が効かなくなっているということです。


【金の海外流出】 それからもう一つ。外交が始まると、日本は300年のあいだ鎖国していたから今まで関係なかったですけど、貿易がはじまると、取り引きするお金は、金か銀なんですよ。日本は金もつかっていたし、銀もつかっていた。江戸の金遣い、大坂の銀遣いです。その交換比率は、金対銀で、1対5です。しかしアメリカやヨーロッパは、金と銀の交換比率が、1対15なんです。頭の回転のいい人は分かる。ぼろ儲けできるでしょ。
イギリスから15グラムの銀を持って日本に来ると、日本の交換レートは、1対5=3対15です。15グラムの銀で3グラムの金を買う。
この3グラムの金をイギリスに持っていったら、イギリスの交換レートは、1対15=3対45ですから、これは45グラムの銀になる。これ合法でしょ。つまり15グラムの銀を日本に持って来ただけで、日本で金を買って往復すれば3倍に増える。
ということは日本の金が外国に流失する。これで日本は、金が足らなくて、なかなかのちの金本位制が確立できなくなる。経済的には二流国家になります。
ちなみに現在の金と銀、1対40、もっと銀は下がってる。金が上がった、このあと150年間で、金が上がって、銀は落ちている。ヨーロッパは金中心の取り引きをしていくからです。


そうなると、政府は、1860年に大判小判の小判の量を三分の一に落とす。これを万延小判といいます。ということは、1枚の小判が3枚になるということで、そうなると小判の量が3倍になる。すると政治経済の授業と同じで、通貨量が増えれば物価はどうなるんですか。物価は高騰するんです。
庶民はモノの値段が上がると喜ばない。今ぐらいのものですよ。政府が物価を2%上げるぞー、といって、そうだそうだと連呼している。これはアベノミクスです。
ふつうは物価が上がると庶民は困る。不満がたまる。その不満は誰に向けられるかというと、開国した幕府が悪いんだ、ということになって、幕府への不満が増大していく。幕府不利です。
ここから多くの日本人が幕府に対して頭にくるんだけれども、ペリーと戦ったらどうなるか、中国のアヘン戦争のようになってよかったのか、ということはあまり言いません。
これで終わります。

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