ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新説・日本書紀㉘ 飛鳥時代② 日出処天子と蘇我馬子 福永晋三

2024-08-04 05:28:23 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀㉘ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2019年(平成31年)3月2日 土曜日

飛鳥時代② 日出処天子と蘇我馬子

7世紀前半の倭国両朝

崇峻の暗殺後、豊国の皇位は1年間「完全に空位となった」と推古紀にある。
豊国年号では、端政5(593)年をはさんで、推古が吉貴元(594)年に即位する。

以後の[筑紫王朝]を倭国本朝、[豊国王朝]を倭国東朝と呼ぶことにする。
先に、蘇我氏が物部氏総本家を倒した後、遠賀川流域の物部氏が筑紫側に付いたせいか、今日の筑前と豊前の国境へと大きく変化し、倭国本朝(筑紫側)が中心の世となった。

馬子が多利思比孤に臣従した結果、東朝の百済仏教文化が本朝に伝播し、盛んに寺院が建立されたようだ。
法興6年(推古4年、596年)に「法興寺(太宰府市観世音寺か)を造り終わった」とあり、馬子の長子善徳が寺司に任命された。
また、高麗の僧慧慈・百済の僧慧聰の2人が住職になる。

[600年]、隋に使者を送った多利思比孤はすでに冠位十二階の制を定めていた。
2王朝制をとがめられた多利思比孤は、
法興14(604)年4月に、「和を以て貴しとす」や「君をば天とす」で知られる憲法十七条を発布し、倭国の天子となった。

[607年]、日出処天子の使者は、煬帝を「海西の菩薩天子」と呼び、「僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです」と言っている。

翌年、煬帝は文林郎裴世清を倭国に派遣した。
彼は「竹斯国に至り、東の秦王国に着いた」と『隋書』にある。

法興18(608)年4月に、小野妹子(中国名蘇因高)が、大唐(隋が正しい)の使人裴世清を連れて筑紫(倭国本朝)に至った。この時に鴻臚館(福岡城)が造られた。
推古16(608)年8月に、唐の客を海石榴市(行橋市)の巷に迎えた。「秦王国」とは「倭国東朝」のことである。

同年、煬帝の家臣が[琉球国]から「麻の鎧」を持ち帰った。
居合わせた倭国の使者が「これは夷邪久国(屋久島)の人のものだ」と言った。
煬帝は結局、琉球国を滅ぼし、倭国(俀国)との国交が断絶した。

[617年]、隋が滅び、翌年、が成立した。
『旧唐書』には、「倭国」・「日本国」の2国が併記され、倭国の記事に「冠位十二階の制」が書かれ、日本国は「倭国の別種」とある。



中大兄皇子 蘇我入鹿を討つ

法興31(621)年、倭国本朝の日出処天子が崩御した。

推古34(626)年、倭国東朝で権勢をほしいままにした馬子も死んだ。蝦夷が跡を継いだようだ。

推古36(628)年、女帝も崩御した。陵は、みやこ町黒田の綾塚古墳(女帝神社)であろう。

推古の死後、蝦夷は一人で皇位を決めようとし、人望のある山背大兄王を退け、田村皇子を[629年]に即位させる。舒明天皇だ。
舒明は翌年、飛鳥岡本宮(赤村光明八幡神社)に遷る。

[641年]に舒明が崩御すると、蝦夷の子入鹿が国政を牛耳り、
舒明の妃、中大兄皇子(後の天智天皇)の母を皇極天皇として、[642年]に即位させる。

翌年、皇極天皇は飛鳥板蓋宮(行橋市福原長者原遺跡Ⅰ期)に遷り、
この年に入鹿は山背大兄王を攻め、王は自害する。
[644年]、蝦夷・入鹿は板蓋宮を見下ろす[甘樫丘]([馬ヶ岳])に家を並べ建てた。蘇我氏の権力はついに絶頂に達した。

この間、中大兄は蘇我氏に反感を抱く氏族と語らい、
[645年]6月8日に入鹿を大極殿に閉じ込め、ついに入鹿を斬った。
蝦夷も甘樫丘の家で自刃した。乙巳の変である。


※(スサノヲの正体 戸矢学 河出書房新社 2020.9月 P192)
 (記紀成立当時の実力者)藤原不比等にとって至上命題は「藤原氏の氏祖である中臣鎌足の美化」「乙巳の変・入鹿殺害の正当化」である。そしてそのために対抗措置・前提となるのは「蘇我氏を貶めること」である。蘇我氏の評価が下がれば下がるほど、その反動として中臣鎌足の行った行為は「英雄的行動」となる。

これがもし、蘇我氏に正義があったとすれば、入鹿殺害は国家的大犯罪である。乙巳の変に大義はあった、中大兄皇子や中臣鎌足たちに正義はあった、と歴史書には記されていなければならない。鎌足の子息である不比等が改竄し、それを時の天皇である元明天皇が承認した。元明帝は、天智天皇(中大兄皇子)の皇女である。つまり、娘が父の義挙を承認したということになる。
なお、改竄が行われた場合の必然として、前後関係との矛盾や齟齬が生じる。それらを完璧に処理するのは難事業であるため、書き換えという手法はよほどの事情がない限り避けられる。それに代わって比較的安易に採用されるのが「削除」という手法である。書き換えに対応するためにあちこちを修正するよりも、ある部分をそっくり削除してしまうのが簡単でなおかつ正確だ。その方法で削除されたのが「蘇我氏の出自」であると私は考えている。そう考えれば多くのことが繋がってくるのだ。
飛鳥時代の朝廷の歴史を記すには、「日本書紀」が必ずしておかなければならないことの中に、蘇我氏の出自と中臣鎌足の出自がある。いずれも極めて重要である。ところが、どちらも「書紀」の記述はまことに少なく、しかも怪し気だ。
蘇我氏の系譜は代々の名前自体が嘘臭い。そして中臣鎌足は、突然登場する

※(スサノヲの正体 戸矢学 河出書房新社 2020.9月 P118)
 「古事記」は、いったい誰が書いたのか。ミステリー小説の解き方と一緒なのだが、「古事記」の出雲神話が書かれたことで、最も利益を得た者、あるいは相当な利益を得た者、それが真犯人つまり作者である。ならば、藤原不比等ではあるまい。・・・

スサノヲこそは、蘇我氏の祖神であると、本書ではすでに指摘した。つまり、「古事記」は蘇我氏のために書かれたものではないのだろうか。おそらく原本は蘇我氏みずからによって書かれたものだろう。「日本書紀」には、「一書に曰く」として異説を録する参考文献が数多く登場するが、「古事記」もその「一書」の一つであり、いくつかの「家伝」の一つであったのではないだろうか。つまり、「古事記」は蘇我氏の「家伝」である。中臣=藤原のものではない。

※(管理人注) 古事記は乙巳の変の以前の推古天皇で終わっているから、蘇我氏を悪く書いていない。また、蘇我氏は武内宿祢の子孫とも言われている。 

※(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P227)
 (日本書紀)の真意は、武内宿禰の正体を抹殺することにあったのではなかったか。・・・・・・ここにいう武内宿禰の正体とは、ようするに7世紀に活躍した蘇我氏の祖のことである。


※(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P99)
 「古事記」の第八代孝元天皇の条に・・・・・・蘇我氏が、内宿禰(日本書紀では武内宿禰)から枝分かれした氏族であることが記されている。


※(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P193)
 梅澤恵美子氏は、新羅から来日したという天日槍武内宿禰(神功皇后の協力者)が同一なのではないかと指摘した。

(本文終)



三ツ塚古墳(みやこ町)の図。1号墳(右)が蝦夷、2号墳(中)が入鹿の墓と思われる。2・3号墳は削られて今は無い

現在の三ツ塚古墳




2022.12.09 第30回嘉麻教室 飛鳥時代② 日出処天子と蘇我馬子

 








聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(その13)「推古天皇」編(2017-6-4) 福永晋三


聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(その14)「舒明天皇、皇極天皇、天智天皇の業績」編(2017-6-4) 福永晋三


聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(その15)「天智天皇の漏刻、白村江の敗戦後、大津宮」編(2017-6-4) 福永晋三


聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(その16 最終回)「壬申の乱(天智天皇の入水自殺)、大和王朝の東遷」編(2017-6-4) 福永晋三




コメントを投稿