Schreib mal wieder!

自分の感じるままに...それがクレームと言われても

竹沢さん、ありがとう

2013-11-04 23:50:00 | Weblog
(絶対に忘れたくなくない、今の気持ちを書き記しておきたいと思い、11月4日の夜に一気に書き上げた文章です。いろいろな考えがあるので、こういうことを載せるについては必ずしもいい気持ちのしない方もいると思いますが、あくまで僕の目から見たものですが、彼がどう人生と向き合ったのか、知りたい方もいると思いここに載せることにしました。この点はあらかじめご了承いただいた上でお読みいただけると幸いです)



竹沢浩七さんが10月31日に眠りにつかれました。

私がドイツ銀行でくすぶっているときに、それまで新卒から育ててくれた澤田さんがあっちで人探してるらしいよ、と言って飲みに連れていってくれて、そこで竹沢さんを紹介してくれました。仕事の話より車の話をして、それでも僕はこれがチャンスと思って次の週にResumeを持ってオランダ銀行の窓口まで行って...99年の初夏のことでした。

ドイツでも新卒にそんなことやらせていいの?って思うくらい、澤田さんにいろんなことをやらせてもらいましたが、オランダに入ってからは、さらにいろんなことをやらせてもらいました。自分のチームを持ったのもオランダが初めて。真剣にリーダーシップって何なんだろうと思って、自分で15万払ってデールカーネギートレーニングを受けたのもこの時。2001年1月のこと。本当に自分に飛躍する機会をくださった方でした。

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「実は竹沢さんが末期の食道がんで、先週担ぎ込まれて...」

朝8時半くらいに携帯が鳴り...もう何年も話してないのに、こんな朝からどうしたんだろうと思って取るとMさんが切羽詰まった様子で話してくれた。くりちゃんにも伝えてあげてくれる?と言われたので、昼休みに電話した。

その日はたまたま5時半には上がれる日だった。携帯で検索すると18時03分の成田エクスプレスに乗れば7時過ぎには病院に着けると思い、券売機で席を取って時間があったので、ねんりんやでいつものバームクーヘンを買ってそのまま千葉へ向かった。

着いてみると「千葉県がんセンター」とはいうものの、古~い病院だった。狭い病室に6つのベッドがカーテンで仕切られて並んでいる窓際の左奥に竹沢さんがいた。「あれ、初めてだっけ? これが堀口だよ」、そこで初めて奥さまとお会いした。

鼻にチューブこそ入れてたけど、顔色も良く、話もできる。本当に元気そうで「末期」のイメージとは程遠く拍子抜けした。それでも、これ、胃瘻で栄養入れてんだよ。良くないだろ。ステージⅣ、最初は量子線治療を受けようと思ったけど、転移してるからだめ。手術、放射線は適応なし。勘九郎知ってるだろ? できたとしても手術は五分五分。成功してもQOLはかなり下がるらしい。残るは抗がん剤だけ。それでも2ヶ月延命できるだけだからどうしようかと思ってる。

株の完璧な法則を見つけたんだよ。こんなの見つけちゃったからこうなったのかな。無念だよ。ほんとに母ちゃんと二人で泣いたよ。もう涙も枯れたよ。

...もうすぐ8時になる手前までいろいろと話をしてくれた。最後に抱きしめさせてもらったら、それまで気丈に話してたけど、震える声で「お前とくりのことは子供みたいに可愛かった」と言ってくれた。

7月26日、2011年3月1日から実に2年5ヶ月ぶりの再会だった。いいよと言ったけど、いやむしろ歩いた方がいいんだよ、と言って3階の病室から奥さまと2人で1階の玄関まで見送りに来てくれた。そこでもう一度ハグした。気が焦っていて、そのときに奥さまにハグし損ねたので、Mさんに今度行ったら僕の分までしといてとお願いした。

それから何度かメールやりとりしながら、自分も出張があったり、休暇前でバタバタとして、そのまま8月第3週目から夏休みに入った。今年の夏はとくに予定もなく、毎日が週末という感じで過ごしながら、古稀を迎える父に会いに美瑛まで1泊で行ったり、近所のプールに行ったり。そんな中、そうこうしているうちに退院して家に戻っていた竹沢さんの家に遊びに行った。抗がん剤治療はしない、ほぼ心に決めていた。竹沢さんらしく、本からネットからあらゆる情報を取って、家族、近所に呼び寄せたご両親にも納得してもらって決めた、来週正式に先生に言おうかと思ってると話してくれた。

当然医者は治療を勧めるけどさ、面白いんだよ、ベテランの看護師さんがちょろっとやって来て「何もしないって手もあるわよ」とぼそっと言って言って行ったりするんだ、という話が印象的だった。

そのときは、ステントを入れた人の平均寿命は45日なんだよな。でもそれは入れて治療した人の分しか統計がないから...それなら新記録を作ろうよ、そんな話をしてた。

23日に続いて次の週の29日、西武でお昼を買って、今度はくりと一緒に遊びに行った。くりも信じられないというくらい元気な様子だった。長男の企画で来月親子4代で鴨川に旅行に行んだと、楽しみにされていた。孫は可愛いって話もしてて、57歳でもそうなんだな、そうじゃないのはうちの親父くらいかって思って、竹沢さんでもそうなんだなってなんだか可笑しく思った。

9月に入って2度目の3連休、月曜日に早朝から会社に出て仕事をして、調子よく片付きそうだったので、思い切って、「今日の午後遊びに行ってもいい?」って電話してみた。何もないからいいよって快く受けてくれ、昼過ぎに会社を出て千葉へ向かった。前に遊びに行ったときに、田んぼの真ん中にあるスターバックスの話をしてくれたので、ぜひ連れてってと駅からそのままそのスタバに向かって、そこで3人でお茶を飲んだ。

先週は台風だったけど、無事鴨川にみんなで行けた、自分でも途中運転したりして、温泉は気持ちよかったと話してくれたけど、今週だったらちょっと無理だったかも知れない、先週でよかったよと言ってた。そのときは皮膚に転移していて、腕やお尻にこぶができて、背中にあるやつが背骨を圧迫して痛いと言っていた。写真撮るから帰りに家に寄って行ってよと言われたけど、また来るから、ってそのまま駅まで送ってもらって15時21分の電車に乗った。

それからしばらく、メールのやりとも数回、どうしてるかなってそろそろまた遊びに行こうかなって思っていると、Mさんが、奥さまからメールをもらったという連絡。「これから緩和病棟に入院します」とのこと。どうしようか、とやりとりをしながら、こういうときこそ会いに行こうよとその日に遊びに行った。

「ついにお迎えが来たよ」

「堀口、楽しく生きろよ」

そういいながら僕の顔に手を伸ばして、良く見せてくれ、今度来たらもう意識がないかもしれないからなと抱き寄せてくれた。「鎮痛剤だけは管を入れたけど、栄養も点滴もすべて断っちゃったんです」奥さまがそう話してくださった。確かに、一切の延命治療はしないと話してはいたけど、本当にそうしたんだな、竹沢さんらしい、大したもんだなと思いながらも、何も言えなかった。

この日、10月11日はお二人の33回目の結婚記念日だということだった。ほんの数ヶ月、いや、ほんの5回だけだったけど、お二人の仲のいい姿を拝見し、僕も18年後にこんな風に33周年を迎えられていたらいいなと、思った。

10月16日、もう一度遊びに行った。一日中寝ていることが多いと聞いていたけど、5分くらい話ができた。「死ぬってことがどういうことかわかったよ。こうやってだんだんしゃべれなくなるんだな」って言われたのはこの日だったと思う。

7月に竹沢さんの話を聞いてから、以前読んだ大津秀一先生の本を思い出し、8月から夏休みにかけて、片っ端から彼の本を読みあさった。そして死とは、生とは、緩和医療とは、延命治療とは...Amazonで勧められるままに大津先生以外の本も数冊取り寄せて読んで、僕も自分なりに結論らしきものを持つに到った。だから、この人は自分で自分をわかっているんだなと彼の言葉を自然に、冷静に受け止めることができていた。それでも、まだまだだ、そう思って「また来るね」と部屋を後にした。

入院した当初は、あまりにも早いと覚悟したけれど、痛みも管理してくれる状況下で、入院当初より状況がよくなったりしていた。「また来るね」と行って来た手前、約束を守りたいと思って、Mさんと相談しながら、翌週もう一度行くことにした。Oさんが一緒に行きたいと言うので、東京駅で待ち合わせ。そこへYさんも合流して3人で千葉へ。

その日は長男ご家族もいらしていて、初めて息子さん、そしてお孫さんにも会った。優しそうな息子さん、本当に可愛らしい女の子、そして奥さまの言うとおりの素敵なお嫁さんだった。

自分一人だとどうしても明るくなくなってしまうけど、3人で話すとまた空気が違う。Yさんはそういうところがさすがだな、以前からそうだったけど、自分と違って人間ができてるなとあらためて思った。帰りにお父様が「孫の力はすごいですね。あまり動けないのに、こうやって手を上げていました」と両手を上げる様子を話してくだった。確かにその日はすごく元気だったようだった。

翌日遊びに行ったMさんは、前日の疲れもあったのか、急に元気がない感じだったと教えてくれた。やはり孫の力だったんだな、そういうものなんだなと思った。なにより、その可愛いお孫さんがじぃじに本当に懐いているのが印象的だった。竹沢さんがそうだったんだ、って微笑ましく思えた。

...それから1週間後。


Mさんからのメールが届いた。いつかは来るとわかっていたけど...オフィスの窓に向かって、スカイツリーが見えるこの方向だろうとご挨拶をした。

10月31日 午後3時55分。竹沢さんは眠りにつかれた。

夜には奥さまからもメールをいただいた。俄に信じられないふわふわした気持ちだったけど、やはり現実なんだなと思えた。


入院される前後から口にしたものと言えば、水と、アイスクリームやプリンを一口、おかゆの上澄みを一口という感じのみだったとのこと。約3週間以上それだけで過ごされていたことになる。


人は必ず死ぬ。どれだけ権力があろうと、どれだけ金があろうと、これだけは誰も否定することができない、唯一絶対の真実。少し(いやかなりかも知れない)早かったのが残念だけど、僕は(勝手にだけど)彼は幸せな人生を過ごしたのではと思う。少なくとも、最後は幸せな時間だったのではと傍から見ていて思えた。愛する奥さまといつも一緒にいて、最後は家族に守られて眠りにつかれたのではと思うと、誰でもそんな風に迎えることができない現実を思うと、幸せだったのではと勝手ながら思える。

僕は竹沢さんに、仕事人生においてのみならず、最後の数ヶ月は、貴重な、そして素敵な時間を共有させてもらえた。そしていろいろなことに気付かせ、教えてもらった。

昨日、無宗教式でお通夜が行われた。参列者全員が献花し、顔を見て挨拶し、親族の代表として息子さんが挨拶をした。これも竹沢さんらしいさっぱりとした、心の通う式だった。

そして今日、告別式が行われた。僕は失礼したけれど、Mさんが最後まで一緒にいてくれて、昨日みんなで書いた寄せ書きに、みんなで一緒に取った写真を貼って、それから、釣り竿がわりに糸を括り付けた木を、竹沢さんに渡してくれたと聞いて、ありがたく思った。

Mさん、あの日電話をくれなかったら、こうして竹沢さんとの素敵な時間を過ごすことはできませんでした。あらためて、心から感謝申し上げます。Mさん、いろいろと本当にありがとう。

竹沢さん、こころからご冥福をお祈りします。また会える日を楽しみにしていますね!!





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