Schreib mal wieder!

自分の感じるままに...それがクレームと言われても

よろず相談

2007-01-11 23:00:19 | Thoughts
 
「ドラムって疲れるでしょ?」っていう質問に「跳ね返る力を利用してるからそんなこともないよ」と村上ポン太が雑誌のインタビューで答えているのを見たのを今でも憶えている。中学の頃の話だからもう20年以上前のこと。

最近自分はそれに近いことをやっていることに気付いた。それは相手の力を跳ね返して利用してるということ。

チームメンバーやマネージャー、他の部署のヘッドやらが、入れ替わり立代わりやってきては、相談やら、文句やら愚痴を言いに来るけれど、僕はそれを聴いているだけ。もちろんそれは心を込めて真摯に聴いて、心から同意する。そして、相手がしゃべり終わったらすかさず、「じゃぁどうしたらいいと思う?」「それは困りましたよね」「じゃぁ、僕がどうしたらいい?」「どうしましょうか?」と質問する。大抵の場合、相手が答えを持ってることがほとんどなので、「じゃぁそうしようよ、そうするためにはどうしたらいい?」ってさらに訊いて、道筋ができたころには、そのまま気分良く帰って行ってくれる。

別に自分のアイデアや意見を伝えているわけじゃ全然ない...そもそもそれぞれに自分の意見を言えるほど多岐にわたる専門知識なんて持ち合わせていない。もちろん、他の部署との交渉やらマネジメントに掛け合う必要があるところは立場上必要なことは自分がするけれど、それもそんなに多くはない。

いきつくところ、自分の仕事って「よろず相談」なんだなと思った。去年から散々悩んだけれど、こそこそが僕が今食えている源泉であることにやっと気付いた。

これは触媒にはなるけど、儲かるビジネスモデルを作り出せるスキルではない。そりゃぁコンサルとか、コーチとかそういう手もあるけれど、やっぱりこれだけで食うのは難しい。

それでも、これが僕の強みである以上、この関連で食えるならその道もいいなと思う。だから今の仕事を続けながら、その方面で食える力を磨いていって、だんだんそういう方向にシフトしていけたらいいなと思った。

飲んだり飯を食いながら、こういう話ができる友人がいることにあらためて感謝したい。

そして、デールで学んだこと、トーストマスターズで学んだこと、コーチングで学んだこと、審判を通して学んだこと、すべてがミックスされて自然に自分のスキルになっている。関わったものすべてに感謝したい。


神道主義

2006-10-28 23:58:18 | Thoughts
 ドイツでの9ヶ月間の研修から帰ってきて、僕は自分を神道主義者としようと決めた。帰国後ちょっと興味を持って神道について調べてみたところ、それが非常にオープンで、都合がよく、またシンプルですっきりしていると思ったからだ。

「...愛する俟子姉妹の思い出を話してくれる兄弟姉妹はこちらへ」

42で亡くなってしまった父の姉はクリスチャンだった。葬儀のミサで牧師さまは参列者にそう促した。そこで僕は、「いつもおいしいケーキを焼いてくれるやさしいおねーちゃんだった」と言いたかったが、そこには子供には重過ぎる、重苦しい空気があり、まだ小学生だった僕にはとても前に進み出てそう言うような勇気はなかった。

父方はクリスチャン一家だったこともあり(父は洗礼を受けただけで無神論者だが)、いくつかの機会を通してキリスト教の、今ここに生きる人が、いかに楽に生きることができるかを追求する考え方は、本当にすばらしいと思った。ただただお経を上げる葬儀とは違い、心休まるものがあると思った。

ただ、そのキリスト教の考え方はすばらしいと思うのだが、「信じるものは救われる(信じないものは救われない)」「他の宗教・神を認めない」という点で、僕は相容れないという気がして、外から眺めるのにとどめていた。

そんなキリスト教すら認めてしまう(というか認めかねないオープンさがある)神道は僕にとっては都合がいいことこの上ない。そんなとき、そのころたまたま出掛けた明治神宮に「崇敬会」なる組織があることを知り、年、数千円の会費で入れ、好きなときに昇殿参拝できる(そうすれば外国人を連れていけて便利だ)というのに惹かれて即入会した。

人間として神や自然に対する畏怖の念を忘れてはならないと思う。それはあくまで気持ちの問題であり、何を信じるとか、どこの信者であるというのは、形式的なことだと思っている。

にわか信者といわれるのも厭わないが、ただその形式として、参拝する作法については、外国人に説明できるくらいは知っているつもりだ。そう考えると、僕はどこかで教養として捉えている側面もあるようだ。罰が当たらないように気をつけねば。




大人の遊び

2006-09-24 23:51:53 | Thoughts
 
子供が見たいというのでウルトラマン映画を見てきた。ボウケンジャーなんかと一緒で子供だましの映画かと思いきや、実はこれは大人向けというより、いい大人たちが寄ってたかってやりたい放題で作った大人のロマン映画だった。

平たく言えば現在進行形のウルトラマンメビウスを、ウルトラ兄弟が助けるという話なのだが、20年前に現役で変身していた俳優たちが、白髪交じりで登場するのだ。これにはこの世代を一緒に生きた者にとっては、子供だましを超えて引き込まれる。みんなそれぞれかっこよく歳を取っている。そんな彼らが現役のルーキーを迎え、諭し、育てる。

エンドロールに登場するパーティーのシーンは、かつての出演者、すべてのウルトラマン勢ぞろいで、映画にかこつけて本気でパーティーを楽しんでいる。彼らの表情を見ればそれは誰の目にも明らかだ。一時代を築き上げた人たちが、掛け値なしで、道楽で作った映画。真っ暗闇の中のスクリーンで、大音量で見たというのを割り引いてもそういう映画だと思った。

子供が言うより先に、出演者の詳細が見たくて、パンフレットを買ってしまった。普段ウルトラマンにそれほどの感慨は感じないのだが、それでもそんな風に思える映画だった。

なぜ書くのか

2006-09-18 07:37:54 | Thoughts
ブログを書き始めたときは何人が読むんだろう、もしかしたらバカウケするかななどとアホなことを考えたこともあったが、書いていくうちになぜ書くのかという根源的な命題にぶち当たった。そのときにはいろいろ考えたが、結局行き当たった結論は「スピーチのネタ帳代わり」に書こうということ。

じゃぁなぜ公開するのか。それは公開することによって少しでも文章に緊張感が出るからというのもあるし、何よりすぐにコメントもらえるのが大きい。これは張り合いがある。

いずれにしても、後から読むと、あんなことをしたんだ、あんなことを考えてたんだと、ほとんど忘れていたことが書かれていることがあって面白い。また、そのときには何とも思わなかったコメントが、そういう意味だったのかとわかったりするのも大きな発見だったりする。

その意味では、自分の成長の記録として書き残すことも重要だなと思う。自分の中で、あったことを書くときには基本的に日付を合わせるようにしている。

というわけで、

9月 3日分 夏の終わり
9月10日分 夏の終わりⅡ
9月12日分 走る

Upしました。




悲観

2006-09-08 23:37:30 | Thoughts
唐突だが、僕はさいもんふみの書くストーリーが好きになれない。何故か? それはことごとく後ろ向きだと思えるからだ。

人間、悲劇のヒロイン・ヒーローになるのは簡単だ。悲劇をことさらに強調すれば同情・共感を得やすい。もちろん、それが好きで、それがいいと思っているひとを否定する気はまったくない。

でもさ、僕らの生きる命題って、与えられた環境をいかに楽しく、前向きにとらえて生きていけるかというところにあるんじゃない? 僕は不幸な環境の中、頑張ってる、カッコイイよねって傷口を舐め合っているのって、本当に幸せなの?って思える。

別れる辛さ、うまくいかない運命、生きることの辛さにフォーカスして生きるのもひとつの考え方だと思う。でも僕は、その中で楽しいことを見出し、楽しく充実した人生を生きたい。そういう目で見れば、まわりには楽しいことは山のように転がっている。それはまさに、ものごとをどう捉えるかという問題だと思う。

美談を美談としない

2006-08-28 23:51:05 | Thoughts

よくドラマなんかで最期の最期に「お前と一緒になれてよかった」なんて言うシーンがあって、まるで美談のように映し出されるが、僕はそれなら「どうして普段からそう言わないのか?」「言ってれば日々が美談でいっぱいじゃん」と思う。

「あの鬼のような先生が、卒業式の日に涙を流しながら『おまえはいい生徒だった』と言ってくれた」なんていうのも同様。鬼のように振舞うことにどういう教育効果があるのか...。

「安売りするのはもったいない」とかいう人もいるが、利子がつくわけでなし、それにほんとにちゃんと伝えられる瞬間を迎えられるかどうかなんてわからないんだから、今言えるときに言っとかないといけないのでは...それよりなにより、今を楽しく充実して過ごす方がよっぽど重要だ。

いわゆる「美談」を「美談」として受け入れたくはない。

部下

2006-08-23 23:31:11 | Thoughts
僕には部下はいない。そう、ひとりもいない。いるのは一緒に働くチームメンバーだけ。

そもそも部下という言葉には、単に仕事上のポジションの上下だけを差す以上の何かがあるような気がする。大きな日本企業で、基本的に年功序列の串が通っている環境下では部下=年次が下という方程式が成り立ち、その言葉が包含する意味も含めて妥当性があるような気がするが、僕の場合はまったく違う。

確かに僕は一緒に働くチームメンバーよりも、仕事上より大きな責任を負っている。しかし、だからといって、自分が偉いとか人間的にできているだなんて微塵も思わない。あくまで仕事上のポジションが上なだけであって、それ以上でも以下でもない。そもそも人生の大先輩を捕まえて、そんなことは言えない。

できることは、ただただ仕事の実力と、人間力で勝負することだけ。チームのリーダーとして、メンバーの納得感を高めてまとめていくだけ。

これは数少ない僕の信念のひとつ。

停電に思う

2006-08-14 23:23:32 | Thoughts
停電やら電車事故のたびに思う。あなたの仕事はそんなに重要なんですか?っと。僕は電車が遅れていたら、無理に乗らない。余裕があれば傍のスタバにでも入ってラッシュをやり過ごし、空いた電車に乗るようにする。だって...僕の仕事はさして重要ではないから。5分10分を争う仕事ではないから。

確かに、うちのチームの資金決済に携わるメンバーはどんなに大変でも電車に乗ってオフィスまで行かなければならない。そうしなければ、大げさではなくマーケットを大混乱に陥れる可能性があるからだ。

でも...必死になって閉まりかける扉をこじ開けて無理やりに乗ろうとしてる人たちを見ると、ほんとに一刻を争うの?と訊いてみたくなる。どうせサービス残業してるんでしょ? 30分や1時間遅れたからってどうってことないじゃん。それより、ほんとに行かなきゃいけない人を優先して乗せてあげたら?と思う。

ほぼ復旧に2時間20分、完全復旧に3時間かかったそうだ。その間に1万件以上の苦情・問い合わせがあったそうな...。

毎日1秒たりとも止めることなく送電し続けることこそ称えられるべきことで、クレーン船が主管送電線を切るという想定外のことが起きても、休みを返上して電車やタクシーを乗り継いで出社し、復旧に努めた東電の社員の方々はほめられることこそあれ、文句を言われる筋合いはないような気がする。

そもそも、当たり前ではない(くらいすごい)ことが、当たり前に捉えられてしまい、それに重度に依存している。

すでにこの当たり前を維持するために、どれだけの目に見えないコストがかかっていると思うのか。その上、こんな想定外のことまでカバーできるようにするために、さらにどれだけのコストがかかると思うのか。

何でもただだと思うなよ、って言いたい。その分電気料金が、運賃が、税金が上がっても文句は言えないよ、って思う。

何を正しいと信じて取り組むのか

2006-08-07 23:55:39 | Thoughts
今、全7回のLeadership Training for Managersなる研修を受講している。久しぶりに多岐にわたる他業種の方々とお話をする機会を持ち、最近の転職話とあいまって、自分がこれから何をしていくべきなのかを考えるいいきっかけになっている。

前からずっと感じていたが、今の仕事は正直面白みはない。お客様の顔が見えるわけでもないし、何かクリエーティブなことをしているわけでもないし、世の中のためになっているかというとそれも甚だ疑問。やっていることの半分は当局対策という決して前向きとはいえない仕事。究極的にはこれは納税者である国民のためにやっているはずなんだけど本当にそうなのか...コスト増を招いてより高いサービスを提供する結果になってしまうのではないのか...なんて感じる部分もある。

だからと言って、いやなことばかりかと言えばそんなことはない。年齢のわりにいろんなことを任せてもらえ、ある程度大きなチームをそれなりに動かすスキルも身についてきた。

今やりはじめた「当たり前プロジェクト」、これは面白そうだ。うまくいけばこのチーム、この支店の雰囲気を大きく変えることができそうだ。まずはこれを何としてでも成功させたい。これすらできなかったら、他のことを成功させるなんてできっこないから。

そして、これを成功させられたら、何かやりたいことを見つけて違うことをするというのを真剣に考えてもいいかなと思う。

何が幸せなのか。人それぞれだと思うが、毎日満員電車に揺られ、殺伐とした無機質な世界で過ごしてちょっとだけ多い対価を得ることに僕はとても意義を見出せない。じゃぁ、毎日首都高乗って車で通勤できるくらいまでいけばいいのか? それも何か違うような気がする。

金持ち父さんよろしく、不動産投資に精を出し、サラリーマン生活から卒業しようと日々努力している人たちもいる。確かに「経済的自由」を手に入れることができるかも知れない。それもどうなんだろう...。

田舎で暮らす人たちを見ると、そこには都会に比べればいろいろな不便こそあるが、そこには人間的な生活があるように「見える」。そこにすべてをシフトする勇気はないが、都会で稼ぐだけ稼いで休日にそんなものを「垣間見に」行くというのもどこか屈折してるような気がする。

たまたま本屋で、『風俗ミリオネア』という本を見た。当たり前のことをすれば当たり前に(合法的に)儲けられると書いてある。ほんとうにそのとおりだ。そこで求められるスキルは会社勤めで求められるスキルと大して変わらない。ほんの少しの大胆さと勇気さえあればできそうな話だ。でも...それをするのか。(誤解を避けるために書くが、それを業としている人たちを否定・批判する気は毛頭ない。むしろこの著者はすごいなと尊敬の念すら憶える)

とどのつまりは、何を正しいと思い、何に力を注ぐかだとは思う。正しいと信じて取り組めば、ナポレオン・ヒルの言うとおり、大抵のことはできるんだろう。だから、信じて取り組めることを探さなければならない。

このままここに残って、この仕事を続けるのも選択肢として残しつつ、いろいろ考えてみようと思う。たった一度の人生、誰しも楽しいと思えることをする権利はある。ただし、それはトータルにであって、今の瞬間だけでない。


勤勉さ

2006-08-06 23:46:06 | Thoughts
しばらく前のこと。相当迷ったが、パン焼き機、いわゆるホームベーカリーを購入した。パンばかりでなくバナナブレッドとかパウンドケーキの類も焼けるので、これはいいなと思ったのだが、ケーキの類はなかなか作ってくれない。

なぜかというと、粉をふるのがめんどくさいからだという。たしかに小さなケースに向かって、網を使って粉をふるうのはめんどくさい。手間もかかるし、こぼれるし効率が悪い。

「テレビでお料理の先生が、電動粉ふり器を使ってたのよね」

というので、それじゃぁ買おうよと言ったものの、なかなかその辺には売ってないということがわかった。ネットで検索してやっといくつか見つけたが、すべて輸入品。といっても値段は1500円とか1800円なのだが...。

日本人は勤勉な民族だ。それが故に、自分でやれることを人にやらせたり、機械にやらせるというのは抵抗があるように思える。

食器洗い機
乾燥機
お手伝いさん(掃除屋さん)
電動ミキサー

などなどもっと普及してもいいのではと思うものがそんなに売れていない。どちらかといえば、自分で、手でやるのか美徳であり、自分でやればできるものを他にやらせることに罪悪感がある。

世の中効率だけで割り切れるものではないとは思うが、ちょっとしたコストで楽になれるなら、もう少し利用してもいいんじゃない? という気もする。みんなが使うようになれば、そういうサービス・製品がより安くなるだろう。