フィギアスケート、終わってみて思うのは、メダルを狙って演技をするってどんな気持ちなんだろうということ。技術点と芸術点で評価・採点されるといえば聞こえはいいが、絶対的な距離や時間を競う競技と違って、基準が明らかに主観的であり曖昧だからだ。
当然それは、観衆がこの人の演技に一番感動したと思っても、場合によってはそれがそのまま順位に反映されるとは限らないことを意味する。そうなると、どういうモチベーションでその「競技」に向き合っているのか...。
僕は数年前にスピーチの全国大会に出場した。結果は選外だった。確かにあとでビデオを見ると、至らぬ点が多くあり、その結果も仕方がないと思ったが、当日それを聴いてくれていた身の回りの人のみならず、見ず知らずの人たちも、「よかった」「感動した」と声を掛けてくれたりしたので、しばらくの間は自分でその結果を受け入れ難かった。
順位をとれなかった原因のひとつに、僕のスピーチが序論・本論・結論という形になっておらず、構成点を取れなかったことがある。それは自分でも事前にわかっていたが、究極的には「何のために表現するのか」「誰のために話をするのか」という点を考えて、敢えて自分流に自分を表現した。だからこそ、「よかった」「感動した」と言ってくれる人たちがいたのだと思うし、無理に採点基準に合うように型にはめていけば、その良さが欠けてしまっていたと思う。
そう考えると、順位はあくまで結果論でしかないことになる。僕はそれ以来、悔しさから逃げる気持ちも半分、大会に出ることへのモチベーションが極端に低くなってしまった。いつか荒川選手がインタビューに答えて、いかに芸術的な演技をしても現在の採点基準では必ずしも勝てるわけではない、というようなことを話していたの見て、そんな自分の体験と重なったのを思い出す。
何をいまさらという感じだが、実は今日初めて荒川選手の滑りとともに他の選手の滑りの映像を見た。今回は会場の観衆の受け止め方と、採点の結果が一致していたようなのでリーズナブルだったんだと感じた。もちろん、研ぎ澄まされた採点基準を、ブレの少ない最高水準の審判員たちが採点するのだから、その辺のスピーチ大会とは比べるのも失礼な話だが、これがもしもそこにギャップがあったら、人生のすべて以上を賭けている彼女達にとって、悔やんでも悔やみきれないことになるだろう。
...こんなことを妻に話してみると「だからプロになる人がいるんじゃない」とさらりとかわされた。表現、芸術性だけを追求してプロスケーターとして、ステージに立つのだという。「でもね、やっぱり『元金メダリスト』なんかだと、1ステージ100万円とかを稼げるそうよ」とのこと。狭いスピーチの世界でも「全国大会で優勝したことがある」といえばそれなりの箔が付く。それは端的にわかりやすい単純な基準なのだ。世の中そんなもんなのかもしれない。
松山千春は「歌に順位などない」とベストテン出演を拒み続けていた。誰のため、何のためのスピーチなのか? それは形や形式ではなく、結局いかに効果的に、聴衆に自分の考えを伝えるのかということに尽きる。その意味で、僕がみたインタビューのとき、半ば「理不尽だ」と言わんばかりだった荒川選手がこうして1位になったことは、「無欲で勝った」という部分と、したたかに自分の信念と採点基準に折り合いをつけた結果だったことを知り、勝つものはやっぱり強いんだと感じた。
一方道端のスピーカーの僕は、形やルールにとらわれず、常に誰のために、何のために話すのか、そんなことを忘れることなくスピーチと向き合っていきたいと思った。そしてまた、もしも気が向いたら、大会という「大人のゲーム」にエントリーしてみようと思う。
当然それは、観衆がこの人の演技に一番感動したと思っても、場合によってはそれがそのまま順位に反映されるとは限らないことを意味する。そうなると、どういうモチベーションでその「競技」に向き合っているのか...。
僕は数年前にスピーチの全国大会に出場した。結果は選外だった。確かにあとでビデオを見ると、至らぬ点が多くあり、その結果も仕方がないと思ったが、当日それを聴いてくれていた身の回りの人のみならず、見ず知らずの人たちも、「よかった」「感動した」と声を掛けてくれたりしたので、しばらくの間は自分でその結果を受け入れ難かった。
順位をとれなかった原因のひとつに、僕のスピーチが序論・本論・結論という形になっておらず、構成点を取れなかったことがある。それは自分でも事前にわかっていたが、究極的には「何のために表現するのか」「誰のために話をするのか」という点を考えて、敢えて自分流に自分を表現した。だからこそ、「よかった」「感動した」と言ってくれる人たちがいたのだと思うし、無理に採点基準に合うように型にはめていけば、その良さが欠けてしまっていたと思う。
そう考えると、順位はあくまで結果論でしかないことになる。僕はそれ以来、悔しさから逃げる気持ちも半分、大会に出ることへのモチベーションが極端に低くなってしまった。いつか荒川選手がインタビューに答えて、いかに芸術的な演技をしても現在の採点基準では必ずしも勝てるわけではない、というようなことを話していたの見て、そんな自分の体験と重なったのを思い出す。
何をいまさらという感じだが、実は今日初めて荒川選手の滑りとともに他の選手の滑りの映像を見た。今回は会場の観衆の受け止め方と、採点の結果が一致していたようなのでリーズナブルだったんだと感じた。もちろん、研ぎ澄まされた採点基準を、ブレの少ない最高水準の審判員たちが採点するのだから、その辺のスピーチ大会とは比べるのも失礼な話だが、これがもしもそこにギャップがあったら、人生のすべて以上を賭けている彼女達にとって、悔やんでも悔やみきれないことになるだろう。
...こんなことを妻に話してみると「だからプロになる人がいるんじゃない」とさらりとかわされた。表現、芸術性だけを追求してプロスケーターとして、ステージに立つのだという。「でもね、やっぱり『元金メダリスト』なんかだと、1ステージ100万円とかを稼げるそうよ」とのこと。狭いスピーチの世界でも「全国大会で優勝したことがある」といえばそれなりの箔が付く。それは端的にわかりやすい単純な基準なのだ。世の中そんなもんなのかもしれない。
松山千春は「歌に順位などない」とベストテン出演を拒み続けていた。誰のため、何のためのスピーチなのか? それは形や形式ではなく、結局いかに効果的に、聴衆に自分の考えを伝えるのかということに尽きる。その意味で、僕がみたインタビューのとき、半ば「理不尽だ」と言わんばかりだった荒川選手がこうして1位になったことは、「無欲で勝った」という部分と、したたかに自分の信念と採点基準に折り合いをつけた結果だったことを知り、勝つものはやっぱり強いんだと感じた。
一方道端のスピーカーの僕は、形やルールにとらわれず、常に誰のために、何のために話すのか、そんなことを忘れることなくスピーチと向き合っていきたいと思った。そしてまた、もしも気が向いたら、大会という「大人のゲーム」にエントリーしてみようと思う。