弟がまだ小学生だったころ、通訳と称して歯医者に付いていったことがある。矯正大国のドイツでは、あごの骨格の割りに歯の数が多いと診られ、可哀想な弟はまともな歯を3本抜くことになってしまったのだ。
今思うと3本同時に抜こうという発想自体がすごい。かなり痛がっていたのを今でも覚えているが、それよりも、熊のような先生が、ペンチやらマイナスドライバーやらで力ずくで抜いた歯が、白く、根が見えていた部分の倍以上あるほど立派だったのがすごく印象的だった。健全な歯ってこんなにしっかりしてるんだ、子供ながらにすごいと思ったのを今でも鮮明に思い出せる。
2・3週間前に口を大きく開けると顎が痛くなってしまい歯医者を訪れると、残っている親知らずを抜きましょうということになった。日程を調整して連絡しますと言ったものの、しばらくすると痛みもなくなったので、逃げていたのだが、しつこい受付のおねーさんに根負けして、抜くことにした。今回は笑気ガスを使って楽にやりましょうとはいうものの、7年前に抜いたときにたいそう痛くて2週間の転職休みがパーになった記憶が頭から離れず、しばらく暗ーい気持ちでいた。
笑気ガスは面白かった。痛みや恐怖感をやわらげ...などといううたい文句だったが、ピークは全身がしびれるような感じで、何をされても無抵抗になってしまうようで逆に怖かった。痛かったら左手を上げてくださいなんて言われるものの、「動くわけねーだろ」っていうくらいの感じ。でも実際はそんな感覚にもかかわらず身体は自由に動く。「そうだ、抜いた歯をくれって言うのを忘れた...」遠ざかる感覚の中で、後の祭りと思ったものの、後から言えばいいんだと気が付くのも少し時間がかかった。
そんな中、さぁこれからと思って思わず構えると、「あっもうすぐ終わりますから、身体の力を抜いて楽にしてください」と言われすぐに終わってしまった。まともに上を向いている歯だったのもあって、2本抜くのはほんの数分だった。
術後、ぼーっとした感覚の中で、歯科助手が「親知らずお持ち帰りになられます?」というので、ここぞとばかりに激しく首を縦に振った。「あの歯が見れる」、そう思うと少しワクワクするような変な気持ちがした。
しかし、起き上がってもらった歯を見て、正直ショックだった。なんとボロいんだろう。根が弱々しい。広がっていない。何より弟のときのように白くもない。元気もない...。
立派な白い歯を抜いたところを子供に見せたら教育上よくないかな、なんて前日に考えたりしていたが、そんな気もまったく失せた。
痛み止めを飲んでいれば、少しも痛くもない。むしろ医者の言うとおり当たらなくなった分、噛み合わせがらくになったような気すらする。技術は進化したものだ。あるいは先生の腕がよかったのか。明日からもうまともな生活ができそうだ。あの暗い気持ちは杞憂に終わりそうだ。