赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』

すでに生起して戻ることのできない変化、重大な影響力をもつ変化でありながら一般には認識されていない変化について分析します。

国際平和は多様性を認めることから始まる

2015-04-27 00:00:00 | 政治見解
赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』(17)

国際平和は多様性を認めることから始まる





グローバル・スタンダードは存在しない

これまで大きな世界大戦を二度経ても国際社会に平和が訪れなかった理由は、国際社会がそれぞれの多様性を認めず、「一つの思想」や「一つの基準」に統一しようとする考えを「正義」としたことにあったからではないでしょうか。戦後70年経ったいまでもその傾向は続いているように思います。

とくに、戦後の国際社会は、アメリカとソ連という二大国によって支配されていたといっても過言ではありません。アメリカは自由主義と民主主義を世界に植えつけようとし、ソ連は社会主義を世界に植えつけようとしました。そのせめぎあいが代理戦争のような形になり、世界各地でさまざまな紛争が巻き起こりました。

ソ連が崩壊した後は、アメリカによるグローバル・スタンダードと称されるアメリカン・スタンダードを国際基準にしようとする動きがあらわになりました。しかし、それがイスラム社会や独裁政権下にある国家の反発を招き、テロリズムを活発化させる原因ともなっています。

一方、日本の援助などで急激に工業化した中国は、21世紀になって覇権主義の色を強め、「中国の基準」を国際社会に押し付けるようになりました。他国への経済的支援の形をとりながら、実質的には中国の利益のために開発を援助するもので、アジア・アフリカ諸国に対する新植民地主義といわれています。

現在、中国が主導するAIIB(アジアインフラ投資銀行)も、その本質が懸念されており【※1】、前途は多難【※2】と見られています。中国も、アメリカがイスラム社会で反発されている理由を学んで、対外政策の教訓としてはいかがでしょうか。

【※1】安倍総理はAIIBの本質を「悪い高利貸からお金を借りた企業は、その場しのぎとしても未来を失ってしまう」と述べた。

【※2】中国は覇権確立のため、当初は太平洋支配を狙っていたがアメリカによって阻止され、現在はシルクロード経由でユーラシア進出を目差しているが、ロシアがこれを阻もうとしている。



『共生』の意味

歴史を見るとわかるのですが、こうした「一つの思想」や「一つの基準」に統一しようとする考え方は、多様な人種や民族、宗教、慣習の違いが存在する国際社会には馴染みません。どの国も、どの人びとも反発するものでしかないのです。人には思想の自由があると同時に、考え方を強制されることを好みません。また、いかなる国も国家主権を蹂躙されることには抵抗するものなのです。

本年(2015)4月22日にインドネシア・ジャカルタで行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の60周年記念首脳会議において、安倍総理の「Unity in diversity ~共に平和と繁栄を築く」の演説内容【※3】には特に注目したいと思います。

【※3】【一部引用】:共に生きる――古来、アジア・アフリカから、多くの思想や宗教が生まれ、世界へと伝播していった。多様性を認め合う、寛容の精神は、私たちが誇るべき共有財産であります。その精神の下、戦後、日本の国際社会への復帰を後押ししてくれたのも、アジア、アフリカの友人たちでありました。この場を借りて、心から、感謝します。

私たちの国々は、政治体制も、経済発展レベルも、文化や社会の有り様も、多様です。しかし、60年前、スカルノ大統領は、各国の代表団に、こう呼び掛けました。私たちが結束している限り、多様性はなんらの障害にもならないはずだ、と。・・・



共生を阻むもの

ところで、「共生の思想」と相容れない考え方があります。意外なことかもしれませんが宗教の世界観です。例えばキリスト教です。

なぜ、キリスト教が共生の思想を阻むのかといえば、「キリスト教以外のすべての宗教は異端である」と排除するからです。これは、カトリックもプロテスタントでも例外ではありません。キリスト教徒同士では寛容の精神はあるものの、異教徒には極めて非寛容なのです。この精神が十字軍となって同じ預言者を戴くイスラム教世界との対立を生み、さらには、西欧列強の植民地主義の先兵となったのです。キリスト教にとっては、異教徒は、征服されて改宗されるべき存在にすぎなかったからです。

また、西欧の考え方の基本は、自分と他人を明確に峻別し、比較し、優劣を競い合うというものでした。「弱肉強食」、「優勝劣敗」という考え方が基本にあります。これが差別を生み出し、排他主義の元凶となり、さらには搾取と支配、抑圧の関係を正当化し、紛争を引き起こす要因になっていました。ただし、その事実を日本人は見失いがちになっています。日本は西欧に追いつくために西洋近代の発想を取り入れましたので、自と他の峻別を自明の理として捉えるようになっているからです。

したがって、国際社会を調和させ、人びとが真に共生するためには、これまでの国際秩序を形成してきた西欧社会が、物事の考え方を真っ先に変革しなければならないことは明らかです。また、西欧文明の支柱であるキリスト教も原点に立ち返って、「博愛と寛容」の宗教に立ち戻らねばならないのです。


異質を排除しないことが平和と調和をもたらす

不調和な世界は「自と他が違う」というところから始まります。従って、調和の世界に至るのは、不調和な世界と真逆の、「違う」ということを「認め合うこと」からはじめねばなりません。すなわち、「違う」ということに寛容であらねばならないのです。
聖徳太子の十七条憲法の第十条にこのような言葉があります。

(現代語訳):十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。・・・

この精神が「和を以って貴しとなす」の具体的な行動指針になるのではないでしょうか。

現在の国際社会は紛争や戦争の原因は、「違う」ということをもって、違う人を排除して「富」を独占しようとする自己中心主義、利己主義にあります。これは、アメリカを筆頭に、中国も、ロシアも、そしてEU諸国も、お隣の韓国も、そして、殆どの国がその考え方に毒されています。日本にもその考え方がないとはいえません。日本の左右両翼には排他主義が存在します。この考えがある限り、いつまでたっても世界が調和に至るはずもありません。中には、違うことを排除することが、愛国主義だと錯覚している国や人びとも存在します。真の愛国心とは、自分の国を愛するように他の国をも尊重する心なのです。「違う」ことを排除しないのです。

現代社会の「違う」ことをもって比較し殊更、優劣をつけようとする考え方は前世紀の遺物にしなければならないと思います。口先だけの世界平和ではなく、本気の世界平和を望むなら、まず私たち自身が「違う」ことを認め、寛容になっていくことからはじめねばならないのです。


ところで、4月29日には、安倍総理がアメリカ上下両院合同議会で演説を行います。アメリカ議会での演説は54年前の1951年、当時の池田勇人総理以来のことです。また、上下両院合同会議の演説は日本の歴代総理では初めてのことでもあります。アーミテージ元国防副長官も「これは米国人に対してだけの演説ではない。世界に向けた演説だ」と歴史的意義を語っています。

ここでは、バンドン会議における「共に生きる、共に立ち向かう、共に豊かになる」という演説をふまえた「日本の決意」が示され、それが国際社会の新しい価値観の提起になることを期待しています。



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