コラム(425): 「対立」という概念を捨てるべきとき
日本の政治が不毛なのは「対立」と言う概念に重きを置くから
「サントリー不買運動」という文字が目に入りました。在日のタレントばかりをCMで使うためその批判が大きくなっているのかと思いながら記事を検索していたら、いわゆる「アベガー」の続編で、桜を見る会前夜祭にサントリーが酒類を提供したことに対し違法寄付ではないのかという批判でした。
サントリーは政治家の資金集めのパーティに酒類の提供をよく行っていまので、この問題がサントリーにふりかかるのか、安倍元首相に向かうのか、それともこれだけで終わりになるのかはよくわかりませんが、メディアや野党にとっては久々の「アベガー」案件なので、参議院選まで引っ張りたいとの意向はあるようです。
しかし、いくら「アベガー」と叫んでも、安倍さん、いまは総理大臣でないのであまり効果がないように思います。
もともと、立憲民主党や共産党にしても勢いがよかったころは、安倍さんが総理在任中でした。安倍さんが総理大臣として強烈な光を出していたからこそ、その影として立憲民主党は存在し目立つことができたわけです。
しかし、光なくして影は存在することができないように、安倍さんが総理の座をおりてしまえば野党もその存在が目立たなくなりました。まさに野党は、安倍さんへの依存で成り立つことができていたと言えます。
同時に、野党の安倍さんへの依存が自民党にも有利な働きを促進しました。いつも国政選挙の最終日には秋葉原で自民党の決起集会が開かれますが、そこには「反安倍」の横断幕を掲げた集団も参加し、ヤジを飛ばしているのが恒例となっています。この「アベガー」の合唱がかえって自民党を団結させる力となっているのは事実で、自民党は無敵でした。
これを見ると、自民党も「アベガー」も互いに依存する「共依存」の関係だったと言えると思います。
しかし、現在、安倍さんはいち国会議員です。野党がいくら「アベガー」と叫んだところで、以前のような盛り上がりを見せることはできるはずもありません。したがって、野党も「アベガー」に代わる対立軸を見つけて、早く参議院議員選挙対策をしなければならないのですが、現職の岸田首相、安倍さんと違って「暖簾に腕押し」の柔構造なタイプだけに攻撃しにくいという特徴があるようです。
例えば30日の参議院予算委員会、立憲民主党は、今夏改選の蓮舫、小西洋之、有田芳生、森ゆうこの各氏を送り出しましたが、 「アベガー」という憎悪を前面に打ち出して罵詈雑言をくりだしていたこの四人衆も、安倍さんという対象が目の前にいないため、以前の迫力はありませんでした。
なかでも、目の前に敵を作って攻撃したくてたまらない小西氏は「岸田インフレと戦う。私たちの戦いを受けて立つか?」と岸田首相を挑発していましたが、岸田首相のぬらりくらりの答弁に軽くあしらわれていました。ネットでも、「なんだ、この質疑」、「そもそもインフレなの?」という冷ややかな反応が見受けられました。
この状況を見る限り、今夏の参議院選、対立という概念で存在意義を見出してきた立憲民主党には追い風が吹きそうには見えません。同様の手法をとってきた日本共産党も同じ運命をたどるように思います。戦後日本の政治を支えてきた「対立の概念」による与野党の共依存システムが終わりを迎えたのかもしれません。
「善悪二元論」から「善でもあり悪でもある」という考え方
いま私たちが使っているコンピューターは「0」と「1」の組み合わせで演算すると言われています。その影響か、私たちの考えも「善」か「悪」かの二元論に強く影響され、それ以外は許さないという風潮が顕著になってきて、以前のような「曖昧」という感覚はゆるされなくなってきました。
このせいで、必ずどちらかに白黒をつける、決着させることが世の風潮となってきました。これにより、人間関係は一層ぎすぎすし、対立の鮮明化によって社会が分断化されはじめています。
その典型が政治の世界で、与野党間の憎悪は半端ではありません。以前のような、論戦が終われば党派の垣根を超えて互いを友人と見なすという雰囲気はありません。あの福島瑞穂氏でさえ、自民党のある参議院議員(当時)をお父さんと呼んで尊敬していたのをこの目で見たことがあるくらいです。
現状の憎しみを伴った対立がある限り、危急存亡のとき、議員同士が腹を割って話すこともできず、国家としての団結を必要とするときにまとまることはできません。発想を根本的に変える必要がありそうです。
その考え方は、意外にも量子コンピューターの概念の普及に伴うのではないかと思います。量子コンピューターは、いまの「0」と「1」に加えて、「0でも1でもある」という概念を加えて演算するため、従来型のコンピューターでは容易に解くことのできない複雑な計算を驚異的な速さで解くことができるといわれています。
この概念に私たちの考え方が慣れ親しんだ時、いま私たちが捉われている二元論、すなわち「善」と「悪」と言う考え方に「善でもあり悪でもある」という考え方が加われば、物事を単純化して事態を悪化させることは少なくなるのではないかと思います。
要は、「善でもあり悪でもある」という考え方を受け入れることができれば、政治や各政党を絶対善や絶対悪と決めつけず、善でもあれば悪でもあると認識することによって、少なくとも憎しみから出発する政治は意味を失います。
私はいつも立憲民主党や日本共産党を批判していますが、ある面では彼らを消極的に評価しているのも事実です。なぜなら、彼らの思想性と私の思想性が大きく違うことに気づき、私の思想性の特徴を発見できるからです。ある意味、比較対象の存在はありがたいのです。
これは世間の人びとも同じで、様々な意見と比較して自分の考えの立場がどの辺に位置するのか判断する材料になります。その意味で自分と違った考え方を一方的に「悪」と決めつけるよりも「善でもあり悪でもある」と考えた方が心に余裕ができると思います。
いま、ある方がロシアの侵略をめぐって、自分の意見と違う人に一方的に自分の意見をまくし立てて評判をおとしていますが、他人の考えが「善でもあり悪でもある」ということに気が付けば、人を侮辱することなく穏やかに話せるのではないかと思います。
様々な考えに対して「善でもあり悪でもある」という観点に立てば、いま、何事も一方的に「自民党政治は悪」と決めつけるメディアや野党はやがて淘汰される運命にあると言わざるを得ません。
この考え方が広まるのは量子コンピューターの普及に合わせてあと10年ぐらいかかるかもしれませんが、10年後に本稿を見たら、意外に予言の書になっているかもしれません。
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