ちくわブログ

ちくわの夜明け

リマインダー

2005-11-05 02:15:52 | 映画 『延示』
かつてそこにあったものが今はもう存在しない、というのは、自分の頭の中にある風景が勝手に切り取られてゆくかのようで、かなり不愉快だし切ないことです。

風景が人に与える影響というのは、おそらく自分が思っている以上に強いもので、それは良くも悪くも殆どの動物が持つ心理だと思います。
また、人は景色や音楽にその思いを託し、記憶に留めておくことが多いようで、それらは記憶喚起としての役割を多分に担っています。

なにひとつ楽しくなかった高校時代、教室に至る階段のモルタル壁は、ひどく冷たく、すさんだものに感じられました。重い足取りはなお重くなり、青白い壁は拠り所の無さを冷酷に暗示していました。
歩道橋から見る繁華街の景色には、未来への展望をだぶらせ、ここではないどこかへと逃避する希望を見ていました。
あはは、ロマンチストだねー・・・・。

「あのころの風景」や「あのころの音楽」は自分を自分として確立させるための、とても重要な要素で、それだけにそれらをあかの他人に「侵害」されてしまう時、ちょっとやりきれない思いに捉われます。そういうのって、自分じゃどうにもならないことが多いだけにかなり悔しいものです。

廃墟というのは、いわばそれらの残骸のようなもので、そこに残る人々の思念のようなものが忌まわしいほどとり憑いていて、長い時間そこにいると雰囲気に飲み込まれて、多少ブルーになったりもします。
また、廃墟や懐かしい風景というものは、潜在意識にひそむ「あのころの風景」を呼び覚まし、そこに忘れかけていた何かを見ることさえあります。

延示』に出てくる廃墟にはそういった役割も担っているのですが、この中には既にこの世に存在しない廃墟も出てきます。

昨日、例の追加カットを撮影するためにあるロケ地を訪れました。そこでコンちきと冗談半分に「最近来てなかったから再開発されてたりしてな」と言っていたら、まさにその言葉どおり再開発のため解体されていました。
ここは廃墟というよりは、「ほとんど住人がいない団地」でした。建物がとても古く、老朽化した佇まいは既に無いものを見ているようで、存在そのものが見るものに「喚起」という働きかけをしてくるかのようでした。


しかし、古いものをただ懐かしみ、もう無くなったものを惜しがるのは簡単です。
無くなるものは必要ないから無くなったのであり、それには従わざるをえません。
悔しくて寂しいですが、それはいつの時代だって、何に対してでも必ずやってくる「時」です。
聞き分けがいいつもりなんて、さらさらするつもりもありませんが、それを認めない人間が今、「この時代」から享受しているものがあるのならば、それは都合のいい、ダダこねのようなものです。

また、懐かしい、喚起される何かというのは、いつ失われるのか分からない、不安定でギリギリの状態にあるからこそ、人に働きかける力が宿っているのだと思います。
そこに流れる「そこはかとなさ」や「あやうさ」は新しいものでは到底表現できるものではありません。


いつの時代もそうであるように、わたしが歳をとり老人になれば「懐かしい風景」は次々に失われていき、喚起すべきものも失われてゆくことでしょう。
それは社会からの孤立をも意味し、恐らくはそれこそが歳をとるということであり、常に老人が孤独である一因でもあるのではないか、と思います。

だからみなさん、おじいちゃん、おばあちゃんには優しくしましょうね。

なんだそれ。
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2 コメント

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不覚にも感動。 (少年)
2005-11-06 18:36:45
最後すごい納得してしまった。



個人的に、役者もロケ地も無しで撮影したことがかなり衝撃です。

関係ないか。すいません。
年寄りズム (赤目)
2005-11-07 01:13:42
優しくするにも何かと根拠のいる時代なんです。さみしいコッテす。



ロケは異次元とかあの辺でやりました。「何とかなるもんだなぁ」。そう思いました。意識して観ちゃイヤですよ。

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