岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ヨーロッパの森、日本の森、そしてヤドリギは…

2007-12-16 07:09:42 | Weblog
(今日の写真は、ヤドリギ科ヤドリギ属の寄生性の常緑樹であるヤドリギである。これは北海道から九州、朝鮮・中国に分布する。落葉の高木に寄生し、ヒレンジャクやキレンジャクなどの鳥によって、実は食べられて散布される。実は粘液を含んでおり、枝などに「粘って」定着する。発芽したヤドリギは、根を幹の中に食い込ませ、樹木から水分と養分を吸収しながら成長するのだ。
 この写真はヤドリギの花である。高木に寄生していることが多いので近くで見ることが出来ないが、あちこちと歩いていると、直ぐ目の前で咲いているものに出会うこともある。
 その一つがこれである。4月上旬、後長根沢の中部で出会ったものだ。もう一つある。それは赤倉登山道沿い標高600mほどの所である。何と、それは「ナナカマド」に寄生しているものであった。「ナナカマド」は固い木である。しかも、枝や幹に「皺」が少ない。付着することが難しいのでは考えていたが、植物の生命というのは人が思うほど「柔」ではなかった。
 いずれも、積雪がまだ、3mほどある時期に出会っている。雪が消えてしまうと「高く」なるので、発見も写真に撮ることも難しくなってしまうのである。枝の先端の黄色みがかった橙色のものが花である。この「茂み」の中には赤い実も見えるのだが、ヤドリギは実を着けながら花を咲かせるのである。) 

      ■■ヨーロッパの森、日本の森、そしてヤドリギは…■■

 ところで、今から2000数百年前のヨ-ロッパでは、オ-ク(カシ、ナラなどの総称)の巨木が「森の王者」として大地を覆っていたという。「ガリア戦記」には「ゲルマ-ニアには60日間歩いても端に到達できないような深い森があった。」とあるそうだ。
 そのような森で、人々が聖なる木として崇めたのは、単なる巨木ではなくヤドリギが寄生している木であった。
 秋から冬にかけて、森の木々は葉を全部落とし、死んでしまったようになる。ところがヤドリギだけは生き生きと緑の葉や赤い実をつけている。人々は葉や実の中には木々の生命が凝縮していると考えていた。
 そして、この聖なる木々の神、つまり森の神を司った者たちをドルイド僧と呼んだ。ドルイドとは「オ-クの知恵を持つ者」という意味であるそうだ。
 彼等は冬の終わりになると、聖なる巨木に登り、金の鎌でヤドリギの枝を切り取って、人々に分け与えた。この枝には解毒作用や子供を授ける力があると人々は考えていたのである。

 一方、ヤドリギは東洋でも古くから縁起のいい木とされていて、漢方では枝や葉を婦人病薬にしていたという事実もある。
 古代ヨ-ロッパの人々は木や動物の生命と人間の生命が同じであると考えていたのである。

 我々日本人もまた、狼や狐、それに蛇などの森に棲むの動物を、森の神とかその化身やお使いと見立て崇めてきたのである。このように伝統的に森に抱いてきた観念は、三峯神社に祀られる狼、この狼が変身した狐信仰であるお稲荷さま、社やご神体に張られるしめ繩もまた森の守護神である蛇の象徴的具体化として、今日なお我々の精神風土の中に見られるものである。
 また日本人は、その昔、「幹一本首ひとつ、枝一本腕ひとつ」などとして、木々を守ったことなどは、古代ヨ-ロッパ人の考え方と非常に似ていたのであった。
 ところが、森を支配する文明が、キリスト教の下に「聖なる森など存在しない。森の中に神などいない。
 神は唯一であり、その神と人間に奉仕するために森は存在するのだ。人間の幸福のためならば、森はいくら破壊してもかまわない」という主張のもとにヨ-ロッパを覆いつくしたのである。
 今あるヨ-ロッパの森は、ここ百数十年間に人の手で蘇えさせられたものと言われている。それでもやはり、蘇ることの出来ない地方もある。イギリスなどの山にはまったく森は見受けられないという。
 ドルイド僧たちはオ-クの巨木を、ヤドリギを、森を、動物を、森のこころを必死に守ろうとした。大宇宙も小宇宙もあるがものとして受け入れながら、森の神や大地母神に支えられる森の文明の存続を願った。
 しかし、キリスト教による宇宙の一元化は、広範に、しかも強力に進み、彼等は殺され、森は伐り開かれ、動物は裁判にかけられ、「豊かな生命をたたえる女性」は「魔女」として殺された。

 こうして、ヨ-ロッパの森の神は滅び、世界は唯一の神(一神教)の摂理の下に確立していったのである。
 私には、賢治とドルイド僧が重なって見えてくる。木々の、草花の持つ命が、動物の生命が、あるがままの色彩となって、光り輝く森を守ることが、森の民としての我々の現実的な存在意義なのではあるまいか。
 日本は「山と森と水」の国である。日本の風土は、すべてこの三つに支えられている。私たち日本人は、文化も産業もこの三つを基盤に作り上げてきた。
 農業を例にして、この関わり合いを少し考えてみよう。
 …山は雪を頂き、それを蓄えて水瓶として水田の「水」を供給してきた。森はこれまた、降った雨を一気に流すことをしない「水瓶」であった。それだけではない。秋に落とす葉は、水田の肥料になった。不足分の肥料は「都市部」、たとえば城下町人家から出る「糞尿」を当てた。「水」は恵みの何ものでもないが、時には洪水として荒れ狂った。だが、「水田」は高さはないが「広い」ダムだった。だから、洪水被害は最少に抑えられていた。
 水の流れである「川」や「沢」には多くの生きものがいた。森の木の葉や河畔の木々の葉が水中に落ちて、分解し、それがプランクトンの餌になる。そのプランクトンを餌とする魚が増える。そして、その魚を食べる大型の魚が増える。木々につく虫も魚の餌になる。多くの虫が川に落ちるのである。
 魚を目当てに鳥が集まる。鳥は糞を川に落とす。分解、餌、そして排泄、この循環が絶えることなく続いてきた。
 農民たちは、この自然の仕組みに、「自分たち」をとけ込ませることで「自然の恩恵」を受けてきた。
 江戸時代から、各藩の「名君藩主」の条件は「治水治山」が出来るか出来ないかにあったのである。「治水」とは水を治めるであり、「治山」とは山を、森を収めることである。

 頭上のヤドリギの群落は、いつまでも自分色に、明るく輝いていた。岩木山は、そしてこのミズナラの木立はやはり、イ-ハト-ブの森である。
 おもしろいことに(私は許し難いと思うが)、ヨ-ロッパでは今でも「クリスマス」の飾りに、異教の民が、森の命として崇めたヤドリギの枝、葉、それに実を使うそうである。

ヤドリギの森

2007-12-15 05:16:52 | Weblog
(今日の写真は赤い実をつけているヤドリギである。写真が小さいので、赤い実は見えないかも知れない。ただ、雪の「帽子」を戴いていることは分かるだろう。私はこの時、行動を中止して、じっくりと眺めたものだ。厳冬、寒気、凍てつく中の生命に触れた思いだった。これは百沢登山道尾根の南西の端、毒蛇沢の左岸近くで出会ったものだ。
 ところで、ここ数ヶ月、山行を共にしているTさんが、明日16日に百沢尾根を登り、焼け止り小屋まで行くそうだ。
 誘われたのだが、実は、明日はNHK文化センター講座・津軽富士・岩木山開講の日で講師を務めなければいけないので残念ながら同行は出来ない。一緒に行けばきっとこの写真の「ヤドリギ」に出会えるはずである。
 明日の講座の主題は「岩木山の気象」である。講座では「雪崩」についても触れる。この時季は、雪が「落ち着いていない」つまり、「締まっていない」ので、非常に危険なのだ。
 Tさん、気をつけてほしい場所は、「石切沢から尾根に取りつくところ」、「ハナコグリの斜面」、ここは樹木のあるところを探しながら登ってほしい。
 「姥石から焼け止り小屋までは、徹底して尾根の中央部を登高」してほしい。決して左右の沢筋には近づかないことが肝要だ。
 また、スキーを踏み込んだ時、若干固い感触があれば、しかも「割れる」感触を覚えたら、そこには「弱層」があるので、静かに引き返してほしいのである。
 出かける前に、是非、このブログの12月1日から4回シリーズで掲載した「十勝岳連峰・上ホロカメットク山で発生した雪崩とその事故について考える」を読んで下さい。出来れば、その前に数日にわたって掲載した「私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る」も読んでから出かけてもらえると「雪崩」を回避する手だてのようなものを理解出来るかも知れません。
「ヤドリギについての解説は本文を参照のこと」)

               ■■ ヤドリギの森 ■■

 12月も中旬、ちょうど今頃の岩木山登山は、スキーを使うにしろ、ワカンを使うにしろ、決して「楽」な登山ではない。それは積雪の最下層が凍結していなし、圧雪状態になっていないからである。
 冬枯れの木立に向かって、林縁をひっそりと行く。散り残っている柏の大柄な葉ががさがさと鳴り、まばらな尾花の植え込みがゆっくりと大きく揺れる。
 それを合図にでもしたかのように灰色空の一画が少しだけ開かれ、陽光が斜めに射し込んで、ミズナラの木々を照らす。
 思わず目をみはる。吹き抜けていく風だけを受ける枝に、まりもに紛う、こんもりとした黄緑のかたまりが浮かんでいる。
 近づいて見る。枝々に取りついたヤドリギの群落は明るく輝いていた。その空間に浮かぶ植え込みは頭にわずか雪を戴いて、赤い実を命として全方向にほとばしらせている。そこは冬枯れの中の楽園、生き物の群れ集うところだ。

 尾が短く小太りで長い冠羽を持った冬鳥のキレンジャクが、間もなく群れをなしてやって来るだろう。それから、かぼそい声でちりちりと鳴きながら、この実を食べるはずだ。
 そして、種子をそのまま糞として排泄する。この実には粘り気があるから、糞の中の種子は垂れ下がって、ほかの木の枝や幹に付着し、発芽するのである。
 そして、そこもまた、ここ同様に、ひと季節早い緑の楽園になることだろう。
 これはアカミヤドリギである。11月から12月にかけて、豆粒ほどの実は淡い赤色に熟し、粘りのある液汁を出す。
 花は小さな黄色で、枝先の黄緑の葉の間に、ほかの木々がまだ葉をつけない4月頃に咲くのだ。
 宿を提供する樹木は、岩木山ではブナ、ナナカマド、ミズナラ、そして、クリ、サクラなどだ。追子森登山道途中にある「水道施設」の周囲には高木のブナがあり、それらは沢山の「ヤドリギ」に「宿」を提供している。「ヤドリギ」の観察は11月から3月頃までが最適である。
 何故ならば、彼女たちは「冬」も枯れないからである。その上、宿を提供してくれる「樹木」が葉を落としてくれるのでよく目立つからである。ここのヤドリギの集団林は見事といっていい。だが、残念ながら、余りの高木ゆえに「ヤドリギ」は遠目になってしまい「赤い実」も小さな「黄色」の花も見えない。
 岳登山道のブナ林に入る手前の雑木林のミズナラに多く見られる。こちらはそれほど高木でないので、実を確認することは可能だ。
 ヤドリギを追うと、キレンジャクのこの地域における渡りの道が分かろうというものだ。

 上空の灰色の一画から少しだけ、青空がのぞいたりする。明るく輝くヤドリギの群落を眺めながら、ふと…(はんの木とまばゆい雲のアルコ-ル/あすこにやどりぎの黄金のゴ-ルが/さめざめとしてひかってもいい )…という賢治の「冬と銀河ステ-ション」の一節を思った。
 ハンノキは高さが20mにもなる高木である。しかし、別にミズナラでも不都合はない。まさに目の前の風物が賢治の世界に重なる。
 青空がのぞく雲は、実に冷たいまぶしさを持っている。これが、さわやかさとエチルアルコ-ルの清涼感を連想させる。さらに澄んだ青空の冷気をも感じさせるのだ。 さめざめとは、一般的には涙を流して泣く様子であろうが、ここではしっとりと輝いていることと理解しよう。
 理想的な未来に向かう物の象徴として用いられる賢治の「鉄道」は、軽快に黄金に輝くヤドリギが示すゴ-ルを目指す。黄緑色の小さな花をつけたヤドリギは、暗うつな冬日の中の黄金色に輝く未来の目的地にほかならない。
 そこは賢治の言うイ-ハト-ブなのであろう。イ-ハト-ブは「あらゆることが可能」で「罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている」ところであるとされている。
 イ-ハト-ブでは輝くことが条件であり「かがやいて」いることは、そのものが望まれる形で存在していることの証しなのだ。イ-ハト-ブのイメ-ジは、賢治が生まれ育った実際の岩手という地方とその現実を背景としていることに、疑いの余地はない。

 そうなると、…いま、私が見ている岩木山麓のヤドリギの森も、イ-ハト-ブに違いない。いや、私だけではあるまい。この津軽の地で、岩木山を原風景として、日々を営んできた者すべてにとって、岩木山自体が、イ-ハト-ブであるはずなのだ。
 賢治の見たヤドリギは、冬の終わりの3月頃、葉の出る前に穂状花序で、黄緑色の花をまばらにつけるホザキヤドリギであろう。主にハンノキに寄生し、花は尾状に垂れ下がり、一緒に前年の果穂が残っていたりもする。
 ハンノキといえば「ミズバショウ沼」の畔沿いに生えている「ヤチハンノキ」にも、ヤドリギは着いている。私は、空中に浮かんで光っているヤドリギの群落を見詰めながら、またヤドリギのことを思った。      

津軽への土着の感性を育み伝えよう

2007-12-14 05:20:39 | Weblog
(今日の写真、ここまで近づくと、岩木山は単独峰にはもはや見えない。鰺ヶ沢町長平からさらに西に移動したところから撮影したものだ。
 弘前から見える鳥海山、岩木山、巌鬼山3山の形がこのように変貌する。ただし、鳥海山は見えない。見えているのはその南稜である。巌鬼山もまた弘前から見るほど、はっきりはしていない。コメツガに被われた山稜の右奥に白く尖って見えるのが巌鬼である。
 弘前の人は特に自分たちが見ている岩木山の「格好」を「表」と言いたがる。そして、鰺ヶ沢から見えるものを「裏」という。だが、これは間違いだ。山に「表」も「裏」もない。「円錐形」に裏表がないのと同じだ。
 私は山に対してこの「裏表」という表現をしたくない。福島県の「裏磐梯(磐梯山)」、岩手県の「裏岩手(岩手山)」という「言いざま」には、「表」を見て暮らしている人たちの「優越感」と「裏側」を見て暮らしたり、そこに住んでいる者に対する「蔑視」の思いが感じられて嫌だからである。
 写真中央に見える「バリカン」跡がスキー場ゲレンデだ。よくも、伐りに伐ったものだと思う。そこには、岩木山を「自然」ととらえる思想がない。「樹木の伐採」が、岩木山が保持し続けてきた「自然生態系」を「壊して」しまうという知的な理解がない。
 まるで、岩木山に対する優しい思慕も岩木山から学ぶことも、また、岩木山を知的に情緒的にとらえることも出来ない野蛮人の行為のようだ。
 いや待てよ。「野蛮」の対意語は「文明」だ。「原始的で野蛮な人」と呼ばれるものたちは、決して「自然」を壊すことはしなかった。それは、自分たちが「自然」によって生かされていることを「理解」していたからである。
 そうか、「自然破壊」はすべてが、偉い「文明」人の所業なのか。えっ!そうなれば「スキー」は「文明人」の乗り物ですか。)

        ■■ 津軽への土着の感性を育み伝えよう ■■

 今、岩木山の見えるこの津軽地方で、石牟礼道子が母とした「麦踏み作業」のようなことをしている母子はいるだろうか。
 林檎や稲作農家で地に足をつけ、原風景を子に伝えている親はいるだろうか。数は少ないがきっといるはずである。農業に従事する人が、どんどんと減っているのも、原風景を伝えようとする母子や父子が少なくなっていることに因るのだろう。
 国や地方自治体の農業関係予算は、「農村公園」とか「農免道路」とか「圃場整備」とか、いわゆる「土木工事」や「箱物」といわれる「物」に使われている。何とか「補助金」としても使われているらしいが、いずれも「物質」であり、「金銭」である。
 これらが「農村振興」という名の下に、大手を振っている。
 見方を変えると、そこには「農民や農村を精神的に、育てて、救済していく」という施策は殆どない。まったく「農民がバカにされた話し」である。国を含めた行政は「農民」を人格ある人間というよりは、「物質や金」と考えている。これほど「農民の自尊心」を傷つけることがあろうか。だが、「自尊心」に傷がつくという精神的な苦痛や苦悩を「農民」自体が、あまり持っていないように見えてしようがないのだ。

 「農村振興」とは「農村に暮らし、人情や自然の織りなす景観に愛着」を持ち、「農業に誇りをもてること」に他ならない。行政が「農村に暮らす人の原風景」を保証し、「農業に誇りをもてること」を後押しすることではないのか。真の「農村振興」には、「農村公園」も「農免道路」も不要なのである。

 また、農民たち以外の多くの住人の親や祖父母は子や孫たちに、土の命、それに育まれる植物の息吹き、それらとともに生きる虫や鳥たち、渡る風、そして空間に佇立し、屹立している岩木高嶺、それらと「一体となった生命観を受け止めるための感性」を育ませているだろうか。テレビ漬けの生活からは、この「感性」は生まれないし、育たない。
 もう一度言おう。感性とは優しさであり、共感しあえる能力である。

この「一体となった生命観」こそが原風景である。この生命観を感得するような日々を重ねる中で脳裏には、いや網膜には剥がれ落ちることがない原風景が焼き付けられていくのだろう。
 感性を磨かない者は、夜な夜なイルミネーション紛いに輝くスキー場のライトに、きっと違和感を持たないだろう。「なんぼ綺麗だば」と思って見ているのであれば、それはもはや、「感性」などないに等しいのだ。
 なぜならば、「輝くライトは自然の生き物には不要であるのだ」との思いも持てず、つまり、「自分以外の生き物を思いやることが出来ない」からである。
 弘前市内の「カラス」がなぜ、夜になると弘前公園に集まるのだろうか。その理由の一つは「町中」が明るすぎるからではないか。つまり、「輝くライトは自然の生き物には不要であるのだ」ということだ。「カラス」の持つ体内時計は、自然の日照や明るさに反応して動くのだろう。
 市内でようやく探し当てた「暗いねぐら」も、この時季になると毎年、壕沿いの樹木に小さな「電球」がつけられて、明るく点滅する。
 こんなことを、弘前市がやっているのだから、市民の中に「一体となった生命観」としての原風景を育む「感性」は育たないのだ。
 このままだと「カラス」にとっては「公園」も安心して一泊する場所ではなくなるだろう。「カラス」を寄せ付けない対策にはいいかも知れない。「公園全体をイルミネーションで飾れ」などという市議会議員や市の職員が出てこないとも限らないから、余り言わないことにしよう。何だか、やっていることがすべて、どこかでやっていることの「真似」に見えてしようがない。
 親や大人という現在世代には、自分の感性を磨くと同時に、年少者や子供の感性を育てる責務があるだろう。農村に暮らす人の「原風景」は、そこに暮らす人でなければ継承できない。
 「原風景」が消滅する時、それは農村が滅亡する時でもある。都市部からはすでに、感性を育む「原風景」が消えている。「金」との対価だけを求める価値基準では「原風景」の価値は見えないし、分からない。「原風景」は「感性」に支えられているからである。
 既に孫を持っている方々は、孫と一緒に山を歩き、農作業をし、土や流れる川、渡る風、輝く天空、萌える緑、獣や鳥の囁きなどと触れあいを取り戻さなくてはいけない。その中で自己の原風景が孫に生かされ、孫の感性がより磨かれていくのである。
「原風景の永遠性」はここにある。これが保持・継続されていくならば「自然破壊という暴挙」は起こりえないであろう。

   ■■ 「国民の食糧と健康を守る津軽地区連絡会」から学習会のお知らせ ■■

         ※ 食品分析の現場からのリポート ※
   講師:「農民連」食品分析センター研究室長 八田純人さん
  ※激安米はなぜ安い?農民連食品分析センター調べだと、それは2~4割も異物が混入されているからです。
  ※それでは「異物」とは何でしょう。そんなことに興味はありませんか?
  ※危ないのは中国産だけでありませんよ。各国の輸入食品から残留農薬、添加物など違反事例がゾロゾロと出てきています。
  ※コンビニの「カット野菜サラダ」はどうしてあんなに元気なの?

 明日のことで申し訳ありません。自然保護と農村、食品とは切っても切れない関係にあります。学習会に参加しましょう。

        日 時:12月15日(土)午後2時~5時
   場 所: 津軽保健生協本部2階ホール(コープあおもリ和徳店2F)
   学習会は、午後2時~3時30分まで :資料代300円 交流会費1000円
 :収穫祭(交流会)は、午後3時40分~5時頃まで(学習会の後は地元で採れた野菜と生協のめぐみ鳥、ジャガ芋餅が入った鍋と恒例の蒸し鶏を食べながら交流します。

原風景は親から子へ、そして孫へ

2007-12-13 06:33:34 | Weblog
(今日の写真、私はどこから、どこに立って岩木山を写したのか。手前の平坦で広く木々のまったくないところは「沼」である。だから、夏であれば「船」を浮かべてでなければ撮れない写真なのである。これは3月に写したものだ。場所を明かそう。「黒坊沼(くろんぼうぬま)」である。
 ここは、聞くところによると「私有地」なのだそうだ。この上部にある「二子沼」を含めて岩木山には「沼」が2ヶ所しかない。もちろんもっと下部にあるものを入れると数は増えるがある程度の標高(400m)より「高い」場所と限定すれば、この「黒坊沼」と「二子沼」しかない。いずれも噴火と土石流による「堰き止め湖」である。岩木山の生成原因や生物の多様性を残している貴重な場所である。このような場所がどのような事情で「個人所有・私有地」となっているのか、不思議に思うと同時に、何と「もったいない」という思いを持つのである。
 国や県が所有して「厳重」に管理することが出来なかったことに悔しい思いすら持つのだ。この「黒坊沼」も向かって左右が「畑地」となっている。畑地に「撒かれる」肥料や農薬の影響がないとは言い切れない。また、周囲の樹木の伐採も「黒坊沼」の生態系に「破壊」を迫っているかも知れない。
 写真の説明をしよう。手前の樹木の生えている山が寄生火山の笹森山だ。気高く聳え、白く輝くのが山頂部である。右にたどって鞍部の見えるのが鳥の海噴火口の外輪岩稜であり、そのとなりに見えるのが鳥海山南稜の岩稜である。)

              ■■ 豊かな感性を磨く ■■

『母が言う。「麦踏みするか、いっしょに。」そう言われると子供というものはもう、いっぱしの役に立つと思いこむものだ。おさない麦の芽を地表をすってゆく風が震わせていた。丘の下を含めて麦畑の全景が、そのとき目にはいった。鮮烈な景色だった。美しく耕され、ととのえられた畝の中に、筋をつくってなだらかな曲線を描いている麦の芽の緑。わたしは神々しい命題を与えられた子供のような気持ちだった。
 見上げると、ゆるやかな半円になった畑が稜線を描いている。その縁はけむるような黄金色だった。麦の葉先はとがるでもなく曲がるでもなくまじわりあって、一本一本の葉先に、霧を含んだような夕陽色の虹をつけていた。わたしは何かに深く触れたような気持ちになった。たとえて言えば、水の脈から今まさに生まれようとしている無数のおさない穀霊たちに逢っているような、そんな感じだった。それを地表に導き出しているのは沈んでゆく陽いさまにちがいなかった。光る霧はその葉先からかき失せていた。しかし、今ほんの一瞬の間に、何か壮大な、交霊のようなことが行われたのではないか。麦の芽はさっきよりしっとりした初々しい緑になっていた。
 三年前、丘の畑にのぼってみた。何十年ぶりだったろうか。耕された大地の格調。今はいずこかに去ったそのことをどう伝えられるだろうか。』(注:かなり中略してある)

長い引用になったが、これは誰の文章だろう。じっくりと味わって欲しいと思う。何という優しさであろう。その上、なんと豊かな感性であろう。何という自分が生まれ育った「自然との共感能力」であろうか。
 いつだったか、ある登山好きの女性に、「あなたは登山をとおしてどのようなことを学ぼうとしているのか」と訊いたことがあった。その女性は「いつまでも感動できる感性を磨くこと」だと答えてくれたのである。これは、自然と関わりを持とうとする人にとっては、すごく重要なことであろう。

「感性を磨くこと」を大切にするならば、この感性とは「共感能力である」と理解することと「他の生命と自己を等価ととらえること」に、心がけなければならないだろう。
 冒頭に紹介したこの文章に描かれている世界は「生きとし生けるものが照応し、交感している世界」であって、そこでは人間は他の生命と入り交じった一つの存在に過ぎないものなのである。
 大地の中で…麦、畝、霧、虹、水脈、穀霊、人は横並びで同等なのである。海…海水、魚、海草、それに漁民は同等なのである。

         ■■ 「丘の上の麦畑」ー水俣への土着の感性 ■■
 
 この文章は、自分たちを絶対視・特別視して、他の人や他の生命を無視して有機水銀を流し続けて海を死なせ、漁民を死に追いやった「チッソ」首脳部に対して「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば呑んでもらおう。上から順々に四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。」と言う漁民に与して、戦った女性、石牟礼道子(いしむれみちこ)の作品「丘の上の麦畑」からの抜粋引用である。
 石牟礼道子は「自然死でない場合、下層民たちの大部分の死はなぶり殺しであって法の下の平等はありえない。補償金などで命はあがなえない。命は絶対であって相対的な別な価値で相殺(そうさい)することは出来ない。だから眼には眼をなのだ。」と同態復讐法という倫理までを持ち出して、あの公害病の原点と言われる水俣病に激しく抗(あらが)い、患者には深い慈しみを持って戦ったのである。

 一見、執念(しゅうね)く強靱(きょうじん)というイメージだけが強調される石牟礼道子である。
 ところが、彼女の原風景はここ、「母が言う。「麦踏みするか、いっしょに。…」という文章」にあったのだ。それは優しさの何ものでもない。
 それは彼女の「苦海浄土ーわが水俣病」「天の魚」「流民の都」「不知火海ー水俣・終りなきたたかい」などの作品に脈々と流れ、作品を確固たるものにしている。

私は似非(えせ)自然愛好者か(?)

2007-12-12 05:25:40 | Weblog
(今日の写真だが、どこから「岩木山のどこ」を見て写したかが直ぐに分かる人はエライ。 ここからだと、鰺ヶ沢スキー場のゲレンデが2本しか見えない。真ん中に逆U字型に、木々が伐採されている場所がそうだ。
 「コクド鰺ヶ沢スキー場」が、最後の最後まで「上級者のニーズ」に応えるために「拡張する」といって開設・敷設したところである。本気で上級者の要望に応えるつもりならば、写真中央に見える大鳴沢右岸尾根の、赤倉稜線から続く急峻な痩せ尾根に造ればよかっただろう。
 しかし、そこだったら、ホンモノの「上級者」しか滑れることが不可能だ。だから、営業的に採算があわなかった。というよりも「上級者のニーズ」とは最初から真っ赤な「ウソ」だった。
 その実は、わずか数カ国、参加者も10名に満たない冬季アジア競技大会「モーグルスキー競技場」として使うための「拡張」であった。今でも、何故、正直に「冬季アジア競技大会」のために使うので拡張すると言わなかったのか、不思議でならない。
 一応、「不思議」と私は今、書いているが、「隠さなければいけない事情」があったからである。青森県の「冬季アジア競技大会」に対する予算は、当初の数億円から48億円に膨らんだ。大騒ぎになった。「冬季アジア競技大会」開催反対の声は多く、さらに強くなった。
 そんな中、青森県と鰺ヶ沢スキー場は「ニホンザリガニ」や「クマゲラ」生息を無視し、さらに、鰺ヶ沢町民たちの「水源涵養保安林」伐採反対の声を聞かないで、「慌てふためいて」工事を強行した。本会はその時「工事差し止め請求」の訴訟行動に出た。
 「拡張工事」が目的だったのだ。それをする中で「金」を動かすことが目的だったのである。これ以上、世論として「反対」が大きく、強くなる前に、「工事」を完遂させる必要が「キムラ」と「コクド」の密約の中にあったのだ。
 だから、「工事」が終わってしまえば「後」はどうなろうと知ったことではない。「上級者のニーズ」も「冬季アジア競技大会」も知ったことか。すべて、「想定内」のことだったのである。
 そこにはクマゲラがいた。かれらの「採餌木」があった。「糞」を拾い「DNA」検査をしたら、明らかに本州産「クマゲラ」であることが分かったが、県はそれを認めなかった。 そこには「クマ」の爪痕を幹に残すブナの大木がいっぱいあった。そこは「クマ」の住む森だった。そのブナも2000本以上が伐られてしまった。
 町史に、大事に育ててきたと明記されている「ヒノキ」もあった。年輪が250もある「ヒノキ」がどんどん伐られた。
 大きな岩を13本のブナが抱きかかえるように生えていた。私たちはそれを「岩抱き13本ブナ」と名付けて、せめて、これだけは伐らないで欲しいと「懇願」したが、まるで、「反対者」への見せしめのように、「真っ先」に伐られてしまった。あの「岩抱き13本ブナ」は相当に「観光価値」のある資源であったと思うが、「鰺ヶ沢町」はそれを失った。 このことは「鰺ヶ沢町」の将来を暗示しているように思えてならなかった。
 写真では見えないが、ここから西の尾根にはさらに11本のゲレンデがある。寄生火山である笹森山や鍋森山を含めた複雑な地形が、素晴らしい自然景観を醸し出していたところであった。
 この麓から眺めて、心休まる場所に、まるで「頭にバリカンを入れた」ような切れ込みを造っておいて、「ゲレンデから眺める日本海が美しいスキー場」などと宣伝文句で言っているのだから、鰺ヶ沢町の方々、世話がないですよ。まるであほくさい話しだ。
 最近はこの「ゲレンデ」を滑る者は殆どいない。これも「コクド」に計画には入っていた「想定通り」のこと、けっして「想定外」なことではない。
 「コクド、鰺ヶ沢スキー場」は、かかった費用を当該自治体の青森県や鰺ヶ沢町に、すべて押しつけて、さっさと出て行ってしまった。
 鰺ヶ沢の町長さん、怒って下さい。スキー場のアクセス道路に町税を何億円使ったか。「ホテル」の水道施設のために何億円使ったか、固定資産税を割安に、または免除にした「損失」は如何ほどだったか。そして、町に「何が」残ったのか。
 あなた方が好きな言葉である「町の活性化」はなされたか。答えはすべて、「負(ふ)」であろう。それでも、今年の春の選挙で、町民はあなたを選んだ。まるで底なしだ。)

         ■■ 私は似非(えせ)自然愛好者か(?) ■■

あなたも私も自然愛好者だとしよう。そこで、「山小屋」で生活することについて考えてみたい。
 山小屋では「薪(たきぎ)」で火を燃やして、暖をとり、炊事をするだろう。化石燃料を使わないから、この行為だけを取り上げると「自然と触れあうこと」だと考えられないこともない。
 だが、もし電気を引くことができたらどうするだろう。引くだろうなあ。電気が引けなくても、携帯電話は持つだろう。どこかで人工的な都市生活との接点を保とうとするはずだ。
 果たして、食糧は自給出来るのか。出来ないから、おそらく、町のスーパーマーケットで食料を買い込むことだろう。「生鮮食品」には「冷凍庫」が必要だ。毎日、干物と漬け物だけでは、病気になるのが落ちだ。
 それよりも、秋口になると、隙間という隙間から家屋内に侵入して来る「カメムシ」はどうだろう。「カメムシ」と同居出来るか。「同居」を許せば「寝具や布団」にまで入り込んでくる。同衾(どうきん)(同じ布団でねむること)は可能だろうか。
 越冬するカメムシは暖気に敏感だ。カメムシは布団や衣服、何にでも侵入して来る。さらに、保存食料や、目の前にある所持品にまで入り込み異臭を放つ。
 津軽では「クセンコムシ」と呼ばれる、あの独特な「異臭」がなければ、ノミやシラミと同衾していたというご先祖様、いや、私の幼少期には、日本人の大半がそうだったので、「虫」との同衾は耐えられないものではないはずだ。
 だが、「カメムシの臭い」が好きになれる人はいるだろうか。好きになれないまでもあの臭いを日常のものとして許容出来る人はいるだろうか。
 もしも、「初恋」の人が「カメムシ」の「香り」を漂わせていたとしたら、それは、「初恋」などという、淡くて純情な情念など「生まれる」はずもないだろう。
 私には、決して「カメムシ」は好きになれないし、同衾などは耐えられない。
このような自分なのに「自然の息吹に触れることが好きだ」とか「自然との共生・共存」と言っているのだから、私は全くの「ウソツキ」であり、似非(えせ)自然愛好者である。
 私は自然に回帰出来ない人間なのだ。人工的な所産から逃れられないほど文明に浸りきった生活を数10年にわたってしてきてしまった。

 それでも、やはり私は今、狂おしいほどに「少年の日々」に戻りたいのだ。

自然の息吹きに触れるということ…(その5)

2007-12-11 06:46:05 | Weblog
((今日の写真は弘前市から鰺ヶ沢町に行く道路、その途中の大森地区にある巌鬼神社の岩木山よりの上部で写したものだ。山頂を基準にして説明しよう。直ぐ左下が耳成岩(みみなしいわ)だが、逆光になってはっきりしない。
 その下に見える3つの岩稜が弘前から見ると右端の「巌鬼山」である。そこから少し右に下って広く落ち込んでいるところが赤倉沢である。写真のほぼ中央部分になる。その右上部の切り立って窓のようになっているところを「赤倉のキレット(切れ戸)」と私たちは呼んでいる。このピークは風の強さでは岩木山で一番である。雪煙が舞い上がるようなこの日などは、この「ピーク」には近づかないほうがいい。飛ばされるのが落ちだからである。それよりも「ピーク」まで行けないだろう。
 向かって右の沢は「白狐沢」である。その右岸尾根には昔、登山道があったものだ。その途中の扇ノ金目山には「クマ」に囓られた標識が今でも一部残っている。だが、夏場は廃道で利用できない。)

      ■■ 少年期を育んでくれた「自然」を壊すもの(2) ■■
(承前)

 恐らく、「トウホクノウサギ」の住む森を、勝手に伐採、開墾して畑や「リンゴ園」にしたわけではないだろう。そこには「行政」の指導も介在したはずだ。
 「リンゴ園」を開いた人が、そのような「自然の成り立ちや事実」に関する知識がなければ当然、「行政」は指導して、「止めさせて」しかるべきだろう。
 それが出来なければ「自然の成り立ちや事実」に関する知識を与えた上で、『どのような「結果」になろうが、それはすべて、あなたの「自己責任」の範囲で処理されるべきことだ』と理解させる必要があったのである。
 そのような指導すらなかったとなれば、「行政」も怠慢であり、その上、指導する能力がないと批判されても致し方ないだろう。

 また、「圧雪による枝折れ被害」も同じである。その場所は平地ではない。里でもない。岩木山の南や東の麓は、それなりの標高がある。平地よりも高いのだ。積雪は平地よりも多い。しかも、岩木山では南面と東面が特別積雪が多い場所なのである。
 積雪が多く深ければ当然、圧雪による「枝折れ被害」はある。当初から予想してかかるべきである事柄だ。
 その場所で、「リンゴ園」を開くことに伴う「リスクやデメリット」を十分理解してのことだったのならば、結果はすべて「自己責任の範疇」だろう。
 「トウホクノウサギによる食害」も多雪による「枝折れ被害」も、すべては自己責任で処理されることだ。
 ところが、それらに対して、自治体が見舞金や補償金を給付するような動きをする。裏にいるのが政治家であり、その意や圧力を受けた行政・役所が実行しようとするのである。
 現に、「補償金」という補助金を支払った自治体もある。
 「自己責任」を棚に上げて、そこには選挙の票頼みしかない。政治家たちが「国民のみなさま」「県民のみなさま」「市民のみなさま」「町民のみなさ」「村民のみなさま」または「農民のみなさま」と言う時、そこには人々1人1人の「人権」も「願い」も「苦境」も「苦悩」もない。
 政治家の頭にあることは、常に次の「選挙」のことである。また見えているものは、「人々の人格を持った生身の顔」でなく、「投票用紙」という小さく薄っぺらな「紙切れ」に過ぎないのである。彼らにとって、国民、県民、市民、町民、村民、農民、人間は一枚の紙切れでしかないのだ。まさに、私たちは政治や制度の上では「軽く」扱われている。
 補助金農政の一端が「ウサギによる食害」や「多雪による枝折れ被害」ということにまで見えるから、「日本の農業は先が見えない」のだ。
 「甘える」のも「甘やかす」のもいい加減にしろ。「ウサギ」は甘えてはいない。私には「トウホクノウサギ」の気持ちが痛いほど分かるのである。
 これは「河川敷のリンゴ園」にも当てはまる。「河川敷」は大水になると、洪水となり冠水する場所である。そのことを覚悟して栽培することが「自己責任」だ。だれかが「河川敷」でリンゴを栽培してくれと頼んだのか。そうではないだろう。リスクを十分理解した上で自主的に、そこに「リンゴ園」を開いたのだから、その「結果」は自分に求めるのが筋だろう。
 だがしかし、これに対しても、自治体は補償金を給付したりしているから、まったくもって「甘い」。論理も何もない。滅茶苦茶だ。
 これもすべて、政権維持という自己目的に陥っている選挙のためなのだろう。ああ、これだと、何年経っても日本はよくならないなあ…。

 さて、岩木山の自然の変化にもう一度目を向けてみよう。
岩木山の山麓や草原は、「リンゴ園」の薬剤散布や「畑地」への「肥施」等により、都市住宅地よりも貧しい生態系となっている。ここには、もはや、「岩木山の生態系」と共通するものはない。
 岩木山の山麓からは草原や草山、芝地が消えた。コナラやミズナラが生えていた、いわゆる「雑木林」が影を潜めた。
 それに伴い、草原や芝地の植物であるキキョウ、センブリ、クララ、ワレモコウ、オキナグサなどが消えた。そして、これらの植物を「食草」としている蝶の中で、過去30年ほどの間に絶滅しているか、しつつあるものには、コナラ林の「ゴマンシジミ・ウラゴマダラシジミ」などのシジミチョウ類がある。
 草原(採草地)は村落から遠いところは放置され、ミズナラ林などは伐採されて「リンゴ園」や「畑地」になった。山麓の「オオルリシジミ」が棲む本来の草原も、いち早くリンゴ園となってしまい、「オオルリシジミ」は絶滅した。現在、青森県では「オオルリシジミ」などの「草原の蝶」が発見されたという報告はない。
 消えたのは蝶だけではない。甲殻類の「カニ」もそうである。「ニホンザリガニ」も「リンゴ園」や「畑地」近くの「沢」からは姿を消した。山麓上部の、昔からの沢の末端に「細々」と生息しているに過ぎない。これだと、「ザリガニ」ならず「ワズカニ」だ。
 岩木山の近くに高舘山がある。現在の弘前市岩木地区、兼平の上部である。この近くから、かつては「平板な自然石」である「兼平石」を掘り出していた。この高舘山のどんな小さな沢にも「サワガニ」がいた。しかし、現在はすべてが「リンゴ園」となってしまい、「サワガニ」はもちろんいないし、里山という風情はどこにもない。
 因みに、リンゴ作りの名人、Kさんは…
『リンゴ園の周囲は、手つかずの森にしておくことの方がいい。その森とリンゴの木が共存するからである。リンゴ園に発生する害虫を森の虫が食べてくれる(ハチや蜘蛛などが捕虫してくれるということだろう)。害虫もいなくなるだから、害虫駆除・殺虫のための劇薬を散布しなくてもいいから「安全・安心」ないいリンゴが採れる。自然な森の空気とリンゴ園の「生気」みたいなものが交流して、より自然度の強いリンゴになる。』…と言っているのを聞いたことがあるのだが、頷ける話しであろう。

 ところで、戦後60数年の我が国を見ると…、
 建設業が支持・支援する政党が、農民が支持し応援する政党が日本の政治、それに県や市の政治を牛耳ってきたわけである。建設業種が日本の経済を、国費を含んだ公費を消費する公共事業で支えてきたし、支えているということは瞭然であろう。
 言い換えると「自然破壊」の業種が日本経済を支え、「自然破壊」の党が政権を担当して、現在に至っているということになるわけである。これだと政治は変わらないし、日本は変わらない。
 このような事実の中で、真っ向から「自然保護や保全」「自然との共生・共存」「自然の再生」を掲げて運動していくことは生やさしいことではない。極端な話し、四面楚歌の状態にあると言っていいだろう。私は岩木山を接点にして「自然保護」と関わりを持つようになって、すでに30数年になる。だが、未だもって孤軍奮闘という感は免れない。

 「自然に親しみ、自然に癒されたい」とする登山者や登山客が「自動車道路、リフト、ロープウエイ、人工的に整備された登山道」などの、いわゆる「文明の利器に安住している」ならば、極端なところ、それは「自然破壊に与(くみ)している」ことに他ならないのである。(明日に続く。)

自然の息吹きに触れるということ…(その4)

2007-12-10 05:53:40 | Weblog
(今日の写真は寄生火山の1つである森山から写した岩木山だ。どこから見ても岩木山はいつもどっしりしているが、ここから見るものが一番どっしりとして雄大である。ただ雄大なだけではない。
 爆裂火口が造りだした荒々しい崖頭、深く入り組んだ開析谷、ぎざぎざとした岩稜を感じさせる峰峰、決して太宰治の言う「十二単の裾を広げた」という女性的な優美さはない。まさに鋭く刻まれた巨大な岩の三角錐だ。写真左の頂が鳥海山、その下部に見える逆三角形の切れ込みが「瀧ノ沢」の崖頭と落ち込む沢の源頭である。
 この写真に見られる時季だと、「瀧ノ沢」右岸尾根を詰めて行くことが出来る。その尾根は、すばらしい「ミズナラ」の大木が続く、岩木山では殆ど見ることの出来ない場所になっている。
 百沢登山道尾根の焼止まり小屋付近から長いトラバースをして行くことも可能だが、そこは「新雪」「底雪」を問わず「雪崩」発生の常習地帯なので危険だ。行かないほうがいい。)

        ■■ 少年期を育んでくれた「自然」を壊すもの(1) ■■
(承前)
  
 ところで、相対的に考えると「建設」は常に何らかの破壊の上に成り立つものではないだろうか。沢に「堰堤(ダム)」を「建設」すると、その場とその周囲の「自然」は「破壊」されるというわけだ。

 世に「…建設」とか「…土木」「…建築」「…建築工業」「…興業」「…産業」「…工務店」「…建業」「…組」「…工建」「…土建」など果ては、大工さんまで「建設」業を営む業種は多い。実にこの「なんとか建設」というのは数社の大手ゼネコンを筆頭にして中小のゼネコンから、零細まで、何と全国に「58万社」もあるというのだ。
 「580.000」社とは、仮に1日1社を訪問すると1589年もかかるという気が遠くなるものだ。まさに、日本は土建王国なのである。青森県の人口に換算割合をすると約2人に1人が「建設関係の会社」ということになるから、ますます恐れ入るばかりだ。
 この58万社が、何らかの形で「自然破壊」に関わってきた。
社員の数は大きい会社で数万人、1人社長の零細まで加えていくと、自然の「破壊」に関わって「生計」を立てている人たちの「数」は、何百万人になるか分からない。
 それだけではない。自然を壊さないまでも、「建設」の資材や材料に関わる企業、果ては下請け企業や孫請け企業、国や自治体の「建設」関係担当者まで入れていくと数千万人に膨れあがるのではないだろうか。

何も「自然破壊」はこの「建設」関係会社の専売特許ではない。彼らに匹敵するほどに「自然」を「破壊」して、そこで別な「自然」を生活の手段にする業種がある。
 それは「農業」である。こちらの方は、「弥生時代」から「自然破壊」を続けてきたという伝統があり、どうも社会的に既に「認知」されていると思っているのだろうか。何の臆面もなく、森林を伐採し、畑地開墾や植樹に勤しむのである。

 岩木山は「陸上の小さな離れ小島」だ。離れ小島に棲む生物の種類数は面積に比例するといわれている。麓の生物も「開発」という名の「自然破壊」により周囲から切り離され孤立し、高山部に棲む生物ほど孤立化は深刻だ。
 岩木山を一周する環状道路は60km弱だが、この道を境に、岩木山と「より外側の地域と連なる自然」はないに等しい状態だ。そのため移動力のある大型動物以外は交流が難しくなっている。

 岩木山の東から南斜面には、何の臆面もなく、森林を伐採し、畑地を開墾して造られた「リンゴ園」が多い。
 元々、その辺りは「コナラ」などの林であり、「トウホクノウサギ」が暮らす場所だった。「トウホクノウサギ」の生息場所を、前からの「住人」であるこの「トウホクノウサギ」の了解を得ることもせずに一方的に、つまり「共存するべき相手」を無視し、「人」さまの都合だけで、「生息場所」を「リンゴ園」に変えてしまったのである。
 「トウホクノウサギ」にすれば、その場所は「家屋のあるところであり、餌場であった」わけだ。
 「ある人」が住んでいた家と屋敷があった。その周りは田んぼだったり畑だったりで、そこの「住人」は食べ物を自給して生活をしていた。
 ある時、突然、重機やブルドーザー、それにダンプカーで「他人」がそこにやってきた。そして、家を踏みつぶし、稲や野菜を引き抜き、地ならしをして、そこに「リンゴ」の苗木を植えた。
 「トウホクノウサギ」の立場を「ある人」に置き換えて考えれば直ぐ分かることだ。
何と残酷で非道なことであろう。まるで重火器や戦車、航空機を投入して進められる地上戦における「占領」と同じだ。
 一方的に森林を伐採して、そこを農地にしたり、または建造物を建てることは、「戦争では相手を配慮することがない」のと、よく似ているではないか。
「ある人」つまり、「トウホクノウサギ」は住み場所を奪われて、行くあてもなく占領された林と土地の脇に「掘っ立て小屋」(伐り残されている木々の藪下や根元を掘って造った穴)を立てて、住み着いた。毎日、食べるものを手に入れる手段さえも奪われてしまったのだ。もちろん、「食べ物」もなくなった。
 「トウホクノウサギ」にとって「リンゴ」の若い木や苗は「ご馳走」である。「トウホクノウサギ」の歯は、鉈の刃ほどに鋭い。親指ほどの枝は一囓りでちぎり落とす。
 また、円形の幹や枝の樹皮も大好物だ。これなどは、木工用の轆轤(ろくろ)に当てられる刃物のように、歯を使いながらきれいに樹皮を「剥き(むき)取る」のだ。
 この「食べ物不足」と「トウホクノウサギの習性」からして、「リンゴの枝に対するウサギの食害」は当然考えられた結果であろう。誰が食べ物不足に追い込んだのだ。それは、森を奪った「人」だ。
 そこを「リンゴ園」にした「人」が、する前にこの「食害」のことを考えなかったとすれば、それは「リンゴ園」を開いた人の怠慢か、または「そこの自然や住んでいる動物について学習しなかった」か「学習する能力がなかった」のである。
 自分の立場や都合のことしか考えられないような「人」は、やはり「人」という生きものに過ぎない。他の多くの植物を含めた「生きもの」はすべて、自然の中で「共存」すべき術を身につけている。 (明日に続く。)

自然の息吹きに触れるということ…(その3)/たまにはコンピュータのことを少しだけ

2007-12-09 00:04:14 | Weblog
(今日の写真は鰺ヶ沢の松代地区よりも少し枯木平に寄った場所から撮したものだ。右の丸みを帯びた山が「黒森山」である。これも寄生火山の1つだ。その左が岳登山道のある尾根で、晴れているので上部には「リフト」の鉄塔が列をなしているのが見える。
 それをたどって少し下に見える雪稜は、噴火口外輪の岩稜である。さらに高みに目をやると「二の御坂」、その上が山頂である。
 山頂から続いている大きな尾根上に松代登山道があるのだ。岳登山道のある尾根と松代登山道のある尾根に挟まれた深い沢が「赤沢」である。この沢は今でも「噴気」があり、小動物の死骸があったりする。
 岩木山は孤峰・独立峰だといわれるが、北西から眺めると、南から北に向かって多くの頂を持つ「連山」なのだ。左になだらかに山稜を見せているのは、大鳴沢という深い谷を右岸に持つ烏帽子岳などであり、左端はこれまた寄生火山の「笹森山」だ。
 
      ■■「自然」に育まれ、「季節」と遊んだ少年期(3)■■
 (承前)

 早速、船造りが始まる。早いものは冬場からこつこつと造りはじめていた。
船といっても乗って楽しむものではなく、浮かべて風を利用して、走らせるおもちゃの船である。もちろん手作りで、帆掛け船あり、ヨットあり、双胴船タイプのものあり、和船ふうのものありで、風による横転と転覆をいかに防いで、しかもまっすぐ走らせるかに没頭した。
鋸や金槌を使えるのは当然で、中には鑿(のみ)や鉋(かんな)を使える子供がいた。そんな子供は板を切って釘を打ち付けて仕上がりというような、短時間で一艘の船を造ることはしなかった。
 垂木(たるき)を鉈(なた)や斧(おの)で割って、鑿で切り出し、小刀で船底を滑らかに削りだした。
 肥後守(ひごのかみ)という小刀やナイフはどの子供も持っていた。これは便利なもので鑿(のみ)や鉋(かんな)の機能まで代用するから重宝なものだった。もちろん、子供の多くは自分で刃先を砥石で研ぎ出すことが出来た。

 夏場、草刈り仕事が子供に課せられていた。切れない鎌は苦労なだけだ。いきおい、自然に鎌をもって砥石に向かう。
遊びには生傷がつきものだった。人は自然物との接触や衝突を「地肌で防御するという進化」をしなかった。肌を何かで覆うという方法をとった。
 これを文明という。「文明人」は生物的な「進化」を拒否した。何かで覆わないで行動すると傷はできる。それを野蛮な行為と今の人たちは言う。しかし、「文明」が崩壊した時に「真っ先」に死滅するのは「人」という動物である。人がこの地球に現れてから、基本的に生物的な進化は止まり、むしろ退化している。
自然と一緒に自然の中で遊ぶ子供たちにとって、手や顔、脛(すね)や腕、頭や足先に被(う)ける擦(す)り傷、切り傷、刺し傷は「勲章」であった。傷の数が、自然との関わりの多さと深さ、広さと種数を示していた。
 小刀を使う以上、手や指、腕に傷を持たない子供はいなかった。

 その頃の大人は鷹揚だったと思える。ひっかき傷や切り傷ぐらいなら「流水で洗っておけ」であり、蜂に刺されたら「小便を塗っておけ」程度が関の山だった。
 芋畑やトウモロコシ畑を荒らしても怒られたということがないし、バスにしがみついても叱られたという記憶がない。
 鳥や獣が食べる分を残して収穫することがその頃の農家の常識であったと言う。遊びの中で、腹をすかせる子供の分も含めて栽培してくれていたのだろう。

 少年の頃、私はまさに自然の息吹きに触れた毎日を生きていた。あるがままの自然という現実に浸りながら生きることに夢中で、しかもそれが楽しくて、遠い土地の「自然破壊」にまで思いを馳せることは無理だったのである。(明日に続く。)

  ■■たまにはコンピュータのことを少しだけ書こう/Mac OS X 10.5 Leopardと「VMware Fusion」■■

 どうも新しいものが好きなのか、Mac OS X 10.5 Leopardを買ってしまった。とは言っても既に1ヶ月は経つ。
 先日、今度は仮想化ソフト「VMware Fusion」 というものに手を出してしまった。Macと付き合うようになって、この類のものとして初めて使ったのは「Microsoft Virtual PC for Mac 」であった。「あなたのマックを最強の環境にパワーアップします。Virtual PC は、Windows 用アプリケーションやファイル、ネットワーク、そして周辺機器へのアクセスを可能にしてくれるアプリケーションです」という宣伝的な甘言に負けて買ってしまったが、結局「使い勝手」が悪くて、というよりは「容量」が小さくて「放棄」した。
 それ以来、「仮想化ソフト」には「眉唾」物的な思いがあって、ずっと距離を置いていたのだ。
 だが、「VMware Fusion」には隔世の感があった。まったく「Virtual PC for Mac」とは違うのである。良すぎるのだ。Mac OS X 10.5 Leopardとの相性もいいからそれに助けられているのかも知れない。
 これらの使い勝手や使い心地について、時々触れてみたいと考えている。

 そこで、今日はのSafari3.0.4のことを…
これは、あちこちのブログなどに色々と書かれている。今更なんだと言われそうだから、その中で余り、触れられていないことを書く。
 それは「速い」ということだ。驚いている。スピードテストでこれまで、大体下りが「60Mbps」上りが「35Mbps 」程度であったのだが、何とそれぞれが75~80Mbps」と「45~55Mbps 」程度になったのである。これまでも、スピードで「イライラ」を感じたことはないのだが、これだと、未来永劫に「イライラ」感と付き合うことはないだろうと思っている。
 Safariは、Apple(Macintosh)のページから無料でダウンロード出来るので、Internet Explorerや他のものを使っている人は、試しに使ってみては如何だろう。
 ただし、表記がすべて英語である。だが、文字エンコーデイングで、[日本語(Euc-jp)]を選ぶと日本語表記がかなりホローされるので、大丈夫だろう。
 次の機会には「VMware Fusion」について書いてみたい。

自然の息吹きに触れるということ…(その2)

2007-12-08 06:41:39 | Weblog
(今日の写真も岩木山冬景色だ。さてこれはどこから撮したものだろう。右に大きく張り出している山は「一つ森」である。
 岩木山は、火山本体が成長するにつれてその山腹に噴出した寄生火山を多く持っている。地図で「…森、または…森山」と称されているものがそうである。この名称の由来は偶然の一致なのだろうか。それとも根拠があるのだろうか。
 この寄生火山の列の配置により、見事な円錐形のはずの津軽富士・岩木山も、見る場所によっては、実は歪んだ円錐形となってしまうのだ。
 寄生火山の多くが岩木山の北西側に偏在していることよって東南の方角からの岩木山はコニーデ型の秀麗さを見せるのである。)

(承前)
      ■■「自然」に育まれ、「季節」と遊んだ少年期(2)■■

 川遊びは特別腹の減るものだった。対岸の芋畑やトウモロコシ畑は時々犠牲になった。掠(かす)め取った芋などはパンツの中に入れて泳ぎ渡ったものだ。
 この時期になると気温は高くはない。冷えた身体をたき火が迎えてくれる。暖かい。だが、その実は「芋」を焼くためのたき火なのである。火の炊き方、燃やし方もこのような経験から自ずと身に付いた。
 食べはしなかったが蛙とはしゃがんだ恰好でにらみ合いをして遊んだし、捕まえては小枝で十字を造り、それに磔(はりつけ)て、下で火をたき、火あぶりの刑にして遊んだ。生と死がいつも身の回りにあった。これが自然なのだ。

 里山が今のように切り開かれてリンゴ園になっていなかったし、杉の植林地にもなっていなかった。
 雑木の茂る里山の沢水も清らかでサワガニがたくさんいた。産卵期にはクマイチゴやエビガライチゴの実によく似た美しい卵を腹に抱いていたものだ。それを採っては煮たり焼いたりして食べた。
 飽(あ)きると林間に垂れ下がっている山ブドウの太い蔓(つる)にぶらさがって樹木から樹木へと移動を始める。その時は仲間だけの「叫び声」をあげたものだ。一人一人が野生児「ターザン」になっていた。
 秋になると、よくコナラやミズナラの大木に櫓(やぐら)を組んで、仲間だけの砦(とりで)を造ったものだ。
 土曜日には家を抜け出して、そこで一晩を明かした。天体を交えた自然との四六時を、風のそよぎ、獣の声と足音、鳥のさえずりと共に過ごす週末だった。
 もちろん、ハシバミ、栗、ヤマブドウ、アケビ、コクワなどの「採集」に勤(いそ)しんだことはいうまでもなかった。

 冬も里山が遊びの中心だった。馬そりとバスが通行する幹線道路では、長靴にスケートをつけて滑ったり、馬そりやバスの後部にしがみついて、引っぱられて長距離移動を試みたりした。
 一方、山ではスキーだ。競技スキーではないが、今思えばツアースキーといえるようなものだった。
 スキーは楓(かえで)などの一枚板だった。ビンデングはもちろん皮革製で、留め金具は今のステンレスやチタン製腕時計の留め金具と原理的には同じものだった。ただ、それは少し硬めのブリキ細工みたいなもので、とても壊れやすかった。だから、思い思いに皮バンドや紐で補修をしながら使っていた。壊れると修理して使うのがあたりまえというのも、子供の世界だった。
 そのスキーをつけて仲間で山に向かう。トップが行くとおり進むことがきまりになっていた。
 トップは様々な「難所」を用意して、それをクリアして進んで行く。川を渡る。スキーを上手に橋状にしないと落ちてしまう。スキーを引っかけながらも藪混じりの雑木密集帯を行く。沢を登り、雪庇(せっぴ)をよじ登ってミズナラの高木帯に入る。なだらかになるとそこは山頂だ。
 そこまでは体力がありさえすれば、何とかついていけるのだが、下りになると、そうはいかない。
 トップに立つ者は大体が「腕に覚えあり」という者だった。スキーのあらゆる技術に秀でている。
 樹間の大回転や回転が続くこともある。スノーボーダーがやるハーフパイプのような地形をスピンやインヴァーテドイアー紛(まが)いをしながら滑り降りるところもある。
 または、雪庇の先端から直角に降りたり、スキーがようやく載るくらいの棚や切り立つ斜面をトラバースしたりするのである。
 恐怖感やら未熟なためについていけずに転倒したり、滑落したり、遅れたりしたら、次から仲間には入れて貰えないという「厳しい掟」が待っている。
 だから、否応なく、知らずして冬の「地形」を学ぶことになっていた。自然の中で「自然」に自然を体得していたのである。

 春先、堅雪になり出す頃、北西の季節風は日ごとに強くなる。凧揚げの季節だ。堅い雪に覆われた田圃が凧揚げの場所だ。
 冬場に藁(わら)を打って、凧の尻尾となる縄を綯(な)った。縄を綯うのも子供の常識的な能力だった。「ニシ四枚」(凧の大きさを表す単位)ほどの大きさになると、この尻尾もかなりの長さになった。
 長い尻尾を強風の中、ゆったりと揺らして、凧は「ブンブ」(凧の頂部の骨格に弓状に張った糸に厚い和紙を貼り、それが風を受けて振動し、音を出すという装置)を振るわせ、武者絵に合わせて低く唸った。
 風を読み、糸の角度を微妙に変えながら「揚力」を理解し、凧と遊びながら風と競った。そして、「風力」を、「物理学的な揚力」を自然の中で学習した。
 風は相変わらず強いが、天空から凧の姿が消えていく頃、雪解けの季節が始まる。太陽の暖かさを含んだ風は、気化を急がせて積雪をどんどんと融かす。
 その雪解け水をはった田圃が山懐の谷合いや麓の平地に広がっていく。
 子供というものは、どんな自然の変化をも見逃さないで、それを自分たちの遊びやその手段にしてしまうものだ。だから、この水に包まれていて、何もない開けた水田を放っておくはずがない。(明日に続く。)

自然の息吹きに触れるということ

2007-12-07 05:49:29 | Weblog
(今日の写真も冬季の岩木山である。この写真を示して「これは岩木山です」と解説しないと大概の人は怪訝に思い、どこの山だろうと悩むに違いない。昨日のものよりは近景である。近いからもっと大きく全体が見えていいはずだが、岩木山の山頂部しか見えない。
 手前の木々は「カラマツ:落葉松」だ。ミズナラやブナを伐採して、その跡に、もちろん植林されたものである。
 この辺りは山麓部の下部であるが、見て分かるように「疎林:そりん(まばらな林)」となっている。これよりも上部では40年も経つというのに植えられた「カラマツ」は殆ど育っていない。まったくないわけではないが数本という規模であり、しかも樹高は3~4mに過ぎない。
 植林事業の失敗である。標高が上がり、寒冷のために育たないのである。林野庁という「専門家」集団が実行した「事業」という割には、お粗末で「お寒い」話しだ。事業費はすべて私たちの税金で賄われたのである。
 それらカラマツに代わって、伐られる前に落ちたブナの実から芽を出した「実生」のブナが、今や、まばらではあるが15m以上の高木となって育っているのである。何と無駄な、浪費であろう。ブナ林を伐らないでそのままにしておけば…
 伐る手間がはぶけた・切り出しの手間が省けた・カラマツを植える手間が省けた・自然植生を変異させるということをせずに済んだ・育たなかったカラマツを枯死させることもなかった・樹齢数百年というブナ原生林をそのまま残すことが出来た・空費された時間、すべてが「負」である。時間も命も、お金も、労働もすべてが「負」なのである。
 お~い!誰が責任をとるんだ。私は怒っている。岩木山、貴女も、もっと怒ってくれ!)

          【 自然の息吹きに触れるということ 】

           ■■人工物に庇護された自然愛好者■■

 「自然の息吹に触れることが好きだ。」と言ったとしよう。そうすると、それを聞いたは人たちからは「自然または自然的なものはすべて好きなのだろう。それらと一緒にいる(ある)時が至福であって、自然と対立する人工的な要素のある生活は決してしないのですね」と思われそうだ。
 しかし、「自然の息吹に触れることが好きだ。」ということは、あくまでも人工的な物にホローされた生活を認め、それによって自分が安心していながら、対極にある「自然物との部分的な同化」を望んでいることに過ぎないのではないかと思うのである。
 たとえば、自然と触れあうことが好きだから、山に小屋を建てそこで暮らすことにしたとする。山に小屋、これがすでに人工物なのだ。登山者に愛されている「山小屋」や「ヒュッテ」も同じく人工物である。山小屋に冬越しのために入ってくる「カメムシ」と毎日、「同衾(どうきん)できる」とでも言うのだろうか。私には出来ない。
 住居という自然にとっては異物に過ぎないものに庇護された生活を望んでいながら、「自然の息吹に触れることが好きだ。」という自己矛盾に気づかない人は、私を含めて多いだろう。

 「人工」の対意語は「自然」。ならば「自然」の中に人工物を造ること、つまり「建設」することは、愛すべき自然を壊すことになってしまうのではないか。
 ちなみに「建設」の対意語が「破壊」である。これは小学生でも知っていることだろう。

        ■■「自然」に育まれ、「季節」と遊んだ少年期■■

私の児童・少年期は自然に育まれたものであった。しかも、それらは戦後の復興期と重なっていた。
 戦後の復興とは「戦争による破壊の復興」であった。自然からみるとこれは「戦争による破壊」と「復興建設による破壊」という「二重の破壊」であっただろう。
 その当時の復興の象徴的なものとしては、ダムの建設が挙げられる。現在は「ダムはムダなもの、自然破壊の象徴」として扱われることが社会の常識となっている。
 だが、その頃、小学生であった私にはニュース映画や新聞に垣間(かいま)見られる「黒四ダム建設」等の雄々しい強さを持った人間の力に素朴に感動して、ダム建設が「自然の破壊だ」という見方は出来なかった。

 一方、日々の遊びと生活は実に自然に満ちあふれたものだった。
 買える食糧は乏しかった。物がお金という価値と同じでなかったからだ。しかし、食材は豊富だった。家には豚がいたし鶏がいた。育てたそれらが胃袋を満たしていた。
 食べるためには殺さなければいけない。自分の手で絞め殺し、鶏の首を刎(は)ねた。卵からひよこがかえることを知っていながら、その卵を食べるのである。

 大きな桶(おけ)かドラム缶に、水をきっちりと張り、豚を頭からそれに突っ込む。逆さになって数分もがいているが静かになる。さっきまで自分の手で育て、元気に細い眼を潤ませていた生き物は重い物体となり、解体される。
 もちろん、「ヤミ」であるが食料として売られる部分もある。しかし、大半は自分たちの血や肉になった。
 子供心にも、「自分たちの生命を明日につなぐために、他の命を喰っている」ということを、身体で実感することが出来ていた。

 ため池には鮒や鯉がいた。川や沢には鮎、石斑魚(うぐい)、鯰(なまず)、鰍(かじか)、鱒、モズク蟹、ザリガニなどがいた。
 春から夏の日々は、釣りに始まり、ヤスで突き刺してそれらを捕えることで費やされた。これが遊びであり、自分たちの飢えを抑え、蛋白質やカルシュウムを供給することだった。
 鯰を捕らえて腹を割(さ)く。未消化の「アオガエル」が出てくる。それまで餌にしていた「タマクラミミズ」をアオガエルに換えたらより大きいものが釣れるようになった。
 捕らえることが、逆に自然の仕組みを教えてくれた。それにしても、鯰の照り焼きは脂がのっていて旨いものだ。鰤(ぶり)を越えるかも知れない。

 捕るものは何も「食べる」ためのものだけではなかった。虫である。トンボ、チョウ、コガネムシ、カブトムシやクワガタなど甲虫類、バッタやコウロギ、キリギリスなどの直翅目類、ホタルなどまでが遊び相手であった。
 虫は捕らえられて数日後には必ず死んだ。「虫が生き抜くすべは、人に捕まらないこと」であることも体験で知った。(明日に続く)

冬に怖いのは雪崩だけではない。真冬、風に揉まれた翌日は…雷雲に遊ばれる

2007-12-06 06:29:28 | Weblog
(今日の写真は、弘前市高杉方面から見た岩木山である。時期は2月末ごろだろうか。風は強いがよく晴れていた。このくらい晴れていると目のいい人には山頂付近の雪煙が見えるはずである。山頂は風速40m以上の世界である。今日の話しに出てくる「強風」はそれよりもすごい。権現崎を越えて竜飛までは、ただ何の抵抗物もない「空間」のような場所であった。まさに、そこは風と雷だけが自由に走る空間であった。)


 ■■冬に怖いのは雪崩だけではない。風に揉まれた翌日は…雷雲に遊ばれる■■

 ある年の建国記念日を挟んで、竜飛岬から小泊までをスキーで踏破した時のことだ。この時も雷さまに遊ばれたのである。
 雷のことに触れる前に、どうしても、津軽半島の北端であの時期に吹く「強い風」のことについて述べたい。        
 あの風の強さはいったい、何なのだ。西北地方で吹き荒れる「地吹雪」なぞは問題にならない。まして、厳冬期の岩木山の、しかも頂上で受ける風よりも強いのでないかとさえ思ったものだ。
 それは、風に顔を向けると呼吸が出来なくて、そのまま窒息死してしまうようなものだった。
 2月の10日を過ぎているというのに、積雪がなく地肌がそのままむき出しになっているところもある。風が強くて、雪が積もることが出来ないのだ。特に強いところは、海岸に対して直角に、両側が切り通された道だ。
 スキーが邪魔になる。だからといって背負うわけにはいかない。風圧が何倍にもなり、前には進めず、吹き飛ばされて転倒するのがおちだ。
 この道は、その当時に出来たもので、それまでは「海岸の岩壁を掘り抜いたり、岩壁を伝うこと」だけで歩くことが可能な道であった。
 「竜泊ライン」という道筋は、その呼称は今風だが、そこを支配する気象や自然は、昔から同じなのである。これが、その道筋にまったく人家がないという理由にもなる。
 「竜泊ライン」、いい呼び名だ。わくわくして車を飛ばしたくなるだろう。夏場には美しい海岸を楽しむために多くの自動車、大勢の人がやって来ると言う。しかし、冬にはだれも来ないし、住んでもいない。その理由も極めて簡単だ。
 夏場には住める、しかし、車があれば住む必要もない。冬場は、今風の人が住める状態ではない。
 化石燃料と電気エネルギーに支えられ、それにどっぷりと浸(つ)かっているものたちには、耐えられない場所なのだ。風が強すぎる。そのために厳寒の地でもある。自然は厳しい。
 風とスキーにあえぎながらも、人が住めないような強風の中を進んで、なんとか風を遮ることの出来るテントサイトを見つけたのは、16時を回っていた。
 その場所は道路であった。西が切り通された壁をなしており、雪庇が頭上に張り出していた。雪庇のないところを丹念に捜す。東は深い沢にすぐに落ち込んでいて、これまた壁をなしていた。
 雪庇がないといっても、垂直に近い壁だ。落雪の心配はあったが、東側の深い沢に落ちていくよりはましだろう、と判断してテントは「道のぎりぎり東」に張った。そのために、せっかく平坦な場を捜し当てながらも、テントは西から東へと傾いたものになってしまった。
 しかも、そこは道筋の上からは、北から来て南に下る峠となっていたのである。だから、明日の朝は、どんどんと海岸線まで、つまり海抜ゼロメートルまで下ることになる。                                   
 さて、翌朝。スキーを着けて意気盛んに、下るだけの楽勝を胸にルンルン気分で出発した。雪に覆われた九十九(つづら)折れの道が前方に続く。さらに、その下方には青い海が見える。天気は上々だ、と踏んだ。
 スキーは面白いようによく走る。時間が稼げるぞ、予定よりも早く小泊に着くかも知れない、そんな思いがどんどんと湧き上る。ところが、海が眼下でなく、足下に見えはじめると、滑りが極端に遅くなったのである。
 今まで青かった海は、上空を映して、灰色から鉛色に変わっていた。そして、その鉛色は帯状の滝のように海面をざわめかせながら、海岸へと近づいて来ていた。そして黒い竜巻状の積乱雲が立ち昇った。
 風は湿っぽく重い。しかも、少しの温もりすら感じさせる。ところで、まだかなりの斜面だというのに、スキーはとうとう止まってしまった。突然、ミクロテックス製のヤッケを何かが撃ってくる。霰だ。数年前に岩木山で体験した恐怖が走る。
 ヤッケのフードは、風を避けるために、ほぼすっぽりと閉められている状態なので、視界は眼を向けた方角の60度ぐらいしか利かない。
 何かが、ピカッと光ったようだ。今度は海上の方からゴロゴロという音だ。雷だ。なぜ、今日は2月の10日だ。こんな真冬にどうして雷なのだ。
 しかも、その場所はU字でターンをした後は、切り通された海岸へ真っすぐに続いている道であった。逃げ場がない。橋があった。その下に潜り込もうとしたが、谷が深くて降りることすら出来ない。万事休すである。
 結局、橋から少し離れたところで避雷の姿勢を取るしかなかった。ザックとスキー、ストックを外し、それらから離れて雪面に腹這いになって、出来るだけの低い姿勢を取り続けたのである。
 逆らうことは出来ない。ただただ、頭上の、雲頂の低いミニ積乱雲が通過して行くのを待った。雷雲をやり過ごし、雷雲の発生する合間を測って行動するしかない。
 稲光や落雷が、蓄えられたエネルギーの余剰放出であるとしたら、余剰に達するまでには時間の経過が必要だ。
 また、それらがこの海岸に到達する距離を考えると、そこにも時間の経過が必要になってくる。つまり、雷の発生しない合間が存在する。
 行動はその時だけに限られる。それを、視聴覚的に判断させてくれるのが「霰」であった。霰は雷発生の直前的な兆しであるらしい。3回の稲光と雷鳴の後、晴天がまた、にわかに戻って来た。

 「寒雷や針を咥えてふり返り(野見山朱鳥)」「寒雷をききおわりたる眉ほどく(谷野予志)」という俳句もあるが、これらには命がけの恐怖と恐怖が去った「生きもの」としての歓喜は希薄だ。
 いくらミニ積乱雲といっても、落雷の直撃を受けると死ぬしかない。空中放電だけで終わってくれたことが、ああ、ついているなあとしか言いようがないほどラッキーに感じられた。
 冷たい空気が海上の暖気を上昇気流に乗せて引き上げ、それが上空で冷やされて積乱雲となったり、冷たい陸地にぶつかる時に、小さな前線が出来る。そこに雷雲の発生があるのだろう。素人のあて推量だが、私はこのように考えている。

冬の登山、雪崩も怖いが雷さまも怖い、時計は外したが頭にブリキ製のヘッドランプが…

2007-12-05 05:00:57 | Weblog
(今日の写真は冬の岩木山だ。これは2月中旬に私の家から撮ったものだ。寒い朝だった。夜が明けて間もなくの時間帯で、気温は氷点下9℃であった。
 その頃はまだアマチュア無線をやっていて「朝早く起きて」はCW通信で外国局と交信していたものだ。そのキーを打つ手を一寸休めて西側の窓から外を覗いたら「薄赤く染まる」岩木山が目についた。
 岩木山全体が朝焼けに染まっているのだが、道路上からでは、全体が捉えられない。思いあまって、私は高さ20mのアマチュア無線用タワーによじ登った。これはその時の1枚だ。)

■■冬の登山、雪崩も怖いが雷さまも怖い、時計は外したが頭にブリキ製のヘッドランプが…■■

 かなり古いことで、12月上旬ごろの話だ。確か、土曜日。その当時の勤務校は五所川原市だったから、帰宅したのは16時を回っていた。それからバスで百沢へ。夏道コースを登り始めた頃には既に18時に近かった。
 どだい、冬山だというのに、この時間に登ること自体が間違っている。冬山は遅くとも15時前に行動を終っていることが肝要なのだ。
 若さゆえの無謀登山、常軌を逸した行動、若さでなく「馬鹿さだ」と皮肉られても、曳(ひ)かれ者の小唄も出ないだろう。   

 土、日は山。それが私の暦だった。とり憑かれていた。何があっても土、日曜日には山にいないと気がすまなかった。そして、その晩も焼止り小屋に一泊し、翌日、天気によっては山頂へ行こうというパターンであった。
 その年にもよるが、12月上旬というのは、まだ積雪がしまっていず、柔らかく、崩れやすく、深いのである。しかも雪の下や中のブッシュに「ワカン」が取られてしまう。だから夏場の何倍ものアルバイト量になる。
 いくら、若い頃とはいえ、「ワカン」を着けて単独のラッセルは、しかも暗がりの中では、なおさら、きついものであった。

 20時を過ぎた頃である。そろそろ小屋も近い。登りはじめから、ずっと雪が降っているこの尾根で、お定まりの左からの冷たい風を浴び続けていた。
 ところが、ふと風がおさまりかけたのである。そうすると、ヤッケの上をバラバラと小刻みに叩くものが、ヘッドランプにパラパラとぶつかるものが、そしてピッケルのブレードにコツコツとあたるものが降ってきた。
 掌を広げてそれを受け取って、ヘッドランプに照らして見る。霰(あられ)だ。雪が霰に変わっている。登るに従い、雪はますます冷たく乾いたものになる。これが「この時期の岩木山」のはずだ。
 妙だ、おかしい。標高が高くなっているのだから、気温は下がるはずだ。霰は気温が高くなると発生する。
 その時だった。進んで行こうとする方向が、一瞬真昼のような明るさになって、目の前に青白い雷光の柱が、ドカンという大音響とともに立った。私は跳ね飛ばされ、身を雪の中に平らにして俯(うつぶ)した。それしか出来なかった。
 雷が近づいてきたら「金属類は身体から離す」などはまったくの絵空事だった。そんな余裕を与えてくれるものではない。
 私はその明るさの中に焼止り小屋の影を見ていた。ああ、小屋のすぐ前ではないか、とまずは一安心はしたものの、まさか、この時期に雷様がお遊びなさるとは思いもよらなかったのである。
 今度は冬尾根の方角で、ピカッ、ド~ンである。もう紛れもない。雷だ。
それにしても、身についた金属類は身体から離すという習性的観念とは恐ろしいものだ。私は余裕のない中でも、時計を外してピッケルバンドに結び、それを思い切り横へほうり投げた。
 それからザックを外して、そこに置くや、もう滅多やたらにラッセルをして、小屋に逃げ込んだのである。山の霰は雷を呼ぶということで怖いものだ。
 助かった。標高1060m程度の高さだって、命がけのことはあるのだ。雷様の気まぐれに付き合っていると、死ぬことだってある。

 死と直面し、恐怖に苛(さいな)まれながらも助かる。そして、今ある自分、生きている自分がこの上ない幸せ者と実感する。だからこそ、また山へ行きたくなるのかも知れない。
 我々は日常の中で、直接的にも間接的にも、死と直面するような生活はしていない。原始人に比べると現代人は命に関わるところで、凄くリスクの少ない生活をしている。
 だから、生きているという実感の少ない日々にいることに気づいていなし、「安心」という椅子にどっぷりと座っている自分が見えない存在なのだ。      
 小屋の中で、「助かった」「生きている」という思いをじ~んと味わいながら、ふと頭に手をやると、そこにはワンダーとかいうメーカーの、金属製ヘッドランプが今にも消え入りそうな光りを発しながらあったのである。                  
 それだけではない。胸のポケットには、首から垂れ下げたナイフと金属製の雪温計が入っていた。
 さらにはベルトの止め金はまさに金属、ニッカーズボンの裾止めも丸い金属の輪であった。またスパッツの編み上げフックも然り、登山靴のフックも同じである。
 雷様が自然の法則に従って、もう少し強力に暴れていたら、我々なぞ、一体どのような逃げ方が出来るというのだろう。
 便利さの追求によって生れた、おびただしいほどの金属製品や部品から、我々は解放されることはないのだろう。そして、それらを雷様も大好きなのである。
 これでは娘ひとりに男が数十人だ。取り合いをしていたら戦いは収まらないし、我々が神に勝てる術もない。
 便利さとの決別だけが、かみなり様と争わないで共存出来る手立てだろう。

 もちろん、その後、外に置いてきた時計とピッケル、それにザックを取りに戻ったことは言うまでもない。                     

「寒雷の夜半の火柱畏れ病む(森川暁水)」という俳句がある。私が受けた「火柱」を巧みに詠み出していると思われるので載せてみた。

十勝岳連峰・上ホロカメットク山で発生した雪崩とその事故について考える(4)

2007-12-04 07:18:25 | Weblog
(今日の写真は、岩木山に咲く「シロバナミチノクコザクラ」である。今日は本文が長いので花の解説文は省略する。この「岩木山の特産種」である「ミチノクコザクラ」の変異型の可憐な白い花を、亡くなった日本山岳会北海道支部の4名の方々の鎮魂に供したい。)

(承前)
     ■ 十勝岳連峰・上ホロカメットク山「雪崩遭難」に関する検証 ■

■検証9 「パーティを組み、トップを交代しながら進む」形体の登山と「単独行」との関連性が理解されていたのか ■

 「ワカン」登高でも「スキー」登高でも「単独行」であるがゆえに、途切れることのない「雪質」の変化に気づくものだ。いずれにしても「単独行」の場合は「雪」との全身をかけた闘いとなる場合が多いから、「雪質」や「積もり方」の異変には敏感に反応するのである。
 「雪質」が湿っぽくなったとか、サラサラと乾いたものになってきたとか、柔らかくなったとか、霰(あられ)状になってきたとか、結晶が大きく集まっているものに変わってきたとか、軽くなったとか、重くなったとかなどの微妙な変化を感得しながら登高は続けられるのである。
 「積もり方」が多くなったとか、吹き溜まりが目立つようになってきたとか、深く埋まるようになってきたとか、浅くなってきたとか、最下層が固くなってきたとか、踏み抜く都度に抵抗が出てきたとか、その抵抗も踏み抜きに2度あるとか3度あるとかなどの変化によって「弱層」発見の目安にしたりする中で登高は続けられるのである。
 これら感得されたすべての事象を総括しながら、「雪崩の発生」を予知し、「雪崩を避ける」手だてを講じながら「ワカン」にしろ「スキー」にしろ、「ラッセル」登高は続けられるのである。
 だが、残念ながら、「新聞情報」による限りでは「日本山岳会北海道支部パーティ」の行動には以上のようなことは何一つ発見されない。
 「パーティ」を組んで登高することを否定するのではない。交代交代でトップを務めながら行われる「登高」を否定するものでもない。
 言いたいことは「パーティを組み、トップを交代しながら進む」形体の登山に参加する前に、「メンバー」は「単独行」での「ワカン」や「スキー」による「ラッセル」を十分こなしておくということである。そして、上述したような「雪質」と「積もり方」の微妙な変化が体感できるように、その変化から「雪崩発生」を「予知」できるような力量をつけておくということである。
 「パーティを組み、トップを交代しながら進む」形体の登山では、「トップ」を務める時間と距離は短いものだ。しかも、「トップ」の体力的な「負荷」は、「ラスト」を0とすれば、10という激務である。「短く」しかも「激務」であるから、微妙な多くの変化に気づかず見落とすという弱点を持っている。だからこそ、「メンバー」は「単独行」での「ワカン」や「スキー」による「ラッセル」を十分こなしておくことが求められるのである。
 20~30年の経験を持つ「ベテラン」といわれても、冬山登山に関しては「単独行」での「ワカン」や「スキー」による「ラッセル」を十分こなしていない者は、決して「ベテラン」ではない。この遭難現場となった「十勝岳連峰・上ホロカメットク山」が「冬山」登山としては「初体験」である者も「ベテラン」という意味は持たないだろう。

 私は34年間連続して年末岩木山登山をしてきた。毎年、12月には3~4回にわたって「ワカン」を使って「ラッセル」訓練をしていた。
 ある年のことだ。岳温泉神社からの登山道は、入り口から既に膝上の深雪であった。15キロを越えるザックを背負っていたものだからアルバイトはきつかった。だが、その日のうちに頂上へ行って帰ってくる自信はあった。                
 その訓練の時、同じバスから降りた登山者がいた。後で解ったことだが、弘前大学医学部山岳部の5人パーティである。彼等は「スキー」登山だった。私より少し遅く出発したようだが、私のラッセル跡を辿っていながらも、私を追い越して行ったのは、夏道分岐のちょっと手前であった。
 「ワカン」に比べると「スキー」は楽であるし、その上スピーディであるが、危険でもある。だからこそ、毎年の12月に入ってからの訓練はいずれも「ワカン」だった。その前の年も「ワカン」だった。そして、日帰り登頂は完璧に可能であった。

■検証10 「スキー登山」であったということを考える・山スキーのデメリットを実地的に理解していたのか ■

 この登山メンバーは最初12名であった。11名がスキーで残りの1人がスノーシューであったという。ところが、深い雪のため、「スノーシュー」で参加した人は「行動」不能となり、引き返した。「ワカン」にしろ「スノーシュー」にしろ、スキーに比べると埋まり方が深く、負荷が大きい。スキーは負荷が少なく軽いのである。
 この時点でリーダーは判断をするべきであっただろう。その判断にはスキーの持つデメリットを十分反映させる必要があったのである。
 「スキー」は「速登」と「速降」するのにとても便利な道具である。岩木山の場合、単独でも特別、軟雪の上、深い雪でなければスキーを使うと日帰り登頂は出来るようだ。もちろん、だれにでも出来るというわけではない。それなりの体力と技術は要求される。
 実際に「ワカン」使用だと、軟雪の上、深い雪という条件下では丸一日かかるだろう。ひょっとすると、最低一泊は必要であろうし、時には2泊を要するかも知れない。かつては2泊3日が楽しみながら、冬の岩木山を登る定番的な日程であった。
 スキーを使うことで日帰り登頂が出来るのは、滑面にシールを装着することで、下りには滑るが登る時には、後ろに下がらないという機能に負うところが多い。つまり、「ワカン」は歩くことであり、スキーは滑ることにその基本がある。
 この基本的な違いが「速さ」となって現われる。速さは雪との抵抗値、あるいは摩擦値が小さいことに依る。雪との抵抗値は「ワカン」を装着した時のそれと比べると問題にならないほど小さい。
 スキー登山は、スキーを滑らして運ぶことで高度を稼ぎ、自身の重さと荷重を上に移動させるというものだ。ここに抵抗値の違いが出てくる。                
 スキーを操作する人は、スキーという乗り物のエンジンであり、荷物であり、運転者である。一人で三者を兼ねなければいけない。
 しかも、その行動が静的な部分と動的な部分という相矛盾する要素を持ちながら、全体としては動くのである。加えて、遅い動きではなく、速いのである。
 速さは加速度的に物理的な負荷を多く大きくしていく。これがあらゆる危険に結びついていくわけだ。その上、山には道路交通標識も信号機もない。だから、時には運転者自身が標識や信号にならなければいけない。

 それにしてもスキー登山は「ワカン」登山に比べると楽である。スキー登山で、輪かん登山と同じような負荷を得ることは、もちろん可能である。それはひたすら速く、猛スピードで登高する場合に限られるであろう。
 しかし、そうであっても、「ワカンラッセル」の全身的な負荷に比較すると、ある部分に限られた、つまり心肺機能だけに強くて大きい負荷がかかるに過ぎないだろう。
 あえて、他にスキー登山のメリットを探せば、バランス感覚がつくということと上腕の力が増強されるということぐらいだろう。やはり、長時間に渡る「ワカンラッセル」の方が登山者独特な総合的な力をつけるのには最適だと言える。
 高所登山などを望む者、少なくともアルピニズムを大切にして山行を続けようと考えている人は実行したらいかがだろうか。雪国である。一歩外に出ると雪だらけという恵まれた環境を無駄にすることはない。

 「ワカン」登山に比べて、「スキー」登山の危険性は、次の理由から高いのである。

1. 捻挫等の事故に遭う確率が高い。単純な捻挫でも動けなくなってしまうことがある。
2. 雪崩に巻き込まれる確率が高く、巻き込まれると、スキーが足枷となり脱出が不可能に近い。
3. 視界不能な時の下山では、そのスピード性のためにルートを外すことが多く、それとともに雪庇の踏み抜きや谷や崖からの転落、立ち木や岩壁との衝突などが多い。
4. 直線的なトレースを採ることが多くなるため、雪面に切り込みを入れることになり、新雪上のトラバースでは特に雪崩を発生させやすい。私自身、トラバース中に雪崩に遭った。幸い斜面が短かったので胸程度の埋まり方で済んだ上に、軽い表層雪崩だったので助かった。
5. 積雪に対して「ワカン」よりも間接的な触感から、雪庇などに深く大きく入り込む度合が高く、気づいた時はすでに崩落している場合がある。また、輪かんに比べるとスキーのほうの面積が広いので雪面に対して広範囲に衝撃や負荷を与えやすい。
6.「ワカン」よりも埋まり方が浅いので「雪層」中の「弱層」を体感する度合いが少ない。

 ところで、「十勝岳連峰・上ホロカメットク山」で雪崩に遭遇した「日本山岳会北海道支部パーティ」のメンバーたちは『スキーは「速登」と「速降」するのにとても便利な道具である』という側面にだけ、傾注していなかったのだろうか。
 以上述べた「スキー」の持つ「デメリット」に対して「実地」的な理解がどのくらいあったのであろうか。
 また、雪崩に遭遇することを想定した時、特に「スキー」登山をする者にとってナイフは重大な意味を持つ。
 身体を束縛するすべてのベルトやロープ類は瞬時にして切断出来るナイフを、常に身につけておくべきだ。ザックのポケットなどに入れて置くなどはもってのほかである。首から吊し胸ポケットに入れておくのが一番だろう。
 ただ、だてに首から吊しているだけではいけない。格好だけでなく、すぐに簡単に刃が出せて、よく切れるもので11mmのザイルなど一触で切れるほどに刃は鋭利にしておくことだ。
 ストックやザックのベルト、スキーの流れ止め紐、靴紐、場合によっては靴を切り裂いて足を出さねばならないこともある。
 このナイフに関することは、「ワカン」登山者にも当然言えることではある。
                      (この稿は今日で終わりとなる。)

十勝岳連峰・上ホロカメットク山で発生した雪崩とその事故について考える(3)

2007-12-03 07:00:23 | Weblog
(今日の写真は、岩木山で出会ったボタン科ボタン属の多年草である「ヤマシャクヤク(山芍薬)」だ。図鑑によると「ヤマシャクヤク」は関東・中部以西の本州、四国、九州に分布するとある。しかし、岩木山にも生えているし、青森県発行の「レッドデータブック」には希少種として掲載されている。青森県にもある花なのである。
 ミズナラやコナラ林下の明るい落葉広葉樹林の斜面下部や谷頭などに生育してい。高さは 30~50cmほどで数枚の茎葉をつける。5月中旬に白色の清楚で美麗な花を咲かせる。
 この花も激減した植物である。花が美しいので山草愛好家などによって、手当たり次第「盗掘」された結果である。「ヤマシャクヤク」は「開かれて明るい場所」を好むのである。杉の植林地でも、こまめに間伐してやると「ヤマシャクヤク」が生育出来る明るさになり、復活するかも知れない。
  「シャクヤク」は漢名の「芍薬」の音読みである。中国では薬草として栽培されていた。「ヤマシャクヤク」は「山」に咲く「シャクヤク」という意味である。
 この美しい白い花を亡くなった日本山岳会北海道支部の4名の方々に供したい。)

(承前)
 この「遭難」から想起される様々な問題点を新聞情報(毎日新聞電子版)に従って、私の雪山経験なども参考に検証してみたい。
 冒頭でこの「雪崩遭難」のニュースに接して「愕然とした」と書いたが、その意味は…
 短絡的だが、どうして、今日のような「雪質や積もり方」の時に、雪崩の頻発する、しかも樹木のない場所を登っているのだということであった。
 私には、この「遭難」には「位置、地形、気象」などの違いを越えた共通する「人為的な要因」を感じてならないのだ。

   ■■ 十勝岳連峰・上ホロカメットク山「雪崩遭難」に関する検証 ■■

 ■検証5 同時に同じ場所に入山していた他のパーティの動向に気を配ったか ■
 
 同時に同じ場所に入山していた他のパーティの動向に対する視点が見られない。雪崩の発生は、その殆どが「人為」的な事柄に起因する。
 「23日も複数の団体が入山、多数の人が雪上を歩いたため雪の層に衝撃が加えられ、雪崩を引き起こす可能性がある」にもかかわらず、そのようなことにリーダーもパーティ全員も注意を払っていた形跡がない。これも毎年来ているという安心感からであるとすれば「自然」をとらえる目を持っていないと言われても仕方がない。

        ■検証6 「弱層」発見のテストをした形跡がない ■ 

 さらに、「弱層」発見のテストもしていない。雪崩発生が予知される場所では「弱層」の発見のため積雪を50cm角に切り出して、その雪層に「異層」があるかどうかを検証することが常識的なことだ。固い「異層」があればそれが「弱層」と呼ばれるものであり、その上に積もっている雪面は、早い時間に「雪崩」となって滑落する。 この手法を知っていたのか知らなかったのかは定かではないが、しなかったのだから明らかに「手抜き」である。11人パーティである。2、3人が「弱層」発見のテストをしてもいいのではないのか。
 そして、25日の調査で、雪の斜面から深さ0.6mの所に厚さ1cmの霜状の「弱層」が発見されているのである。

■検証7 持ち分や役割を分担するという中での「自己責任」はどうだったのか ■

 思うに、このパーティは持ち分や役割を分担するということに欠けているようだ。ひょっとして、ハードな「踏み跡(通り道)」造りをも、その時点で「トップ」である鈴木さんに任せきりだったのではあるまいか。そのような懸念さえ持ってしまうのである。

 また、パーティ全員に「雪崩」などに対する危機意識が希薄だったのではないのかという懸念も抱くのである。何となく甘えの集団であるという雰囲気が読み取れる。これは当該支部全体のムードだったかも知れない。
 このことは次のことからも推論することは可能だろう。
 死亡した助田陽一さんについて、会員の海老名名保さんは「いつもリーダーかサブリーダーとしてパーティーを引っ張る、責任感の強い人だった。奥さんといつも一緒だった。被災したことがまだ信じられない」と語っている。本来、パーティ行動の場合は、夫婦での参加は遠慮するのが一般的である。しかも「いつもリーダーかサブリーダーとしてパーティーを引っ張る、責任感の強い人」として位置づけられているわけだから、そこにはとりわけ、客観性が要求されるのである。「リーダーかサブリーダー」として参加する時は、主観的な立場にならざるを得ないような「身内」の参加は断るのが筋であろう。
 このようなことが許されてきたところに、当該山岳会の甘さを見ることが出来るように思える。登山行動には「なれと甘え」があってはいけない。

■検証8 ビーコンの装着と使用の習熟がなされていたのか。ビーコン・ゾンデ棒・スコップという3種の道具で機能がが最大になる。ゾンデ棒やスコップは用意していたのだろうか ■

 4人中2人がビーコンを装着していても、そのビーコンが発信する信号をキャッチする訓練がなされていなければ、ちゃんと受信できる能力がパーティ内の他のメンバーに備わることはない。装着する意味がないことになる。
 発信装置に内蔵されているアンテナは「ダイバシティ」型にしろ「バーチカル」型にしろ偏波特性がある。さらに、この機器は相互に干渉し合う性質もあるので、位置によっては受信感度に斑(むら)があるものだ。
 この斑、すなわち「特性」を熟知していないと「埋まった人」が送信する電波を短時間に補足することは出来ない。事前に何回も補足のための訓練をしていなければ、「ビーコン」はただの「物」に過ぎない。
 埋まった人の発見には雪中に差し込んで探すためのゾンデ棒が必要である。そして掘り起こすためのスコップも必要である。この3つがうまく使われることで発見が早くなる。「2時間後に発見」では遅すぎるのだ。 
                          (この稿は明日に続く。)

十勝岳連峰・上ホロカメットク山で発生した雪崩とその事故について考える(2)

2007-12-02 05:59:26 | Weblog
(今日の写真はバラ科キイチゴ属の蔓性小低木の「ヒメゴヨウイチゴ(姫五葉苺)」である。
 私はかつてこの花に「 若き霊の昇華、ブナ林床に咲く白銀の残照」というキャプションを付けたことがある。
 それは、この花に昭和39年1月に秋田県立大館鳳鳴高校の山岳部生徒4名が遭難し命を落としたことを慰霊する碑のある樹齢数百年のブナの原生林下で出会ったからである。
 大木に抱かれ、永遠の命のように存在していた慰霊碑。そして、それは暖かみさえ感じさせていた。ブナの社に鎮座し、柔らかな苔に覆われ緑をまとい、いつもしっとりと潤いに満ちあふれていた慰霊碑であった。
 しかし、今はその面影はない。スキー場のゲレンデとなっているからだ。
 「ヒメゴヨウイチゴ」は中部地方以北の亜高山帯の樹林下に生育している。葉は長い柄をもち、小葉は5枚。白い花弁はへら形で、あまり開かない。花弁も萼片も7個もある。果実は赤熟する。「ゴヨウイチゴ」の枝や萼には刺があり萼片は5個だ。だが、ヒメゴヨウイチゴには棘が無い。
 名前の由来は小さく繊細な感じを与えるゴヨウイチゴという意味であり、「ゴヨウ」は「五葉」で、葉が5小葉からなることによる。別名を「トゲナシゴヨウイチゴ」ともいう。
 足許にきらりと光る白銀の残照があった。それは、ブナ林床に咲く若き霊たちの昇華。日本海側の豪雪地、ブナ林内に咲くヒメゴヨウイチゴだった。この花を亡くなった日本山岳会北海道支部の4名の方々に捧げたい。)

(承前)
 この「遭難」から想起される様々な問題点を新聞情報(毎日新聞電子版)に従って、私の雪山経験なども参考に検証してみたい。
 冒頭でこの「雪崩遭難」のニュースに接して「愕然とした」と書いたが、その意味は…
短絡的だが、どうして、今日のような「雪質や積もり方」の時に、雪崩の頻発する、しかも樹木のない場所を登っているのだということであった。
 私には、この「遭難」には「位置、地形、気象」などの違いを越えた共通する「人為的な要因」を感じてならないのだ。

   ■■ 十勝岳連峰・上ホロカメットク山「雪崩遭難」に関する検証 ■■

   ■検証1 メンバーの力量とキャリア・遭難した人たちのキャリア ■

 助田さんと鈴木さんは日本山岳会に入って9年目。鶴岡さんは04年の入会、吉沢さんは今年4月にメンバーになったばかりだった。
 言ってみれば、吉沢さんは、この組織における「上ホロカメットク山での雪上訓練」にあっては、初参加の「初心者」と位置づけられる。
 新聞情報によれば「4人はいずれも登山歴30~40年のベテラン」「会員メンバーは登山歴20~30年のベテラン」「経験を積んだベテランが多いが、60~70歳で冬山に挑戦する人も珍しくない」という。
 果たして、今回の「雪上訓練」に参加したメンバーは、本当に冬山登山に耐えうる「経験と力量」を備えていたのだろうか。
 新聞では「4人はいずれも登山歴30~40年のベテラン」としているが、ただ「長い年月登山をしている」だけでベテランとすることに私は違和感を持つ。
 本物の「ベテラン」とは長い「時間的な経験」と「体験的な力量を備え、その場その場で臨機応変に対処出来ること」を兼ね備えた人を指すべき言葉だ。夏場に有名な山を列をなして何十年登ろうが、本物の「ベテラン」とは呼ぶべきではない。冬山に登るには「冬山」で訓練を積んで力量をつけるしかないのである。

    ■検証2 非常に雪崩が発生しやすい状況の中で訓練は行われた ■

 鈴木さんは、7、8年前に始まった上ホロカメットク山での雪上訓練も毎年、参加していた。「3日間にわたって降雪があり、非常に雪崩が発生しやすい状況になっていた」し、「現場周辺には雪が崩れるのを防ぐ木が生えていない」状態であった。そのような中で「雪上訓練」の「歩行」が行われていた。
 雪崩の発生時、鈴木さんはパーティーの先頭に立ち、スキーで通る道をつくる役目をしていた。このパーティは全員スキー登山をしていたのである。鈴木さんは、ルートファインデイングをしながら、「踏み跡」を造るトップを務めていたのだ。
 前の日にも雪崩が発生した場所付近であり、さらに、「発生の10分前に、昨日に起きたとみられる雪崩の堆積(たいせき)物を見つけた」という、そのデブリが残されている場所で、スキーによる「踏み跡」をつけて、後続する者たちの「通路:ルート」造りをしていたのである。だが、一般的にはそのような場所に入らないことが「鉄則」であろう。
 「デブリ」の上部には崩落せずに残っている「雪面」や「雪塊」があるものだ。雪面に「亀裂」が入り、その下部から崩落が始まり「雪崩」となり、「亀裂」の上部は「残置」していることが多い。だが、このような事象に注意したり、配慮したという形跡は全くない。

  ■検証3 「毎年の雪質等の違い」などの関わる調査記録をとっていたか ■ 

 「トップ」で「スキーで通る道」を造っていた鈴木さんは「7、8年前に始まった上ホロカメットク山での雪上訓練も毎年参加していた」そうだが、そうだとすれば今回の「訓練現場」の異常にどうして気がつかなかったのだろう。
 雪山は置物のように悠久不変で存在するものではない。昨日のように今日があるわけではないのだ。7、8年間いつも同じ「積雪」「雪質」であるわけがない。毎年違うのであり、日々違うのである。この山岳会には過去8年間のこの場所での「違い」についての調査記録があるのだろうか。
 上ホロカメットク山は初冬から雪崩が頻発する地域として知られている場所である。そこに毎年同じ時期に入山していながら「毎年の雪質等の違い」などに関わる調査記録がなかったとすれば、それは手抜きであり、冬山の危険を無視した行為であるとしか言いようがない。
 このような綿密さに欠ける行為は、「毎年来ているのだから、大丈夫」という「安心」の上に成り立つことが多いものだ。毎年といってもそれは1年に一度のことであるが、自然は、特に雪の状態は分刻みで変化する。「毎年来ている」ということは安心や安全には本来結びつかない。

 ■検証4 「危険度の高い場所」でのルート造りは「トップ」任せでいいか ■ 

 一方、「危険度が高い」と判断される場所では「トップ」を務めるのは普通はリーダーであるべきではないだろうか。そのような場所で踏み固められていない場所に入り、「危険か安全」を判断するのはリーダーの役割である。
「発生の10分前に、昨日に起きたとみられる雪崩の堆積(たいせき)物を見つけて」おきながら、この基本的なルール(約束事)がなされていなかったことも問題にされるべきである。
 また、リーダーは「(登山ルートが)尾根の末端だったため大丈夫だと油断してしまった。反省している」と語っているが、この「尾根の末端だった」から大丈夫と考えること自体にも誤りがある。リーダーが語るように「雪があれば雪崩はどこでも起きるもの」なのであり、その「判断ミス」を認めている。
                          (この稿は明日に続く。)