岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ヤドリギの森

2007-12-15 05:16:52 | Weblog
(今日の写真は赤い実をつけているヤドリギである。写真が小さいので、赤い実は見えないかも知れない。ただ、雪の「帽子」を戴いていることは分かるだろう。私はこの時、行動を中止して、じっくりと眺めたものだ。厳冬、寒気、凍てつく中の生命に触れた思いだった。これは百沢登山道尾根の南西の端、毒蛇沢の左岸近くで出会ったものだ。
 ところで、ここ数ヶ月、山行を共にしているTさんが、明日16日に百沢尾根を登り、焼け止り小屋まで行くそうだ。
 誘われたのだが、実は、明日はNHK文化センター講座・津軽富士・岩木山開講の日で講師を務めなければいけないので残念ながら同行は出来ない。一緒に行けばきっとこの写真の「ヤドリギ」に出会えるはずである。
 明日の講座の主題は「岩木山の気象」である。講座では「雪崩」についても触れる。この時季は、雪が「落ち着いていない」つまり、「締まっていない」ので、非常に危険なのだ。
 Tさん、気をつけてほしい場所は、「石切沢から尾根に取りつくところ」、「ハナコグリの斜面」、ここは樹木のあるところを探しながら登ってほしい。
 「姥石から焼け止り小屋までは、徹底して尾根の中央部を登高」してほしい。決して左右の沢筋には近づかないことが肝要だ。
 また、スキーを踏み込んだ時、若干固い感触があれば、しかも「割れる」感触を覚えたら、そこには「弱層」があるので、静かに引き返してほしいのである。
 出かける前に、是非、このブログの12月1日から4回シリーズで掲載した「十勝岳連峰・上ホロカメットク山で発生した雪崩とその事故について考える」を読んで下さい。出来れば、その前に数日にわたって掲載した「私はもはや「単独行」登山者ではない・2007年11月23日岩木山松代登山道尾根を登る」も読んでから出かけてもらえると「雪崩」を回避する手だてのようなものを理解出来るかも知れません。
「ヤドリギについての解説は本文を参照のこと」)

               ■■ ヤドリギの森 ■■

 12月も中旬、ちょうど今頃の岩木山登山は、スキーを使うにしろ、ワカンを使うにしろ、決して「楽」な登山ではない。それは積雪の最下層が凍結していなし、圧雪状態になっていないからである。
 冬枯れの木立に向かって、林縁をひっそりと行く。散り残っている柏の大柄な葉ががさがさと鳴り、まばらな尾花の植え込みがゆっくりと大きく揺れる。
 それを合図にでもしたかのように灰色空の一画が少しだけ開かれ、陽光が斜めに射し込んで、ミズナラの木々を照らす。
 思わず目をみはる。吹き抜けていく風だけを受ける枝に、まりもに紛う、こんもりとした黄緑のかたまりが浮かんでいる。
 近づいて見る。枝々に取りついたヤドリギの群落は明るく輝いていた。その空間に浮かぶ植え込みは頭にわずか雪を戴いて、赤い実を命として全方向にほとばしらせている。そこは冬枯れの中の楽園、生き物の群れ集うところだ。

 尾が短く小太りで長い冠羽を持った冬鳥のキレンジャクが、間もなく群れをなしてやって来るだろう。それから、かぼそい声でちりちりと鳴きながら、この実を食べるはずだ。
 そして、種子をそのまま糞として排泄する。この実には粘り気があるから、糞の中の種子は垂れ下がって、ほかの木の枝や幹に付着し、発芽するのである。
 そして、そこもまた、ここ同様に、ひと季節早い緑の楽園になることだろう。
 これはアカミヤドリギである。11月から12月にかけて、豆粒ほどの実は淡い赤色に熟し、粘りのある液汁を出す。
 花は小さな黄色で、枝先の黄緑の葉の間に、ほかの木々がまだ葉をつけない4月頃に咲くのだ。
 宿を提供する樹木は、岩木山ではブナ、ナナカマド、ミズナラ、そして、クリ、サクラなどだ。追子森登山道途中にある「水道施設」の周囲には高木のブナがあり、それらは沢山の「ヤドリギ」に「宿」を提供している。「ヤドリギ」の観察は11月から3月頃までが最適である。
 何故ならば、彼女たちは「冬」も枯れないからである。その上、宿を提供してくれる「樹木」が葉を落としてくれるのでよく目立つからである。ここのヤドリギの集団林は見事といっていい。だが、残念ながら、余りの高木ゆえに「ヤドリギ」は遠目になってしまい「赤い実」も小さな「黄色」の花も見えない。
 岳登山道のブナ林に入る手前の雑木林のミズナラに多く見られる。こちらはそれほど高木でないので、実を確認することは可能だ。
 ヤドリギを追うと、キレンジャクのこの地域における渡りの道が分かろうというものだ。

 上空の灰色の一画から少しだけ、青空がのぞいたりする。明るく輝くヤドリギの群落を眺めながら、ふと…(はんの木とまばゆい雲のアルコ-ル/あすこにやどりぎの黄金のゴ-ルが/さめざめとしてひかってもいい )…という賢治の「冬と銀河ステ-ション」の一節を思った。
 ハンノキは高さが20mにもなる高木である。しかし、別にミズナラでも不都合はない。まさに目の前の風物が賢治の世界に重なる。
 青空がのぞく雲は、実に冷たいまぶしさを持っている。これが、さわやかさとエチルアルコ-ルの清涼感を連想させる。さらに澄んだ青空の冷気をも感じさせるのだ。 さめざめとは、一般的には涙を流して泣く様子であろうが、ここではしっとりと輝いていることと理解しよう。
 理想的な未来に向かう物の象徴として用いられる賢治の「鉄道」は、軽快に黄金に輝くヤドリギが示すゴ-ルを目指す。黄緑色の小さな花をつけたヤドリギは、暗うつな冬日の中の黄金色に輝く未来の目的地にほかならない。
 そこは賢治の言うイ-ハト-ブなのであろう。イ-ハト-ブは「あらゆることが可能」で「罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている」ところであるとされている。
 イ-ハト-ブでは輝くことが条件であり「かがやいて」いることは、そのものが望まれる形で存在していることの証しなのだ。イ-ハト-ブのイメ-ジは、賢治が生まれ育った実際の岩手という地方とその現実を背景としていることに、疑いの余地はない。

 そうなると、…いま、私が見ている岩木山麓のヤドリギの森も、イ-ハト-ブに違いない。いや、私だけではあるまい。この津軽の地で、岩木山を原風景として、日々を営んできた者すべてにとって、岩木山自体が、イ-ハト-ブであるはずなのだ。
 賢治の見たヤドリギは、冬の終わりの3月頃、葉の出る前に穂状花序で、黄緑色の花をまばらにつけるホザキヤドリギであろう。主にハンノキに寄生し、花は尾状に垂れ下がり、一緒に前年の果穂が残っていたりもする。
 ハンノキといえば「ミズバショウ沼」の畔沿いに生えている「ヤチハンノキ」にも、ヤドリギは着いている。私は、空中に浮かんで光っているヤドリギの群落を見詰めながら、またヤドリギのことを思った。