岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった

2007-12-23 05:05:34 | Weblog
(今日の写真は水無沢左岸尾根が昨日のものよりよく分かるものだ。「6月のある日、一周移ろいの岩木山」というコンピュータのファイルに入っていたものである。「岩木山一周歩こう会」というものを今から30数年間に、私の発案で始めて、現在も続いている。この写真は数年前に参加した時、百沢の岩木山神社前から写し始めたもので、弥生を少し過ぎた辺りからの撮ったものである。手前リンゴ園の奥に見えるこんもりとした緑の山の「稜線上」に「廃道化」した古い登山道がある。いや、あったのだ。
 …承前… 
 この登山道は、弥生登山道が「開鑿:かいさく」される以前から、山麓の船沢地区や高杉地区の人たちが利用していた。かなり、古いもので、恐らく藩政時代からのものではないかと思われる。少なくとも戦前までは、や地区ごとに「自分たちの岩木山登山道」を持っていて、営々と整備をしてきたのだろう。
 しかも、「登山道を造る場合のセオリー」に適っているのである。起点は現在の弥生登山道と同じである。弥生登山道は「大黒沢」を跨いで大黒沢右岸尾根に取りつくのだが、こちらは「大黒沢」沿いに進み、「水無沢」を跨いで「水無沢の左岸」に取りつくのである。
 そして、一気に左岸稜線に駆け上がって、あとはひたすら「稜線」沿いに登る。「水無沢爆裂火口」北側の岩場までは、稜線から外れない限りは決して「迷う」ことがない「分かりやすさ」なのである。「明日に続く。」

■■弘前市12月議会の最終日・傍聴席で…B議員はまるで粗野な父を諭す優しい息子のようだった(その1)■■

 B議員は、議案第116号 弘前市都市公園条例の一部を改正する条例案について、「反対」の立場で登壇し意見を述べた。
 まずその態度と印象を紹介しよう。
 …誠実である・自分が言っていることを聞き手に押しつけるのではないが、精一杯相手に理解して貰おうと努めている・主題を説明するのに使う例話が的確であり、わかりやすい言葉を用いる・論理が明確で、飛躍と短絡がない・聞き手が関心を持っていることで話題造りをして引き寄せる・ユーモアのあるエピソードを入れながら話しを進める・穏やかな語り口である・落ち着いており、沈着である・話題が実証的で、かつ良識を備え、知的な教養に支えられている・人間としての「哲学」や文化人的な「人間性」を備えているなどなどである。…
 余り書くと、三浦がまた、口から出任せを言っていると思われそうだから、このくらいで止めておこう。
 私は議員の質問や意見の陳述を今年の6月議会から毎回、見て聞いているが、この21日の「一般質問と意見」では、とりわけ、上述したようなことを感じたし、さらに「粗野な父を諭す息子のような優しさ」を感じたのである。
「議場」という場所は、本来無味乾燥で無機質な空間ではないはずだ。だが、これまで垣間見てきた弘前市議会の議場では、「質問」もそれに「答える事柄」も、すべて「事務的」で、書類を読むだけの音声発生器に過ぎず、「人が語っている」にもかかわらず、そこには生身の「人の顔貌」がなく、冷たい策略と多数による横暴しかなかった(これは未だにある。A議員は標的にされている)。
 その中で、昨日のA 議員や今日のB議員は、生身の人間の暖かい思いと優しい市民へのまなざしを持って、議場に立っているのである。まさにそれは、この議場に欠けている優しさと真摯という「異質」である。
 とかく、旧態依然の社会では「異質」を排除したがる。だが、「異質」は悪いことではない。違っていることは悪いことではない。私たちは、自分以外の人間に「異質」を見いだすことで、それと自照することで「自分」を見直すことが出来るのである。

「金子みすゞ」は「わたしと小鳥と鈴と」という詩で次のように詠った。

わたしが両手を広げても/お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように/地べたを早くは走れない
わたしが体をゆすっても/きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴はわたしのように/たくさんな歌は知らないよ
鈴と小鳥とそれからわたし/みんな違って/みんないい

 他人の個性を、その「異質」を認めることの出来ない人間がどうして、自分の個性に気づくだろう。自分の個性を他人に理解されることがあろうか。
 市民の付託に答えることが市会議員の仕事である。これを正面からまっとうに受けたならば、他人の個性を、その「異質」を認めることの出来ない人間は、市会議員をするべきではない。
 なぜならば、多数多様な「個性」を持つ市民の「付託」に答えることが出来ないからである。現職の市会議員が「みんな違って/みんないい」ということに気づかないとすれば、それは直ちに、自ら「職」を辞すべきだろう。「辞する」必要のない者は、34名いる現職市会議員の中で、このA、B議員以外に数名もいないだろう。

 B議員は12日の議会でも次の4点について質問をし、意見を述べている

1.「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」について
2.安全・安心のまちづくり-市の防災に対する取り組みについて
3.「市町村子ども読書活動推進計画」について
4.入札制度について

 以上の項目に関する「質問をし、意見を述べる」中にも、B議員の姿勢はよく出ていた。
1.2.については省略するが…
3.については、議員本人が調査をした「実証的な事項」を積み上げながら、「市が取り組んでいないこと」を何とか別な言い方で「誤魔化そうとする」ことを「問い詰め」て、最後は教育長から「取り組んでいない事実を認め、謝罪した上で、これから確実に実践する」という言質をとることをしたのである。
4.「一般競争入札」を否定はしないが、市内の企業で、従業員が弘前市民であり、これまで「弘前市」に対して「貢献してきた企業」に対する「発注」の余地を残すことを主張していた。これも、市内の零細企業、つまり市民に対する配慮、視点が常に「市民」にあることの現れだろう。

 ところで、B議員は21日の「一般質問と意見を述べる」冒頭で次のような意味のことを言ったのである。これは議員の仕事・任務・覚悟、それにとらえようによっては議員の資質についても触れているようで、極めて重要なことである。

 『…まず、議員の職分とはなにか、について、私なりの青臭い考えを申し述べさせていたく。それは、ごく当たり前のことだが、「市民の立場で市民の声を行政に訴えていく」ことだろう。行政の監視、政策の提案等、様々な仕事があるが、その基本は、市民の立場、市民の声だということである。だから、討論についても、敢えて本会議で行うものである。それは「市民の声」を、是非、市長はじめ理事者全員に届けたいと願ったからに他ならない。そこのところを是非お含みおき願いたいと思う。』
 (『 』内の表記は私が勝手に「である調」としたが、実際は「です・ます調」で丁寧な述べ方をしていた。)      (この稿は明日に続く)。