岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

自然の息吹きに触れるということ…(その2)

2007-12-08 06:41:39 | Weblog
(今日の写真も岩木山冬景色だ。さてこれはどこから撮したものだろう。右に大きく張り出している山は「一つ森」である。
 岩木山は、火山本体が成長するにつれてその山腹に噴出した寄生火山を多く持っている。地図で「…森、または…森山」と称されているものがそうである。この名称の由来は偶然の一致なのだろうか。それとも根拠があるのだろうか。
 この寄生火山の列の配置により、見事な円錐形のはずの津軽富士・岩木山も、見る場所によっては、実は歪んだ円錐形となってしまうのだ。
 寄生火山の多くが岩木山の北西側に偏在していることよって東南の方角からの岩木山はコニーデ型の秀麗さを見せるのである。)

(承前)
      ■■「自然」に育まれ、「季節」と遊んだ少年期(2)■■

 川遊びは特別腹の減るものだった。対岸の芋畑やトウモロコシ畑は時々犠牲になった。掠(かす)め取った芋などはパンツの中に入れて泳ぎ渡ったものだ。
 この時期になると気温は高くはない。冷えた身体をたき火が迎えてくれる。暖かい。だが、その実は「芋」を焼くためのたき火なのである。火の炊き方、燃やし方もこのような経験から自ずと身に付いた。
 食べはしなかったが蛙とはしゃがんだ恰好でにらみ合いをして遊んだし、捕まえては小枝で十字を造り、それに磔(はりつけ)て、下で火をたき、火あぶりの刑にして遊んだ。生と死がいつも身の回りにあった。これが自然なのだ。

 里山が今のように切り開かれてリンゴ園になっていなかったし、杉の植林地にもなっていなかった。
 雑木の茂る里山の沢水も清らかでサワガニがたくさんいた。産卵期にはクマイチゴやエビガライチゴの実によく似た美しい卵を腹に抱いていたものだ。それを採っては煮たり焼いたりして食べた。
 飽(あ)きると林間に垂れ下がっている山ブドウの太い蔓(つる)にぶらさがって樹木から樹木へと移動を始める。その時は仲間だけの「叫び声」をあげたものだ。一人一人が野生児「ターザン」になっていた。
 秋になると、よくコナラやミズナラの大木に櫓(やぐら)を組んで、仲間だけの砦(とりで)を造ったものだ。
 土曜日には家を抜け出して、そこで一晩を明かした。天体を交えた自然との四六時を、風のそよぎ、獣の声と足音、鳥のさえずりと共に過ごす週末だった。
 もちろん、ハシバミ、栗、ヤマブドウ、アケビ、コクワなどの「採集」に勤(いそ)しんだことはいうまでもなかった。

 冬も里山が遊びの中心だった。馬そりとバスが通行する幹線道路では、長靴にスケートをつけて滑ったり、馬そりやバスの後部にしがみついて、引っぱられて長距離移動を試みたりした。
 一方、山ではスキーだ。競技スキーではないが、今思えばツアースキーといえるようなものだった。
 スキーは楓(かえで)などの一枚板だった。ビンデングはもちろん皮革製で、留め金具は今のステンレスやチタン製腕時計の留め金具と原理的には同じものだった。ただ、それは少し硬めのブリキ細工みたいなもので、とても壊れやすかった。だから、思い思いに皮バンドや紐で補修をしながら使っていた。壊れると修理して使うのがあたりまえというのも、子供の世界だった。
 そのスキーをつけて仲間で山に向かう。トップが行くとおり進むことがきまりになっていた。
 トップは様々な「難所」を用意して、それをクリアして進んで行く。川を渡る。スキーを上手に橋状にしないと落ちてしまう。スキーを引っかけながらも藪混じりの雑木密集帯を行く。沢を登り、雪庇(せっぴ)をよじ登ってミズナラの高木帯に入る。なだらかになるとそこは山頂だ。
 そこまでは体力がありさえすれば、何とかついていけるのだが、下りになると、そうはいかない。
 トップに立つ者は大体が「腕に覚えあり」という者だった。スキーのあらゆる技術に秀でている。
 樹間の大回転や回転が続くこともある。スノーボーダーがやるハーフパイプのような地形をスピンやインヴァーテドイアー紛(まが)いをしながら滑り降りるところもある。
 または、雪庇の先端から直角に降りたり、スキーがようやく載るくらいの棚や切り立つ斜面をトラバースしたりするのである。
 恐怖感やら未熟なためについていけずに転倒したり、滑落したり、遅れたりしたら、次から仲間には入れて貰えないという「厳しい掟」が待っている。
 だから、否応なく、知らずして冬の「地形」を学ぶことになっていた。自然の中で「自然」に自然を体得していたのである。

 春先、堅雪になり出す頃、北西の季節風は日ごとに強くなる。凧揚げの季節だ。堅い雪に覆われた田圃が凧揚げの場所だ。
 冬場に藁(わら)を打って、凧の尻尾となる縄を綯(な)った。縄を綯うのも子供の常識的な能力だった。「ニシ四枚」(凧の大きさを表す単位)ほどの大きさになると、この尻尾もかなりの長さになった。
 長い尻尾を強風の中、ゆったりと揺らして、凧は「ブンブ」(凧の頂部の骨格に弓状に張った糸に厚い和紙を貼り、それが風を受けて振動し、音を出すという装置)を振るわせ、武者絵に合わせて低く唸った。
 風を読み、糸の角度を微妙に変えながら「揚力」を理解し、凧と遊びながら風と競った。そして、「風力」を、「物理学的な揚力」を自然の中で学習した。
 風は相変わらず強いが、天空から凧の姿が消えていく頃、雪解けの季節が始まる。太陽の暖かさを含んだ風は、気化を急がせて積雪をどんどんと融かす。
 その雪解け水をはった田圃が山懐の谷合いや麓の平地に広がっていく。
 子供というものは、どんな自然の変化をも見逃さないで、それを自分たちの遊びやその手段にしてしまうものだ。だから、この水に包まれていて、何もない開けた水田を放っておくはずがない。(明日に続く。)