(今日の写真は冬の岩木山だ。これは2月中旬に私の家から撮ったものだ。寒い朝だった。夜が明けて間もなくの時間帯で、気温は氷点下9℃であった。
その頃はまだアマチュア無線をやっていて「朝早く起きて」はCW通信で外国局と交信していたものだ。そのキーを打つ手を一寸休めて西側の窓から外を覗いたら「薄赤く染まる」岩木山が目についた。
岩木山全体が朝焼けに染まっているのだが、道路上からでは、全体が捉えられない。思いあまって、私は高さ20mのアマチュア無線用タワーによじ登った。これはその時の1枚だ。)
■■冬の登山、雪崩も怖いが雷さまも怖い、時計は外したが頭にブリキ製のヘッドランプが…■■
かなり古いことで、12月上旬ごろの話だ。確か、土曜日。その当時の勤務校は五所川原市だったから、帰宅したのは16時を回っていた。それからバスで百沢へ。夏道コースを登り始めた頃には既に18時に近かった。
どだい、冬山だというのに、この時間に登ること自体が間違っている。冬山は遅くとも15時前に行動を終っていることが肝要なのだ。
若さゆえの無謀登山、常軌を逸した行動、若さでなく「馬鹿さだ」と皮肉られても、曳(ひ)かれ者の小唄も出ないだろう。
土、日は山。それが私の暦だった。とり憑かれていた。何があっても土、日曜日には山にいないと気がすまなかった。そして、その晩も焼止り小屋に一泊し、翌日、天気によっては山頂へ行こうというパターンであった。
その年にもよるが、12月上旬というのは、まだ積雪がしまっていず、柔らかく、崩れやすく、深いのである。しかも雪の下や中のブッシュに「ワカン」が取られてしまう。だから夏場の何倍ものアルバイト量になる。
いくら、若い頃とはいえ、「ワカン」を着けて単独のラッセルは、しかも暗がりの中では、なおさら、きついものであった。
20時を過ぎた頃である。そろそろ小屋も近い。登りはじめから、ずっと雪が降っているこの尾根で、お定まりの左からの冷たい風を浴び続けていた。
ところが、ふと風がおさまりかけたのである。そうすると、ヤッケの上をバラバラと小刻みに叩くものが、ヘッドランプにパラパラとぶつかるものが、そしてピッケルのブレードにコツコツとあたるものが降ってきた。
掌を広げてそれを受け取って、ヘッドランプに照らして見る。霰(あられ)だ。雪が霰に変わっている。登るに従い、雪はますます冷たく乾いたものになる。これが「この時期の岩木山」のはずだ。
妙だ、おかしい。標高が高くなっているのだから、気温は下がるはずだ。霰は気温が高くなると発生する。
その時だった。進んで行こうとする方向が、一瞬真昼のような明るさになって、目の前に青白い雷光の柱が、ドカンという大音響とともに立った。私は跳ね飛ばされ、身を雪の中に平らにして俯(うつぶ)した。それしか出来なかった。
雷が近づいてきたら「金属類は身体から離す」などはまったくの絵空事だった。そんな余裕を与えてくれるものではない。
私はその明るさの中に焼止り小屋の影を見ていた。ああ、小屋のすぐ前ではないか、とまずは一安心はしたものの、まさか、この時期に雷様がお遊びなさるとは思いもよらなかったのである。
今度は冬尾根の方角で、ピカッ、ド~ンである。もう紛れもない。雷だ。
それにしても、身についた金属類は身体から離すという習性的観念とは恐ろしいものだ。私は余裕のない中でも、時計を外してピッケルバンドに結び、それを思い切り横へほうり投げた。
それからザックを外して、そこに置くや、もう滅多やたらにラッセルをして、小屋に逃げ込んだのである。山の霰は雷を呼ぶということで怖いものだ。
助かった。標高1060m程度の高さだって、命がけのことはあるのだ。雷様の気まぐれに付き合っていると、死ぬことだってある。
死と直面し、恐怖に苛(さいな)まれながらも助かる。そして、今ある自分、生きている自分がこの上ない幸せ者と実感する。だからこそ、また山へ行きたくなるのかも知れない。
我々は日常の中で、直接的にも間接的にも、死と直面するような生活はしていない。原始人に比べると現代人は命に関わるところで、凄くリスクの少ない生活をしている。
だから、生きているという実感の少ない日々にいることに気づいていなし、「安心」という椅子にどっぷりと座っている自分が見えない存在なのだ。
小屋の中で、「助かった」「生きている」という思いをじ~んと味わいながら、ふと頭に手をやると、そこにはワンダーとかいうメーカーの、金属製ヘッドランプが今にも消え入りそうな光りを発しながらあったのである。
それだけではない。胸のポケットには、首から垂れ下げたナイフと金属製の雪温計が入っていた。
さらにはベルトの止め金はまさに金属、ニッカーズボンの裾止めも丸い金属の輪であった。またスパッツの編み上げフックも然り、登山靴のフックも同じである。
雷様が自然の法則に従って、もう少し強力に暴れていたら、我々なぞ、一体どのような逃げ方が出来るというのだろう。
便利さの追求によって生れた、おびただしいほどの金属製品や部品から、我々は解放されることはないのだろう。そして、それらを雷様も大好きなのである。
これでは娘ひとりに男が数十人だ。取り合いをしていたら戦いは収まらないし、我々が神に勝てる術もない。
便利さとの決別だけが、かみなり様と争わないで共存出来る手立てだろう。
もちろん、その後、外に置いてきた時計とピッケル、それにザックを取りに戻ったことは言うまでもない。
「寒雷の夜半の火柱畏れ病む(森川暁水)」という俳句がある。私が受けた「火柱」を巧みに詠み出していると思われるので載せてみた。
その頃はまだアマチュア無線をやっていて「朝早く起きて」はCW通信で外国局と交信していたものだ。そのキーを打つ手を一寸休めて西側の窓から外を覗いたら「薄赤く染まる」岩木山が目についた。
岩木山全体が朝焼けに染まっているのだが、道路上からでは、全体が捉えられない。思いあまって、私は高さ20mのアマチュア無線用タワーによじ登った。これはその時の1枚だ。)
■■冬の登山、雪崩も怖いが雷さまも怖い、時計は外したが頭にブリキ製のヘッドランプが…■■
かなり古いことで、12月上旬ごろの話だ。確か、土曜日。その当時の勤務校は五所川原市だったから、帰宅したのは16時を回っていた。それからバスで百沢へ。夏道コースを登り始めた頃には既に18時に近かった。
どだい、冬山だというのに、この時間に登ること自体が間違っている。冬山は遅くとも15時前に行動を終っていることが肝要なのだ。
若さゆえの無謀登山、常軌を逸した行動、若さでなく「馬鹿さだ」と皮肉られても、曳(ひ)かれ者の小唄も出ないだろう。
土、日は山。それが私の暦だった。とり憑かれていた。何があっても土、日曜日には山にいないと気がすまなかった。そして、その晩も焼止り小屋に一泊し、翌日、天気によっては山頂へ行こうというパターンであった。
その年にもよるが、12月上旬というのは、まだ積雪がしまっていず、柔らかく、崩れやすく、深いのである。しかも雪の下や中のブッシュに「ワカン」が取られてしまう。だから夏場の何倍ものアルバイト量になる。
いくら、若い頃とはいえ、「ワカン」を着けて単独のラッセルは、しかも暗がりの中では、なおさら、きついものであった。
20時を過ぎた頃である。そろそろ小屋も近い。登りはじめから、ずっと雪が降っているこの尾根で、お定まりの左からの冷たい風を浴び続けていた。
ところが、ふと風がおさまりかけたのである。そうすると、ヤッケの上をバラバラと小刻みに叩くものが、ヘッドランプにパラパラとぶつかるものが、そしてピッケルのブレードにコツコツとあたるものが降ってきた。
掌を広げてそれを受け取って、ヘッドランプに照らして見る。霰(あられ)だ。雪が霰に変わっている。登るに従い、雪はますます冷たく乾いたものになる。これが「この時期の岩木山」のはずだ。
妙だ、おかしい。標高が高くなっているのだから、気温は下がるはずだ。霰は気温が高くなると発生する。
その時だった。進んで行こうとする方向が、一瞬真昼のような明るさになって、目の前に青白い雷光の柱が、ドカンという大音響とともに立った。私は跳ね飛ばされ、身を雪の中に平らにして俯(うつぶ)した。それしか出来なかった。
雷が近づいてきたら「金属類は身体から離す」などはまったくの絵空事だった。そんな余裕を与えてくれるものではない。
私はその明るさの中に焼止り小屋の影を見ていた。ああ、小屋のすぐ前ではないか、とまずは一安心はしたものの、まさか、この時期に雷様がお遊びなさるとは思いもよらなかったのである。
今度は冬尾根の方角で、ピカッ、ド~ンである。もう紛れもない。雷だ。
それにしても、身についた金属類は身体から離すという習性的観念とは恐ろしいものだ。私は余裕のない中でも、時計を外してピッケルバンドに結び、それを思い切り横へほうり投げた。
それからザックを外して、そこに置くや、もう滅多やたらにラッセルをして、小屋に逃げ込んだのである。山の霰は雷を呼ぶということで怖いものだ。
助かった。標高1060m程度の高さだって、命がけのことはあるのだ。雷様の気まぐれに付き合っていると、死ぬことだってある。
死と直面し、恐怖に苛(さいな)まれながらも助かる。そして、今ある自分、生きている自分がこの上ない幸せ者と実感する。だからこそ、また山へ行きたくなるのかも知れない。
我々は日常の中で、直接的にも間接的にも、死と直面するような生活はしていない。原始人に比べると現代人は命に関わるところで、凄くリスクの少ない生活をしている。
だから、生きているという実感の少ない日々にいることに気づいていなし、「安心」という椅子にどっぷりと座っている自分が見えない存在なのだ。
小屋の中で、「助かった」「生きている」という思いをじ~んと味わいながら、ふと頭に手をやると、そこにはワンダーとかいうメーカーの、金属製ヘッドランプが今にも消え入りそうな光りを発しながらあったのである。
それだけではない。胸のポケットには、首から垂れ下げたナイフと金属製の雪温計が入っていた。
さらにはベルトの止め金はまさに金属、ニッカーズボンの裾止めも丸い金属の輪であった。またスパッツの編み上げフックも然り、登山靴のフックも同じである。
雷様が自然の法則に従って、もう少し強力に暴れていたら、我々なぞ、一体どのような逃げ方が出来るというのだろう。
便利さの追求によって生れた、おびただしいほどの金属製品や部品から、我々は解放されることはないのだろう。そして、それらを雷様も大好きなのである。
これでは娘ひとりに男が数十人だ。取り合いをしていたら戦いは収まらないし、我々が神に勝てる術もない。
便利さとの決別だけが、かみなり様と争わないで共存出来る手立てだろう。
もちろん、その後、外に置いてきた時計とピッケル、それにザックを取りに戻ったことは言うまでもない。
「寒雷の夜半の火柱畏れ病む(森川暁水)」という俳句がある。私が受けた「火柱」を巧みに詠み出していると思われるので載せてみた。