岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

自然の息吹きに触れるということ

2007-12-07 05:49:29 | Weblog
(今日の写真も冬季の岩木山である。この写真を示して「これは岩木山です」と解説しないと大概の人は怪訝に思い、どこの山だろうと悩むに違いない。昨日のものよりは近景である。近いからもっと大きく全体が見えていいはずだが、岩木山の山頂部しか見えない。
 手前の木々は「カラマツ:落葉松」だ。ミズナラやブナを伐採して、その跡に、もちろん植林されたものである。
 この辺りは山麓部の下部であるが、見て分かるように「疎林:そりん(まばらな林)」となっている。これよりも上部では40年も経つというのに植えられた「カラマツ」は殆ど育っていない。まったくないわけではないが数本という規模であり、しかも樹高は3~4mに過ぎない。
 植林事業の失敗である。標高が上がり、寒冷のために育たないのである。林野庁という「専門家」集団が実行した「事業」という割には、お粗末で「お寒い」話しだ。事業費はすべて私たちの税金で賄われたのである。
 それらカラマツに代わって、伐られる前に落ちたブナの実から芽を出した「実生」のブナが、今や、まばらではあるが15m以上の高木となって育っているのである。何と無駄な、浪費であろう。ブナ林を伐らないでそのままにしておけば…
 伐る手間がはぶけた・切り出しの手間が省けた・カラマツを植える手間が省けた・自然植生を変異させるということをせずに済んだ・育たなかったカラマツを枯死させることもなかった・樹齢数百年というブナ原生林をそのまま残すことが出来た・空費された時間、すべてが「負」である。時間も命も、お金も、労働もすべてが「負」なのである。
 お~い!誰が責任をとるんだ。私は怒っている。岩木山、貴女も、もっと怒ってくれ!)

          【 自然の息吹きに触れるということ 】

           ■■人工物に庇護された自然愛好者■■

 「自然の息吹に触れることが好きだ。」と言ったとしよう。そうすると、それを聞いたは人たちからは「自然または自然的なものはすべて好きなのだろう。それらと一緒にいる(ある)時が至福であって、自然と対立する人工的な要素のある生活は決してしないのですね」と思われそうだ。
 しかし、「自然の息吹に触れることが好きだ。」ということは、あくまでも人工的な物にホローされた生活を認め、それによって自分が安心していながら、対極にある「自然物との部分的な同化」を望んでいることに過ぎないのではないかと思うのである。
 たとえば、自然と触れあうことが好きだから、山に小屋を建てそこで暮らすことにしたとする。山に小屋、これがすでに人工物なのだ。登山者に愛されている「山小屋」や「ヒュッテ」も同じく人工物である。山小屋に冬越しのために入ってくる「カメムシ」と毎日、「同衾(どうきん)できる」とでも言うのだろうか。私には出来ない。
 住居という自然にとっては異物に過ぎないものに庇護された生活を望んでいながら、「自然の息吹に触れることが好きだ。」という自己矛盾に気づかない人は、私を含めて多いだろう。

 「人工」の対意語は「自然」。ならば「自然」の中に人工物を造ること、つまり「建設」することは、愛すべき自然を壊すことになってしまうのではないか。
 ちなみに「建設」の対意語が「破壊」である。これは小学生でも知っていることだろう。

        ■■「自然」に育まれ、「季節」と遊んだ少年期■■

私の児童・少年期は自然に育まれたものであった。しかも、それらは戦後の復興期と重なっていた。
 戦後の復興とは「戦争による破壊の復興」であった。自然からみるとこれは「戦争による破壊」と「復興建設による破壊」という「二重の破壊」であっただろう。
 その当時の復興の象徴的なものとしては、ダムの建設が挙げられる。現在は「ダムはムダなもの、自然破壊の象徴」として扱われることが社会の常識となっている。
 だが、その頃、小学生であった私にはニュース映画や新聞に垣間(かいま)見られる「黒四ダム建設」等の雄々しい強さを持った人間の力に素朴に感動して、ダム建設が「自然の破壊だ」という見方は出来なかった。

 一方、日々の遊びと生活は実に自然に満ちあふれたものだった。
 買える食糧は乏しかった。物がお金という価値と同じでなかったからだ。しかし、食材は豊富だった。家には豚がいたし鶏がいた。育てたそれらが胃袋を満たしていた。
 食べるためには殺さなければいけない。自分の手で絞め殺し、鶏の首を刎(は)ねた。卵からひよこがかえることを知っていながら、その卵を食べるのである。

 大きな桶(おけ)かドラム缶に、水をきっちりと張り、豚を頭からそれに突っ込む。逆さになって数分もがいているが静かになる。さっきまで自分の手で育て、元気に細い眼を潤ませていた生き物は重い物体となり、解体される。
 もちろん、「ヤミ」であるが食料として売られる部分もある。しかし、大半は自分たちの血や肉になった。
 子供心にも、「自分たちの生命を明日につなぐために、他の命を喰っている」ということを、身体で実感することが出来ていた。

 ため池には鮒や鯉がいた。川や沢には鮎、石斑魚(うぐい)、鯰(なまず)、鰍(かじか)、鱒、モズク蟹、ザリガニなどがいた。
 春から夏の日々は、釣りに始まり、ヤスで突き刺してそれらを捕えることで費やされた。これが遊びであり、自分たちの飢えを抑え、蛋白質やカルシュウムを供給することだった。
 鯰を捕らえて腹を割(さ)く。未消化の「アオガエル」が出てくる。それまで餌にしていた「タマクラミミズ」をアオガエルに換えたらより大きいものが釣れるようになった。
 捕らえることが、逆に自然の仕組みを教えてくれた。それにしても、鯰の照り焼きは脂がのっていて旨いものだ。鰤(ぶり)を越えるかも知れない。

 捕るものは何も「食べる」ためのものだけではなかった。虫である。トンボ、チョウ、コガネムシ、カブトムシやクワガタなど甲虫類、バッタやコウロギ、キリギリスなどの直翅目類、ホタルなどまでが遊び相手であった。
 虫は捕らえられて数日後には必ず死んだ。「虫が生き抜くすべは、人に捕まらないこと」であることも体験で知った。(明日に続く)