岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

津軽への土着の感性を育み伝えよう

2007-12-14 05:20:39 | Weblog
(今日の写真、ここまで近づくと、岩木山は単独峰にはもはや見えない。鰺ヶ沢町長平からさらに西に移動したところから撮影したものだ。
 弘前から見える鳥海山、岩木山、巌鬼山3山の形がこのように変貌する。ただし、鳥海山は見えない。見えているのはその南稜である。巌鬼山もまた弘前から見るほど、はっきりはしていない。コメツガに被われた山稜の右奥に白く尖って見えるのが巌鬼である。
 弘前の人は特に自分たちが見ている岩木山の「格好」を「表」と言いたがる。そして、鰺ヶ沢から見えるものを「裏」という。だが、これは間違いだ。山に「表」も「裏」もない。「円錐形」に裏表がないのと同じだ。
 私は山に対してこの「裏表」という表現をしたくない。福島県の「裏磐梯(磐梯山)」、岩手県の「裏岩手(岩手山)」という「言いざま」には、「表」を見て暮らしている人たちの「優越感」と「裏側」を見て暮らしたり、そこに住んでいる者に対する「蔑視」の思いが感じられて嫌だからである。
 写真中央に見える「バリカン」跡がスキー場ゲレンデだ。よくも、伐りに伐ったものだと思う。そこには、岩木山を「自然」ととらえる思想がない。「樹木の伐採」が、岩木山が保持し続けてきた「自然生態系」を「壊して」しまうという知的な理解がない。
 まるで、岩木山に対する優しい思慕も岩木山から学ぶことも、また、岩木山を知的に情緒的にとらえることも出来ない野蛮人の行為のようだ。
 いや待てよ。「野蛮」の対意語は「文明」だ。「原始的で野蛮な人」と呼ばれるものたちは、決して「自然」を壊すことはしなかった。それは、自分たちが「自然」によって生かされていることを「理解」していたからである。
 そうか、「自然破壊」はすべてが、偉い「文明」人の所業なのか。えっ!そうなれば「スキー」は「文明人」の乗り物ですか。)

        ■■ 津軽への土着の感性を育み伝えよう ■■

 今、岩木山の見えるこの津軽地方で、石牟礼道子が母とした「麦踏み作業」のようなことをしている母子はいるだろうか。
 林檎や稲作農家で地に足をつけ、原風景を子に伝えている親はいるだろうか。数は少ないがきっといるはずである。農業に従事する人が、どんどんと減っているのも、原風景を伝えようとする母子や父子が少なくなっていることに因るのだろう。
 国や地方自治体の農業関係予算は、「農村公園」とか「農免道路」とか「圃場整備」とか、いわゆる「土木工事」や「箱物」といわれる「物」に使われている。何とか「補助金」としても使われているらしいが、いずれも「物質」であり、「金銭」である。
 これらが「農村振興」という名の下に、大手を振っている。
 見方を変えると、そこには「農民や農村を精神的に、育てて、救済していく」という施策は殆どない。まったく「農民がバカにされた話し」である。国を含めた行政は「農民」を人格ある人間というよりは、「物質や金」と考えている。これほど「農民の自尊心」を傷つけることがあろうか。だが、「自尊心」に傷がつくという精神的な苦痛や苦悩を「農民」自体が、あまり持っていないように見えてしようがないのだ。

 「農村振興」とは「農村に暮らし、人情や自然の織りなす景観に愛着」を持ち、「農業に誇りをもてること」に他ならない。行政が「農村に暮らす人の原風景」を保証し、「農業に誇りをもてること」を後押しすることではないのか。真の「農村振興」には、「農村公園」も「農免道路」も不要なのである。

 また、農民たち以外の多くの住人の親や祖父母は子や孫たちに、土の命、それに育まれる植物の息吹き、それらとともに生きる虫や鳥たち、渡る風、そして空間に佇立し、屹立している岩木高嶺、それらと「一体となった生命観を受け止めるための感性」を育ませているだろうか。テレビ漬けの生活からは、この「感性」は生まれないし、育たない。
 もう一度言おう。感性とは優しさであり、共感しあえる能力である。

この「一体となった生命観」こそが原風景である。この生命観を感得するような日々を重ねる中で脳裏には、いや網膜には剥がれ落ちることがない原風景が焼き付けられていくのだろう。
 感性を磨かない者は、夜な夜なイルミネーション紛いに輝くスキー場のライトに、きっと違和感を持たないだろう。「なんぼ綺麗だば」と思って見ているのであれば、それはもはや、「感性」などないに等しいのだ。
 なぜならば、「輝くライトは自然の生き物には不要であるのだ」との思いも持てず、つまり、「自分以外の生き物を思いやることが出来ない」からである。
 弘前市内の「カラス」がなぜ、夜になると弘前公園に集まるのだろうか。その理由の一つは「町中」が明るすぎるからではないか。つまり、「輝くライトは自然の生き物には不要であるのだ」ということだ。「カラス」の持つ体内時計は、自然の日照や明るさに反応して動くのだろう。
 市内でようやく探し当てた「暗いねぐら」も、この時季になると毎年、壕沿いの樹木に小さな「電球」がつけられて、明るく点滅する。
 こんなことを、弘前市がやっているのだから、市民の中に「一体となった生命観」としての原風景を育む「感性」は育たないのだ。
 このままだと「カラス」にとっては「公園」も安心して一泊する場所ではなくなるだろう。「カラス」を寄せ付けない対策にはいいかも知れない。「公園全体をイルミネーションで飾れ」などという市議会議員や市の職員が出てこないとも限らないから、余り言わないことにしよう。何だか、やっていることがすべて、どこかでやっていることの「真似」に見えてしようがない。
 親や大人という現在世代には、自分の感性を磨くと同時に、年少者や子供の感性を育てる責務があるだろう。農村に暮らす人の「原風景」は、そこに暮らす人でなければ継承できない。
 「原風景」が消滅する時、それは農村が滅亡する時でもある。都市部からはすでに、感性を育む「原風景」が消えている。「金」との対価だけを求める価値基準では「原風景」の価値は見えないし、分からない。「原風景」は「感性」に支えられているからである。
 既に孫を持っている方々は、孫と一緒に山を歩き、農作業をし、土や流れる川、渡る風、輝く天空、萌える緑、獣や鳥の囁きなどと触れあいを取り戻さなくてはいけない。その中で自己の原風景が孫に生かされ、孫の感性がより磨かれていくのである。
「原風景の永遠性」はここにある。これが保持・継続されていくならば「自然破壊という暴挙」は起こりえないであろう。

   ■■ 「国民の食糧と健康を守る津軽地区連絡会」から学習会のお知らせ ■■

         ※ 食品分析の現場からのリポート ※
   講師:「農民連」食品分析センター研究室長 八田純人さん
  ※激安米はなぜ安い?農民連食品分析センター調べだと、それは2~4割も異物が混入されているからです。
  ※それでは「異物」とは何でしょう。そんなことに興味はありませんか?
  ※危ないのは中国産だけでありませんよ。各国の輸入食品から残留農薬、添加物など違反事例がゾロゾロと出てきています。
  ※コンビニの「カット野菜サラダ」はどうしてあんなに元気なの?

 明日のことで申し訳ありません。自然保護と農村、食品とは切っても切れない関係にあります。学習会に参加しましょう。

        日 時:12月15日(土)午後2時~5時
   場 所: 津軽保健生協本部2階ホール(コープあおもリ和徳店2F)
   学習会は、午後2時~3時30分まで :資料代300円 交流会費1000円
 :収穫祭(交流会)は、午後3時40分~5時頃まで(学習会の後は地元で採れた野菜と生協のめぐみ鳥、ジャガ芋餅が入った鍋と恒例の蒸し鶏を食べながら交流します。

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